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長編ファンタジー小説です。


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この小説には、
セクシャルマイノリティに関する表現がありますので、抵抗のある方は、ご注意ください。

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Angel Eyes

SHIZU

SHIZU出版

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 目 次

  第1章 シャーロ博士の秘密

  第2章 都会へ

  第3章 スリの暮らし

  第4章 ムチのレッスン

  第5章 ムチ使いシーナ

  第6章 闘いたい理由

  第7章 死の呪い

  第8章 双子の兄弟

  第9章 リミトルへの道

  第10章 涙

  第11章 強い意思

  第12章 新たな旅立ち

  第13章 疑惑の魔術師

  第14章 廃工場で見たもの

  第15章 敵の正体

  第16章 見覚えのあるカップル

  第17章 エキストミガロス

  第18章 レイ

  第19章 暗号

  第20章 再会

  第21章 強行突破

  第22章 決戦

  エピローグ

  GALLERY

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第1章

シャーロ博士の秘密

どこまでも突き抜けるような、晴れ渡った青い空。
小鳥のさえずりがあちこちで響き、森の木にリスが駆け上がって行く姿が時おり見える。
世界有数の大都市を抱える大国ハイデンのイメージとはほど遠く、森に囲まれた小さなウォートル村には、魔物の気配も無く、平和で穏やかな時間が流れていた。
村の小道を、質素な黄土色のワンピースを着た女性が歩いて来る。
地味な格好をしているが、漆黒のような長い黒髪に、きれいに澄んだ黒い瞳が印象的だ。
女性が小さな畑の前を通りかかった時、畑仕事をしていた年配の男が、ひたいの汗をタオルでぬぐいながら振り返った。
「おかえり、シーナ。じいさんの調子はどうだい?」
女性は困ったような笑みを見せながら、男に答えた。
「――このところ、少し良くなったみたいなんですけど……時間があると研究室にこもってしまうので……」
「そうか。でも、調子がいい時は、外にも出ないとな。こもりっきりじゃ、病気も良くならんぞ」
「そうですね、ご心配おかけしてすみません」


シーナは、この村の中では比較的立派そうな木造の一軒家の扉を開けた。
「ただいま帰りました」
そう言ったが、返事は無い。
しかし、シーナは気にする様子も無く、玄関から家の奥へと入り、突き当りの部屋のドアをノックした。
「シャーロ博士? ——少しはお散歩でもしませんか?」
そう言って少し待ってみたが、やはり返事は無い。
シーナはドアを開けた。
ガチャッ。
カーテンが閉まった薄暗い部屋のベッドに、老人が横たわっていた。
部屋はさまざまな書類が散らばり、液体の入ったビンがそこら中に置かれていた。鼻をつんとさせるような、変わった匂いもする。
シーナはベッドに歩み寄り、老人に声をかけた。


- -

「シャーロ博士? 眠ってたんですか?」
シャーロ博士と呼ばれたその老人は、ゆっくりと目を開けた。
そして、シーナを見ると目を細め、温厚そうな笑みを浮かべた。
「シーナ、よかった……間に合ったようだ」
シャーロ博士は横たわったまま、しわがれた声で、ゆっくりと口を開いた。
「何のお話です?」
シーナは戸惑った様子で、聞き返した。
「すまない、シーナ……わたしは、もう長くない」
「シャーロ博士? 何を……」
「聞いてくれ。おまえに話しておくことがある」
シーナはひどく混乱した様子だったが、シャーロ博士に強く手を握られ、不安そうな表情でベッドの端に腰を下ろした。
「——わたしはずっと薬の研究、開発をして来た。世の中の役に立ついい薬を作るためにな……しかし、一度だけ、悪い薬を作ってしまったことがあったんだ」
「悪い薬? 失敗作のことですか?」
「いいや、失敗作ではない。薬の出来は成功だった。しかし、悪い薬だったんだ」
「……どういうことですか?」
シーナはますます困惑した顔で、たずねた。
「昔……まだシーナを養女にする前の話だ。わたしは……まだ若かった。少しずつ高額な金が入ってくるようになり、もっと金持ちになってやろうという野心でいっぱいだった頃だ。そんなわたしに、高額の報酬を与えるからと、内密に、ある薬の開発をするよう頼んできた魔術師がいた。わたしは、その薬がどんなことに使われるかを考えるより、魔術師が提示した報酬につられてしまったんだ」
シャーロ博士は、真剣に話を聞いているシーナを見つめながら、続けた。
「今考えれば、恐ろしい依頼だった。——その薬を飲んだ人間は、徐々に狂い始め、自分の意思とは関係なく、邪悪な魔物を自分の中に呼び込んでしまう。そして一瞬、魔物の力で、人間では不可能なとてつもない力を得られるが……その後は、その人間は破滅してしまうんだ……」
「博士はその薬を……作ったんですか?」
「作った。しかし、作った後で恐ろしくなり、魔術師には渡さなかった。理論的には完璧だったが、実験などしていないので、実際の効き目はわたし自身もわからないが……」
シャーロ博士は顔をゆがめ、苦しそうに目を閉じた。
シーナはシャーロ博士を見つめながら、不安そうにたずねた。
「それで……どうなったんです?」
「薬は渡さなかったのだが、留守にしている間に盗まれたんだ」
「えっ……」
「わたしは何もできなかった。魔術師とはもう連絡がつかなくなっていたし、わたしがそんな薬を作ったと公にすることは、わたし自身の地位を失う行為でもあったからな……」
シーナは何か言おうとしたようだったが、言葉は出なかった。
「その後、わたしは……あの薬のことは、考えないようにして生きていたが……新聞でオクトルの事件を読んでぞっとしたんだ」
「私の町の……?」
「そうだ。オクトルは、前代未聞の自爆テロによって、町そのものがほぼ消滅した。人間ひとりの自爆テロでは考えられない威力だった。そして今だに、あの時に自爆テロを行った人物も使われた爆弾も謎のままだ。しかし……」
シャーロ博士はその後の言葉をためらうように、一瞬間を置き、再び決心したように口を開いた。
「もし、あの薬を飲んだ、もしくは飲まされた人間が爆弾を抱えて爆発すれば、とてつもない大爆発を起こすだろう。町がひとつ消滅するくらいのな……」
「……」
「わたしは……あれは、もしかしたら、わたしが作ったあの薬のせいで狂った人間、もしくは狂わされた人間が絡んだ事件ではないかと思っている」
「……」
「だからシーナ、わたしは……オクトルの爆発で家族を亡くし、孤児になっていたおまえを養女にしたんだ。罪悪感がそうさせたのかもしれない」
シャーロ博士は、ショックを受けたように黙っているシーナを見つめ、言った。
「すまない、シーナ。その薬を作ったのは、わたしだ。わたしは、きっとおまえにとって、憎むべき人間になっただろう」
「——いいえ」
シーナは目線を落としたままだったが、はっきりとした声で答えた。
「シャーロ博士は……わたしが6歳の時からずっと、わたしのこと、とても大事にかわいがってくださった。わたしの人生は、家族と過ごした時間より、博士との時間の方が長いんです。わたしが憎むのは……その薬を使った人間です。博士じゃない」
シャーロ博士はしわだらけの手を伸ばして、シーナの長い髪をそっとなでた。
「シーナ……おまえはこの村を出て、都会に行きなさい。フロートル辺りがいいだろう。そのための金なら、おまえのために十分に蓄えてある。都会では、大勢の中に紛れて目立たないように暮らすんだ……」
「……なぜです?」
「わたしがいなくなると、この村はおまえにとって危険になるかもしれない。実は……」
シャーロ博士は、シーナから目をそらして言った。
「その薬は、全部で5つあったんだ」
「えっ……」
「オクトルの事件以来、不可解な事件の話は聞いていないが……もしかしたら、誰かがあと4つ、あの薬を持っているかもしれないんだ……」
シーナは思わず息をのんだ。
シャーロ博士は続けた。
「そして、これもおまえには話していなかったが……わたしは薬を盗まれて以来、何者かに脅迫されていた」
「脅迫……?」
「そうだ。だから、縁もゆかりも無いこんな田舎に、目立たないように住むことにしたんだ。しかし、先月あたりから、また脅迫文が届くようになってな……」
「あ……差出人不明の手紙がたまに来ていたのは……」
「そうだ。読んですぐに破棄していたが、内心は恐ろしくて仕方なかったんだ」
シャーロ博士はまっすぐにシーナを見つめ、最後の力を振りしぼるように言葉を発した。
「シーナ……これでわたしの話はすべてだ。わたしがいなくなれば、おまえの身が危険になる。どうか都会へ……フロートルへ……わたしの名前は口にするな……」
「シャーロ博士……」
シャーロ博士はゆっくりと目を閉じた。
その目は、二度と開かれることはなかった。


「シーナ。本当に行ってしまうんだな」
「ずっとじいさんの家で働いてたから……シーナちゃんがフロートルなんかでやっていけるのか心配だねぇ」
「都会暮らしが合わなかったら、帰っておいで。うちの畑を手伝ってもらうから」
「ここにずっといればいいのに。じいさんは、なんでまたフロートルなんて大都会に行けなんて言ったんだか……」
のどかに晴れ渡った空の下、小さな村、ウォートルでは、村人たちが集まって、シーナを囲んでいた。
シーナは地味なブラウンのワンピースに、長靴のようなブーツを履いて、ショルダーバッグを肩から下げ、スーツケースを持って、笑顔を見せていた。
「きっと、シャーロ博士は私を自立させたかったんだと思います。博士の最後の言葉なので、がんばってみようと思います」
「無理しないでね。いつでも帰っておいで」
「はい。ありがとうございます。皆さん、お世話になりました」
シーナが手を振り、村人たちも手を振った。
横に停まっていたタクシーから、タキシードを着た運転手が出てきて、シーナの手からスーツケースを受け取った。運転手は、ていねいにスーツケースを車のトランクに入れる。
シーナがタクシーに乗り込もうとした時、年配の村人たちの中から、若い青年がすばやく出てきて、シーナに手紙を渡した。
驚いた顔をしたシーナに、青年はすばやく小声で言った。
「これ、あとで読んで。読んだら誰にも見つからないように、破いて捨ててくれ」
「えっ、あ、うん……」
シーナは青年に圧倒されたように、そう答えた。
青年が車から離れ、ドアを閉めたところで、運転手が運転席に着いた。
「よろしいですか?」
運転手が礼儀正しい口調でシーナにたずねた。
「あっ、はい……お願いします……」
村人たちが見送る中、タクシーは走り出した。
見慣れた畑や森がみるみる遠くなっていくのを、シーナはぼんやりと車の窓から見つめていた。
そして、はっと気づいたように、村の青年に渡された手紙を開いた。

「シーナへ
本当は口で言いたかったけど、連日のお別れ会で、誰が聞いてるかわからなかったから、手紙を書くことにしたよ。
これからフロートルへ旅立つシーナに、実は、あることを言うべきかどうか悩んでいた。でも、じいさんも死んでしまった今、ひとりで旅立つシーナには、やっぱり言っておかなきゃいけないと思い、今、こうして手紙を書いている。
俺は、先月、じいさんが燃やしていた書類の中で、燃え残っていた手紙みたいな切れ端を見つけた。その切れ端では全文はわからなかったが、じいさんに宛てられた手紙のようで、「~の契約をしなければ、おまえと娘のシーナの命はない」って書いてあった。
「~」の部分は燃えてて読めなかった。
何の手紙かわからないが、具合が悪そうなじいさんに聞くのも気がひけたし、シーナにも言えなかった。
たぶん、じいさんみたいな仕事をしてると、いろいろなことがあるのかもしれないが、「命はない」ってのは、かなりやばいと思うんだ。
じいさんはやばいやつから目をつけられてたのかもしれない。そして相手はシーナの名前も知っている。
フロートルに行ったら、偽名を使った方がいいかもしれない。
どうか気をつけて。
ビード

追伸・手紙の切れ端は俺が燃やしておいた。誰にも言ってないから、安心してくれ」

手紙を読み終わったシーナの顔は青ざめていた。
ショルダーバッグの奥に両手を入れ、音を立てないように手紙を細かく破いた。
亡くなる直前にシャーロ博士から聞いた話と、村の青年ビードの手紙の内容が重なる。
シャーロ博士は何者かに脅迫されていると言っていた。だから、わたしの身が危険になると……それで、フロートルへ行けと言った。「~の契約をしなければ、おまえと娘のシーナの命はない」っていう文の、~の部分は、博士が話していた「悪い薬」のことなのだろう……。
ひとりきりでフロートルへ向かうシーナの心は、不安と見えない恐怖にじわじわと覆われ始めていた。


「お客様、空港に到着しましたよ」
「はい……」
不安そうな面持ちでそっとタクシーを降りたシーナは、まず目の前に立ちはだかった空港の大きさに息をのんだ。
ここから飛行機に乗って……フロートルに行くんだ……
知らない人ばかりのところへ行って、暮らすことになる……
たったひとりで……
シーナは見えない不安に心を震わせた。
運転手に支払いを済ませ、シーナはスーツケースを引いて、慣れない足取りで歩き出した。
行き交う人々の歩く早さにつられ、シーナもいつの間にか早足になっていく。
前後左右から飛び交う人々の声を聞きながら、シーナは無言で空港内を歩いていた。
人波に流されるまま、空港の係員にチケットを見せ、フロートル行きの飛行機に乗り込んだ。
指定された席に座ると、隣の席の青年がひとなつっこい笑みを浮かべて会釈をして来た。
きれいに手入れされたブラウンの髪に羽飾りを付け、カラフルな色の扇を持っている。
シーナが戸惑いながらも会釈を返すと、青年はすぐに話しかけて来た。
「やぁ。僕はヒュート。君は?」
「えっ、ええと…………シーラです」
シーナはビードの手紙で偽名をすすめられたことを思い出し、その場で思いついた名前を口にした。
「よろしく、シーラ。ねぇ聞いたかい?フロートルで爆発があったらしいね」
爆発と言う言葉に、シーナの心は大きく動揺した。
「爆発? ……どんな爆発ですか?」
「あぁ、知らないの? なんでも、山の方で起こったらしいんだけど、そこから魔物がうじゃうじゃ湧き出してるんだって」
「山の方で……。それ……自爆テロとか……じゃないですよね?」
シーナは、シャーロ博士の薬の話を再び思い出しながら、そうたずねた。
「詳しいことはわからないけど。山だから噴火じゃないかなぁ? でも、とにかく、とてつもなく大きな爆発だったらしいよ」
「そうですか……」
シーナは考え込むような顔をして、青年から目をそらした。
「あっ、だからね、今、フロートルで武器を持ってない一般人は足止めを食らってるらしいよ。魔物が出てるところに手ぶらで出て行ったら大変なことになるからね」
「えっ……」
「シーラは、一般人?」
「はい……」
「じゃあ、フロートルではしばらく足止めを食らうかもね。僕は扇使いで、フロートルに仲間たちがいるから、魔物討伐に参加すると思うけど」
「魔物の討伐ですか……わたしは武器なんて持ったことないから……」
「うん、君を見てればそんな感じだね」
ヒュートはひとなっつこい笑顔を見せ、続けた。
「そんな心配そうな顔しなくていいよ。フロートルには腕のいい戦士や魔術師や僧侶なんかがいっぱいいるからね。遅くても、数日ホテルにでも泊まっていれば、一般人もフロートルに入れるようになると思うよ」
ヒュートの言葉に、シーナは少しほっとして微笑んだ。
「何かあったら、遠慮なく、いつでも連絡しておいでよ。僕はしばらくフロートルにいるからさ」
ヒュートは名刺を取り出して、シーナに渡した。
「ありがとう」
飛行機が大きな音を立て、離陸した。

- -

第2章

都会へ

フロートルに着くと、空港は足止めされた一般人でごったがえし、かなり騒然としていた。
フロートル空港周辺の安いホテルは満室だったので、シーナは空きがあった高級ホテルの部屋を取った。
ホテルですれ違う人々は、高級ホテルにはどう見ても不釣合いなシーナの粗末な服装をじろじろと見て行く。
いかにも金持ちという感じのスーツやドレスを着た人々、高級そうなアクセサリーを身につけた人々の冷たい視線を浴び、シーナは自分の粗末なワンピースと長靴のようなブーツという格好がひどく恥ずかしく思えてきて、ホテルの地下にあるショップに行ってみた。
そこで、今まで見たこともないようなきれいな服やドレス、キラキラ光る色とりどりのアクセサリーの数々を、シーナは夢中になって眺めた。
どれも、すごくきれい……わたしもこんなきれいな服を着てみたい……
じっくりと時間をかけて選びたかったが、店員にはシーナは金を持っているようには見えないらしく、あからさまに疑いの目で見られていたので、その視線に耐えられず、シーナはとりあえず目に止まった藍色のワンピースと、低いヒールのついたブラウンのブーツを買った。高級な店のようだったが、シャーロ博士から十分な金を持たされていたため、シーナには安い買い物だった。
一度、部屋に戻り、すぐに新しい服に着替えた。
鏡の前で、新しい服を着た自分の姿を見ると、心が踊るような気分になった。
シャーロ博士はかなりの金持ちだったが、目立たないように小さな村で質素な暮らしをして来たため、シーナの服装はいつも粗末なものだった。
シーナは初めて見るきれいな服を来た自分の姿を、楽しそうに、さまざまな角度からしばらくまじまじと眺めていたが、ふと窓の外に黒い小さな影が動いているのが見えて、よく見ようと窓辺に駆け寄った。
それは一見、コウモリの群れのようだったが、よく見ると、口が大きく、遠くからでも赤い色の牙が光っているのがわかる。あれは、魔物と呼ばれる生き物の一種だろう。
魔物と言っても、大きく恐ろしいものばかりではない。小さく弱く、あまり害の無いものもいることは知っていた。きっと、あのコウモリのような魔物は、後者の部類に入るものたちだろう。
シーナは新しい服のせいで、自分が急に変わったような気がしていた。
今まで持ったことが無かった自信が、自分の中の奥深くで芽生えたようだった。
シーナはまっすぐドアの方へ歩き、部屋を出た。

部屋を出たシーナが足を止めたのは、ホテル内の武器屋だった。
高級なワンピースに着替えたシーナが武器屋に入ると、店員が愛想良く声をかけてきた。
剣、槍、棍、ナイフ、杖、ムチ、扇……たくさんの武器がところせましと並んでいる。しかし、シーナは武器など扱ったことも無く、使い方もわからないものばかりだった。
「お客様、どのような武器をお探しですか?」
シーナは武器を扱ったことが無いことを知られたくなかったので、店員の質問には答えず、ただ無言で会釈をした。
ええと……確か、杖は魔術師しか扱えないけど……他の武器なら、練習しだいで扱えるんじゃないかしら……
シーナはくるくると巻かれたブルーの武器の、形と色を気に入った。
「これ、ください」
「はい、こちらのムチでございますね! ありがとうございます」
シーナはムチを購入した。

シーナは部屋に戻ってムチを広げてみた。
初めて買った武器。見ているだけで、自分が強くなったような気がしてくるのだった。
部屋で扱う練習をしてみたかったが、ブルーのムチは広げてみると思ったより長く、屋根や壁の無い広い場所でなければ難しそうだった。
シーナは、とりあえずムチを持って、再び部屋を出た。

ホテルのロビーから、ホテルの周辺だけなら、外に出られる。
警備員がいて、武器を持っていない一般人には外に出ないよう注意をしていたが、シーナは自信ありげに買ったばかりのきれいなムチを持っていたせいか、警備員には注意されず、すんなりロビーの外に出られてしまった。
警備員は、シーナが、まさか一度も武器を扱ったことがないとは考えもしなかっただろう。
シーナは、ホテルの周りを少し緊張しながら歩いた。もしも魔物がいたら、すぐにホテルに逃げ込めるように、ロビーが見える距離を歩いていた。
しかし、しばらくうろうろと歩いたものの、部屋の窓から見えたコウモリのような魔物も見当たらず、静かな夕暮れの空はきれいなオレンジ色に染まっていた。
魔物はもういなさそう。ムチの練習してみようかな。
シーナは人に見られると少し恥ずかしいと思い、ロビーからは見えない人気の無い裏側に移動して、ムチを思い切って上に振り上げ、地面に向かって打ってみた。
思うように力が入らず、気が抜けたような動きでムチは振り下ろされた。
これじゃだめ……もっと力をためてから、振り下ろせばいいのかな……
もう一度やってみる。
これでもだめ……全然コントロールできない……
もう一度……。
難しいな……。
シーナは人気の無い場所で、ムチに夢中になっていた。
すっかり暗くなった空で、赤い小さな瞳が光りながらそっと近付いていることに、気付くはずもなかった。
しかし突然、それは静けさを破り、シーナの目の前に現れた。
「シャァァァァーーーッ!!」
鋭く長く赤い牙が、暗い空に浮かんだ。
シーナに噛み付こうと、うなりながら、口をさらに大きく開けた。
「きゃぁっ!」
シーナはのけぞって、後ろに転んだ。
赤い牙は、目の前に迫ってくる。
「助けて……!」
シーナは顔を両手で覆った。
その時だった。
後ろから、突然、別の影がすばやくシーナの前に進み出た。
赤い牙は、その影に向かって噛み付いた。
「くっ!」
低い女性の声とともに、光るナイフが下から上に向かって飛んだ。
「ギャァ!!」
声と同時に、赤い牙は落下した。
バサッ。

- -

シーナはその音を聞いて、顔を上げた。
目の前に、青いマントを着た背の高い女性が立っている。
ターバンを巻きつけて顔を覆っているが、切れ長の青い目がちょうどシーナを見下ろし、ふたりの目が合った。
「あらあら、腰が抜けちゃった?」
マントの女性はしゃがみこんで、やさしくシーナに声をかけてきた。
シーナは混乱していたが、この女性がシーナを魔物から守ってくれたことはわかった。
「あの……助けていただいて……」
シーナはお礼を言おうとしたが、女性の腕から赤く血が出ているのを見て、驚いて言葉を失った。
マントの女性も自分の腕を見て、顔をしかめたようだった。
「あの魔物は毒持ってるのよね」
「えっ、毒!? どうしよう……病院に行きますか……?」
「自分で治療できるから大丈夫。ただ、わたし、ここのホテルに部屋ないのよね。早く治療したいけど……」
女性はそう言って、シーナの言葉を待つように、言葉を切った。
「あ、わたしの部屋でよければ……」
シーナがそう言うと、女性は待っていたように即答した。
「ありがと。助かるわ」
その時、後ろでカサカサという音がした。
マントの女性は腰からナイフを抜いてすばやく振り返り、暗闇でナイフを振り回した。
「ギャァッ!」
バサッ。
女性の足元に、先ほどの魔物とは違う、大きな羽の付いたひとつ目の魔物が落下した。
「これは牙は無いけど、目からビームを出して、脳を攻撃してくるやつだからやっかいよ」
シーナは次々と魔物を目の前にし、軽いショックで、その場から動けなくなっていた。
「さ、夜は魔物が増えるから、早く退散した方がいいわ」
女性はシーナの手をやさしく取り、体を支えて立たせてくれた。
「ありがとうございます……」
シーナは震える声で言った。
「どういたしまして」
女性はそう言って、暗闇に放り出されていた、シーナのムチを拾って言った。
「ほら、買ったばかりのムチも忘れないようにしないとね」
「……えっ? どうして、知ってるんですか?」
「いいから、いいから。今は、とりあえず、あなたのお部屋に案内してもらえるかしら?」
「あっ、はい。行きましょう……」
女性は怪我した腕をマントで覆い、シーナの影に隠れるようにホテルに入った。

「大丈夫よ。毒消しはいつも持ち歩いてるから」
マントの女性は部屋に着くと、慣れた手つきで腕を消毒し、毒消しを吹きかけた。
「ごめんなさい。私のせいで、怪我をさせてしまって……」
部屋に戻ると、シーナは落ち着きを取り戻していた。
「あなた、お名前は?」
マントの女性は、唐突にたずねた。
「シーナ……あ、じゃなくって……シーラです」
「どっちなの?自分の名前でしょ?」
マントの女性は、笑っている。
シーナは少し迷って……
こう答えた。
「シーナ」
「シーナちゃん……」
マントの女性は、切れ長の青い目でじっとシーナを見た。
その目はやさしいが、同時に鋭い光を帯びている。
不思議な視線……
シーナは捕らえられたように、その視線に見入ってしまった。
女性の方もしばらくシーナをじっと見つめていたが、急に思い切ったように、顔に巻き付けていたターバンを外した。
肩ほどまでの金色の髪がぱらりと落ちた。
細面の顔に、鋭い切れ長の目。ターバンの下の顔があらわになった。
とっても、きれいな人……。
こういう人が、大人の女性って言われるんだろうな……
シーナは、なんだかドキッとした。
「わたしはヘイザ」
その女性、ヘイザはシーナにやさしく微笑みかけた。
その視線はとてもやさしく、シーナの心を包み込んで来るようだった。
「ヘイザさん……」
再びヘイザの視線に見入ってしまいそうになり、シーナはあわてて目をそらした。
ヘイザはそんなシーナの様子を見て、いっそうやさしい目つきになった。
シーナは思いついたように、
「……そうだ、何かお礼をしなくちゃ……何か、欲しい物はありますか?あ、やっぱりお金の方がいいのかな……」
と言い、ショルダーバッグに手を入れ、手づかみで金貨を出して両手でヘイザに差し出した。
ヘイザは驚いたような顔で、それを見ていた。
「足りないですか? どれくらいがいいですか……?」
シーナは困ったように、ヘイザにたずねた。
「それで十分よ。ねぇ……シーナちゃん」
ヘイザは戸惑ったような表情で、シーナに近付いた。
「はい?……」
「答えたくなかったらいいんだけど……そのお金、一体どうしたの?」
「亡くなった養父にもらったお金です」
「そうなの……お金持ちの養父だったのね」
「生きてる時は、田舎の村で質素に暮らしていたんですけど、養父が亡くなって……いろいろと事情があって、私は村を出て来たんです」
シーナは自分でも気付かず、すらすらと話していた。
「そう……村には帰らないの?」
「まだわからないけど、今は、帰るつもりはないです……。村の人たちはいい人たちだったけど、わたしの家族はいないから……。わたし、オクトルのテロで家族がみんないなくなって、養父に引き取られた孤児だから……養父が亡くなって、今はまたひとりぼっちで……」
途中でシーナは、話しすぎている自分に驚いた。
なぜかヘイザに心を開こうとしている自分がいる。
どうしてかしら?
さっき会ったばかりの人なのに……。
ヘイザは、シーナを同情するように見つめている。
ヘイザさんの視線……
とってもやさしくて、鋭くて……
見つめられていると、不思議な気分……
「シーナちゃん……私もね、ひとりぼっちなの」
ヘイザはシーナを見つめたまま言った。
「ヘイザさんも……?」
シーナは、まっすぐにヘイザを見た。
ヘイザは、黙ってシーナの視線を受け止めた。
シーナはなぜかドキドキした。
これって、何……?
なんだか……変な空気……
同時に、ヘイザの手がシーナの髪に触れようとするかのように、ゆっくりと伸びて来た。
シーナは思わず息をのんだ。
しかし、次の瞬間、ヘイザはためらうように視線を床に落とし、
「——わたしは強いから、ひとりぼっちでも大丈夫」
と言って微笑み、伸ばした手を自分のひざに戻した。
シーナは、安堵と落胆が混じったような気持ちになった。
なんだろう……この気持ち……
シーナは、ヘイザに、もう少しこの部屋にいてほしいと思った。
「ヘイザさん、紅茶でも……飲みませんか?」
シーナは、この部屋に紅茶のティーバッグとポットが置かれていたのを思い出して、そう言った。
「……どこで?」
ヘイザは、少し間を置いてたずねた。
「えっ? ここで……」
シーナがポットのある場所に目をやって言うと、ヘイザはどこかほっとしたような表情を見せて言った。
「いただくわ。ありがと」
シーナはうきうきとした気持ちになり、ティーバッグを2つのカップに入れ、ポットのお湯を注ぎ始めた。
ヘイザは、ゆっくりとシーナのそばへ歩み寄って来た。
「あ、まだ熱いから……少し待った方が……」
シーナはカップをテーブルに置き、ヘイザの方を振り向いて言った。
ヘイザはうなずいて壁にもたれ、シーナの背中を見つめている。
カップからティーバッグを取り出しながら、シーナは視線に気付いて、ヘイザを見つめ返した。
また……変な空気……
シーナはその空気にどぎまぎして、何か言わずにはいられなくなり、口を開いた。
「ヘイザさんの目は……なんだか不思議。強くてやさしくて……」
「……こんな目は、シーナちゃんは見たことないわよね」
ヘイザはどこか悲しげに微笑んで、視線を落とした。
シーナは、何か余計なことを言ってしまったのかと不安になり、考えながら、言葉をつけ加えた。
「ヘイザさんの目を見てると、不思議な気持ちになるんです……でも、悪い気持ちじゃなくって……。なんだか……もっと一緒にいたくなるような……」
ヘイザは探るように、目つきを鋭くした。
「——そうなの?」
シーナは少し恥ずかしそうに、困ったように、ただ微笑んだ。
すると、ヘイザはさらに深くやさしさを帯びた視線で、シーナを見つめた。
「わたしもね——、シーナちゃんの目を見てると、不思議な気持ちになるわ。シーナちゃんの目って、とってもきれいで、天使みたいなんだもの」
「そんな……天使だなんて……」
シーナは恥ずかしそうに目を伏せた。
「あら、天使って、ずいぶん照れ屋さんなのね」
ヘイザはそう言ってクスッと笑った。
シーナもつられて笑顔になった。
シーナは、紅茶のカップをヘイザに手渡そうとしたが、不安そうな目をしてたずねた。
「ヘイザさん、これ飲んだら……帰っちゃう?」
ヘイザは少し考えて、
「シーナちゃんがよければ、あのソファーで寝て行くわ」
と言って窓際のソファーを見た。
シーナはほっとした笑顔になって、
「じゃあ、もう少しだけ、お話できるね……」
とうれしそうに言った。
ふたりは1時間ほど他愛のない話をしていたが、シーナは長旅の疲れもあって、次第に睡魔に勝てなくなった。シーナがベッドに入ると、ヘイザは窓辺のソファーに横になった。

***

ホテルの部屋に朝日が射し込み、朝を告げている。
ウォートル村のような小鳥のさえずりは無い。
キィーとかシャーとか聞いたことのない動物の鳴き声のような音、人のざわめき、自動車や機械音のような音でシーナは目を覚ました。
まだ少し頭がぼんやりとしている。
シーナは部屋を見渡し、
あぁ、そうだ、わたし、フロートルに来たんだった……
と気付いて、ベッドから体を起こした。
ウォートルでは朝は小鳥の声で目を覚ましていたのに……フロートルには小鳥はいないのかしら……
シーナはベッドから出て、ぼんやりとしたまま洗面所へ向かった。
顔を洗い、歯を磨いていると、少しずつ頭がすっきりとしてくる
昨日は長い旅だったわ……ウォートルを出て、飛行機に乗って、ここに着いて、ブーツとワンピースを買って、ムチを買って……
……って、あれ?
昨日、わたしを助けてくれた……ヘイザさん!
ここに泊まったはずだけど、どこ行っちゃったのかな?
シーナは部屋中を探したが、ヘイザはどこにもいなかった。
一緒に紅茶を飲んだ空のカップが、ひっそりと昨夜の様子を思い出させる。
しかし、ヘイザの荷物も何も残っていなかった。
……お別れのあいさつもなしに、行っちゃったのかな?
とっても美人で、不思議な目をした人だった……
昨夜の気持ちがよみがえり、シーナの胸がドキンと鳴った。
あんなに楽しくお話したのに……
シーナはもう一度部屋を見回し、ヘイザがいないことを再度確かめると、肩を落として部屋を出た。


ホテル内のカフェで、シーナは朝食用のビスケットとココアを買った。
そして再び、昨日、服とブーツを買ったショップに立ち寄り、新しい服を数枚購入した。
ショップを出て、パブの前を通り過ぎようとした時……
一枚の真新しい大きなビラが目に止まり、シーナはふと立ち止まった。
ビラには、こう書かれていた。

「女スリに、要注意!!
白人女性。金髪。ブルーアイ。
身長・170cm前後
当ホテル内にて、被害多数」

シーナは、昨夜会ったヘイザの様子を思い出しながら、部屋へと戻っていた。
白人女性で、金髪で、青い目で……身長は170cmくらいで……。
ヘイザさんは……わたしの部屋に来るまでは、ずっと顔にターバンを巻いていた……
もしかして……
顔を見られてはいけないから?
私を魔物から守ってくれて……やさしかったヘイザさん……
スリなんかじゃないよね……
でも、ヘイザさんは……昨夜わたしの部屋に泊まったはずなのに、朝起きたらいなくなってた。何のあいさつもなしに……。
まさか……わたしのお金、持って行っちゃったんじゃ……
シーナは部屋の鍵を開け、部屋に入ると、すぐにショルダーバックとスーツケースの中を確かめた。
そして、ほっとしたように、息をついた。
シーナが持ってきた金は、手をつけられた様子はまったく無く、確かにバッグの中にあった。
「あれ……」
それどころか、昨夜シーナが、助けてもらったお礼にヘイザに差し出した金貨も、そのままバッグの横に置かれていた。
スリだったら、もらったお金を置いて行くはずないもの。
やっぱりヘイザさんは、スリなんかじゃないわ。
ヘイザさん……
どこ行っちゃったのかな……
もう会えないのかな……

***

フロートルに出現した魔物は、爆発があった山の付近以外は、ほぼ一掃されたらしいとテレビで報道があった。武器を持たない一般人も、もうほとんどの場所で街に出られるようになっているらしい。
シーナは部屋で紅茶を飲みながら、その報道を聞いて安心したのも束の間、その表情はすぐに恐怖に変わった。
ニュースキャスターは最後にこう締めくくったのだ。
「なお、今回の爆発に関しては、ルビラ山の噴火とも見られていましたが、自然によるものでは無く、人工的に作られた爆弾がルビラ山で爆発したと見られています。しかし爆発は人工では考えられないほどの大きさであったため、現在、専門家が調査をしています……」
これって……
不安で、シーナの鼓動が早くなった。
噴火じゃなかったんだ……
爆弾が爆発……しかも人工では考えられない大きさって……
まさか……
シーナはぞっとした。
自爆テロとは言っていないけど……もし自爆テロみたいな感じだったとしても……遺体はきっとばらばらになってしまっているから、見つかっていないだけじゃないかしら……
シャーロ博士が言っていた……あの薬を飲んだ人間が、爆弾と一緒に爆発すればとてつもない大爆発を起こすだろうって……。
盗まれた薬は5つ……オクトルでひとつ、フロートルのルビラ山でひとつ使われたとしても……誰かが、まだあと3つ、あの薬を持っているかもしれない……
フロートルで爆発があったってことは、薬を持っている人は、フロートルにいるのかも……
シーナはそこまで考えて、はがゆい気持ちになった。
わたしは何もできないの?
シャーロ博士の秘密を聞いたのに、わたしには何もできないの?
……ううん。
ここはウォートルみたいな田舎じゃない。
大都会のフロートル。
わたしにだって、何かできることがあるかもしれない……
まずは明日、このホテルを出て、フロートルの街に出よう。


すっかり日が沈み、あたりは暗くなった。
シーナがフロートルに着いて、2日目の夜。
明日はフロートルの街に出る……
窓の外を見ると、昨夜、赤い牙の魔物に噛まれそうになった光景が、また鮮明によみがえった。
そして突然現れて、助けてくれたヘイザさん……
今日一日中、心のどこかで、ヘイザさんが部屋に来てくれるんじゃないかって思ってたけど……
シーナはため息をついて、首を横に振った。
もう忘れよう。
さみしくなるだけだもの。
シーナは気持ちを吹っ切ろうとするように部屋を出た。

ホテル内のカフェでアイスティーを買い、なんとなく、ロビーに立ち寄ってみた。
もう魔物がいなくなったせいで、夜遅いにもかかわらず、ロビー付近には数人の人影が見える。
シーナも人影につられて、ストローでアイスティーを飲みながら、ロビーから外に出てみた。
ホテルの中から見えた人影は数組のカップルだった。それぞれ、愛を表現し合うのに夢中で、シーナには目もくれない。その様子に、シーナは平和を感じて少しほっとした。
シーナはカップルたちから少し離れたベンチに座り、ぼんやりと空を見た。
小さな星が少しだけ見える。
ウォートルの空は、大きな星がもっとたくさん見えたのに……
でも、この小さな星たちを、これから毎日見上げることになるんだ。
もう、これからはずっと、魔物が出てくる心配をせずにいられたらいいな……
そんなことをぼんやり考えていた時、少し離れた場所で草むらがカサカサと動く音が聞こえた。
途端にシーナの体がこわばった。
また、魔物!?
逃げようとした時、草むらを黒い影が横切った。
思わず、目でその影を追った。
影は、ホテルの壁の大きな影になっている場所にすっと入った。
ホテルの壁の影と重なって、影の正体は見えない。
でも……何かがいる……
黒い影が横切って行くのを、はっきり見たもの……
シーナはいつでもホテルに逃げ込める体制で、その場を動かず、その影を凝視した。
ホテルの壁の影の中から、黒い影がそっと前に出てきた。
シーナは影の正体を見ようと、影の方に体を向けた。
「えっ……」
黒い影は、確かに人影だった。
そして、ホテルの窓から漏れる光で浮かび上がったシルエット、ターバンで覆われた顔から覗く切れ長の青い目……
あれは……
「ヘイザさん!?」
青い目はじっとシーナを見つめながら、シーナの声に、うなずいたように見えた。
そして、再びホテルの壁の影に隠れた。
シーナは早足でホテルの壁の影に足を踏み入れた。
すると暗闇の中、空気の動きで、誰かがすぐ隣に来たのがわかった。
影はシーナの目の前に立ち、顔を覆っていた黒いターバンをスッと手で引き下げ、顔を見せた。
「シーナちゃん」
ヘイザはそう言って、やさしく微笑んだ。
「ヘイザさん……」
シーナは一瞬で満面の笑みになった。
心に浮かんだままの言葉が、シーナの口をついてするすると出て来た。
「もう会えないかもしれないって思ったから……すごくうれしい。よかった、また会えて……」
「シーナちゃん……」
ヘイザの視線はやさしさを帯び、シーナをじっと見つめた。
シーナはうれしそうに、続けた。
「もう一般人も街に出られるようになったでしょう? 明日は、わたしも街に出るつもりなの。いろいろ見たいし、買い物もしなくちゃ。ね、ヘイザさん、もしよかったら……明日、一緒に街に行かない?」
「シーナちゃん……」
ヘイザは急に困ったような表情になり、
「……それはできないわ」
と言って、シーナから目をそらした。
「え……?」
シーナは、思いがけないヘイザの反応に戸惑った。
「わたし……今日はお別れを言いに来たの」
ヘイザは言ってから、申し訳なさそうにシーナを見た。
「お別れ? どうして……? また、会えるでしょ……?」
「……わたしは、もうここにはいられないの。本当は、シーナちゃんにも二度と会わずに行こうと思ってたんだけど……どうしても、もう一度だけ会いたくて。でも……やっぱり会いに来るべきじゃなかったかしら」
すっかり笑顔が消えたシーナの顔を見て、ヘイザは困ったように言った。
「ヘイザさん……、どこへ行くの?」
「まだわからないけど……フロートルの、どこか別の地域に行くわ。早めに、ここから出ないと……遅くても夜明け前には、ここを出るつもり」
「…………」
「ごめんね。わたしは、同じ場所には長くいられないの」
「…………スリだから?」
シーナの問いかけに、ヘイザは一瞬驚いたようだったが、すぐに微笑んで答えた。
「——そうよ」
ヘイザの答えに、シーナは軽いショックを受けたが、平静を保ってたずねた。
「じゃあどうして……わたしのお金は盗まなかったの?」
ヘイザは微笑みながら、うなずいた。
「本当は、盗もうと思ってたわ。シーナちゃんのお金を盗めば、しばらく働かずに遊んで暮らせそうだもの。でも、気が変わったの」
「どうして……?」
「ひとりぼっちで、これから行くあてもなく、武器も扱えない女の子を困らせるなんて、わたしの趣味じゃないもの」
「……わたしがあげた金貨も、置いていったでしょう? どうして……」
「シーナちゃんは、これからお金が必要でしょ。お金はできるだけ持ってた方がいいわ」
ヘイザは微笑んで、続けた。
「わたしのお客はね、お金がありあまってて、贅沢な暮らしをしてて、宝石のひとつやふたつ無くなったって、別に困りはしないような連中よ。このホテルには、いやってほどそんな連中がのさばってた」
ヘイザは皮肉な笑みを浮かべ、
「おかげで、ずいぶん稼がせてもらったわ」
と言って、ホテルを見上げた。
シーナは何も言えず、黙ってうつむいていた。
シーナの長い黒髪は、ホテルから漏れる明かりに照らされ、美しく艶やかな光を放っていた。しかし対照的に、うつむいたままのシーナの頬はいつもより白く、青白くさえ見えた。
ヘイザは、その頬をなでようとするかのように手を伸ばしたが、思い直したように、手を引っ込め、小さくため息をついた。
長い沈黙の後、シーナが悲しそうな目をして顔を上げた。
「……ヘイザさん。やっぱりあの金貨は……ヘイザさんにあげる」
「えっ?」
「昨夜、助けてもらったお礼だから。このままお別れなら……最後のプレゼントだから……。お願い、受け取って」
シーナのまっすぐな視線に、ヘイザは言葉を失い、黙ってうなずいた。
「ここで、待っててね。すぐ来るから……お願いだから、いなくならないでね」
シーナは心配そうにそう言って、何度も後ろを振り返りながら、ホテルに入って行った。

ひとりになったヘイザは、シーナがホテルに入っていくのを見て、このまま行ってしまおうと思った。
長くなればなるほど、別れがつらくなるだろう。
でも、このまま行ってしまったら、戻ってきたシーナはどんな顔をするだろう……泣いてしまうかもしれない……
それを考えると、心が苦しくなり、足が動かない。
十代半ばで盗みを始め、嘘をついたり、裏切ったり、そんなことは日常茶飯事だ。
しかし、今、ここから離れることには、とても強い心の抵抗を感じる。
ここに再び来てしまったことが間違いだったのだろう。
でも……
今朝、滞在している宿屋に戻り、新しい場所に行く準備をしていた間中……、シーナの天使のような瞳が頭から離れず、このまま行ってしまうとずっと後悔するような気がした。だから、最後のお別れを言うため、旅立つ自分の心を整理するため、もう一度だけ会いに来る決心をしたのではなかったか。
ホテルの警備の目につかないように隠れて移動しながら、辛抱強く2時間も待って、シーナの姿が見えた時の自分の気持ち……
顔を知られた仕事場に、リスクを背負ってまで、のこのこやってきて……しかも2時間もそんな危険なところに潜伏するなんてね。
その上、何の利益も無い。
わたしって、こんなマヌケなスリだったかしら。
ヘイザは、ひとりでふっと笑った。
シーナちゃんの天使みたいな瞳……やさしくて純粋で、そばにいるだけで心が満たされるようで……
今まで付き合った、スリ仲間やナイトクラブの女の子たちとは違う、あのきれいな瞳の輝きに触れたくて……
わたしは大きな危険を冒してまで、シーナちゃんに会いに来たんだわ……。
ヘイザは草むらに座り込むと、ため息をつき、遠い目をして星空を見上げた。

シーナは部屋に戻り、ショルダーバックを手に取って、再び部屋を出た。
ヘイザさんは、スリだった。
スリって、泥棒だもん……悪いことしてる人なんだ。
だけど、ヘイザさんは……
話し方も、目つきも、とってもとってもやさしくて……
ヘイザさんのそばにいると、ずっと一緒にいたくなってしまう……
なのに……
お別れしなきゃいけないなんて……
やっぱり、わたしはひとりぼっち……
シーナは涙がこぼれないように、上を向いて、目をしばたたいた。
ヘイザさん、いなくなってませんように……
これが最後でも、まだ会いたいから……
シーナはショルダーバッグを肩にかけて、ホテルを出てきた。
不安な気持ちでホテルの壁側を進み、影になっている場所に着いた。
「よかった……」
シーナは、ヘイザの姿を見ると、ほっとしたように微笑んだ。
壁にもたれ、草むらに座っていたヘイザは、さっきとは違う寛いだ表情で、シーナに自分の隣に座るよう手でうながした。
シーナは、素直にヘイザの隣に座った。
ヘイザはシーナにやさしく微笑みかけ、シーナは応えるようにうれしそうな笑顔を見せたが、その表情はすぐに寂しげな表情に変わった。
シーナはショルダーバッグを開けて、ずっしりと重い袋を取り出し、ヘイザに差し出した。
「これ……昨日のお礼」
シーナの目は、涙でうるんでいるように見えた。
ヘイザは袋を見ることはなく、シーナを見つめたまま、言った。
「——ねぇ、シーナちゃん」
「はい……?」
シーナは力なくヘイザを見た。
「わたし、最後のプレゼントは金貨じゃなくて……シーナちゃんがいいわ」
ヘイザはそう言って、はにかむような笑みを浮かべた。
「え? ……それ、どういう……」
シーナは面食らって、言葉を失った。
「だから……」
ヘイザは一瞬間を置いて、思い切ったように口を開いた。
「わたしと一緒に行かない?」
「えっ……」
思いがけない言葉に、シーナは目を丸くしてヘイザを見つめた。
「そうすればこれからも、一緒にいられるわ」
ヘイザはそう言って、これまでで一番やさしいまなざしを向けて来た。
シーナの胸はドキドキと高鳴り始めた。
しかし、すぐには返事ができず、戸惑った表情になっていた。
ヘイザは、シーナからさりげなく目をそらし、
「——少し考えてみて。あと2、3時間くらいなら時間があるから」
と言って壁にもたれ、黙って宙を見つめた。
沈黙になり、ホテルで人々が騒いでいる声が、ふたりの間にむなしく響いていた。

シーナは突然のことに、戸惑った表情を見せたものの——
心は、躍りだしたいくらいうれしかった。
これって……告白みたいなことなのかな?
女の人とこんなふうになるなんて……。
だけど——
わたしも、ヘイザさんのこと……
昨夜ヘイザさんに見つめられてドキドキしたのは、魅かれる気持ちがあったからだわ。
ヘイザさんと、これからも一緒にいられたら……
そう考えると、しあわせな気持ちになった。
しかし、夢心地になる心とはうらはらに、理性は現実を訴えかけて来る。
現実とは——
ヘイザはスリだということ。
スリと一緒に行くなんて……
育ててくれたシャーロ博士が、もし天国から見ていたら……きっと、ついて行くなと言っているだろう。
でも……。
壁にもたれているヘイザの横顔を見ると、心がじんと熱くなった。
今までわたし……こんな気持ちになったことあったかしら。
現実がどうだって、この気持ちは変わらないわ……
わたし——
ヘイザさんと、これからも一緒にいたい。
もともと行くあてもないし、失うものなんて、何もないじゃない。
シーナの気持ちは、突如として強く大きく膨れ上がり、理性を振り払った。
「ヘイザさん」
シーナの声に、ヘイザは不安を滲ませた目でシーナを見た。
シーナの目には、もう迷いは無かった。
「わたし、ヘイザさんと一緒に行く」
その言葉に、ヘイザはシーナの瞳を覗き込むように見つめた。
「——ほんと?」
「うん……」
シーナは、照れたように微笑んだ。
ヘイザはほっとした表情になり、ゆっくりと腕を伸ばし、シーナを抱き寄せた。
ヘイザに抱きしめられたシーナは、薄いパフュームの香りにふわりと包まれ、やわらかい髪に頬をくすぐられながら、喜びに胸を震わせた。
こんなのはじめて……
女の人に抱きしめられるって、こんなに気持ちがいいのね……
シーナは溶けるような気分で、ヘイザに身をあずけていた。
ヘイザはシーナの長い黒髪をなでながら、耳元に唇を近付けた。
「シーナ」
シーナは頬を赤くして、ヘイザを見た。
……〝ちゃん〟付けも好きだったけど、呼び捨てにされるのも……なんだか素敵……
ヘイザはシーナの心を見透かすように微笑んで、そっとシーナのあごに指をかけた。
シーナの胸の鼓動が早くなる。
ヘイザはシーナを見つめながら、ゆっくりと顔を近付けて来る。
これって……
キス、よね……?
シーナはドキドキしながら目を閉じ、ヘイザを待った。
——星空の下、甘いキスが、ふたりの始まりを告げた。


その日の夜明け前、シーナとヘイザは、フロートルの西の地方へと旅立った。

- -

第3章

スリの暮らし

シーナとヘイザは、新しい場所で生活を始めた。
フロートルの西の地方に位置するカートルと呼ばれるその街は、偶然にも、山の爆発があったルビラ山にさほど遠くない場所だった。
しかし現在、一般人が入れなくなっているのはルビラ山にごく近い場所のみなので、カートルは魔物が出ることもなく、いたって平和な街だった。

ヘイザは毎晩あちこちの酒場に出歩いては、現金や金目の物を持って家に帰って来る。
「カートルは酔っ払いが多いから、仕事が楽だわ。見て。これなんか、なかなかいいでしょ」
そう言って、金の飾りの付いた高価そうな時計をうれしそうに取り上げ、
「酔っ払いのオッサンが多くて助かるわ」
と言って笑ったりする。
シーナはどうしても、心から一緒に笑うことはできなかった。
盗んだ物は、その日のうち、もしくは翌日には換金する。
換金にはスリ専用のルートがあり、いかがわしい人物とヘイザが深夜に交渉をする現場についていった時は、シーナは不安で怖くて泣きたくなった。
しかしシーナは、ヘイザについて来たことは後悔していなかった。
ふたりきりの甘い時間は、シーナをしあわせな気持ちにさせてくれるし、変わらずやさしいヘイザをますます好きになっていた。
ただ、ヘイザがスリでなく、普通の仕事をしている人なら、どんなによかったろうと思っていた……。


今夜も夜の酒場通りは、華やかなネオンが輝き、楽しげな音楽と人々の笑い声で賑わっていた。
無防備な格好で、道の端で眠りこけている酔っ払いの姿もある。
ヘイザは早足で酒場通りを歩いていた。ニットでできた帽子を深くかぶり、シンプルな紫色のシャツにジーンズ姿で、酔っ払いに目もくれず歩いている。
そして、一軒の大きなバーのドアを押した。
ヘイザは迷うことなく、一番奥のテーブル席にまっすぐ向かった。
「ごめん。待たせたわね」
ヘイザの声に、赤色の短髪で目つきの鋭い男が顔を上げた。
「よう、ヘイザ」
男は小さく笑って、ヘイザを上から下までチェックするように見た。
「相変わらずいい女だな。元気だったか?」
「元気よ。キド、あんたは?」
ヘイザは、キドと呼んだ男の前に座ると、小さく微笑んだ。
「あぁ、オレもなんとかうまくやってる」

- -

ウエイターがテーブルにやって来た。
「いらっしゃいませ」
「ジンを」
ヘイザはウエイターの顔を見ることなく答えた。
「かしこまりました」
ウエイターは礼儀正しくテーブルを離れる。
ウエイターの背中を視線の端で見送りながら、キドは口を開いた。
「女のムチ使いを紹介できなくて悪いな」
ヘイザは小さく首を横に振った。
「それは仕方ないわ。とにかく、ありがと。で、どんな男? おかしなやつじゃないわね?」
「ごく普通のムチ使いだ。政府要請の魔物討伐なんかをやってるやつだよ。オレの古い知り合いだから、安心してくれ」
「わかったわ」
「名前はチャド。今はムチ使いをやってるが、たまーに財布をすったりしてるらしいな。やっぱり一度ついたクセはなかなか抜けねぇらしい」
キドは小声でそう言ってにやりと笑った。
ヘイザも、ムチ使いが同業者と知って、少しほっとして笑った。
「期間は2ヶ月だ。金額は……」
キドはウエイターが来るのを見て、一度話を止めた。
ウエイターがヘイザの前にジンを置いて去って行くと、キドは身を乗り出して再び話し始めた。
「金額は聞いてるな?」
「えぇ、問題ないわ。今?」
「あぁ」
ヘイザはウエストバッグから、折りたたまれた白い袋を出し、キドに渡した。
キドは鋭い目つきで一瞬辺りを見回し、ヘイザから袋を受け取ると、すばやく中身を確認し、自分のリュックにしまった。
「確かに受け取ったぜ。今週の土曜からだ。最初の日は、迎えに行かせるよ。おまえも、チャドに会っとく方が安心できるだろうから」
キドはそう言って、ヘイザにジンを飲むよう手でうながし、続けて言った。
「だけど、いろいろと大変じゃねぇのか? ……普通の女と一緒にいるっていうのは」
キドはさりげなく言って、うかがうような目でヘイザを見た。
「問題ないわ」
ヘイザは無表情で即答した。
「気をつけろよ。足手まといになることがねぇようにな」
「わかってる」
ヘイザはキドと目を合わさずに、ジンを飲んだ。
「流星団の華が捕まるようなことがあったら、この世の終わりだからな。——まぁ、おまえが男嫌いっていうことだけで、オレの世界はもうとっくに終わったわけだが」
キドがふざけて悲しげな顔を作り、ヘイザはそれを見て笑った。
キドは周囲をさっと見回し、たずねた。
「こっちには、まだしばらくいるのか?」
「そうね……あと数ヶ月は大丈夫じゃないかしら」
キドはうなずきながらキャップ帽を目深にかぶり、帰り支度を始めた。
「ムチ使いによろしく言っといて」
ヘイザがテーブルにほおづえを付いて、言った。
「あぁ。何か問題があったら連絡してくれ」
キドは立ち上がって言った。
「ありがと。気をつけて」
「あぁ。おまえもな」
キドはヘイザの肩をぽんとたたいて、肩を丸め、すばやくバーを出て行った。

***

「ただいま」
「おかえり。今日は早いね」
ヘイザが家に帰ると、フリルの付いたキャミソールにショートパンツのシーナがそっと居間のドアから出てきて微笑んだ。
「今日は、友達に会って来たの」
ヘイザはシーナをやさしく抱き寄せ、軽くキスをして居間に入った。
居間のテーブルには数冊の本が雑然と置かれていた。オクトルのテロ事件について書かれた本で、それがシーナの家族を奪った事件だということはヘイザも知っていた。しかし、思い出したくないであろう過去を、なぜそんなに掘り下げて知りたがるのか……
おそらく、スリである自分と暮らすために、周囲と関わりを持たず、家にばかり閉じこもっていることが、シーナの興味を過去へと執着させてしまうのだろうとヘイザは思っていた。

ヘイザは夜仕事に出かけ、夜明け前に家に帰る。
昼間はヘイザは寝る時間なので、その間、シーナはひとりで買い物に行ったりしているが、絶対に特定の人間と知り合いにならないように言ってある。
足がつかないように転々と場所を変えて生きるスリの生活では、その地に知り合いや顔見知りができることは後に危険になるからだ。スリはひっそりと移住し、誰にも知られずにひっそりと去らなければいけない。
安全に暮らしたければ、ヘイザといる限り、シーナも同じ生活をするしかない。
なぜなら、シーナが人と関わりを持ってしまうと、結局、いずれはシーナの知り合いが、一緒にいるヘイザを知る可能性が出てきてしまうからだ。人に知られること、顔を特定されることは、スリの仕事にとって致命傷になる。
シーナは、きっと普通の生活がしたいだろう。しかし、現実にこの生活では、普通の仕事に就くこともできないし、友達のひとりも作れない。
ヘイザはそのことを心苦しく思っていた……しかし、ふたりの生活を危険にさらすようなことはできない。
あの夜……気持ちが高まり、勢いでシーナを連れて来た。もちろん後悔はしていないが、シーナのことを考えると、現実生活の難しさを感じていた。

そんな中、シーナはずっとムチを扱えるようになりたいと言っていた。ムチを習いに行きたいと。しかし、普通にムチを学ぶスクールなどにシーナを行かせることはできない。
ヘイザはスリがらみの知り合いに、ムチを扱える者がいないか聞いていた。
そして、今日、ムチ使いを紹介してくれると言ったキドに会い、そのための費用を渡して来たというわけだ。
——キドはガサツなところもあるが、ヘイザが信頼できる数少ない友人の一人だった。
ヘイザは昔、流星団という名のスリの組織に入っていた時期があり、キドとはそこで仲間になった。
今はふたりとも、それぞれ組織には属さずに、あちこちを転々としながらスリとして仕事をしているが、スリから盗難品を買い取る業者の人間を通じて、連絡を取り合うことができる。
シーナが見知らぬ男のもとでムチを習うことは、男嫌いのヘイザには多少不愉快なことだったが、キドの知り合いなら信頼できる人物だろう。シーナが武器を扱えるようになることは悪いことじゃないし……第一、シーナは喜ぶだろう。
ヘイザはそう考えていた。

「シーナ」
ヘイザは、シチューを温めているシーナの背中に声をかけた。
「うん?」
シーナは振り向いてにっこり笑う。
初めて会った時から、シーナのきれいな目の輝きが、ヘイザは好きだった。
自分やスリ仲間のギラギラした鋭い目とは違う、穏やかに澄んだあたたかい輝き。
天使という言葉が、ぴったりと合う。
仕事から帰ってきて、シーナの目を見ると、乾いた心が潤うようだった。
「今日は、シーナにうれしいニュースがあるの」
ヘイザは、シーナの手を取って、自分の方へ引き寄せた。
「え? ちょっと待って。焦げちゃうから……」
シーナはあわてて鍋の火を止め、
「なぁに? いい収穫があったの?」
と、無理をしているような笑顔で、そうたずねた。
「違うわ、わたしの仕事の話じゃないの」
ヘイザはテーブルに座り、自分のひざにシーナを座らせた。そして、後ろから抱きしめるようにして言った。
「シーナ、今週末から、ムチを習いに行けるわ」
「えっ……」
シーナは驚いた顔で首を回し、ヘイザを見つめた。
「本当なの? いいの?」
ヘイザはシーナの笑顔を見ると、やさしくうなずいた。
「大丈夫なの? だって、ムチを習いに行ったら……」
シーナは確かめるように、ヘイザの目を覗き込んだ。
「大丈夫。わたしの友達が紹介してくれたムチ使いだから。わたしの仕事も最初から知られてるから、何の心配もいらないわ」
「……すごい! わたし……うれしい」
シーナはきらきらした目でヘイザを見つめると、
「ありがとう、ヘイザ……」
と言って、ヘイザに抱きついた。
ヘイザはシーナの艶やかな髪をなで、首の辺りに漂う、甘いパフュームの香りに顔を寄せながら、満足そうに微笑んだ。



玄関のチャイムが鳴った。
シーナはムチを小脇に抱え、ショルダーバッグを下げて、楽しそうに出て行く。
ヘイザは緊張した表情で、シーナについてゆっくりと玄関に行った。
シーナがドアを開けると、栗色の髪に、すらりと背の高い男性が、人の良さそうな笑みを見せて立っていた。
「チャドです。はじめまして」
チャドは最初にシーナを見て、その後でヘイザを見て、誠実そうに微笑んだ。
「こんにちは」
シーナがすぐに答えた。
チャドとシーナは、黙ったままのヘイザに目をやった。
ヘイザはかたい表情のまま、チャドに向かって言った。
「よろしく頼むわ」
シーナは、フレンドリーでないヘイザの態度にあわてたが、チャドはまったく驚く様子も無く、
「わかりました。心配しないでください」
と落ち着いた声で言った。
チャドが先にドアを開けて外に出ると、シーナはすばやくヘイザのもとに戻り、首を伸ばしてキスを求めた。
ヘイザはやっと微笑みを取り戻し、シーナにやさしくキスをした。
「行ってくるね」
シーナは手を振って、ドアを閉めた。
……まぁ、あの男なら、信用できそうね。
先ほどの態度とはうらはらに、チャドの様子を見て、ヘイザは内心はほっとしていたのだった。
ヘイザはカーテンを閉め、ベッドに入り、寝息をたてた……。


車の助手席で、シーナは流れる景色を見ていた。
「君、名前はなんていうの?」
チャドが車のハンドルを握りながら、たずねた。
シーナは一瞬考え、こう答えた。
「シーラです」
「シーラ、僕はムチ使いだけど、人に教えたことはないんだ。だから、今日は僕がちょっと緊張しているよ」
チャドはそう言って笑った。
シーナも少し笑い、
「よろしくお願いします」
と言った。
「さぁ着いた。この川原、いい場所だと思わない?」
「そうですね」
チャドは車を止め、ふたりは川原に下りた。
天気が良く、ずっと遠くで、子供と父親らしき男性がキャッチボールをしているのが小さく見える。
「あの親子は、遠いから大丈夫だろう。ここで練習しようか」
「はい」
「わぁ、シーラのは、すごくきれいなムチだなぁ」
「あ、買ったばっかりなんです……」
「僕のなんか、古くて汚いこんなムチなんだよ」
チャドは茶色くところどころ色あせたムチを、笑いながら取り出した。
——シーナはワクワクしていた。
やっとムチを教わることができるから。
そして、こんな天気のいい日に、外でリラックスしていられるのがうれしかった。
ヘイザと外に出ると、いつもヘイザの警戒心が伝わってきて、楽しく過ごしていても、常に心のどこかで緊張していた。
そして、チャドの穏やかな人柄が、シーナに安心感を与えた。
「まず、ムチの持ち方だけど……」
あたたかな太陽の下、のどかな川原で、ムチのレッスン1日目が始まった。

- -

第4章

ムチのレッスン

シーナがムチを習い始めて、1週間が過ぎた。
シーナの目には輝きが増し、以前と比べて明るい笑顔が増えた。
ムチのレッスンがあった日は、シーナは、レッスンの内容を楽しそうにヘイザに話す。
ヘイザは楽しそうなシーナの様子を見て、ほっとしながらも、シーナがチャドを信頼しきっている様子には、多少おもしろくない気持ちを持たずにはいられなかった。
しかし、たった2ヶ月のレッスンなのだから……と自分の気持ちを抑えるように努めていたのだった。

***

今夜もカートルの酒場は、活気にあふれていた。
「ありがとうございましたー」
愛想のいいスタッフの声とともに、一軒の賑やかな酒場のドアが開いた。
レースの飾りが付いたグレイのシャツに、スマートな黒いパンツ、細いブーツを履いたヘイザが落ち着いた様子でドアから出てきた。
酒場のドアが閉まると、目つきが変わり、ヘイザは早足になった。
ニット帽を出して目深にかぶり、賑やかな通りを早足で通り過ぎる。
酒場通りを抜けると、ひっそりとさびしい夜のオフィス街が現れた。
ヘイザは、明かりの消えたビルの隙間の影の部分にさっと入り、身を隠した。
そして1分ほどで、ターバンで顔を隠したヘイザが出て来て、暗い夜のオフィス街をすばやく歩き出した。
歩きながらポケットに手を入れて、中の物を取り出す。
意識のもうろうとしていた酔っ払いの腕から外した、大きな宝石が付いた腕輪だった。
ヘイザは街灯の下ですばやく腕輪をチェックすると、再びポケットにしまい、オフィス街を走り抜けた。
オフィス街を抜けると、民家が並ぶ通りが現れる。カップルや、帰宅途中らしい色とりどりのターバンを巻いた女性の姿がちらほら見えた。
ヘイザは人々に紛れ、夜の闇に消えた。


「ただいま」
「おかえりなさい」
ヘイザがアパートに帰ると、シーナはいつもよりにこにこして出迎えた。
よそ行きの白いワンピースを着て、髪には赤い髪飾りを付けている。
「シーナ……どうしたの? そんなよそ行きみたいな格好して……」
ヘイザはターバンを外しながら、不思議そうにたずねた。
シーナはますます楽しそうに笑い、ヘイザの手を引っ張って居間に入っていく。
ヘイザはわけがわからず、困惑した様子で居間に足を踏み入れた。
「えっ……」
ヘイザは驚いた顔で居間を見渡した。
天井には、色とりどりの風船がつるされている。
居間の小さなテーブルには、大きな白いケーキと、ワインとワイングラス、皿に乗ったチキンとパスタ料理が、ところせましと置かれていた。
「これ……どういうこと?」
ヘイザはやっぱりわけがわからず、シーナの顔を見た。
シーナはおどけたように大げさにため息をついて見せた。
「もう。ヘイザったら自分の誕生日も忘れちゃったの?」
「えっ……」
ヘイザは少し考えるような顔をした。
シーナは、テーブルの下から、きれいな包装紙に包まれた長方形の薄い箱を取り出し、ヘイザに差し出した。
「お誕生日おめでとう。これ、プレゼント」
ヘイザはやっとうれしそうな表情になって、シーナから箱を受け取った。
「わたし、誕生日なんて、もうずっと——毎年、思い出すこともなく過ごしてたから……」
ヘイザはそう言って、大切そうに箱を見つめた。
「自分の誕生日なのに……」
シーナは同情するような表情で言った。
「誕生日を祝ってもらったのは、母さんと暮らしてた間だけだわ……」
ヘイザは遠い目をして、小さくつぶやいた。
——ヘイザの母は、女手一つでヘイザを育てた。
しかし、ヘイザが14歳の時に、母は重い病をわずらい、寝たきりの状態になってしまった。
ヘイザは母との生活のため、地元の雑貨屋で働き始めたが、母の通院や薬にかかる費用がかさみ、少しずつ盗みを働くようになって行った。
ヘイザはずっと嘘をついていたため、母は娘が盗みを働いていることは知らなかった。そして、4年の闘病生活の末に、母は亡くなった。
シーナは、ヘイザから母親の話は何度か聞いていた。
シーナは家族と暮らしていた幼い頃はもちろん、シャーロ博士に引き取られてからも、誕生日はケーキを買って祝ってもらうことが普通だったため、誕生日を自分自身さえ思い出さずに過ごしてしまうというヘイザに、心が痛くなった。
シーナはヘイザの腕に触れながら、笑顔で言った。
「これからは、わたしが毎年、ヘイザの誕生日を祝うわ。だってヘイザの誕生日は、わたしにとっても、大切な日だから」
「シーナ……」
ヘイザは感極まったような表情でシーナを見つめ、
「プレゼント、開けていい?」
とたずねた。
シーナはうれしそうに、うなずいた。
ヘイザは包装紙をはがし、箱の中から、キャラメル色の革製の手袋を大事そうに取り出した。
「素敵だわ」
ヘイザはうれしそうに、手袋を自分の手にはめて見せた。
「ぴったりだわ。どう?」
「うん、思った通り。とっても似合ってる」
シーナは手袋をはめたヘイザの手を見ながら、微笑んだ。
「ありがと、シーナ」
ヘイザは手袋をはめたまま、両手でやさしくシーナの頬を包み、やさしくキスをした。

- -

ふたりはワインで乾杯し、しあわせな気持ちで食事を楽しんだ。
ワインのせいで少し酔いが回っていたふたりは、食事の後、丸いままのケーキを、切り分けずにフォークでつついて食べていた。
「なんだかこのままだと、ドーナツみたいな形になっちゃいそう」
シーナは真ん中ばかり減っていく丸いケーキを見ながら、おかしそうに笑った。
ヘイザもその言葉に同意するように笑い、腕を伸ばしてシーナの肩を抱いて言った。
「本当はね、今日は落ち込んで帰って来たの。でも、シーナのおかけで最高の一日になったわ」
「えっ? 落ち込んで帰って来たって……どうして?」
シーナは驚いたように、ヘイザを見つめた。
「期待して換金した腕輪が、とんだ安物だったの。わたしの目もまだまだってことね……」
ヘイザはため息混じりにそう言って、目線を落とした。
「そう……そんなことも、あるのね」
シーナはヘイザを気遣うように見つめた。
「シーナとしあわせに暮らすために、わたし、もっと稼ぎのいいスリにならなくちゃ」
そのヘイザの言葉に、シーナは複雑な表情を見せた。
「わたしは今のままで十分しあわせだから……無理しないで。ヘイザの仕事は、普通の仕事とは違うんだから……」
「大丈夫。ヘマはやらないわ」
ヘイザはシーナを見ると、自信ありげに微笑んだ。
シーナは音を立てずにフォークをテーブルに置くと、真顔になって口を開いた。
「ここに来てから……わたしは何もできずにいるけど……でも、わたしだって、一人前にムチを扱えるようになったら、きっとヘイザの役に立つわ……だから、もう少し待っててほしいの」
シーナの口調は次第に明るくなり、続けた。
「わたしが一人前になったら、街から街へ移動する時に、もし魔物が出ても……ヘイザに守ってもらうだけじゃなくて、わたしも一緒に闘える。わたしがヘイザを守ってあげることだって、できるようになるかもしれない……それに、ムチ使いの仕事だってできるわ」
シーナは明るく話していたが、ヘイザは最後の一言に動揺した。
——ムチ使いを職業にして生きていくには、大きく分けて2つの道がある。
一つは政府に認められ、魔物討伐などの報酬を受け取って暮らすということ。もう一つは、ムチを教える立場になることだ。しかし、どちらの道も、スリである自分と暮らしていくのは困難になるのではないかとヘイザは思った。
政府に認められるにしても、講師としてスクールで働くにも、住所や名前を明らかにしなければならない……個人レッスンを行うとしても、シーナが自分の情報を隠しておくのは難しいだろう……。
ヘイザが暗い表情になり、シーナはそれを見てあわてたように早口で言った。
「でも心配しないで、ヘイザ。——チャドさんは政府公認のムチ使いでしょう?チャドさんが言うにはね、緊急事態の時には、魔物討伐のための人をとにかく集めるらしくって、身元がはっきりしていない人でも大丈夫らしいの。もちろん、その場で日割りの報酬もちゃんともらえるって言ってたわ。そういう仕事なら、いいでしょ? ヘイザと暮らして、身元を隠しながらでも、ムチ使いとして仕事ができるのよ」
ヘイザは、シーナが自分との生活のことを一番に考えていることがわかり、ほっとして、
「そうね」
と言って笑顔になったが、その笑顔はすぐに薄れた。
「だけど……シーナが魔物の討伐に行くなんて、やっぱり心配だわ」
「わたし、がんばって強いムチ使いになるわ。ヘイザに心配かけないように、腕のいいムチ使いになるから……」
シーナはそう言って、まっすぐな目で、懇願するようにヘイザを見た。
シーナの一途な瞳を目の前にし、ヘイザは簡単にその希望を打ち砕くことはできなかった。
「そうね……2ヶ月間、しっかりチャドに教わって。レッスンが終わった時、わたしがシーナのムチさばきを見て、もう一度考えてもいい?」
「うん。わかったわ」
シーナは真剣なまなざしで答えた。
「ねぇ、シーナ。とにかく何があっても……」
ヘイザは片手でシーナの髪をなでながら、シーナが置いたフォークを持って、ケーキの真ん中をつつき、
「一番大切なことは、わたしとシーナが一緒にいることよ。——そうでしょ?」
と言って、やさしくシーナを見つめながら、ケーキのかけらが乗ったフォークをシーナの唇の前に運んだ。
シーナはケーキのかけらを口に入れると、しあわせそうにヘイザを見つめ、しっかりとうなずいた。

***

晴れた空の下。
いつもの川原で、シーナはチャドからムチを教わっていた。
「シーラ、しっかり狙って」
シーナは真剣な顔でムチを振り上げると、低い木箱の上に取り付けられた風船を狙って、力強く振り下ろした。
ムチは切り裂くような勢いで、風船に命中し、風船は音を立てて割れた。
「よし、これで10回連続命中だ!」
チャドは大きな声をあげ、シーナはうれしそうに笑顔を見せた。
飛び散った風船のかけらを拾いながら、チャドが微笑んで言った。
「今の一振りなら、低級の魔物は確実にやっつけられるよ」
「本当に? もうわたし、魔物をやっつけられるようになったっていうことですか?」
シーナは目を輝かせた。
「命中すればね。ただ、魔物は、じっとシーラに打たれるのを待っていてはくれない。これから、動く物を追いかけてムチを当てる練習をしなくちゃ」
「あ、そうですね……」
シーナはがっかりしたような表情でうなずいた。
チャドはそんなシーナを見て、笑って言った。
「そんなに焦ることはないさ。まだ1ヶ月もたってないんだよ」
チャドはクーラーボックスを開け、水が入ったボトルを2本取り出した。
「ちょっと休もう」
「はい、ありがとうございます」
チャドからボトルを受け取ると、シーナはごくごくと飲んだ。
「腕はもう痛くない?」
「はい……もう慣れちゃったみたいです」
シーナは左手で右腕をさすりながら、笑顔を見せて言った。
チャドは一口水を飲み、
「来週からは、動く物にムチを当てる練習に入ろう」
と言った。
「はい」
シーナはうれしそうに答え、思い出したように言った。
「チャドさん。わたし、ヘイザに言ったんです。ヘイザと一緒に暮らして、身元を隠していても、ムチ使いになって魔物討伐ができるってこと」
「ヘイザさんは、反対しなかったかい?」
「このレッスンがすべて終わってから、わたしのムチさばきを見て、もう一度考えるって言ってました。やっぱり心配だからって……」
「そうか。だけど、魔物討伐には段階があるからね、危険地帯から離れた場所で市民を守る仕事なら、低級の魔物としか闘うことはない。そういう仕事しかしないって言えば、きっとヘイザさんも許してくれるんじゃないかな。低級の魔物なら、きちんと準備をして行けば、万が一噛まれたり攻撃されたりしても、命まで奪われることはまず無いからね」
チャドは、丁寧な口調で説明した。
シーナは真剣にチャドの話を聞いていたが、チャドの説明が終わると、子供のような目をしてたずねた。
「チャドさんは、中級の魔物とか、それ以上の強い魔物と闘ってるんですか?」
「僕は主に中級の魔物を討伐しているよ。それ以上の魔物は、政府公認の中でも、さらに一流の人たちが討伐している。中級以上の魔物はとても危険で、まともに攻撃を受ければ、死ぬことだってあるからね」
「そうなんですか……」
チャドは、少し怖がったような表情のシーナに気付くと、安心させるように言った。
「でも、それは今のルビラ山みたいな危険地帯での話だよ。危険地帯から離れた、低級の魔物を討伐する仕事なら、そんなに怖がることはないよ」
ルビラ山……
チャドが発した「ルビラ山」という言葉に、シーナの背中がぞくっとした。
「ルビラ山は……今も、そんなに危険なんですか?」
シーナがたずねた。
「うーん……そうだね、危険というよりは不可解で、一流の人たちも少し、てこずっている感じかな」
「不可解……? というと?」
「うん……爆発の影響なのか、中級の魔物同士が合体したような、新種のおかしな魔物がいて、弱点がつかめなかったりするらしいんだ。しかも自分で体力を回復したり、傷を治したりする魔物までいるらしくて、1匹1匹を倒すのに時間がかかっているみたいだよ」
チャドは真剣な表情になって、そう言った。
シーナはチャドにうなずき、そっと視線を落とした。
……ルビラ山は……今も大変なんだ……
今のわたしじゃ、ルビラ山のことを知りたくても、自分じゃ何もできない。
わたしがもっともっと強かったら……
ルビラ山に行って、この目で様子を見れるのに……。
オクトルの事件と似ているかどうか、わたしなら、きっと見比べることができるのに……
……もっと強くならなくちゃ。
ヘイザもチャドさんもびっくりするくらい上達すれば、わたしだって、ルビラ山に行けるようになるかもしれない。政府に公認されなくたって、自分が強くなればいいんだから……
シーナは強い決意を胸に、立ち上がって、自分のムチを取り上げた。
「休憩時間が終わるまで、練習してますね」
そう言って、チャドに背中を向けると、木箱に風船を取り付け始めた。
チャドは練習熱心なシーナの背中を見ながら、水が入ったボトルのキャップを閉め、自分も腰を上げた。

***

「そこで見ててね」
シーナは、動く的のマシンを前に、振り返って言った。
いつもチャドにムチを教わっている川原に、今日はチャドの姿は無く、ヘイザがいた。
板のようなマシンには、小さめの赤い風船が6つ取り付けられていて、スイッチを入れるとそれぞれが不規則に動く仕組みになっている。そして、真ん中には長方形の穴が開いていて、穴からはゴムでできた柔らかいディスクが飛び出してくる。シーナが、ムチの練習用にチャドから借りたマシンだった。
ヘイザは、サングラスではっきりと表情は見えないものの、シーナの言葉に笑顔を作り、うなずいた。
シーナは自信ありげな様子で、マシンの裏側にまわり、スイッチを入れた。
そしてすばやくマシンの前に走り出た。
重々しい音と共に、風船がそれぞれ上下左右へ不規則に動き始めた。
シーナはムチを持った右手を、右から左へと力強く振った。
ムチは空気を切るようにすばやく真横に走り、2つの風船を連続で割った。
その直後、ゴムのディスクが装置から飛び出して来た。
シーナは機敏に左によけ、ディスクは宙を舞い、下に落ちた。
ディスクが落ちると、シーナはすぐに元の位置に戻り、ムチを上方向に振り上げ、今度は斜め下に振り下ろした。
今度は3つの風船が連続で割れた。
シーナは風船の割れる音に目を輝かせ、ゴムのディスクが出てくる中央の穴に集中し、身構えた。
すぐにゴムのディスクが飛び出し、シーナは、先ほどと同様にすばやくよけた。
そして、力いっぱいムチを振り上げ、残りひとつになった風船を割った。
「驚いた……完璧ね」
ヘイザはサングラスを外し、感心したような顔でそう言った。
シーナはヘイザを振り返り、得意げに微笑んだ。
ヘイザはシーナを見つめながら、さらに口を開いた。
「わたしの想像をはるかに超えてたわ。シーナ、がんばったのね」
ヘイザはシーナに歩み寄り、肩を抱いた。
シーナは生き生きとした目で、ヘイザを見て言った。
「わたしがムチ使いになるって言っても、もう心配ないでしょう? 今のわたしなら、どんな魔物でも倒せそうな気がするの」
「そうね……」
ヘイザは、本当は複雑な気持ちだったが、それを見せないように笑顔で言った。
初めて会った時には、低級の魔物を見て怯えていたシーナ……
そのシーナが、自ら魔物の討伐に行くようになるなんて……。
ヘイザはやっぱり心配だった。
そして、ふたりで暮らすようになってからヘイザに頼り切っていたシーナが、ムチ使いになって自分の力で出歩くようになることが、なんとなくさみしいような気分なのだった。
しかし、確かにシーナはムチの扱いを身に着けた。そして、こんなに生き生きとしたシーナの目を見たのは初めてだった……。
ヘイザはシーナの手を取り、やさしく微笑んで言った。
「魔物討伐に行くなら、盾と防具を揃えないと。わたしがお祝いに買ってあげるわ。今から見に行かない?」
「うん、行く! ありがとうヘイザ……あっ、ちょっと待っててね!」
シーナはうれしそうな声を上げて、マシンを片付けに駆けて行った。
「手伝うわ」
ヘイザはサングラスをかけ、シーナの後を追った。

***

その日はめずらしく曇り空だった。
いつもムチを練習していた川原で、シーナとチャドがサンドイッチを食べていた。
今日はムチのレッスンの最終日。しかし、実質、レッスンは終了しているため、今日はシーナとチャドは最後に話をするために会っていた。
シーナは、ヘイザに買ってもらった盾と防具の品々をチャドに見せていた。
真新しい銀の盾、花柄の軽いコテ、ビーム攻撃から脳を守るヘアバンド、魔物からの攻撃の命中率を下げる効果があるローブ。チャドは、めずらしそうにそれらを眺めた。
「ビーム攻撃から脳を守るヘアバンドに、魔物からの攻撃の命中率を下げるローブかぁ。最近の防具はどんどん新しくなってるんだね。僕なんて、5年くらい前に買った防具を使ってるからなぁ」
「わたしはまだ初心者だから、しっかりした防具を揃えないとって、ヘイザが選んでくれたんです」
「ヘイザさんが、シーラのことをよく考えて選んだのがわかるよ」
シーナは微笑んで、大きくうなずいた。
チャドは思いついたように手帳を取り出して、ぺらぺらとページをめくりながら言った。
「それで、肝心の魔物討伐のことだけど、シーラが参加できそうな低級魔物の討伐要請があった時は連絡するよ。弱い魔物でも、慣れるまでは戸惑うことも多いだろうから、知り合いにシーラをサポートするように話しておくからね」
「あの……チャドさんと一緒に、っていうのは無理なんですか?」
シーナはおずおずとたずねた。
「うん……僕もシーラを見守ってあげたいんだけど、僕は危険地帯の魔物討伐をしないといけないからね」
「そうですか……あの、ルビラ山は、もう魔物はいなくなったんですか?」
シーラは少しドキドキしながら、ルビラ山という名を口に出した。
「もう、ほぼ一掃されたけど、実はまだ完全にではないんだ」
「……どういうことですか?」
チャドは少し真剣な顔つきになって、言った。
「うん……討伐しているうちに、何度倒しても、時間が経つと、また再生される中級以上の魔物がいることがわかったんだ。だから一流の人たちが、最後まで討伐しきるために山に残って、今も闘っているよ」
「魔物って、倒しても再生するんですか?」
シーナは目を丸くして、たずねた。
「いいや。普通の魔物にはそんな能力は無い」
シーナは好奇心を抑えきれず、またたずねた。
「それって、ルビラ山の魔物だけってことですか? もしよかったら、教えてください。わたし……ルビラ山の爆発に興味があるんです」
チャドはシーナの真剣な顔を見て、驚いた顔をした。
「シーラがルビラ山の爆発に興味を持ってたなんて知らなかったよ。ええとね、どう言えばいいのかな……ルビラ山の爆発に関しては、まだ謎が多いからね。魔物に関しても謎が多いんだ。爆発と同時に魔物が湧き出したこと、魔物同士が合体したような新種の魔物が出ていること、そして、さっき話した自己再生する魔物がいることもそうなんだ。野生の魔物は、そういうことはできないだろうと言われている」
「じゃあ……野生じゃないなら、どういうことですか? 人間に操られているとか……? それとも、人間に作られた魔物とか……?」
シャーロ博士に薬を作るように依頼したのは魔術師だった……。
魔術師なら、魔物を操ったり、魔物を作り出すことだって……もしかしたらできるかも……
チャドは困ったように頭を掻いた。
「うーん、僕は専門家じゃないから、それはちょっとわからないなぁ」
シーナはもどかしい気持ちになり、その気持ちを抑えられなくなった。
「ルビラ山は、自己再生する魔物がいても、ほとんどの魔物は一掃されているんですよね?
わたし、ルビラ山へ行って、爆発の跡を見てみたいんです」
チャドは目を丸くして言った。
「シーラ、そんな危険なことを簡単に口にしちゃいけない。自己再生する魔物はとても危険なんだ。今、ルビラ山にいる人たちは命を張って仕事をしている」
いつになく厳しいチャドの口調に、シーナは冷静さを取り戻した。
チャドは心配そうにシーナを見て、すぐに口調をやわらげて言った。
「一体どうしたんだ? シーラらしくないよ。そんな無茶なことを言い出すなんて」
「ごめんなさい……」
シーナは自分を取り戻し、うつむいた。
チャドさんには、少しだけ話してみようかな……
シーナは、チャドに心を傾けた。
今日まで2ヶ月間、週3回~4回のペースで会い、チャドの穏やかな人柄、まじめな性格にシーナは安心感を抱いていた。
チャドさんは危険な人じゃないし、とても信頼できる人だわ。
シャーロ博士から聞いた秘密は言わない。
でも、わたしの過去なら、話してもいい……
シーナは素直に言った。
「わたし、ルビラ山のことが気になってるのは、オクトルのテロ事件と似ているような気がするからなんです……」
チャドは驚いた顔で、シーナをまじまじと見つめた。
「オクトルの? どうしてそんな古い事件のこと……」
「わたし、オクトルのテロ事件で家族を亡くしたんです。わたしは町から離れた泉に遊びに行ってて、大きな音がして町に帰ったら、町は焼け野原になってて……わたしの家も無くなってた」
チャドは同情するように、シーナを見つめた。
シーナは続けて話した。
「だから……、ルビラ山のことをニュースで聞いて……自然の噴火ではなく、爆弾による爆発だって、その威力が人工では考えられない大きさだったってことを知って、似ているんじゃないかって思ったんです。オクトルの時は、魔物は出なかったけど……」
チャドはやわらかい口調で口を開いた。
「シーラ、そんなつらいことがあったんだね。話してくれて、ありがとう。だけどね……」
そこで一度言葉を区切ったので、シーナはチャドの顔を見つめた。
「僕が知る限り、オクトルのテロ事件の爆発の威力は、ルビラ山の爆発とは比べ物にならないくらい大きかったんだ……。ルビラ山は魔物というおまけが付いてしまっているけど、爆発の大きさだけで言えば、オクトルの方がずっと大きかった」
「そうなんですか? じゃあ、関係は無いってことかな……。チャドさんは、どう思います?」
シーナは安堵の気持ちと同時に、オクトルの事件が封印されてしまうような不安も覚え、たずねた。
「僕は……どちらとも言えないな。大きな爆発という点、その爆弾に関していまだに謎が多いという点は共通しているね。でも、威力の違いがあるし、ルビラ山では爆発と同時に魔物が出て来たが、オクトルでは魔物は出なかったという違いもある……」
チャドは少し考えていたが、やさしくシーナの肩をたたいて、息をついた。
「僕はただのムチ使いさ……なかなかそういう分析は難しい。だけど、今はルビラ山よりもシーラのことが心配だよ」
「えっ、わたし……?」
シーナがチャドを見つめると、チャドはやさしい笑みを浮かべて言った。
「そうだ。僕のかわいい教え子が、突然、危険地帯のルビラ山へ行きたいなんて言い出すんだから、僕は心配でしょうがないよ」
「ごめんなさい……。ルビラ山の爆発と、オクトルのテロ事件の爆発は、威力の大きさが違うって教えてもらったから、もう……行かなくても大丈夫です」
シーナはそう言って、チャドを安心させようと、笑顔を作って見せた。
「それを聞いて安心したよ。ルビラ山の件は、何かわかったら教えるから」
「はい……変なこと言って、ごめんなさい」
チャドは、いつものあたたかい笑顔に戻って言った。
「シーラの気持ちは、すごくよくわかったよ。だけど、シーラ自身のためにも、ヘイザさんのためにも、そして僕のためにも、危険な考えは持たないでくれ。いいね?」
「はい」
チャドは、シーナの素直な様子に安心したように微笑み、かばんから、ひも付きの小さな宝石のようなものを取り出した。
「これは僕からのプレゼントだよ。シーラは、本当にがんばったね」
「これ……ペンダントですか?」
「魔法のお守りだよ。これを身に付けると、実際に毒を受けにくくなったり、催眠術にかかりにくくなったり、いろいろな効果がある。まぁ100パーセントではないけど、持っていれば、さまざまな場面でシーラを守ってくれるだろう」
「ありがとうございます」
シーナは、その場でお守りを首から下げて、微笑んだ。
チャドはシーナを見て、満足そうに言った。
「新人ムチ使いの誕生だ。とても誇りに思うよ」

こうして、シーナのムチのレッスン期間は終了した。
シーナはチャドを安心させるため、いつも通りにふるまっていたが、心の中では、さらにルビラ山のことが気になって仕方なくなっていた。
爆弾と共に不可解な魔物が出るようになった……
普通ではありえない、回復や再生をする魔物が……
それには魔術師が関わっているのではないか……
そして、その魔術師とはシャーロ博士に薬を作らせた人物なのではないか……
これらの疑問がシーナの中で大きく膨れ上がっていた。
オクトルの事件と、ルビラ山の爆発の威力が違うっていうのは、よくわからないけど……
でも、いずれにしても、不可解な爆発には違いない。
とはいえ、チャドさんに厳しく言われたように、今のわたしではルビラ山に行くことは無理なんだ……やっぱり、わたしには何もできないの?
そう考えると、無力感でいっぱいになった。
あんなに一生懸命がんばって、ムチを扱えるようになったのに……
チャドに見せていた笑顔とはうらはらに、シーナの心は落胆で沈んでいくようだった。

- -

第5章

ムチ使いシーナ

“世界には、魔物がいたるところにはびこっていた古の時代があった。
フラウド823年、魔物達が世界を征服するべく、突如として人々を襲い始め、魔物と人間の間で戦争が起こった。これが後にフラウド戦争と呼ばれる。
約300年間続いたフラウド戦争は、世界中の魔術師達が、魔物達を魔術で封印することにより、人間側の勝利に終わった。
現代は、あらゆる武器に魔物を封印する魔術が施されているため、武器で魔物を封印することが可能だが、当時は現代と違い、魔術でのみ魔物の封印が可能であった。その上、当時はまだ封印の魔術が完全には確立されていなかったため、封印は永遠のものではなかった。
500年ほど経った現代に、各地で次第に封印の解かれた魔物達が現れるようになっているのは、このためである——“

〝魔物討伐の心得〟という本のプロローグ。
学校の授業で世界中の子供達が学ぶ、誰でも知っている魔物に関する常識が書かれていた。
シーナはため息をつきそうになったが、首を横に振り、気持ちを奮い立たせるように口元をきゅっと結び、分厚い本のページをめくった。
ガチャッ。
玄関でドアが開く音がした。
シーナは椅子から立ち上がり、居間のドアを開けた。
「ただいま」
ターバンを巻いたヘイザの目が、シーナの顔を見て微笑んだ。
「おかえりなさい……」
シーナは笑顔を見せたが、どこかぎこちなかった。
ヘイザはターバンを外し、いつものようにシーナを抱き寄せた。いつもなら、ただいまのキスをするのだが、ヘイザはシーナの様子を確かめるように、動きを止めた。
シーナは数秒間、別のことを考えているかのようにぼんやりしていた。
ヘイザは探るような目でシーナを見つめている。
数秒後、シーナはあわてて首を伸ばし、ヘイザに軽くキスをした。
しかし唇を離した瞬間、シーナは悲しそうなヘイザの目の色に気付いた。
シーナは、はっと我に返った。
「あ……ごめんね、わたし、ぼんやりして……」
「……このところ、なんだかおかしいわ。ねぇシーナ……どうしちゃったの?」
ヘイザはため息をついて、シーナの肩をやさしく抱いた。
シーナはどう答えたらいいのか考えていた。
ヘイザの問いに答えが無いまま、数秒が過ぎた。
ヘイザはキッチンのテーブルに読みかけの本があることに気付き、
「……何の本?」
と言って、手に取った。
〝魔物討伐の心得〟というタイトルを見ると、ヘイザはテーブルに腰をかけ、シーナを自分の足の間に引き寄せた。
戸惑ったようなシーナの顔をまっすぐに見つめながら、
「魔物討伐に行くのが、怖くなった?」
ヘイザはやさしくたずねた。
シーナは目を伏せたまま、また考えている。
ヘイザは突然目つきを変えて、シーナを見た。
「まさかとは思うけど……チャドに会えなくなって、落ち込んでるんじゃないわよね?」
「え?」
シーナは驚いたようにヘイザを見つめ、次の瞬間、素直な笑顔で首を大きく横に振った。
その笑顔がここ数日見せるぎこちない類いではなかったので、ヘイザはほっとして言った。
「違うのね……よかった」
「もちろん違うわ。わたしが好きなのは、ヘイザだけだもん」
シーナはそう言って、甘えるようにヘイザの腕に寄りかかった。
ヘイザは微笑んでシーナを抱きしめたが、すぐに元の疑問を思い出し、
「じゃあ……一体どうしたの? 魔物討伐が怖くなったんじゃないの?」
とシーナの顔を見た。
シーナは一瞬、再び戸惑ったような表情になったが、ゆっくりと口を開いた。
「うん……そうかもしれない。なんだか……いろいろと、不安なのかも……」
ヘイザはほっとした顔になり、シーナの髪をやさしくなでた。
「やっぱりそうだったのね……。でも、大丈夫よ。シーナはたった2ヶ月間で、普通では考えられないくらい立派にムチを扱えるようになったんだから……」
—— 一生懸命励まそうとするヘイザの言葉を聞きながら、シーナの心はもやもやとして、もどかしい気持ちになった。
落ち込んでいる本当の理由を、ヘイザには言いたい気持ちと、言えない気持ちがぶつかり合っている。
わたしはムチを扱えるようになった。
魔物討伐は全然怖くないわ。
ただ……わたしが、ムチ使いになりたかった理由は……
魔物討伐がしたかったんじゃなくて、ルビラ山の爆発の謎に近付きたかったから。
シャーロ博士の薬の行方を知りたい。
ルビラ山の爆発の謎を解きたい。
強いムチ使いになれば、わたしもルビラ山に行けると思った。
でも、今のわたしは低級の魔物討伐しかできない……
今のわたしが強くなって、危険地帯に行けるようになるには、長い時間がかかる。
わたしは今すぐ行動したいのに……
シーナははがゆく悔しい気持ちのやり場が無く、ここ数日を悶々と過ごしていた。
ヘイザには隠してたつもりだったけど、ずっと心配させちゃってたんだわ……
シーナは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
いつも気遣ってくれて、どんな時もやさしいヘイザ。
ヘイザは、わたしの一番大切な人。
本当はすべてを打ち明けたい。
でも……
言ったらどうなるの?
シャーロ博士の薬のことや、脅迫されていたこと、その脅迫文の中に、わたしの命を狙うようなことまで書かれていたなんて、ヘイザが知ったら……
——だめ。
やっぱり言えない。
ただ心配をかけるだけだもの。
わたしとの生活を守ることで精一杯のヘイザに、今以上の負担をかけるわけにはいかない……。
シーナはあきらめて、心を封じた。
心を悩ますいろいろな考えを、頭の中から追い出した。
急に体中の力が抜けたようにしなだれかかってきたシーナに、ヘイザは驚いた。
「どうしたの? やっぱり、魔物討伐に行くのが怖い?」
「ううん、大丈夫。わたしは……ヘイザと一緒に暮らしていけたら、それでいい」
シーナは、更にヘイザに寄りかかって、そう言った。
「シーナ……」
ヘイザはほっとしたような表情になり、
「魔物討伐なんて、いやになったら、いつでもやめていいのよ。わたしも、シーナが一緒にいてくれるだけでいいんだから」
と言って、大切そうにシーナを抱きしめた。
「うん……」
シーナはやさしい腕の中にしあわせを感じ、目を閉じた。




「——もし噛まれたら、最初に消毒するのよ。そしてこの薬を吹きかけて」
ヘイザは落ち着かない様子で、シーナのウェストバッグの中に消毒液や傷薬を入れていた。
「うん、わかったわ」
シーナはヘイザとは対照的に、うきうきした様子で返事をした。
——今日は、シーナの初めての魔物討伐の日。
緊急の魔物討伐要請が出ていたわけではなかったが、チャドがシーナに魔物討伐の体験をさせるため、1週間、フロートルの森と呼ばれる森林での魔物討伐に参加できるよう手配してくれたのだ。
フロートルの森は、昔から魔物がよく現れる場所で、低級魔物とはいえ、近隣の町や村に被害が出ないよう、常に討伐の者が派遣されている場所だった。
ムチのレッスンの終了後は、今の実力ではルビラ山に行くことができないことに深く失望していたシーナだったが、実際に魔物の討伐ができることになると、しだいに気持ちが前向きになった。
……わたしはたった2ヶ月のレッスンで、ヘイザが驚くくらい、ムチを扱えるようになった。
低級の魔物討伐でも、経験を積めば、さらに強いムチ使いに近付けることは事実。
このままあきらめて落ち込んでいるより、とにかく魔物討伐に参加する方がいい。
みんなが驚くくらい活躍して、強いムチ使いと認められれば、わたしがルビラ山に行きたいと言ってもチャドさんだって反対しなくなるはず。
シーナの心に再び目標ができ、シーナはやる気を取り戻していた。
そして、鏡の前に映った新しい自分の姿にぞくぞくするような興奮を覚えた。
いつも下ろしている長い黒髪をポニーテールに結び、ビーム攻撃から脳を守るヘアバンドを付け、首にはチャドからもらったお守り、腕には花柄のコテ、腰には巻かれたブルーのムチ、ウェストバッグに銀の盾を下げ、魔物からの攻撃の命中率を下げるオレンジ色のローブを着ている。今日のシーナは、どこからどう見ても一般人の姿ではなかった。勇敢に魔物を倒す、強いムチ使いの姿だ。
シーナの心は、自信と期待に満ちあふれていた。
「シーナが慣れるまで、チャドが付いててくれればいいのに」
ヘイザは不満そうに言って、シーナにサングラスをかけさせた。
「チャドさんは、危険地帯の魔物討伐に行かないといけないから……。でも、わたしは本当はヘイザに一緒に来てほしかったな」
シーナは冗談っぽく笑って言った。でも、半分は本音だった。
「わたし?」
ヘイザは思いがけない言葉に、驚いた顔をした。
「うん。だって、ヘイザも魔物と闘えるでしょ。わたしを守ってくれた時のナイフさばき、すごくかっこよかったもん」
ヘイザは少し照れくさそうに笑って、
「スリはみんな武器を扱えるわ。魔物が出たら、自分で自分の身を守らなくちゃいけないから」
と言い、冗談を言うように続けた。
「だからってわたしが、政府が要請を出す魔物討伐なんかに参加したら、おそらくすぐに御用だわ。そしたら、シーナと一緒にいられなくなっちゃう」
ヘイザは笑って、やさしくシーナの頬をなでた。
シーナは残念そうな表情をし、ふと時計に目をやった。
「あ……そろそろ行かなくちゃ」
ヘイザも時計を見て、緊張した表情になった。
「シーナ、気をつけてね」
「うん。行って来るね」
シーナは首を伸ばしてヘイザにキスをすると、玄関のドアを開けた。

バスの中では、シーナと同じように、ウェストバッグを腰に下げ、武器や盾を持った人々の姿も見られた。
あの人たちも、どこかの魔物討伐に行くんだわ……
シーナの心は、ますます期待にはやった。
2時間後、バスはフロートルの森近くの町に着いた。
サングラスをかけ、ムチを持ったシーナは期待に胸を膨らませながら、町を出て、森へ続く道を歩き出した。
しばらく歩くと、大きな池が現れ、池のほとりにグレイの乗用車が停まっているのが見えた。
あれだわ……
シーナは小走りで車に向かった。
シーナが車に近付くと、ドアが開き、赤く染めたショートヘアの細身の女性が降りて来た。細い目に、きっと固く結ばれた口元が印象的だった。
「シーラさん?」
女性は細い目をさらに細めてシーナを見た。
「はい……よろしくお願いします」
シーナは、緊張した面持ちであいさつをした。
「乗って」
女性はそう言って助手席のドアを開け、自分は運転席にまわった。
シーナは少し緊張して、車に乗り込んだ。
車はでこぼこした道をゆっくりと進み、森の中へと入っていく。
女性は前を見つめたまま、きびきびとした口調でしゃべった。
「わたしはエリン。チャドに頼まれたから、今日から1週間あなたのサポートをするわ」
「よろしくお願いします……」
「あなたのことは名前以外何も聞いてないから、心配しないで。あなたが何をやってる人なのかは知らないけど、興味もないわ。政府公認じゃなく魔物討伐に来る人は、大きな声では言えない仕事をしてる人も多いから、いちいち興味を持ってたら身が持たないのよ」
「あ、はい……。あの、ひとつだけ聞いてもいいですか?」
シーナはエリンの早口に圧倒されながら、おずおずとたずねた。
「何? 答えられることなら、答えるわ」
エリンはシーナと目を合わせることなく、言った。
「エリンさんは、政府公認の方なんですか? それとも……」
「わたしは政府公認の剣士よ。今はフロートルの森を担当してるの」
エリンは、シーナの質問が終わらないうちに答えた。そして続けて言った。
「次から次へと出て来ては人間を襲おうとする魔物には、毎日うんざりよ。だから、討伐の手助けをしてくれる人は誰でも歓迎するわ。最近はルビラ山の事件もあったし、魔物が増えてるから、あなたもいいムチ使いになって協力してね」
エリンの最後の一言は、がぜんシーナのやる気を引き出した。
「はい」
シーナは力強く返事をした。
「ほら、着いたわ」
エリンが車を停めると、前方に十数人くらいの人々の姿が見えた。
それぞれが剣や槍などの武器を振り回し、宙を飛び回る魔物らしきものと闘っている。
シーナはその光景を目の前にし、急激に気持ちが高ぶるのを感じた。
わたしは、ムチ使いになったんだわ……
強く強くなって、早くルビラ山に行けるようにならなくちゃ。
シーナは自分のムチをぎゅっと握りしめた。
「さぁ降りて。今日も、この森は魔物でうじゃうじゃしてるわ」
エリンはため息をつくと、長い剣を持って車を降りた。
シーナは期待に胸を膨らませて、助手席のドアを開け、車を降りた。


その夜、ヘイザは仕事を早く切り上げ、家路を急いでいた。
途中、暗い路地裏に入り、
「今日は収穫なし。悪いわね」
と声をかけた。
「了解」
暗闇の中から、低い男の声が聞こえた。
ヘイザは早足で歩き出した。
「——ただいま。シーナ?」
ヘイザは玄関のドアを開けると同時に、声をかけた。
ガチャ。
居間のドアが開き、そっとシーナが出てきた。
ヘイザを見ると弱々しく微笑んだが、顔が青白い。あまり元気そうではなかった。
ヘイザが声をかけるより早く、シーナは急に抱きついて来た。
「ヘイザ……よかった。今日、早く帰って来てくれて。わたし……ひとりで心細くって……」
シーナは、ヘイザの腕の中で、ぼそぼそと言った。
「……今日、どうだった?」
ヘイザは、あまりいい返事は聞けないだろうと察しながら、やさしくたずねた。
「今日は……すごく疲れた……」
シーナは、ヘイザにしなだれかかった。
ヘイザはシーナの髪をなでようと手を伸ばしたが、
「これ、何……?」
シーナの首の辺りに思いがけない感触があり、驚いてシーナの髪を手で寄せた。
「シーナ……」
髪を寄せて首を見ると、そこには包帯が厚く巻かれていた。
「噛まれたのね……傷口見せて」
シーナはうなだれたように、下を向いていた。
ヘイザはあわてた様子で、包帯を外し始めた。
「包帯は……自分で巻いたの?」
「ううん。エリンさんが……」
「エリンさんって?」
「今日、サポートしてくれた剣士の人」
「そう……」
ヘイザが包帯を外し、血の滲んだガーゼを取ると、痛々しい傷跡が現れた。
くっきりと魔物の歯の跡が付いている。
ヘイザは傷を見て、痛そうに顔をゆがめた。
「こんなに深く噛まれて……どんな魔物と闘ったの?」
「ふわふわ飛んで、近付くと牙を向くの……モモってみんな呼んでた……」
「あぁモモね……あれは噛むけど、毒は無いから一安心だわ……」
ヘイザは少し安心したように言ったが、すぐに厳しい顔になって言った。
「だけど……そのエリンさんって人は何してたの?サポート役がいながら、こんな怪我させられるなんて……」
「ううん、エリンさんは悪くないの。最初はわたし……エリンさんの後ろで闘ってたんだけど……その時は魔物の攻撃はほとんどエリンさんが防いでくれて、わたしはムチを当てることだけに集中してたから……」
シーナは、そこで涙をこらえるように歯を食いしばり、一息ついて続けた。
「魔物の攻撃の怖さなんて全然感じなくって……後ろで闘ってるだけなんてつまらないって思ったの……それで、ひとりで闘ってみたくなって……エリンさんや他の人たちが安全な場所で食事をしてた時に……こっそり抜け出して、ひとりで森に入ってみたの……」
シーナは涙声になり、ヘイザは険しい表情になった。
シーナは涙を浮かべながら、話し続けた。
「そしたら……モモが一度に3匹も出てきて……最初に1匹にムチを当てて落としたら、別の1匹がわたしの手に噛み付こうとしたから……よけようとして……ムチを手から離しちゃったの……パニックになってたから、盾を使うことも頭から飛んじゃって……」
「それで、首に噛み付かれたのね」
「うん……。わたしがムチを落とした途端に、残った2匹が急にすごく凶暴になって襲いかかって来て……。魔物って、こっちが武器を持ってるとか、強いとか弱いとか、あんな小さくてもちゃんとわかってるのね……。噛まれた時は、すごく痛くて、怖かった……」
シーナは静かに泣き出し、ヘイザの表情は険しいままだったが、やさしい手で震えている背中をさすった。
「……その後は、どうしたの?」
「わたしの叫び声を聞いて……エリンさんや、他の人たちが来てくれて……エリンさんには、すごく怒られたわ……」
「怒るでしょうね……わたしだって怒りたいわ、シーナ」
シーナは悲しそうな目でヘイザを見て、力なくうなだれた。
シーナの瞳から、涙の粒が落ちた。
ヘイザは言いたいことが山ほどあったが、落ち込んで泣いているシーナの様子を目の当たりにして、説教する気が失せた。説教は、おそらくエリンという剣士に散々されて来ただろう。
ヘイザは考え込むような表情になり、シーナの涙をやさしく指でぬぐった。
「……これからどうする? 魔物討伐なんて、もうやめてもいいのよ」
ヘイザはうなだれたシーナの顔を覗き込んで、そう言った。
シーナは力強く首を横に振った。
「やめないわ……わたし、もっともっと強くなりたいの……」
ヘイザは大きくため息をつき、シーナをじっと見つめて言った。
「じゃあ本当に強くなるまで、今日みたいな行動はしないって約束できる?」
「うん……約束する。これからは、慎重に闘うわ……」
ヘイザは、シーナがなんと言おうと、今後のことが心配で仕方なかった。
こんな危なっかしいシーナを魔物討伐に行かせるなんて……
それ自体が無茶なことなのかもしれない。
わたしはシーナが望むことをさせてあげたいと思って、キドに頼み、チャドを紹介してもらったけど……
「——心配かけてばっかりで、ごめんね、ヘイザ……」
シーナは再びヘイザに抱きつき、強く体を寄せて来た。
シーナのあたたかい感触を受け止めながら、ヘイザは落ち着いた口調で言った。
「シーナは、わたしの大切な女の子だから……シーナが危険な目にあったり、怪我したりしたら、わたしは自分のこと以上につらくなるわ」
「ヘイザ……本当にごめんなさい。ヘイザがそんなふうにわたしのこと思ってくれてるのに、わたしったら……。もう、危険なことはしないから……」
シーナはさらにぴったりとヘイザに抱きついて言った。
ヘイザはうなずきながら、首の怪我に触れないように、シーナをやさしく抱きしめた。


翌日。
シーナは昨日と同じようにバスに乗り、町を出て、フロートルの森の入り口の池に向かって歩いていた。
まだグレイの車は見えなかった。
エリンさん、まだ来てないんだわ……
シーナはとても緊張して、池に着いた。
エリンさんに会ったら、昨日のこと改めて謝らなくちゃ……
シーナは手で首の包帯に触れ、ヘイザのことを想った。
昨夜も今朝も、ヘイザは心配そうにシーナの首の怪我をチェックし、傷薬をつけ、ガーゼと包帯を取り替えてくれた。
シーナは、ヘイザの言葉をまた思い出していた。
〝シーナは、わたしの大切な女の子だから……シーナが危険な目にあったり、怪我したりしたら、わたしは自分のこと以上につらくなるわ……〟
この言葉が、昨夜からずっと離れない。
この言葉を思い出すたび、ヘイザの愛情に胸が熱くなると同時に、シーナは自分の無茶な行動を心から反省した。
こんなふうにわたしのこと想ってくれるヘイザがいるのに……
わたしは何も考えずに勝手な行動をして、本当にバカだったわ……。
今日から6日間は、怪我をしないように気を付けながら、ムチ使いとしての腕を上げよう……
その時、後ろから車が入ってくる音が聞こえ、シーナの体に緊張が走った。
振り向くと、グレイの車がスピードを上げて目の前までやって来て、停まった。
車の中からエリンはちらりとシーナを見て、助手席に乗るように手でうながした。
シーナはドキドキしながら、助手席のドアを開けた。
「おはようございます……」
エリンはシーナを一瞥すると、前を向き、無表情で目を合わせずに言った。
「少しは反省したの?」
エリンの冷たい言い方に、シーナは気持ちが萎縮しそうだったが、めげないように気を持ち直し、考えていた言葉を口にした。
「はい。昨日は……、本当にごめんなさい。これからは、勝手な行動はしないで、きちんとやります」
「あなたって、本当に変な子」
エリンは皮肉に笑い、
「ものすごく素直でおとなしそうなのに、突然、あんな危険な行動を取ってみたり。振り回されるわたしって、ものすごくしあわせ者よね」
と嫌味を言った。
シーナは黙ってうつむいた。
エリンは、ちらりとシーナを横目で見て、皮肉な笑みを浮かべたまま、更に言った。
「新人って、口ばっかりで何もできない臆病者はよくいるけどね、あなたみたいな子はあんまり会ったことないわ。外見はおとなしそうなのに、身の程知らずで、無鉄砲で……」
エリンは、落ち込んだ様子のシーナを見て、言葉を切った。そして、ため息をつき、
「今日からは、イイコでいてくれる?」
と、おどけたような口調でたずねた。
「はい……」
シーナはエリンの反応をうかがうように、おどおどとした様子で返事をした。
「もう一回だけ信じてあげる。でも、また昨日みたいな行動したら、チャドに報告して、わたしはあなたのサポート役から降ろしてもらうから」
エリンはきびきびとした口調で言って、厳しい目でシーナを見た。
「はい……わかりました」
「じゃあ、ほら、ドア閉めて」
シーナは落ち込んだ様子のまま、ドアを閉めた。
「——まだ痛むの?」
エリンは車を走らせ、前を向いたまま、たずねた。
「あ……はい。でも、大丈夫です」
「魔物に攻撃されそうになったら、盾を構えるのを忘れないで。あなたの場合、ムチを振ることより、防御する癖を身につけることが今の課題よ。攻撃と防御の両方をできるようにならなくちゃ、一人前には闘えないわ。いい?」
エリンの口調から、とげとげしさが抜けたことにほっとし、シーナは素直にエリンの言葉を聞き入れた。
「はい。がんばります」
昨日と同じように、十数人くらいの人々が武器を振り回し、盾を構え、飛び回る魔物と闘っている光景が見えてきた。
「さぁ、行くわよ」
「はい」
シーナは昨日とは違う志で、気を引き締め、車を降りた。

***

2日目からのシーナは、エリンの言う事を忠実に守りながら、熱心に魔物討伐に励んだ。
怪我をしないよう気を配りながら、みるみるムチ使いとしての腕を上げていった。
4日目を過ぎると、エリンはシーナを自分の後ろではなく、前に立たせていた。シーナは盾を上手く使って魔物の攻撃をはじきながら、噛まれることもなく、ムチを振り、華麗に魔物をなぎ倒すようになっていた。
その頃から、エリンは口にはしなかったが、シーナの成長振りに一目を置くようになっていた。

熱心に魔物と闘うシーナの心は、毎日シーナのことを心配しているヘイザを大切に思い、早く一人前になって安心させたい気持ちが大半を占めるようになっていた。
亡くなってしまったシャーロ博士の言葉、今の自分では行くことができないルビラ山より、身近な愛しい存在に心を傾けることにしあわせを感じ、シーナはこの1週間で、心の落ち着きを取り戻し、立派なムチ使いに成長していたのだった。

- -

第6章

闘いたい理由

今夜も賑わいを見せる夜の酒場とは対照的に、人通りの少ない暗い路地裏。
ターバンを巻いたヘイザが、いつもより人目を気にする様子で、足早にやってきた。
閉店後の店と店の壁の間の影に、帽子を目深にかぶりマスクをつけた小柄な男が、アタッシュケースの上に腰をかけている。しかし影にすっぽりと隠れているため、通行人がいても、ほとんど気付かれないだろう。
ヘイザは辺りをそっと見渡し、するりと、その壁と壁の間の影に入った。
影の中で、男が鋭い目をギラリと光らせ、顔を上げた。
「よう」
「今日は、これよ」
ヘイザは、ポケットから、金の時計とキラキラ光るブレスレットを出し、男に差し出した。
男は手袋をはいた手で、黙ってそれらを受け取った。
男はアタッシュケースを立てて置き、光が漏れないよう影を作ると、ポケットライトの明りを点け、時計とブレスレットを確かめた。
「ブレスレットは安物だな。けど、この時計はいい」
男は小さく低い声で言った。
「いくら?」
ヘイザは即座にたずねた。
男はアタッシュケースを開け、黙って紙幣を数え始めた。
ヘイザは真剣に男の手元を見ている。
「これだ」
男の声に、ヘイザは手を出した。
男はヘイザの手に、厚みのある札の束と、硬貨を数枚乗せた。
ヘイザは一瞬息をのみ、驚いた声で聞いた。
「こんなに!?」
「あぁ。これがいい」
男は金の時計を掲げて見せた。
ヘイザはうなずいて、札束と硬貨をすばやくウェストバッグにしまった。
男も時計を大事そうに白い布で包み、アタッシュケースにしまった。
「もう、そろそろここを離れるわ」
ヘイザは男の小さな背中に声をかけた。
男はギラリと光る目でヘイザを見上げ、うなずいた。
ヘイザはターバンを軽く手で直し、
「2、3日中に、また」
と言って男に背を向けた。
「了解」
男は暗闇の中から、短く答えた。
暗い路地裏を出ると、バスの停留所がある。
そこには24時間営業の花屋があり、深夜にも関わらず、アルバイトらしき若い快活な女性店員が花束を抱えて店の前に立ち、バスを降りる人々に花を勧めている。
「お花はいかかですかー?」
ヘイザはターバンを顔から外して肩にかけると、女性店員に歩み寄った。
「こんばんは」
ヘイザはやさしく微笑んで、声をかけた。
「いらっしゃいませ。お花はいかかですか?」
女性店員は愛想よく微笑んで、腕に抱えた色とりどりの花束を、ヘイザに見えるように差し出した。
ヘイザは少し考えて、ピンク色のバラの花束を指差した。
「これをいただけるかしら?」
「こちらですね。ありがとうございます」
ヘイザはその場で支払いをし、花束を受け取った。
花束を持って歩くと目立つため、首にかけていたターバンで花束を包んで、歩き始めた。とその時、ふと、すれ違った会社帰りらしき男の視線を感じた。
まただわ。
へイザは早足になり、ウェストバッグからニット帽を出して、目深にかぶった。
……2、3日中じゃ、遅いかもしれないわね。

「1週間の魔物討伐、お疲れさま」
「わぁ、ピンクのバラ! すごくかわいい……」
アパートに帰ったヘイザは、シーナの予想通りの反応に、満足そうに微笑んだ。
ピンクの花束を抱えたシーナの口から、言葉が一気に流れ出てきた。
「今日ね、チャドさんも来てくれたの。それで、わたしが魔物を倒すのを見て、〝見違えるほど立派なムチ使いになった〟って言ってくれたわ。すっごくうれしかった……」
ヘイザはニット帽を脱ぎ、手袋を外しながら、穏やかにシーナの話を聞いている。
シーナは珍しく早口で、興奮したように話し続けた。
「あとね、エリンさんも、〝ぜひ、また一緒に討伐活動をしたいわ〟なんて言ってくれたの。エリンさんって、いつもクールな人だから、びっくりしちゃった……それにね、今日、初めての魔物討伐の報酬ももらって、すごく感激しちゃったわ……」
シーナの言葉が途切れたところで、ヘイザは口を開いた。
「この1週間で、シーナは本物のムチ使いになったのね。なんだか信じられないわ。初日はあんな怪我して帰ってきて、ずいぶん心配したのに……」
ヘイザが手を伸ばしてシーナの長い髪を寄せると、まだうっすらと傷跡が残っている首が見えた。
シーナは決まり悪そうに笑って、
「それは言わないで……もう反省したんだから」
と言って、傷跡を隠すように、首をかしげた。
「そうね……悪かったわ。ごめんね」
ヘイザはなだめるようにシーナの頭をなでた。
「……わたしも、心配かけてごめんね」
シーナの言葉に、ヘイザは微笑んだ。そして、改まったようにシーナを見て、口を開いた。
「ねぇ、シーナ。実はね……話があるの」
「えっ?」
シーナはヘイザをまっすぐに見つめた。
「そろそろ……ここを離れなきゃいけないわ」
一瞬、シーナは戸惑った顔になった。
ヘイザは、少し早口になって話した。
「まだ次の場所は決めてないけど……シーナがフロートルで魔物討伐を続けたいなら、フロートルから出ないようにするし、何も心配いらないわ。ただ、もう、この町を出ないとね……いい?」
シーナはヘイザの言葉に、しっかりとうなずいた。
ヘイザはほっとしたように微笑んで、
「じゃあ、今日はいっぱい乾杯しなくちゃね。シーナが初めての魔物討伐を終えたお祝いでしょ、新しい場所へ行くお祝いでしょ、それから、わたしとシーナがこれからもずっと一緒にいるお祝いでしょ……」
と楽しそうに言いながら、ジャケットの内側に手を入れ、片手に収まる程度のボトルを取り出した。
シーナはそれを見て、目を丸くした。
「それって……前、ヘイザが〝大金を稼いだ時しか手が出ない〟って言ってた高級なお酒じゃない? 1本5万ゴールドの、スーパープレミアム何とか……」
ヘイザは、得意げな笑顔でうなずいた。
「それ、どうしたの? ……盗ってきたの?」
シーナは不安そうな顔でたずねた。
ヘイザはおかしそうに笑った。
「違うわ、帰りに酒屋で買ってきたの。盗った高級酒で乾杯なんて、わたしだって気分悪いもの」
「じゃあ、5万ゴールド払って買ったの?」
「そうよ。今日は、わたしもいい仕事したの。これも、乾杯する理由のひとつね」
ヘイザはウェストバッグを開けると、厚みのある札束を出した。
シーナは札束を見つめ、小さな声で言った。
「すごい……そんなに?」
ヘイザは満足そうに笑って、うなずいた。
ヘイザの満足そうな横顔を見て、シーナは複雑な気持ちだった。
シーナが1週間の魔物討伐で稼ぐ、おそらく何十倍もの金額を、ヘイザは1晩で、しかも盗品を売って稼ぐ……。
ヘイザが苦労せずにスリの仕事をしているわけではないことは知っている。だけど……
ヘイザはシーナの心の内をよそに、上機嫌な様子でシーナのひたいにキスをすると、キッチンへ向かい、冷蔵庫を開け、高級酒を割るためのソーダを取り出していた。
「シーナも飲むでしょ? こんなのめったにありつけないんだから」
ヘイザはシーナの返事を待たずに、グラスをふたつ取り出し、楽しそうに用意を始めた。
シーナは苦笑いしてため息をつくと、
「じゃあ……わたしはコーラ割りにしようかな」
と声をかけ、キッチンへ向かった。


翌日。
シーナはアパートの解約手続きに出かけ、ヘイザはアパートで荷物の整理をしていた。
「ただいまー」
「おかえり、シーナ。何も問題なかった?」
ヘイザはシーナを出迎え、やさしくキスしてたずねた。
「うん、何も問題なかったわ。それよりヘイザ……もうこんなに片付いちゃったの?」
シーナは備え付けの家具のみになった居間を見回し、驚いて言った。
すでに荷物はまとめられ、部屋はほぼ片付いている。
「まぁね。わたしの荷物は少ないし。それに、ある意味、わたしは引っ越しのプロみたいなものじゃない?」
ヘイザは冗談っぽい笑みを浮かべて、そう言ったが、すぐに顔をしかめた。
「ヘイザ、まだ頭痛いの? 昨日あんなに飲むから……。ベッドに横になったら?」
ヘイザは頭を押さえて、苦笑いをし、
「ううん、大丈夫。さっき薬飲んだし……今日はやることがたくさんあるから……あっ、そうそう、シーナ……」
と、荷物をまとめたスーツケースの上に置かれた衣類と本を指差して言った。
「シーナの服とか本がちょっとかさばるのよね……少し捨てて行けないかしら?」
「ん……」
シーナは服と本を確認し、ウォートルから持って来た古い地味な服と、オクトルのテロ事件について書かれた数冊の本を手に取った。
そして、思い切ったように、
「これ、捨てて行くわ」
ときっぱり言い、
「ウォートルから持って来た服はもう着ないし、オクトルの事件のことは、もう十分わかってるから……」
と微笑んだ。そして魔物討伐の心得を手に取ると、
「この本は、まだ持っててもいい? 魔物図鑑が付いてるの。わたし、まだ魔物の名前とか、あまりわからないから……」
と、懇願するような目でヘイザを見た。
「いいわ」
ヘイザはやさしく微笑んで、うなずいた。
ヘイザはゆっくりと椅子に腰かけると、大きな地図を広げた。
シーナはヘイザの隣に座って、地図を覗き込んだ。
ヘイザはシーナに地図を見せるように、ペンを手にとって、数箇所を差して見せた。
「とりあえず、この3箇所に目星を付けてるんだけど、シーナが行きたいところってある?」
シーナは行けないことはわかっていても、地図を見せられると、思わずルビラ山の場所を確認していた。
ヘイザが示した場所は、すべてルビラ山からは離れている。
シーナは首を横に振り、答えた。
「わたしは、ヘイザが決めたところについて行くわ」
ヘイザは片腕を伸ばしてシーナの肩をやさしく抱くと、
「じゃあ、ここかしらね」
と言って、テイストルという町を指し示した。
シーナは素直にうなずいて、甘えるようにヘイザの肩にもたれた。
ヘイザはシーナにキスしようと顔を寄せたが、急に眉間にしわを寄せ、ため息をついて頭を押さえた。
「ヘイザ、頭痛いのね……。もう行く場所も決まったし、少し寝たら? いつもならヘイザは寝てる時間だもん、今、眠いでしょ?」
シーナはヘイザを気遣って言った。
「そうね……ありがと。少し眠ろうかしら」
ヘイザは立ち上がって、ベッドへとゆっくり歩いた。
シーナは心配そうに後ろからついて行った。
頭を押さえたままベッドに横になったヘイザは、
「夜になっても寝てたら、起こして……」
とシーナに微笑むと、まぶたを閉じた。
「おやすみ、ヘイザ」
シーナはヘイザの頬に小さくキスをすると、そっとベッドを離れた。

ヘイザはベッドに横になると、すぐに寝息をたて始めた。
シーナはヘイザが支度をしたバッグやスーツケースの中の自分の持ち物を確認していたが、その日は明け方までヘイザと起きていたため、しだいに体は眠りたがり、テーブルに突っ伏したまま眠りに落ちた。

夕方、シーナは目を覚ました。
ベッドにいるヘイザは、まだ規則的な寝息をたてている。
シーナは外の風に当たりたくなり、ショルダーバッグを持って、アパートを出た。——ヘイザと、ここで3ヶ月暮らしたんだわ。
もっと長い時間がたったような気がする。
最初は何にもできなかったわたしが、今はムチ使い。
わたしがムチで魔物をやっつけるなんて……自分でも想像もしなかったわ。
シーナは誇らしい気持ちで、ひとり微笑んだ。
新しい場所に行くことに対して、不思議と不安は無かった。
ヘイザが一緒なら、どこでだってしあわせに暮らせるもの……
近くの売店でアイスティーを買い、飲みながらぶらぶらと歩いていると、遠くに見える広場に人だかりができているのが目に止まった。
何だろう……
シーナはアイスティーを飲みながら、広場へと足を向けた。
広場に近付くにつれて、集まっている人々は、皆、新聞を手にしているのが見えて来た。
さらに近付くと、人だかりの中心から
「号外です! 号外です!」
という声が聞こえ、新聞の号外が配られていることがわかった。
何のニュースだろう?
人だかりの近くに行こうと足を早めた時、読み捨てられた号外が、風に乗って、ふわりとシーナの足元に飛んできた。
シーナは新聞を手に取った。

「リミトルで自爆テロ」

自爆テロ……
目に飛び込んできたその見出しに、シーナはぞっとした。
不安で心臓が早くなる。
シーナは鳥肌が立つような感覚を覚えながら、その場で新聞を読んだ。

「リミトルで自爆テロが発生。
リミトルはほぼ壊滅状態。犯人の身元は不明。
爆発後は魔物が発生し、現在リミトルは危険地帯となっている。周辺の町や村には避難勧告が出された」

まだ詳しいことが判明していないのか、記事の文章は簡素だったが、事件の概要を知るには十分だった。
シーナの心は、恐怖と確信で震え上がるようだった。
自爆テロ……
リミトルという町は壊滅状態……
オクトルと同じだわ。
そして、爆発の後に魔物が発生しているのは、ルビラ山と同じ……。
リミトルの自爆テロは、オクトルの自爆テロと、ルビラ山の爆発の両方に共通点がある。
シーナは、3つが結びついているような気がしてならなかった。
シーナは新聞を胸に抱え、深刻な顔で、アパートへの道を歩いていた。

アパートに帰ると、ヘイザはまだぐっすり眠っていた。
シーナはヘイザがパッキングしたバッグを開け、がさごそと、夢中で携帯テレビを探していた。
「シーナ……」
「あ……」
振り向くと、ヘイザが寝起きの顔でベッドから起き上がっていた。
「ごめんね、起こしちゃって……具合はどう?」
シーナはベッドへ行き、ヘイザの隣に腰かけた。
ヘイザは軽く伸びをしながら、
「すごくいいわ。頭も体もすっきりした感じ……」
と言って、パッキングしたはずのバッグが開けられ、かき回されたように雑然としているのに目を止めた。
シーナはヘイザの視線に気付き、
「あ、ごめんね……ちゃんと後で元通りにするから……」
と申し訳なさそうに言った。
「そんなのいいけど……どうしたの? 何か探し物?」
「うん。テレビ見ようと思って……」
「テレビならこっちよ」
ヘイザはスーツケースを開け、手を入れて携帯テレビを取り出し、シーナに手渡した。
「ありがとう」
シーナはテレビを受け取ると、早速スイッチを入れた。
「何を見るの?」
ヘイザはシーナを後ろからやさしく抱き寄せ、寛いだ様子でテレビの画面を覗き込んだ。
「……さっきね、散歩に出たら、新聞の号外が配られてたの。リミトルって町で自爆テロがあったんだって……」
テレビでは、ちょうどリミトルの自爆テロについての特別番組が放送されていた。
爆発後のリミトルの町の様子を写した生々しい写真を、ニュースキャスターが深刻な面持ちで解説している。
シーナはその写真に恐怖を感じた。
壊滅状態になった町の写真だった。
建物や家は無く、焼け野原のようになっている。
あちこちで小さな煙や炎が上がっているのが見え、その間に、シーナはまだ見たことも無い人間ほどの大きさもありそうな魔物のシルエットがちらほら見える。そして魔物たちの足元には、焼け焦げた人の遺体らしきものが転がっているのも見えた。
シーナの心に焼き付いて離れたことがない映像——6歳だったあの日、泉から帰ってきた時に見たオクトルの光景とよく似ている。魔物がいる以外は……。
オクトル、ルビラ山、今回のリミトルでの爆弾……
被害の違いや、魔物が出る出ないの違いがあるにしても、やっぱりこの3つが無関係とは思えない……。
シーナはしばらく考え込んでいたが、はっと我に返り、ヘイザの顔を見た。
ヘイザもショックを受けた様子だった。
ヘイザの唇は細かく震え、テレビを凝視している。
「ヘイザ……大丈夫?」
シーナはヘイザの腕にそっと触れた。
ヘイザは深刻な表情でシーナを見ると、
「ねぇ、シーナ。少しの間だけ……ホテル暮らしになってもいい?」
と、感情を抑えたような声でたずねた。
「うん……いいよ。でも……どうして?」
シーナはいつもとは違うヘイザの様子に、不安を感じた。
「わたし……リミトルに行くわ」
「えっ……?」
思いがけない言葉に、シーナはわけがわからなかった。
「リミトルはね……」
ヘイザは、まだ生々しい写真を映し出しているテレビに目をやり、
「リミトルは……わたしが母さんと暮らしてた町なの……」
と小さな声で言った。
「ヘイザの故郷……?」
「そう……母さんが死ぬまで、ずっとふたりで暮らしてた町……母さんとの思い出が詰まった町なの……」
シーナはどう言葉をかけていいかわからず、黙ってヘイザの手を握った。
ずっとふたりきりで暮らして来た母のことを、ヘイザがとても大切に思っていることは、何度か話を聞いてよく知っていた。
ヘイザはシーナをまっすぐに見つめ、言った。
「だから、わたし……リミトルにいる魔物を倒して来るわ。夜間なら、顔を隠さなくても大丈夫だと思うから……このまま何もせずに他の町へ行く気になれないの……」
シーナに向けられたヘイザの目はやさしかったが、心の奥からみなぎる強さが宿っていた。
シーナはヘイザの気持ちを感じ取り、できればヘイザの思うようにさせてあげたいと思った。
しかし、テレビに映し出された写真の中の大きな魔物のことを思い出し、
「でも……さっきテレビで見た写真の魔物……あんな大きいのがいるんでしょ? 一流の人じゃないと危険じゃないのかな……」
と不安な気持ちで言った。
ヘイザは落ち着きを取り戻したように少し微笑んで、
「大丈夫。あれは中級の魔物だけど、わたしでも闘える程度のやつよ」
と言って、シーナの手を握り返し、
「シーナは安全なホテルで待ってて。もし身元がバレそうになったり、何かあったら、その時はシーナを連れて即逃げるから」
と言って、いつものヘイザに戻ったように、シーナを抱き寄せた。
シーナは言いたいことが喉の奥まで出かかっていたが、ためらっていた。
ヘイザは、無言のまま考え込んでいるシーナを安心させようとするかのように、
「心配しないで。スリの勘はとってもいいんだから。逃げるタイミングだけは、外したことないわ」
と笑った。
シーナは思い切ったように、ヘイザを見つめ、口を開いた。
「ヘイザ……わたしも一緒に行きたい」
「もちろん一緒よ。なるべく近くで安全なホテルを探すから、シーナはそこで——」
「そうじゃなくって。わたしも一緒に闘いに行きたいの」
ヘイザの顔から途端に笑みが消えた。
「それはだめよ」
ヘイザの厳しい言い方に、シーナはがっかりしたように目を伏せたが、すぐに決心したように再びヘイザを見た。
「わたしだって、闘いに行きたい理由があるの。ずっとヘイザに言ってなかったことだけど……」

——シーナは、衝動的に、心の中に秘めていた秘密をヘイザにすべて打ち明けた。
シャーロ博士から聞いた薬のこと。
その薬が盗まれ、オクトルのテロ事件が起こったこと。
博士が何者かに脅迫されていたこと。
その脅迫文の中にシーナの名前もあったこと。
ルビラ山の爆発とリミトルの自爆テロが、オクトルの自爆テロと関係がある気がしていること……
ずっとひとりきりで胸に抱えて来た秘密を、一気に話した。
ヘイザは途中、質問をすることもなく、黙ってシーナの話を最後まで聞いた。
すべて話し終えたシーナは、強い意志を持った目をして言った。
「——だから……真実を知るために、わたしはムチ使いになったの。一緒に闘いに行っていいでしょう?」
ヘイザは深刻な顔で、迷わず首を横に振った。
「だめよ」
「どうして?」
「だって、その薬とか魔術師とか……爆発事件と関係があったとしても、シーナが現場を見に行ってどうなるっていうの?」
「それは、まだわからないけど……でも、わたしにだって何かできることがあるんじゃないかって……」
ヘイザは、先ほどよりも強く首を横に振った。
「脅迫文を書いたやつは、シーナを探してるかもしれないんでしょ? そんなことに首を突っ込むなんて、魔物と闘うどころじゃなく危険だわ」
「じゃあ、このまま何もせずに……爆発で町が無くなっていくのを、黙って見てるしかないっていうの?」
シーナは泣きそうな声になっていた。
ヘイザは深刻な表情のまま、深いため息をついた。
シーナは、ヘイザが心から共感して、シーナを応援してくれるとは思っていなかった。しかし、ここまで厳しい反応をされるとも思っていなかった。
もう少し理解を示してくれると思ったのに……。
シーナは今までにない絶望感でいっぱいだった。
せっかくムチを扱えるようになったのに……
真実から目をそらして、低級魔物を討伐して、各地で爆発が起こるのをただ見ているしかないなんて……そんなのって……
悔しさが込み上げ、シーナの頬を涙が伝って落ちた。
ヘイザはシーナの涙を見ると、つらそうに表情をゆがめて言った。
「わたしはシーナが大切だから、危険なことはしてほしくないのよ」
「ヘイザだって、危険があるのにリミトルに行くんでしょう? ヘイザが行っても、町が元に戻るわけじゃないのに。わたしだって同じよ……爆発事件を黙って見てるなんてできない……」
「シーナ、お願いだから、もうやめて。わたしはいつだってシーナのことを守るために——」
「だったら、守ってくれなくたっていい! せっかくムチを習ったのに……わたしは何もできないなんて……そんなの……」
シーナは背を向けて泣き出し、ヘイザは口をつぐんだ。
——わずかな沈黙の時間が流れた。
ヘイザは思い切ったように、シーナに声をかけた。
「——シーナ」
シーナは黙ったまま、涙で腫れた目でヘイザを見上げた。
ヘイザはしっかりとシーナを見つめながら、言った。
「リミトルには、近くの町から、少しずつ近付いてみるのはどう?」
「……どうって——」
「シーナも一緒に闘いに行くんでしょ?」
シーナは目を見開いた。
「……一緒に行っていいの?」
ヘイザは微笑んだ。
「強い魔物が出る周辺には弱い魔物が集まってくるから、弱い魔物を倒しながらリミトルに近付いてみましょ。もし途中でシーナには無理だと思ったら、そこから先には進まないわ。それでいい?」
シーナはじっとヘイザを見つめながら、無言でうなずいた。
ヘイザはほっとしたようにシーナの肩を抱き、言葉を続けた。
「——わたしがリミトルに行くのをやめればいいんだって思ったけど……そう思えば思うほど、母さんと暮らした場所があんなことになってるのに、他の町へ行くなんてできないって気持ちになったわ。行ってもリミトルの町が元に戻るわけじゃないけど、行かなきゃ気が済まないって感じ……シーナが爆発事件を見過ごせない気持ちも、同じなのよね。さっきはわかってあげられなくて、ごめんね」
その言葉に、シーナの瞳には、先ほどとは違うあたたかい涙がじわじわとあふれ出した。
ヘイザは、シーナの瞳からこぼれる涙をぬぐいながら、さらに続けた。
「それに、わたしだって少しは気になるもの……その薬と、爆発事件が本当に関係してるのかどうか」
「ヘイザ……わたし、さっきは、守ってくれなくたっていいなんて言っちゃったけど……あんなの嘘なの……ヘイザがいなかったら、わたし……」
涙で言葉が続かないシーナの肩を、ヘイザはなだめるようにさすりながら、
「そんなこと、わかってるわ。シーナを守るのは、わたしの役目だもの。いやだって言われても、そう簡単にはやめられないわね」
と言って、おどけたように笑って見せた。
「ヘイザ……」
ヘイザをまっすぐに見つめたシーナの瞳からは、ますます涙がこぼれ出し、なかなか泣き止むことができなかった。


その日の深夜、シーナとヘイザはカートルのアパートを出た。
タクシーで駅へ向かい、ふたりを乗せた夜間列車は、リミトル近くのセトルという町に向かって出発した。

- -

第7章

死の呪い

セトルは、ドトルという小さな村の隣に位置する比較的大きな町だ。
セトルからドトル村を越えると、リミトルがある。
ドトルの村人たちは、リミトルで自爆テロがあった直後から皆セトルに避難しており、現在ドトル村に住民の姿はなく、リミトルから流れた魔物や低級魔物がうろつく場所になっていた。

シーナとヘイザは、セトルのホテルで一晩休んだ後、装備を整え、ドトルに続く山道に向かった。
セトルからドトル、そしてリミトルに向かう道は、武器を持たない一般人は立ち入り禁止のため、バスや列車なども無かった。そのため、シーナとヘイザは徒歩で行く道を選んだ。シーナの闘いぶりしだいでは途中で引き返す可能性があったので、ふたりには徒歩の方が好都合でもあった。ふたりは闘う装備を整えていたため、魔物討伐に行くと言うと、すんなりと検問を通過できた。
そして、ヘイザは自分ひとりなら夜間に出かけるつもりだったが、シーナのために、魔物と闘いやすい昼間に出発することにした。実際、セトルでは盗みの仕事をするつもりがなかったので、それほど隠れる必要もなかった。
シーナはフロートルの森で魔物討伐をしていた時と同様の装備で、ヘイザは帽子にサングラス、使い慣れた青銅のナイフを腰につけ、セトルで買った台車に荷物を入れてふたりで押して歩いていた。ほとんどの魔物討伐の者たちは公道を使っているため、徒歩で、しかも山道を選んだシーナとヘイザは、人気の無い道を歩くことになった。
ヘイザは、途中でセトルに戻ることになるだろうと思いながらシーナを連れて来たが、思った以上にシーナが闘えることに感心し始めていた。
「また、モモだわ」
ヘイザはふわふわと飛びながら向かって来る魔物を見つけて立ち止まり、ナイフを抜いて構えた。
ヘイザの後ろで、シーナがムチを振り上げる。
シーナは魔物が近付くのを見計らって、絶妙なタイミングで、ムチを上から斜め横に振り下ろした。
ムチは、噛み付こうと口を開けた2匹の魔物に連続で命中し、魔物が体勢を崩したところを、ヘイザがナイフで止めを刺した。
「楽勝ね」
ヘイザは振り返って、シーナに笑いかけた。
「うん」
シーナはうれしそうに、ポニーテールを揺らしてうなずいた。
「だけど、これからよ。今のところは低級魔物しか出てこないけど、リミトルに近付くにつれて、低級でも上って言われるようなやつや、中級の魔物が出てくるはずだから……」
「うん。わたし、がんばるから」
シーナは自信にあふれた目をして言った。
ヘイザは落ち着いた様子でうなずき、
「そうね……わたしもなんとなくだけど、今のシーナのムチさばきなら、もしかしたら中級魔物もいけるんじゃないかって気がするわ」
と言った。
シーナの目はますます自信にあふれ、
「うん。ヘイザと一緒にリミトルに行けるように、がんばるね」
と言って微笑み、歩き出した。
「また来たわ」
ヘイザはそう言って、シーナの前に進み出た。
「あれは?」
シーナはムチを構えながら、前方からひらひらと飛んでくる魔物を見てたずねた。
人間の頭ほどの大きさの丸い体に、蝶のような羽がついてひらひら飛んでいる。
目は小さいが、鋭い牙が生え、恐ろしい形相をしてゆっくりと向かって来る。
「ヒモスよ。幻を見せる粉をかけてくるかもしれないから、その時は盾で避けて」
「うん、わかった」
「来るわ」
シーナは盾を構えながら、魔物に向かってムチを振り上げた。

シーナとヘイザは順調に魔物を倒しながら、怪我をすることもなく、山道を進んだ。
辺りは少しずつ暗くなってきていた。
「シーナ、疲れたでしょ?」
ヘイザは歩くのが遅くなったシーナに、気遣うように声をかけた。
「ごめんね。ちょっと足が痛くなっちゃった……」
シーナは顔をしかめた。
ヘイザはうなずいて、足を止めた。
「夜間は魔物が増えるし、今日はこの辺で休んだほうがいいわね」
シーナは素直にうなずいた。
ヘイザは草むらに台車を移動させ、バッグを開けると、折りたたまれた革製のテントを出した。
「途中で引き返すかと思ってたけど、ここまで来れたわね」
ヘイザはテントを組み立てながら、シーナに笑いかけた。
「うん。全然きつくなかったわ」
シーナは水の入ったボトルで手を洗い、セトルの町で買ってきた食材を出し、サンドイッチを作る準備をしながら、楽しそうに答えた。
「このペースなら、明日にはドトル村に着けるかもしれないわ」
「ドトルを越えれば、リミトルに行けるのね」
「まぁね……でも、ドトル村にはリミトルから流れて来た中級の魔物がいるらしいから、そこでシーナには無理だと思ったら、セトルに戻るわ」
「うん……わかってる」
シーナは素直にうなずいた。
テントを組み立て終わったヘイザは、折りたたみ式のまな板を広げてパンを切ろうとしているシーナに歩み寄って言った。
「テントができたから、中でやった方がいいわ」
「うん」
シーナはまな板と食材の入った袋をそっとテントに移動させ、
「ねぇ、ヘイザ……夜寝てる時、魔物がテントを破って入ってきたりしない……?」
と、テントの中を見回し、不安そうな顔をした。
ヘイザは笑って、
「大丈夫。これは魔物よけの魔術がかけてあるテントだから。この中にいれば、魔物は来ないわ」
と言って、テントのチャックを閉めた。
「そうなの? よかった」
シーナは安心したように微笑むと、楽しげにパンを切り始めた。

「——お風呂がなくても、髪も体も洗えるなんて知らなかったわ」
シーナは初めて使ったドライシャンプーとドライソープに感心しながら、ラフなシャツとショートパンツ姿で、カーテンを開けて出て来た。
ブランケットの上で寝転んでいたヘイザは、シーナを見て微笑むと、
「足はもう痛くない?」
とたずねた。
「うん、もう大丈夫」
シーナはしっとりとした長い髪をくしでとかしながら、ヘイザの隣に座った。
洗い立ての髪からふわりとシャンプーの香りが広がり、ヘイザはその香りにつられるように体を起こし、やさしいまなざしでシーナを見た。
シーナはそのまなざしに吸い寄せられるようにヘイザの腕の中に身をあずけ、ふたりはゆっくりと唇を重ねた。
キスの後、ヘイザはシーナを見つめて言った。
「シーナといると……リミトルがあんなことになったっていうのが、嘘みたいに感じるわ。だってわたしたちは、こんなに平和なのに」
シーナも同じ気持ちだったが、ヘイザが発したリミトルという言葉に、すっと現実に引き戻された。
リミトルは今、どうなってるんだろう……。
「ね……、テレビ見てみない?」
シーナはそう言って、ヘイザにあずけていた体を起こした。
ヘイザはため息をつき、
「あんまり見たくないけど……なつかしい場所のあんな悲惨な姿なんて」
と言いながらも、しぶしぶバッグの方へ手を伸ばした。
「でも、これからわたしたちリミトルへ行くんだから……あの光景を現実に見なきゃいけなくなるのよ? ……」
「確かにそうなんだけど……知ってる場所があんなふうになると、目を背けたい気持ちになるものね……」
ヘイザは携帯テレビを取り出し、スイッチを入れた。
しかし、テレビの画面は暗いままだった。
「あら?」
ヘイザは何度かスイッチをオン、オフに切り替えた。
しかし、何度やっても結果は同じだった。
「映らない?」
シーナはヘイザを見つめた。
ヘイザは大きなため息をつき、
「これ、電池切れだわ。おまけに電池買うのもすっかり忘れて……ごめんね、シーナ」
と言って、申し訳なさそうな顔で、テレビをシーナに手渡した。
「ううん、わたしも電池の残量、全然見てなかったから……」
シーナもスイッチを動かしたが、テレビは何の反応も示さない。
「ここまで来て、電池のためにセトルに戻るなんてありえないし……とりあえず、明日はドトル村の様子を見て、リミトルに進むかどうか決めましょ」
ヘイザは明るい口調で言った。
「うん、仕方ないもんね」
シーナもあきらめたように微笑み、
「ココア作ろうっと。ヘイザも飲むでしょ?」
と言って立ち上がった。
「ありがと。冷たいのが飲みたいわ」
「じゃあ、アイスココアにするね」
シーナは楽しそうに、粉末ココアの袋を手に取った。

翌日も、シーナとヘイザは順調に魔物を討伐しながら山道を進んだ。
シーナのムチさばきは、こうしてヘイザと歩いている間にも、目に見えてみるみる上達していた。
昨日は一撃では倒せなかった低級魔物を、ムチ一振りで倒せるようになり、ヘイザはその違いに大きく感心していた。
そしてその日の夕方、ふたりは余裕でドトルの手前にやって来た。
「あれが、ドトル村?」
山道が終わり、開けた草原の向こうに小さく家々や畑が見えてきたのを指差して、シーナがたずねた。
「そうよ。余裕で来れたわね」
そう言って、ヘイザは笑顔で後ろの山道を振り返った。
シーナも山道を振り返り、
「長かったね」
と言って、うれしそうに微笑んだ。
「でも、リミトルまで行くなら、まだ半分来たところよ。あともう半分あるってこと」
ヘイザはそう言って、シーナの頭をなでた。
「うん、わかってる」
シーナはそう返事をして、
「わたし、こんなサバイバルみたいなことしたの、初めて」
と言って笑顔を見せた。
「そうよね……きつくない?」
「ううん、楽しい。ヘイザと一緒だから」
ヘイザはふっと思い出し笑いをして、話し始めた。
「スリ団にいた頃は、こんなことばっかりやらされてたのよ。魔物と闘いながら、人目に付かない場所でキャンプして、町から町へ。で、町に出たら仕事して。でも、稼ぎはほとんどボスに取られちゃうし、中でも一番サイアクだったのは、スリ団って男ばっかりだったこと」
「そうなの?女の子はひとりもいなかったの?」
「まぁ、ひとりもいなかったわけじゃないけど……わたしはスリじゃない女の子が好きだから。スリのギラギラした目じゃなくて、天使みたいな目をした子がね」
ヘイザはすばやく顔を近付けて、軽くシーナの頬にキスをした。
シーナはうれしそうに微笑んだが、ふと気がついたように言った。
「ねぇ、ヘイザ。政府の魔物討伐の人、ドトル村には全然いないみたいじゃない?」
「そうね。リミトルで手一杯なんじゃない? リミトルは相当魔物が出てるのかもしれないわね……」
その時、ヘイザは前からひらひらと飛んでくる魔物に気付き、あわてる様子もなく言った。
「シーナ、来たわよ」
「ヒモスね」
「シーナが倒す?」
「うん、まかせて」
シーナはムチを持って前に進み出て行くと、ムチを振り上げた。
ムチは、魔物の鋭い牙を向いた顔に直撃し、シーナの一撃で地面に落ちた。
「お見事、シーナ」
ヘイザは後ろから声をかけ、シーナは振り向いて笑顔を見せた。
「シーナがすっかり強くなっちゃったから、わたしの出番がないわね」
ヘイザは冗談っぽく言って笑うと、少しずつ近付いて来たドトル村の入り口を見て、
「どんな魔物がいるかしら……」
と言って、台車に置かれたバッグから双眼鏡を取り出した。
ヘイザは立ち止まって、双眼鏡を覗き、
「あぁ、マーモがいるわ……」
とつぶやくように言った。
「マーモって? どんなの?」
「シーナも覗いてみる?」
ヘイザはシーナに双眼鏡を渡した。
シーナは、少し緊張して双眼鏡を覗いた。
田舎風の小さな家と家の間に、白い紐の塊に手足が生えたような魔物がうごめいているのが見えた。
紐と紐のつなぎめのような間から、大きな目がひとつ覗いていて、ぎょろぎょろと辺りを見回している。
大きさは人間くらいあるようだった。
「あんなに大きいの……」
小さな低級魔物としか闘ったことがないシーナは、双眼鏡から見える中級魔物の大きさに体がこわばった。
「怖い?」
ヘイザはやさしくシーナの肩を抱いた。
「怖いって言うか……あんな大きな魔物、わたしに倒せるのかな……」
シーナはこわばった顔で、じっと双眼鏡を見つめたまま言った。
ヘイザは落ち着いた様子で言った。
「大きくても、低級魔物を倒すのと同じよ。今のシーナのムチさばきなら、あの程度は倒せると思うわ」
「うん……」
いつになくシーナは自信が無さそうだった。
「怖かったら、無理しないで。わたしが闘うから、シーナは見てるだけでいいわ」
ヘイザは笑顔で言った。
「えっ、ヘイザ、あの魔物とひとりで闘うの?」
「えぇ。マーモとは何度も闘ったことあるから大丈夫よ」
ヘイザが笑顔で前に歩き出そうとするのを、シーナが止めた。
「待って、ヘイザ。わたしも闘えそうなら、後ろからムチを振ってみるわ……マーモってどんな攻撃をしてくるの?」
「人間を麻痺させるビーム攻撃よ。あの目をじっと見ないようにして、すばやく目を攻撃すれば大丈夫。動きが鈍いから、かわすのは楽よ」
「うん、わかった……」
ヘイザがナイフを片手に堂々とドトル村の入り口に向かって歩いていく後ろを、シーナは不安な気持ちでついて行った。
その時、ふと視界に白いものが映り、シーナは横を向いた。
草原の向こうから、一匹の魔物がゆらゆらとこっちに向かってくるのが見える。
「ヘイザ!」
シーナは声を上げ、ヘイザの腕をつかんだ。
「えっ?」
シーナの方を振り返ろうとしたヘイザも、横からやってくる魔物に気が付いた。
「あら、あんなところから……。シーナは無理しないで、離れて見てて」
ヘイザは方向を変え、横から近づいて来る魔物に向かって行った。
シーナは辺りを見回しながら、ヘイザについて少し歩いた。
魔物はヘイザに気付くと、目をぎょろぎょろと動かし、ビームを出そうとするように身構えた。
ヘイザはすばやく魔物の後ろに回った。
魔物はスローモーションのような動きで、ヘイザを見ようと振り返った。
その時。
ヘイザは飛び上がって、魔物の目にナイフを刺した。
魔物はあっけなく、崩れるように倒れた。
その時、ナイフが刺さった目から黒い煙のようなもやが出て、ナイフを伝わり、ヘイザを包んだ。
ヘイザは咳込んで、急いでナイフを抜き、魔物から離れた。
シーナはヘイザに駆け寄って、言った。
「今の、ビーム攻撃?なんか、もやみたいだったけど……」
ヘイザは顔をしかめて、
「目を刺された後にビーム攻撃できるはずないけど……」
と言って、また咳をした。
「大丈夫?咳が……」
「なんか、変なの吸っちゃったみたい。喉が痛いし……気分悪いわ」
シーナは台車を木陰に引っ張り、ドトル村にいる魔物から見えない場所に移動した。
ヘイザは台車の上に腰を下ろし、気分が悪そうな様子で、ボトルに入った水を飲んでいた。
「大丈夫?」
シーナは不安な気持ちで、ヘイザの隣に座った。
ヘイザはいつものようにやさしく微笑んで、
「大丈夫よ。マーモは中級魔物の中では下って言われてるたいしたことない魔物なの。さっきは目を刺した後だと思ったけど、きっと刺す直前にビームを出されてて、変な感じになったのかもしれないわね……」
と言ってシーナの髪をなで、また咳をした。
シーナは心配そうにヘイザを見つめた。
「少し休むわ。体が重いし……もしかしたら、さっきビームを受けたせいで体が麻痺しかけてるのかしら……」
「麻痺治しね? わたしが飲ませてあげる」
シーナはすばやく麻痺治したをウェストバッグから取り出し、ヘイザに飲ませた。
「ありがと、シーナ」
ヘイザは微笑んで、
「少し休めば、良くなるわ。疲れたみたい。ごめんね、ちょっとだけ休ませて……」
と言って、台車に横になった。
シーナは不安な気持ちで辺りを見渡し、魔物が来ていないことを常に確認しながら、ヘイザの回復を待った。

——30分ほど経過しただろうか。
辺りは少しずつ薄暗くなって来た。
ヘイザは台車の上で、眠りについている。
今日はドトルに入らず、ここでキャンプするのが安全だとシーナは考えた。
シーナはテントを引っ張り出し、戸惑いながら何とか組み立て、ヘイザを起こしに行った。
「ねぇ、ヘイザ、テントで寝て。今日はもう、ここで休んだ方がいいから……」
「ん……」
ヘイザはだるそうに顔を上げたが、そのまま倒れるようにシーナの腕にもたれかかってきた。
「ヘイザ……!」
シーナはヘイザを抱きとめ、あまりの熱さに声を上げた。
熱が出てる……
すごく高い熱……
シーナはやっとの思いで、ヘイザをテントに運び入れた。
ヘイザは目を閉じたまま、苦しそうに息をしている。
どうしよう……
シーナはバッグを開けて、薬類が入った袋を取り出した。
熱冷ましがあるわ。これを飲めば……
シーナは熱冷ましをヘイザの口に入れ、水で飲ませた。
「ヘイザ……」
ヘイザは変わらず目を閉じたまま、苦しそうに息をしている。
呼びかけても、シーナの声は聞こえていないようだった。
熱冷ましが、効くといいけど……
あ、そうだ……
シーナはスーツケースから、魔物討伐の心得の本を取り出した。
魔物図鑑のページを開く。
マーモ……
あの魔物が出した黒いもやみたいなビーム……
あれを受けて、ヘイザの体調がおかしくなったんだわ。
あの黒いビームの正体が何かわかれば……
シーナはマーモのページを開いた。

〝マーモ……中級魔物。
人体を麻痺させるビーム攻撃を放つ。弱点は目。
ビームを受けると、人体は麻痺状態になる。
治療薬・麻痺治し〟

麻痺だけ?
麻痺治しは、もう飲ませたけど……
ヘイザは熱が出てる……
症状は麻痺じゃないわ。
マーモのせいじゃないってこと……?
ううん、あの黒いもやみたいなビームに当たる前は、ヘイザは元気だった。
絶対、あのせいなのに……
ヘイザの今の状態が何なのかわからない……
どうしたらいいんだろう……
シーナは本を放り出し、ヘイザのそばへ行った。
ヘイザのひたいを触ると、さっきより熱が下がったようだった。
よかった……
シーナはほっとして、胸をなでおろした。
何か食べれば元気出るかな……
サンドイッチの材料しか持って来てないけど……何も食べないよりはいいよね。
シーナはテントの中でサンドイッチを作り始めた。

シーナは、ハムを多めに入れたサンドイッチとココアを用意した。
「ヘイザ……少しでも食べて……きゃっ!」
シーナはヘイザの体を起こそうとし、思わず声を上げた。
ヘイザの体は冷たかった。
シーナは唇を震わせながら、ヘイザの口元に耳を当てた。
息はしている……。
しかし、ヘイザが吐く息に、黒いもやのようなものが混じっていることに気付いた。
あの魔物の目から出た黒いもやみたい……
「ヘイザ……」
呼びかけながら、閉じられたまぶたや、動かない唇に触れた。
ヘイザの顔は血色が無く、真っ白で、ぴくりとも動かない。
まるで死んでいるようだった。
「目を開けて……ヘイザ……お願い……」
シーナの瞳には涙があふれてきた。
どうしよう……どうしたら……
シーナはどうしたらよいかわからず、パニックになっていた。
誰か……助けてくれる人がいれば……
シーナはテントを出て、ムチを片手に、辺りを見回した。
ドトル村の方向にあの魔物……マーモの影が見える……
シーナはマーモから見えないようにしながら、ドトル村ではなく、山道の方へ向かって、ふらふらと歩いた。
「——痛っ!」
低級魔物に腕を噛まれ、シーナは我に返った。
暗くて見えにくかったが、ぼんやりと見えたモモに向かってムチを振り回し、倒した。
息をついて前を見ると、人影のようなものが見えた。
もしかして、マーモ?
シーナはそっと木陰に身を隠し、恐怖に震えながら、前から来る影を見つめた。
影が少しずつ近付くにつれ、マーモではなく人間だと確信した。
その影は、ゆっくりとした足取りで、歩いて来る。
シーナは前に出て、ためらうことなく人影に近付いた。
「あの……すみません」
杖を持ち、ひげの長い老人はひどく驚いて、シーナを見た。
「おい、なんじゃ。年寄りを脅かさないでくれ。こんな場所で突然……」
「あ、ごめんなさい。あの……助けてください! お願いします!」
シーナはあふれる涙をぬぐうのも忘れて、声を上げていた。
「落ち着きなさい。何を助けてほしいんじゃ」
老人はこぼれるシーナの涙に驚いた様子で言った。
「わたしの……わたしの大事な人が……見に来てください、お願いします」
シーナは泣きながら、テントへと向かった。
老人はシーナの後をついて歩いた。
途中、低級魔物が寄ってきたのを見ると、シーナに近付く前に、老人は杖から光を放って倒した。
テントに着くと、シーナはヘイザに駆け寄り、頬に触れた。
やっぱり冷たいまま……
口元からは、さっきより濃く黒いもやが出ていた。
しかし、黒いもやのことより、ヘイザが息をしていることにシーナはほっとした。
シーナがテントの入り口を見ると、老人は動揺した様子もなく、じっとヘイザを見下ろしていた。
シーナが口を開くより早く、老人は冷たく言った。
「悪いが、この女性はもう無理じゃ」
「えっ……」
シーナは目の前が真っ暗になるような感覚を覚えた。
「死の呪いじゃ。マーモと闘ったんじゃろう?」
「死の呪い?」
シーナの様子を見て、老人は驚くような顔をした。
「そうじゃ……昨日のニュースを見ておらんのか」
「あ、はい……テレビの電池が無くて……。呪いって、何なんですか?」
「リミトルの自爆テロで発生したマーモが、弱点の目をやられると、倒れる間際に死の呪いをかけることがわかったんじゃ。リミトルで魔物討伐をしていた多くの者も被害に合っている。自爆テロで発生したマーモは、普通のマーモとは違うらしい。普通のマーモは、呪いをかけることなどできんからな」
「呪いにかかると……もう……助からないんですか?」
老人を見上げたシーナの目から、涙がこぼれた。
老人は冷静に答えた。
「僧侶が使う魔法なら助けられる。わしも助けてやりたい気持ちはあるが、この女性は時間が経ちすぎている。すまないが……」
「すまないって……おじいさんは……?」
「僧侶じゃ」
シーナの目は希望に輝いた。
しかし、老人はシーナから目をそらした。
「わしはこれからリミトルに住む娘と孫を助けに行くところなんじゃ。僧侶の魔法はひどく体力を削る。こんな死にかけた者を助けるのは特にな。——見ての通り、わしは老いぼれじゃ。その女性を助けて体力を削ってしまったら、娘と孫を助けられなくなる」
シーナは地獄に突き落されるような気分だった。
老人は言った。
「おまえさんにとっては、その女性が大事かもしれんが……わしにとっては、娘と孫が何より大事なんじゃよ。すまないが……」
シーナはヘイザを見つめたまま、呆然としていた。
瞳からは止まることなく涙があふれ、頬を伝い、ぽたぽたとこぼれ落ちていた。
老人は、テントを出ようとしたが、振り返って言った。
「余計なことかもしれんが……おまえさんはまだ若い。その女性のことはあきらめて、明日の朝すぐにセトルに戻った方がいい。ここにいたら、またリミトルから得体の知れない魔物が流れてくるかもしれんからな。おまえさんまで死んでしまうぞ」
シーナは答えなかった。
冷たくなったヘイザの手を握り、じっとヘイザを見つめたまま、肩を震わせていた。
老人は立ち去るのをためらうように、テントの前で動きを止めた。
しばしの沈黙の後、老人は口を開いた。
「……このまま立ち去るのは、さすがに後味が悪いな」
シーナは涙に濡れた目で、老人を見た。
「期待はしないでくれ」
老人はシーナのそばにゆっくりと歩み寄ると、ヘイザを見下ろして言った。
「この女性を完全に生き返らせることはできんが、命が尽きる前に、少しの間だけ、意識を取り戻す魔法でよければかけて行ってやろう」
シーナはあまりの残酷さに、めまいがした。
老人は言った。
「さぁ、どうするんじゃ? 魔法をかけるか? いらなければ、このまま去るが」
シーナは老人を見ずに、震える声で言った。
「……お願い……します」
老人はヘイザのそばに座ると、ヘイザの白い顔の上にしわだらけの手をかざし、ぶつぶつと呪文を唱え始めた。
老人の周りをぐるぐると回るように空気が渦を巻く。
空気はゆっくりとヘイザの体を覆い、しばらくとどまった後、すっと消えた。
老人ははぁはぁと息をし、
「これで10分後には、女性は一時的に意識を取り戻すじゃろう」
と苦しそうに言った。
シーナは立ち上がって、老人を見た。
「どうも……ありがとうございました……」
「その女性と最後の話をしたら、おまえさんはセトルに戻るんじゃよ」
シーナはその言葉には答えなかった。
老人は疲れたような足取りで、テントを出ると、ドトル村の方へ歩いて行った。

シーナは絶望に打ちひしがれていた。
ヘイザが……
どうしてこんなことに……
冷たくなったヘイザの手を握りながら、涙が止まらなかった。
その時。
握っていたヘイザの手がかすかに動いた。
ヘイザ……
シーナは涙をぬぐってヘイザの顔を見た。
かたく閉じられていたヘイザのまぶたが細かく震えている。
そして、ゆっくりとまぶたが開き、見慣れた青い目が現れた。
ヘイザの青い目はゆっくりと宙を泳ぎ、シーナをとらえた。
「シーナ……」
ヘイザはシーナを見て、やさしく微笑んだ。
「ヘイザ……」
シーナは言葉が見つからず、ただヘイザの手を握りしめ、愛しいヘイザの顔を見つめていた。
「どうしたの……?」
ヘイザは心配そうにシーナの顔を見た。
「えっ……」
ヘイザは弱々しく冷たい手を伸ばして、シーナの頬に触れた。
「こんなに泣いて……どうしたの?」
シーナは何も答えられず、ますます涙があふれ出した。
「シーナ? ……何かあったの?」
シーナは歯を食いしばった。
……このまま泣いてちゃだめ。
ヘイザが、わたしのことを心配したまま……最期の時を迎えてしまう。
シーナは両手で涙をぬぐい、歯を食いしばって笑顔を作った。
「ヘイザ……ヘイザと一緒にいられて、とってもしあわせだから……わたし、泣いちゃったの……」
ヘイザはその言葉を聞くと、うれしそうに微笑んで、
「……そんなことで泣くなんて……変なシーナね……わたしたち、ずっと一緒でしょ? ……」
と言って、腕を伸ばし、
「なんだか体が変だわ……だるくて起きられない……シーナを、抱きしめたいのに……」
と困惑した表情になった。
シーナは自分から寝転んで、ヘイザの腕の中に身を寄せた。
ヘイザは腕を回してゆっくりとシーナを抱きしめる。
シーナはヘイザの腕の中で、また涙が出てきて止まらなくなっていた。
ヘイザは、冷たい手で、シーナの髪をゆっくりとなでながら、途切れ途切れに話した。
「ごめんね……今日はすごく疲れたみたい。明日はドトル村に行って……リミトルに……シーナは……何も心配しなくていいのよ……わたしが守ってあげるから……」
シーナはヘイザの腕の中で、体中の力を込めて歯を食いしばり、声を上げないようにしていた。
歯を食いしばっていなかったら、大声で泣いてしまいそうだった。
「ねぇ……シーナ……なんだか……急に……眠くなってきちゃったわ……」
ヘイザの声が次第に弱々しくなって行く。
シーナは顔を上げて、ヘイザを見た。
ヘイザの目が再び閉じられようとしている。
「ヘイザ!」
シーナは思わず叫んで、ヘイザの頬に触れた。
ヘイザは閉じかけていた目を、弱々しく開けた。
……もう、時間がないわ……
ヘイザに言いたいこと……
ちゃんと言わなきゃ。
「ヘイザ……愛してるわ……。出会った日から、ずっと……いつも……わたしの一番大切な人……」
ヘイザはやさしく微笑んで、少しずつまぶたが落ちて行く中、途切れ途切れに言葉を発した。
「わたしも……愛してるわ……シーナは……わたしの……大切な……女の子……これからも、ずっと一緒……」
ヘイザのまぶたは完全に閉じられ、再び動かなくなった。
シーナに回していた腕も、力を失った。
ヘイザの口からは、さっきよりも濃くなった黒いもやが出ていた。
シーナはヘイザが動かなくなっても、しばらくの間、体を起こすことができなかった。
「これからも、ずっと一緒……これからも……」
シーナは涙を流しながら、ヘイザの最後の言葉を何度も復唱していた。

数分後。
シーナは落ち着いた目をして、ゆっくりと体を起こした。
冷たく動かないヘイザの顔を見つめ、黒いもやが出ている唇に、ためらうことなくキスをした。
シーナはムチを持ち、ふらつきながらテントを出た。
テントの外に出ると、ぼんやりと立って、しばらく辺りを見回していた。
やがて暗い夜の闇の中で、ゆらゆらと動く白い魔物の影を見つけると、まっすぐに歩き出した。
ちょうどヘイザが最後にマーモと闘った場所と同じだった。
シーナは恐れるそぶりも見せず、マーモに向かって走り出した。
シーナはマーモの目だけを狙い、渾身の力を込めて、思い切りムチを振った。
ムチはこれまでにないほどの強さと勢いで、マーモの目に直撃した。
マーモは避ける間もなく倒れ、目から黒いもやが出始めた。
もやは、ムチを伝ってシーナに向かって行く。
シーナは逃げることもなく、じっとその場に立っていた。
黒いもやは、じわじわとムチを伝わり、やがてゆっくりとシーナの体を包んだ。

- -

第8章

双子の兄弟

ドトル村手前の草原は、人気も無く、夜の闇に包まれていた。
時おり、低級魔物が飛び交っているのが見えるが、音も無く、現れては闇に消える。
ドトル村では、白い魔物がゆっくりとうごめいている。
そんな闇の中、セトルから続く山道にふたつの人影が現れた。
背格好のよく似た、褐色の肌をしたふたりの少年だった。
慣れた様子で、ひとりは杖から光を放ち、もうひとりは棍棒を振り回して、暗闇の中を飛び交う魔物を倒しながら歩いて来る。
「あー、腹減ったぁー」
棍棒を持った坊主頭の少年が、暗い空を見上げて嘆くように声を発した。
「兄さん、もう言わないでください。言えば言うほど、余計にお腹が空くだけです」
魔物に向けて杖から光を放ちながら、きれいに整えられたモヒカン頭の少年が言った。
「だって、言わずにいられないだろ! 腹が減ってちゃ、人助けなんかできないんだよ。トトに食い物頼んだオレがバカだったぁー」
坊主頭の少年は、大げさに声を上げた。
「兄さんのせいでしょう? 日数の計算もせずに、食べたいだけ食べてしまうんですから」
「オレはさ、食べなきゃやってけないんだよ! トトと違って、魔法の杖をひらひら振ってりゃいいわけじゃないんだから。あんなちょびっとの食い物で足りるわけ無いだろ? 僧侶の魔法っていうのは体力勝負なんだからな!」
「魔法の杖をバカにしないでください。魔法の杖を使えるようになるために、ぼくがどれだけ日夜勉学に励んだかわかりますか? 何百もの呪文を覚え、たくさんの本を読み、知力を上げるために……」
「おい、トト。あれ見ろよ」
坊主頭の少年は、モヒカン頭の少年の話をさえぎって、木陰を指差した。
ぼんやりと明りが見えている。
明りは、チャックが開いたままのテントから漏れていた。
「こんなところでキャンプしてる人がいるんですね。ぼくらと同じような志の人かもしれません」
モヒカン頭の少年が言った。
「なぁ、あのテントに行って、食い物くれるように頼んでみようぜ!」
坊主頭の少年が行こうとするのを、モヒカン頭の少年は止めた。
「やめましょうよ。どんな人がいるのかわかりませんよ。それより早くリミトルに行って、現地の信用できる魔物討伐の人に食べ物をいただく方が賢明です」
「こっからリミトルまで、何日かかるんだよ?」
「2日ほどです」
「飢え死にしちまうよ!」
坊主頭の少年は、モヒカン頭の少年の腕を振り切って、すたすたと明りの点いたテントへ向かっていく。
モヒカン頭の少年は、あわてて坊主頭の少年の後について行った。
「こんばんはー。旅の者ですが、何か食べ物分けてくれませんかー?」
坊主頭の少年はテントから少し離れた場所に立ち、明るく大きな声を張り上げた。
中からは、何の返事も無い。
「ほら、兄さん……答えがないのは、だめってことですよ。行きましょう」
モヒカン頭の少年は、坊主頭の少年の腕を引っ張った。
「いやだ! せっかく食い物にありつけるチャンスだぞ! 聞こえなかったんじゃないか? テントの前まで行って、もう一回言ってみるよ」
「そんなこと、迷惑ですよ。やめましょう」
「飢え死にするよりマシだろ? オレは行くぜ」
「もう、兄さん! ……」
坊主頭の少年がぐんぐんテントに近付いて行くのを、モヒカン頭の少年が追った。
チャックが開いたままのテントの前に立ったふたりの少年は、一瞬、言葉を失った。

- -

テントの中には、女性がふたり、横たわっていた。
しかし、ただ寝ているのではないことはすぐにわかった。
金髪の女性は、顔全体が不気味な真っ黒いもやで覆い尽くされ、どんな顔をしているのかもまったく見えない。体はまったく動かず、人形が横たわっているようだ。
その女性に寄り添うように横たわっている黒髪の女性は、目を閉じて、苦しそうに息をしている。熱にうかされているようだった。
坊主頭の少年は深刻な表情になって、目の前に横たわるふたりの女性を見下ろしたまま、言った。
「……そっちの人はもう無理かもしれないけど……こっちの黒髪の人はまだ助けられそうだ。まだ黒い息をしてないし、それになんか……」
モヒカン頭の少年の方を見ると、坊主頭の少年は真剣な顔で言った。
「この人、母ちゃんに似てないか?」
モヒカン頭の少年はあきれたような顔をして、言った。
「また始まりましたね……全然似てませんよ。髪が黒くて長いだけでしょう? 女性を見ればすぐそんなことばかり言って……。ぼくらのお母様は、美しいチョコレート色の肌です。髪だって、きれいなウェーブがかかっていて……」
「まぁ、細かいことはいいじゃん。オレ、この母ちゃんみたいな人を助けるよ」
坊主頭の少年は、黒髪の女性の横にひざまづき、仰向けにしようとした。
しかし、女性の腕は硬く隣の女性の腕に絡み付き、横向きのまま動かなかった。
「おい、トト。手伝ってくれよ」
ふたりの少年はひざまづき、黒髪の女性の腕を、隣の女性の腕から外そうとした。
「……ヘイザ……」
黒髪の女性が小さく声を発した。
ふたりの少年は、驚いて黒髪の女性の顔を見た。
熱にうかされるように、女性は目を閉じたまま苦しそうに息をしながら、再び、同じ言葉を発した。同時に、瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「お、おい、泣いてるぞ……それに、なんだ? ヘイザって……?」
坊主頭の少年は、戸惑ったように言った。
「こちらの、金髪の女性の名ではないですか? こんなに腕をかたく絡めていますし……この女性にとって、大切な人だったんでしょう」
「この人の、姉さんかな?」
「髪の色が全然違うので、血がつながっていない姉妹か、もしくは恋人かもしれません」
「恋人? 女同士だろ?」
「恋人は、男性と女性だけの関係ではないのですよ。この世界には、女性同士、男性同士の恋人も存在するんです。ドラマでも見たことがあります」
「ふぅん……そうなのか……」
坊主頭の少年は、改めて黒髪の女性の顔を見た。
一筋の涙の跡が、頬に残っている。
苦しそうに息をしている表情は、悲しみにあえいでいるようにも見えた。
坊主頭の少年は、かたく組まれた女性の腕を、金髪の女性から引き離すのをためらった。
「兄さん。黒髪の女性を助けたいのなら、こちらの金髪の女性も助けた方がいいと思います」
さらりと言ったモヒカン頭の少年に、坊主頭の少年はあわてたように言った。
「お、おい、簡単に言うなって……」
「なぜなら、黒髪の女性は、自分だけ助かっても、こちらの金髪の女性が死んでしまっていては、きっととても悲しむでしょう。無意識の状態で、これほどまで強く腕を組んで離さないというのは、よほどの強い気持ちがあるからですよ」
「そうかもしれないけどさ……ただでさえ、オレは腹が減ってて体力無いっていうのに……」
「食べ物なら、そこにあるのをいただいたらどうですか?」
モヒカン頭の少年は、トレイに乗ったまま床に置かれているサンドイッチと飲み物を指して言った。
「うわ! うまそう! このふたり助けたら、めちゃくちゃ感謝して、うまいもん腹いっぱい食わしてくれるかな?」
坊主頭の少年は、途端に明るい顔になって言った。
「その可能性はありますね」
「よーし!」
坊主頭の少年は、サンドイッチを一切れ、ぺろりと食べると、紙のコップに入った飲み物を飲み、
「うまい! これ、ココアだ!」
とうれしそうに声を上げた。そして、
「トト、残りはおまえにやる」
と、残りのサンドイッチとココアを、モヒカン頭の少年に渡すと、ふたりの女性のそばへ行った。
「金髪の人を先に助けないと、手遅れになっちまいそうだからな」
坊主頭の少年は独り言のようにつぶやいて、
「こっちの人もちゃんと助けるからさ、もう泣かないでくれよ」
と、苦しそうに息をしている黒髪の女性に声をかけた。
坊主頭の少年は、金髪女性の横にひざまづいて、真っ黒いもやで覆われた顔に両手をかざし、
「よーし、やるぞ!」
と気合を入れるように言うと、少し緊張した顔つきになった。
そして、目を閉じ、呪文を唱え始めた。
しばらくすると、坊主頭の少年の周りで、空気がぐるぐると渦を巻き始めた。
モヒカン頭の少年は、立ったまま、じっとその様子を見ている。
20分ほど呪文を唱え続け、坊主頭の少年のひたいから、汗がふきだし始めた。
空気の渦は徐々に厚みを増し、ごうごうと音を立て始めた。
そして少年の体から、空気の渦が少しずつ、ゆっくりと金髪女性の方に移動して行く。
空気の渦が、女性の顔を覆う真っ黒いもやに触れ、金色の髪がぱらぱらと動いた。
呪文を唱える少年の声に力が入り、女性にかざした手が震えている。
空気の渦はさらに厚みを増し、ゆっくりと女性に移動した。
女性の周りで空気の渦が音を立てている。
少年は振り絞るような声で呪文を唱え終えると、歯を食いしばって、女性の顔に手をかざし続けた。
空気の渦に、女性の顔を覆っていた黒いもやが混ざり、空気はさらに厚みを増した。そして、大きな音を立てながら、女性の体を覆いつくし、一瞬で消えた。
「はぁはぁ……思った以上にしんどかったぁ……」
坊主頭の少年は、その場にぐったりと座り込み、肩で息をした。
「お疲れさまでした。終わったのですね?」
モヒカン頭の少年は、金髪の女性の顔を覗き込んだ。
女性の顔からは黒いもやが消え、細面の白い顔があらわになっていた。
しかし女性のまぶたはかたく閉じられたまま、動く様子は無い。
坊主頭の少年は、肩で息をしながら言った。
「呪いは解いた……だけど、その人は、かなり呪いにやられてたから……体がめちゃくちゃ弱ってる。今は、眠ってるような状態だから……」
「目を覚ますまで、このままそっとしておくのが良いですね」
「うん……」
「兄さん、これ、どうぞ。ぼくは、大丈夫ですから」
モヒカン頭の少年は、トレイに入ったサンドイッチとココアの残りを差し出した。
坊主頭の少年は、少し笑って、
「サンキュ」
と言うと、ココアを飲み干し、だるそうに立ち上がり、
「サンドイッチは、この人の呪いを解いてからにするよ」
と言って、黒髪の女性のそばにひざまづいた。
金髪の女性に絡めたままの腕を解こうとはせず、横向きになったひたいに合わせて、坊主頭の少年は自分の手を斜めにかざした。
「そんな向きで、できるんですか?」
モヒカン頭の少年は、心配そうな表情でたずねた。
「たぶんな。この人は、まだ黒い息もしてないし、熱が出てるだけだから……それほど強い力も必要ないだろうからな……これでやってみるよ。だって、また〝ヘイザー〟って言って、泣かれたらいやだろ?」
坊主頭の少年は疲れた顔で笑い、目を閉じ、呪文を唱え始めた。
モヒカン頭の少年は、心配そうに見つめている。
黒髪の女性にかざした少年の腕の周りで、空気が渦を巻き始めた。
先ほどと比べると小さな空気の渦が、少しずつ、少年の腕を下りていく。
空気の渦が少年の手のひらまで移動すると、女性の長い黒髪がふわりと宙に舞った。
少年は呪文を唱える声に力を入れ、手のひらを震わせた。
空気の渦は少年の手を離れ、女性の顔に移った。
小さい空気の渦が、女性の顔を覆った。
少年の呪文が終わると、ほぼ同時に女性を覆っていた空気の渦も消えた。
「よし、これでふたりとも助けたぞ!」
坊主頭の少年は、ひたいの汗を手でぬぐいながら、その場で仰向けに寝転んだ。はぁはぁと息をしながらも、満足そうな顔でモヒカン頭の少年を見て、言った。
「リミトルに着く前に、かなり体力削っちまったけど……オレ、いいことしたよな?」
「もちろんです。むしろ、このふたりはぼくたちがいなければ助からなかったでしょう。現在リミトルにはたくさんの僧侶が集められていますから……ここで、このふたりを助けたことは正しい選択だったと思います」
モヒカン頭の少年はそう言って微笑み、坊主頭の少年は寝転んだまま満足そうに笑顔を見せた。

シーナは、真っ暗闇の中にいた。
右も左も、前も後ろも真っ暗闇。
地面の感触も無く、自分が歩いているのかどうかさえ、よくわからない。
わたし、死んだのよね……
ヘイザと同じように、黒いもやを吸ったんだから……
ヘイザはどこ?
ヘイザと一緒にいたかったから、死んだのに……
まさか……
ヘイザにも会えずに、このまま永遠に暗闇をさまようなんてこと……
そんなことになったら、どうしよう……
シーナの心が不安に覆われ始めた。
その時だった。
真っ暗闇の中、遠くでぽつんと小さな丸い光が現れたのに気がついた。
光が……
シーナは光の方へ向かった。
光の方も、少しずつ大きな丸になりながら、ぐんぐんとシーナの方へ向かって来る。
恐怖はいっさい感じなかった。
シーナは吸い寄せられるように、光に向かって行った。
光がシーナの背丈ほどの大きさになり、目の前まで来た時、シーナは迷うことなく身をゆだね、目を閉じた。

あれ……
何か聞こえる……
気がつくと、シーナの耳に、誰かの話し声が聞こえていた。
「——世の中って不公平だよな。生まれた時からずっと母ちゃんがいるやつらって、別に感謝もしないで、当たり前みたいに暮らしてるだろ?」
「すべての人がそうではありませんが……そういう人もいますね」
「オレに母ちゃんがいたら、毎日感謝するし、手伝いもいっぱいして楽させて、めちゃくちゃいい息子になるのにさー」
「ぼくたちのお母様は、天国にちゃんといますよ。ぼくはいつも、心の中で祈り、感謝しています……」
……子供の声みたい。
お母さんがいない子たちなのね……かわいそうに……
シーナはまぶたに感覚が戻るのを感じ、ゆっくりと目を開けた。
ぼんやりと薄い金色の光が目に入って来た。
きれいな光……
なんだか……
ヘイザの髪の色みたい……
……ヘイザ……
どこにいるの? ……
少しずつ、ゆっくりとぼやけていた目の焦点が合い始めた。
金色の光は収縮され、金色の髪のまとまりになった。
やっぱり髪の毛だわ……
だれかの金髪……
金髪の上に視線を上げると、人の横顔が見えた。
…………
この横顔……
ヘイザみたい……
…………
……えっ?
この横顔は……
!!
「ヘイザ!」
シーナは突然飛び起きた。
そこにあるヘイザの顔からは、黒いもやは消えていた。
唇と頬はうっすらと赤みを帯びている。
ヘイザが…………
生きてる!!
「ヘイザ! ……ヘイザ!」
シーナは、ヘイザの肩を揺さぶった。
「あっ、ちょっと!」
後ろから声が聞こえ、シーナは驚いて振り向いた。
10歳くらいの、褐色の肌のふたりの子供が、戸惑った様子でシーナを見ていた。
「無理に起こさない方がいいよ……その人、まだ体力が完全に回復してないからさ」
ひとなつっこい目をした坊主頭の少年が、シーナのそばに来て、はにかんだような笑みを浮かべて言った。
その少年の隣には、モヒカン頭の目のきりっとした少年が、大人びた笑みを浮かべている。
目元から受ける印象は違うものの、ふたりの子供はとてもよく似た顔つきをしていた。
「あ、あの……えっと……あなたたちは……?」
シーナは混乱しながら、ふたりの顔を交互に見て、たずねた。
「オレはソウト。ソウって呼んでくれよ」
ソウと名乗った少年は、子供らしい笑顔で明るく言った。
「ぼくは、トトと言います」
モヒカン頭の少年は、大人びた口調で礼儀正しく言った。
「トトは、オレの双子の弟なんだ」
ソウは明るい笑顔でシーナに笑いかけた。
「ソウくんに……トトくん……」
シーナは戸惑った様子で、ふたりの少年の名前を復唱した。
そして、ゆっくりとテントを見回し、小さな声でつぶやくように言った。
「ここ……テントね……。私、生きてるのね……」
「うん。オレたち、食い物を分けてもらおうと思って、このテントに来たんだけどさ。来てよかったよ。オレが助けなかったら、きっとふたりとも死んで……」
「ヘイザは? ヘイザは、助かるの?」
シーナはソウの言葉をさえぎって、興奮したように大きな声を上げた。
「うん、大丈夫。その人の呪いも解いたよ。オレが助けたんだ。めちゃくちゃしんどかったけど……」
ソウが言い終わらないうちに、シーナはソウを抱きしめていた。
ソウは驚いたような、そして少しうれしそうな表情をして、シーナの腕の中でじっとしていた。
やがてシーナは腕を緩め、涙でうるんだ目で、ソウをじっと見つめながら言った。
「ありがとう……あなたが、ヘイザを……助けてくれたの?……」
ソウはシーナの涙を見て、あわてたように言った。
「う、うん、そうだよ。その人もちゃんと目を覚ますからさ。だから、もう泣かなくていいんだ」
「ありがとう……本当にありがとう……よかった……」
シーナの瞳から涙があふれ出し、ソウは困ったように頭をかいて、トトを見た。
トトは落ち着いた様子で、ソウと目を合わせてうなずいた。
「ヘイザは……どのくらいで目を覚ますの?」
シーナは手で涙をぬぐいながら、ヘイザの方を見た。
「2、3時間はかかるかな」
ソウが答えた。
「あと2、3時間で……ヘイザが目を覚ますのね……」
ヘイザの顔はますます生気を帯び、胸は規則的に上下している。
シーナはそっとヘイザのそばに寄り、やさしい表情で、生気を取り戻した愛しい顔を見つめていた。
「でも、あと1時間くらい休んだら、その人の体力が完全に回復する魔法をかけるよ。オレも体力を回復しないと、回復魔法を使うのがしんどいからさ」
その言葉に、シーナは感動したような目をして、ソウの方を向いた。
「呪いを解くのは……とても大変なのよね……。本当にありがとう。どうやってお礼をしたらいいのか……お金だったら、ある程度は……」
「金なんかいいよ! それより、頼みたいことがあるんだ」
ソウはにこにこして、言った。
「何? 何でも言って」
シーナはやさしく微笑んだ。
「そこに置いてあったココア、また作ってくんないかな」
「えっ、ココア?」
シーナは空になったカップと皿を見たが、すぐには記憶を取り戻せず、考え込むような顔をした。
「すみません。兄さんはお腹が空いていて……、そこに置いてあったサンドイッチとココアを無断でいただいてしまいました」
トトがあわてたようにシーナのそばに寄り、申し訳なさそうに言った。
「おい、あんな状態だったんだから……無断で食べるしかできないだろ?」
不満そうに言ったソウを、トトは黙ってにらんだ。
シーナは少しずつ記憶を取り戻していた。
……あの時、ヘイザが、熱を出して……テントに運んで、熱冷ましを飲ませて……
一瞬、熱が下がったと思って安心して……何か食べてほしくて、サンドイッチとココアを用意したんだっけ……
それで、戻ってきたら、ヘイザが冷たくなってて……
そこまで思い出したシーナは、生気を取り戻したヘイザを見て、改めてほっとし、心配そうに見つめているソウとトトに笑いかけた。
「もちろん、食べてくれてよかったわ。あのココアなら何杯でもいれるし、サンドイッチでよかったら、また作ってあげる。ビスケットとチョコレートもあるけど、食べる?」
シーナの言葉を聞いて、ソウはうれしそうに笑って、トトを見た。
トトは一瞬こらえるように口をきゅっと結んだが、こらえきれず笑みがこぼれ、ふたりは顔を見合わせて、子供らしい笑顔になった。
シーナはふたりに親しみを感じながら、立ち上がり、食料の入ったバッグの方へと足を向けた。

「なぁ、あんたの名前はなんていうんだ?」
ソウは床にあぐらをかいて、できたてのアイスココアを一口飲むと、シーナにたずねた。
トトはソウの隣で行儀よく座り、サンドイッチを食べている。
「わたしは……」
シーナは一瞬間を置いたが、すぐに表情を緩め、
「シーナよ」
と言った。
「ふぅん、シーナかぁ」
ソウはにやっと笑って、アイスココアを勢いよく飲んだ。
「シーナさん、このサンドイッチはとてもおいしいです。ありがとうございます」
トトはうやうやしく礼を言った。
シーナは、大人の真似をしているように話すトトの口調に、逆に子供っぽさを感じ、思わず微笑んだ。
「どういたしまして。でも、お礼を言うのはわたしの方だから……」
シーナはそう言って、横たわっているヘイザの方へ目をやった。
あれ……
ヘイザのまぶたが、細かく震えているように見える。
「ヘイザ……?」
シーナはヘイザのそばに寄った。
間近で見ると、やはりヘイザのまぶたが震えていた。
シーナはそっとヘイザの手を握った。
すると、ヘイザの手にぴくりと反応があった。
シーナは期待に胸を膨らませて、ヘイザの顔を見た。
さっきよりまぶたの震えが大きくなっている。
と思った途端、震えは突然止み、ゆっくりとまぶたが開かれた。
見覚えのある青い目が現れ、その目はまっすぐにシーナを見つめた。
「シーナ……」
唇が動き、そこにはかつてのヘイザのやさしい微笑みがあった。
シーナは感動と喜びで胸がいっぱいになり、目頭が熱くなった。
言葉に詰まり、ただぎゅっとヘイザの手を握りしめた。
「……どうしたの、シーナ?」
ヘイザは不思議そうにシーナの様子を見て、ゆっくりと空いている方の手を動かし、自分の手を握っているシーナの手を包んだ。
シーナは、自分の手の上に置かれたヘイザの手の温かいぬくもりに、心から安堵し、口を開いた。
「よかった……ヘイザと……また、一緒にいられる……」
シーナの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「ずっと一緒にいるでしょ? ……どうして泣くの?」
ヘイザは戸惑った様子で、シーナを心配そうに見つめた……と同時に、シーナの後ろで見知らぬふたりの少年が自分を見ていることに気付いた。
「——ちょ、ちょっと、あんたたち一体…………うっ……」
ヘイザはひどく驚いた様子で体を起こしかけたが、その瞬間、短いうめき声をあげ、背中を丸めるような格好で床に倒れこんだ。
「ヘイザ!」
シーナは驚いて叫んだ。
「ダメだよ、無理して動いちゃ。オレももうちょい休みたかったけど、目を覚ましちまったんなら、しょうがないや。ココア飲んで元気出たし、回復の魔法をかけてやるよ」
ソウは明るく言って、ヘイザに笑いかけた。
トトは心配そうな表情で、ヘイザの反応をうかがうようにそばに寄った。
「何なの? あんた一体どこから……」
ヘイザは顔を上げ、にらむような目でソウを見て言った。
「ヘイザ、いいの。この子は僧侶で、わたしたちの命の恩人なんだから」
シーナはヘイザの言葉をさえぎって、落ち着いた口調で言った。
ヘイザはますます険しい表情になり、
「命の恩人? ……どういうこと? 命を助けられた覚えなんか……」
と言って、痛みに耐えるように顔をしかめた。
「大丈夫、ヘイザ?」
シーナはヘイザを気遣い、そっと体をさすった。
「あんまりしゃべんない方がいいよ。今、痛みを取ってやるからさ」
ソウがヘイザの前に座ると、ヘイザはソウを疑うように見て何か言いかけたが、シーナに強く手を握られ、言葉をのみ込んだ。
「ヘイザ。大丈夫だから。そのまま魔法を受けて」
シーナは、ヘイザの顔をやさしく見つめて言った。
ヘイザが困惑した表情で前を向くと、ソウは呪文を唱え始めていた。

ソウの回復魔法によって、ヘイザの体力は回復し、体の痛みも消えた。
ヘイザは完全に体力を回復したことで、冷静さを取り戻していた。
マーモを倒した時に黒いもやを吸い、死の呪いをかけられたヘイザは、その後に台車で休んだことまでは覚えていたが、その後は意識を失ってしまったらしい。自分の身に何が起こっていたのか、まったくわかっていなかった。
シーナはこれまでのことを、時間をかけてヘイザに話した。
——ヘイザが熱を出し、その後冷たくなっていたこと……シーナが通りすがりの僧侶の老人に助けを求め、死の呪いのことを知ったが、老人はヘイザを助けてはくれず、一瞬だけ意識を取り戻す魔法をかけて去ってしまったこと……老人の魔法で、ほんのひとときヘイザと話をしたこと……そして、ヘイザはもう助からないと思い、自らマーモの黒いもやを吸うべく闘いに行ったこと……
「それって……自分から死にに行ったってことか?」
ソウは床に寝転んで休んでいたが、驚いた顔で声をあげ、体を起こした。
「うん……わたし……ヘイザとずっと一緒にいたかったから……」
シーナは、その時のことを思い出しているかのように、遠い目をして小さな声で言った。
ヘイザは痛みを噛みしめるような表情で、無言のまま、自分の体に押し付けるように、シーナの肩を抱いた。そして、伏し目がちにソウとトトを見て言った。
「あんたたちがいなかったら、わたしもシーナも死んでたのね……おかげで、助かったわ」
「どういたしまして。ぼくたちも、シーナさんにおいしい食事をいただいて助かりました」
トトが礼儀正しく言った。
「おい、シーナ、もう死のうなんて考えるなよ」
ソウは心配そうにシーナを見て、言った。
シーナはヘイザの肩にもたれ、安らいだ表情でうなずいた。
「うん。ソウくんとトトくんが来てくれて……ヘイザを助けてくれたから……もう大丈夫」
ヘイザはやわらかい表情になり、
「シーナが二度と死のうと考えたりしないように、わたしがしっかりしないとね」
と言って、シーナに笑いかけた。
シーナはヘイザを見上げ、しあわせそうに微笑んだ。
トトは、見つめ合うシーナとヘイザを見て、はっとしたように、自分とソウのリュックサックを手に取った。
ソウはトトの行動を気にする様子も無く、ぱっと明るい笑顔になって言った。
「なぁ! 明日はリミトルに行くんだろ? オレたちもリミトルに行くからさ、一緒に行ってやるよ」
「兄さん、そんなこと言っては迷惑ですよ……」
トトがあわてたようにソウに近寄り、小声で言った。
「なんで迷惑なんだ?」
「だって、おふたりは……」
言い合いを始めそうなソウとトトに、ヘイザがたずねた。
「あんたたち、どうしてリミトルに行くの?」
「もちろん、人助けさ」
ソウが言った。
「正しくは、人助けと、修行のためです。兄は僧侶の修行中、ぼくは魔術師見習いですから」
トトが付け加えた。
「トトくんは、魔術師なのね……」
シーナは〝魔術師〟という言葉にわずかに動揺して、つぶやくように言った。
「トトはめちゃくちゃ優秀なんだぜ! 魔法学校でも成績は1番で、他のやつらより早く卒業しちまったんだ」
ソウが得意げに言った。
「1番? トトくんって、すごいのね」
シーナが感心してそう言うと、トトは照れたような顔をして言った。
「いえ、それほどでも……」
「ねぇ、そんな優秀な魔術師が、どうしてこんな山道を来たの? あんたたちがこの道を来てくれて助かったけど……でも、リミトルに行くんなら、公道を通るのが普通でしょ?」
ヘイザの問いかけに、ソウとトトは顔を見合わせ、ソウが決まり悪そうな顔をして口を開いた。
「それには理由があってさ……。トトはちゃんと師匠さんに休みをもらって来てるけど、オレは……修行先の寺を無断で抜け出して来たから、見つかるとマズいんだ。公道に行くと目立つだろ? 連絡されてるかもしれないしさ。だから人目につかない道を来たんだよ」
「兄さんは、お寺を抜け出すのは初めてではなくて……」
「おい、余計なこと言うなよ。今回は特別だろ?」
シーナは心配そうな顔で、ソウにたずねた。
「ねぇ、ソウくん……どうしてお寺を抜け出してまで、リミトルに行こうと思ったの?」
「リミトルは、母ちゃんの写真の町だからさ」
ソウが答えた。
「写真の町って何?」
ヘイザが困惑した表情で、たずねた。
今度はトトが口を開き、淡々と話した。
「ぼくたちのお母様は、ぼくたちを産んですぐに亡くなりました。お母様は未婚だったので、お父様のことはわかりません。ぼくたちは孤児院に引き取られましたが、ぼくは幼児期に魔法学校へ入ることになり、兄さんはしばらく孤児院で過ごした後、今のお寺に修行へ行くことになりました。連絡は取り合いながらも別々に育ったぼくたちですが、孤児院で1枚ずついただいたお母様の唯一の写真を、いつも見ていたんです。そして、その写真に映っている風景はリミトルという町だと教えられて来ました」
トトはリュックサックから色あせたフォトフレームを取り出し、シーナとヘイザに向かって差し出した。
ヘイザはそれを手に取り、シーナも写真を覗き込んだ。
褐色の肌に、ウェーブのかかった黒く長いロングヘア、きりっとした眉、目鼻立ちのはっきりとした女性がにっこりと微笑んでいる。年齢は30歳くらいだろうか。丸い目が、ソウとトトの目によく似ている。橋の上で撮られていて、後ろには大きな滝が見えた。
「きれいなお母さんね」
シーナがそう言って微笑むと、ソウとトトはうれしそうな顔をした。
「ここ、カイスブリッジだわ」
ヘイザはじっと写真を見て、言った。
「え? 何ブリッジだって?」
ソウが興奮したように聞き返した。
「カイスブリッジ。リミトルではそこそこ有名な橋よ」
ヘイザが答えると、トトは真剣な表情になった。
「ヘイザさんは、リミトルという町に詳しいのですか?」
「まぁね。わたしの故郷だから」
ソウとトトは目を丸くして、顔を見合わせた。
「では……ヘイザさんはご家族を助けにリミトルへ?」
トトがたずねた。
「ううん。助けたくても、もうとっくの昔に死んじゃったから。それでも、リミトルはわたしが母さんと暮らした思い出の町だから……何かできることがあればって、ただそう思って、ここまで来たんだけど……」
ヘイザはそこまで言うと、一旦言葉を区切り、シーナを見た。そして、
「ねぇ、シーナ。リミトルに行くのはやめて、明日はセトルに戻りましょ」
と言った。
「えっ?」
シーナは驚いてヘイザを見つめた。
「リミトルに行かないのか?」
ソウがたずねた。
ヘイザはソウにうなずき、シーナを見つめて言った。
「危険は無いと思って、ここまで来たけど……結局、わたしは死にかけて、シーナまで死なせるところだった。こんなことになってまで、無理してリミトルに行く必要なんて無いわ」
「でも……リミトルは、ヘイザとお母さんの大切な町でしょう? せっかくここまで来たのに……」
シーナは戸惑いの表情を浮かべて、言った。
「ただの思い出よ。もう母さんはいない。今は、死んだ母さんの思い出より、シーナと一緒に生きてくことの方が大切だわ」
ヘイザはそう言って、シーナに向かって微笑んだ。
シーナは複雑な表情で、ヘイザの笑顔を受け止めた。
「シーナと一緒に生きて、母ちゃんの思い出の場所に行けばいいじゃん。トトは優秀な魔術師だし、オレは僧侶だ。オレたちと一緒にいれば、危険なんて無いぜ。だから、一緒に行こうぜ!」
ソウはそう言って、まっすぐな目でヘイザを見つめた。
「兄さん、無理強いしてはいけませんよ」
トトはひかえめにソウをたしなめ、ヘイザの方を向くと、
「すみません、ヘイザさん」
と言って、改まった様子で話し始めた。
「ぼくたちには、お母様の記憶が無いので、先ほど見ていただいた1枚の写真がお母様のすべてです。なので、写真の町、リミトルでテロがあったと聞き、どうしても人助けに行きたくなりました。兄さんは許可をもらえず、無断でお寺を抜け出し……ぼくは師匠に許可をいただいて来ましたが、気持ちの強さは、兄さんと同じです。実際の思い出が無いぼくたちとは違うかもしれませんが……、ヘイザさんが、お母様との思い出の場所で、何かできることをしたいと思った気持ち……ぼくたちは理解できるつもりです。なので、もしリミトルへ行く気持ちがあれば、道中、力になりますよ」
トトは話し終わると、反応をうかがうように、ヘイザを見つめた。
ヘイザは意見を求めるように、シーナを見た。
シーナはヘイザと目が合うと、
「ソウくんとトトくんがいてくれれば安心じゃない? せっかくここまで来たんだから……わたしたちもリミトルに行こうよ」
と言って、やさしく微笑んだ。
「ほら、シーナもそう言ってるんだ、一緒に行くっきゃないぜ!」
ソウはヘイザのそばに来て、人なつっこい笑顔を見せて言った。
ヘイザは軽くため息をついたが、まんざらでもない顔つきをして、
「わかったわ。——じゃあ、リミトルまでよろしく」
と言って、小さく微笑んだ。
ソウはうれしそうな表情になり、
「よし! じゃあ明日は4人で出発だな!」
と、飛びはねんばかりの勢いで元気よく言った。
シーナは素直なソウの反応に、思わず笑顔になり、ヘイザの手を握った。
ヘイザはさりげなくシーナの手を握り返し、やさしいまなざしでシーナを見つめた。
「さ、さぁ、兄さん。それでは、ぼくたちはそろそろ行きましょう」
トトが急にあわてた様子で、ソウにリュックサックを背負うように、手でうながした。
「なんだよ? ここにいればいいじゃん。明日は4人で出発するんだからさ」
「いいえ。それは迷惑というものです。シーナさんとヘイザさんは恋人同士なんですから……」
「だから何なんだ?」
不満げなソウの腕を引っ張って、テントの外へ出ようとするトトを見て、シーナは心配そうに声をかけた。
「トトくん……どこへ行くの? ここにいていいのよ」
「ほら!シーナだって、言ってるじゃん」
ソウが口を尖らせて言った。
「いいえ。そういうわけにはいきません」
トトはきっぱりとそう言って首を横に振り、
「ぼくたちも、テントはちゃんと持って来ています。夜間の恋人の邪魔はしませんので、ご安心ください。ぼくたちは、ここから離れた場所に、テントを張って寝ますから……」
と言いながら、さらに強くソウの腕を引っ張って、テントを出ようとしている。
「夜間ってなんだよ? 寝るだけだろ?」
「恋人たちには特別な時間なんです。それを邪魔するのは、デリカシーが無いと言われますよ。兄さんは、何も知らなすぎて……お寺では、そういうことを教えてもらえないのが困りますね」
トトは大げさに手を広げ、ため息をついて見せた。
シーナは驚いたように目を丸くし、ヘイザと目を合わせると、苦笑いをした。
一方、ヘイザは笑いをこらえるような表情で、からかうようにトトに言った。
「ねぇ、トト。あんたって、ずいぶんと恋人同士のことを知ってるのね……彼女でもいるの?」
トトは急に困ったような表情になり、ソウが代わりに口を開いた。
「彼女なんていないよ。トトの師匠さんは女なんだけどさ、恋愛ドラマが大好きな魔術師で、休みは男とデートばっかりしてるんだ。で、こいつ、師匠さんが留守のときに、ドラマのDVDを内緒で見てるらしくてさ……」
「兄さん! それは誰にも言わないって……」
トトはあわてて、ソウの口をふさいだ。
「なるほどね」
ヘイザは腕組みをして、納得したようにうなずきながら、声を出さずに笑った。
「ご、誤解しないでください。ほんの……ごくたまにですよ……いつもは、そんなドラマを見ている時間なんて、ぼくにはないんですから……」
トトはしどろもどろになって言った。
ヘイザはそれを見ると、にやっと笑って言った。
「いいのよ、トト。あんたがいろいろ知っててくれるおかげで、正直言って助かるわ」
その言葉に、トトはほっとした顔をした。
ソウは感心したようにトトを見て言った。
「ふぅん、やっぱおまえってすごいんだ。オレには何のことか、さっぱりわかんないもんなー」
「シーナさん、ヘイザさん、すみません。兄さんは、まだ何も知らなくて……」
トトは困ったような表情を浮かべて言うと、すぐにソウの腕をつかみ、
「では、ぼくたちは、これで失礼します。明日は、シーナさんとヘイザさんが目覚められたら、ぼくたちのテントに来てください。勝手に恋人同士のテントには入りませんから、ご心配なく」
と言って、テントをくぐった。
「じゃあなー。また明日! シーナ、明日も食い物よろしくな!」
ソウは元気よく手を振り、トトに腕をつかまれ、あわただしくテントを出て行った。
ふたりが出て行くと、ヘイザは笑い出した。
「あー、おかしい……あんな子供に、あんな気の使われ方するなんてね」
ヘイザは笑いながらそう言って、テントのチャックを閉めた。
「うん。びっくりしたけど……ドラマの影響だったのね」
シーナは苦笑いをしながら言った。
「トトは、いい師匠についたわ」
ヘイザはそう言って、シーナの前に立った。
「そうかな……大人の恋愛ドラマは、トトくんにはちょっと早いような気がするけど……」
シーナはそう言って、首をかしげた。
「いいじゃない。だって、その師匠のおかげで、トトが気遣いできる子供になって……こうやって、すんなりシーナとふたりっきりになれたんだから。あの坊主頭の僧侶だけだったら、追い出すのはかなり大変だったと思わない?」
ヘイザはいたずらっぽい目をして、シーナを抱き寄せた。
シーナはヘイザに抱き寄せられ、ふふっと楽しそうに笑った。
ヘイザはシーナの頬にそっと手をかけ、やさしく言った。
「なんだか……あの憎きマーモを倒したこと、ずっと前みたいな気がするわ」
シーナはゆっくりとうなずき、ふたりは互いに顔を寄せ合い、唇を重ねた。
キスの後、シーナはそっと指を伸ばし、ヘイザの唇に触れ、つぶやくように言った。
「ヘイザ……本当によかった……最後にキスしたヘイザの唇は冷たかったのに……今は、こんなに温かくて……」
ヘイザは大切そうにシーナを抱きしめ、ゆっくりと静かな声で言った。
「シーナ……ひとりでつらい思いさせたわね。わたしのせいで、本当にごめんね。リミトルに行ったら、少しだけ魔物討伐に参加して、早めに次に住む場所に行きましょ。安全な町で……シーナとふたり、また平和に暮らしたいわ」
シーナはヘイザの温かいぬくもりの中で、冷たかった腕の感触を思い起こし、その記憶を振り払うようにヘイザにしがみついた。
「うん……ヘイザが生きててくれれば、それでいい……」

間もなく、テントの外では空がうっすらと白み始め、長かった一夜がようやく終わろうとしていた。

- -

第9章

リミトルへの道

翌日の午後。
やわらかい午後の日射しの下、青いマントに身を包み、腰に使い慣れたナイフを装備したヘイザが、台車の荷物を整理していた。
ヘイザの後ろでは、白いローブを着たトトが魔法の杖を構え、低級魔物に目を光らせている。
「何か手伝えることある?」
チャックが開いたままのテントから、すがすがしい表情でシーナが出て来た。手には携帯テレビを持っている。
ヘイザは顔を上げ、シーナを見るとやさしく微笑み、
「ううん、大丈夫。もうほとんどいつでも出発できるわ」
と言って立ち上がった。
「すみません。兄さんのせいで、出発が遅れてしまって」
トトが、遠慮がちにシーナに声をかけた。
シーナはトトを見ると、大きく首を横に振り、
「そんなこと気にしなくていいのよ。ソウくんがなかなか起きられなかったのは、昨夜、ヘイザとわたしを助けてくれた疲れが出たせいでしょう? ものすごく体力を消耗したって言ってたもの」
と言って微笑んだ。
「はい。でも、これから出発するとなると、おそらくすぐに日が落ちてしまいます。ぼくたちは夜道でも平気ですが、女性のおふたりに魔物が多く出る夜道を歩かせてしまうのはどうかと……」
その言葉に、ヘイザがトトの方を向き、
「わたしは平気。むしろ夜道には慣れてるわ。慣れてないのはシーナだけよ。でも、あんたたちが魔物に目を光らせてくれるなら、わたしがシーナを守って進むから大丈夫」
と言って、シーナの肩を抱いた。
「わたしも夜の闘いに慣れるように、がんばるわ」
シーナはヘイザに寄り添いながら、トトを見て言った。
トトはうやうやしく口を開き、
「そう言っていただけると、ありがたいです。ぼくと兄さんが、おふたりに危険が無いようにしっかりと闘いますから……」
と言い終わらないうちに、右端からゆっくりと近付いていた低級魔物に気がつき、あわてる様子も無く、冷静に杖を傾け、すばやく魔物を倒した。
「すごい! さすが優秀な魔術師ね」
トトのすばやく正確な動きに、シーナが感心して言うと、
「いえ、それほどでも」
と、トトは少しはにかんで見せた。
「トトくん、これ、どうもありがとう。テレビを見ておかないと、やっぱり不安になるものね。とっても助かったわ」
シーナはトトに礼を言って、携帯テレビを返した。
「リミトルは、どんな様子だって?」
ヘイザがシーナにたずねた。
「マーモはかなり討伐されたみたいだけど、一度じゃ討伐し切れない打たれ強いマーモがいて、討伐の人たちは苦戦してるって言ってたわ」
「……マーモなんて、弱い中級魔物のはずなのに。マーモが呪いをかけたり、政府公認の討伐者を手こずらせてるなんて、まったく信じられないわ」
ヘイザは深刻な表情でそう言って、きゅっと口を結んだ。
トトはその言葉に大きくうなずき、
「この間のルビラ山の時も同様でした。爆発の後に、普通とは違う状態になった魔物が発生するようです」
と言った。
シーナはそのトトの言葉に動揺し、口を開きかけた。
その時、聞き覚えのある元気な声が聞こえた。
「さぁ、出発しようぜ!」
白いシャツに腰巻を着け、棍棒を持ったソウが、テントから出て来たところだった。
ソウは大またで、まっすぐにシーナのそばへ来ると、
「今日もうまかったよ! サンキュー」
と言って、ひとなつっこい笑顔を見せた。
「どういたしまして。元気出た?」
シーナがにっこり笑ってたずねた。
「あぁ。たっぷり寝たし、めちゃくちゃ元気に復活したぜ」
ソウは、まだ子供っぽい細い腕で力こぶを作る真似をし、今度はヘイザの方を向くと、
「おいヘイザ、テント片付けるんだろ? オレがやってやるよ!」
と言って、ヘイザの返事も待たずに、テントへ向かい、片付けを始めた。
元気なソウの様子に、シーナは思わず微笑んだ。
ヘイザは、張り切ってテントを片付けるソウの小さな背中を見ながら、台車に腰を下ろし、ジーンズの上に革のひざあてを巻き付け始めた。
トトは、目の端に映った魔物の影に杖を傾けた。

「シーナ?」
すぐ後ろを歩いているはずのシーナの気配が急に消え、ヘイザは振り返った。
シーナ、ヘイザ、ソウ、トトの4人は、ドトル村の入り口に差し掛かったところだった。
シーナは怯えたような目をして足を止め、たくさんのマーモたちが一斉にゆらゆらとこちらに向かって歩いてくるのを見ていた。そして、ヘイザの視線に気付くと、あわてたようにヘイザに歩み寄ろうとした。しかし足がすくんでいるのか、すぐに歩き出せないようだった。

- -

ヘイザはシーナのそばへ後退し、支えるように背中に片手を回した。
「シーナ、大丈夫?」
「どうしよう……わたし、マーモの歩く姿見たら、昨夜のこと、思い出して、急に怖くなって……」
シーナは焦っているように早口で、しかし途切れ途切れになりながら、上ずった声でそう言った。
「大丈夫。ここから前に出なくていいから」
ヘイザは前方のマーモを気にしながら、シーナの背中をやさしくさすり、
「マーモが近付いて来たら、後ろに逃げて。あと、目から出るビームに注意して。いいわね?」
と言って、シーナを見た。
シーナは近付いて来る前方のマーモをちらりと見やると、表情をかたくして、ヘイザの言葉に黙ってうなずいた。
シーナとヘイザの前で杖を構えていたトトが、すばやく後ろを振り返って杖を振ると、シーナとヘイザの体が一瞬きらっとした光で覆われた。
「防御膜です。少しですが、おふたりの身の守りが強くなりました」
トトは落ち着いた様子で、シーナとヘイザに向かって言った。
「ありがと」
ヘイザは即座に答え、怯えた表情のシーナの背中を再びさすった。
ソウは棍棒を構えながら、後ろを振り向くと、
「ヘイザもシーナも、後ろに逃げてていいぞ! オレたちがやっつけるからさ」
と余裕の笑顔を見せて言った。
「気持ちはありがたいけど、わたしは闘うわ。昨夜のリベンジをしなきゃ気が済まないもの」
ヘイザはそう言って、前方のマーモをにらむと、マントをひるがえし、前に進み出た。
「じゃあ、目は狙うなよ。また呪いをかけられちまうからな」
「わかってる。二度も呪われるほど、バカじゃないわ」
ヘイザは冗談っぽくにやりと笑った。
ソウは無垢な笑顔でうなずき、前を向くと、
「よーし、行くぞ!」
と言って、棍棒を掲げて前に走り出て行った。
マーモたちの大きさは大人の人間ほどあるため、ソウよりも大きかったが、ソウは怖がる様子もなく、勢いよく棍棒を振り回した。
ソウの棍棒が、ゆらゆらと動くマーモたちの体にばきばきと鈍い音を立てて当たった。
マーモたちが体制を崩し、よろめいたところを、ヘイザは軽々と身をひるがえしながら、次々とナイフで切りつけた。
急所の目を外しているため、まだ息のあるマーモたちが、よろめきながら目からビームを出そうと構えたところに、トトが魔法の杖から光を放ち、一気に倒した。
人間の体ほどの大きさのマーモたちが、3人の攻撃で次々と倒れて行く。
3人の見事な連携に圧倒されながら、シーナの中で怯えていた気持ちが徐々に消え、ムチ使いとして闘いたいという気持ちが膨れ上がって来ていた。
シーナは腰に付けていたムチを取り上げ、ゆっくりと前に進んで行った。
ヘイザにナイフで切りつけられ、ヘイザとトトの間から、よろめいて頭を出したマーモに向かい、シーナはムチを振った。
ムチはマーモの白い体に勢いよく当たり、マーモはどすんと音を立て、地面に倒れた。
その音に、ヘイザとトトが振り返り、すぐ後ろに立っているシーナに気付いた。ヘイザは驚いた顔で後退し、シーナをかばうように両手を広げた。
「シーナ! もっと後ろで……」
「ううん、もう大丈夫。わたしも闘うわ」
「えっ?」
困惑した様子のヘイザに、シーナは、
「わたしも昨夜のリベンジしたいの。もう怖くないわ」
と早口で言って、自信のある笑顔を見せて、ムチを構えた。
ヘイザはシーナの様子に安心したように微笑み、
「——わかったわ。じゃあ、わたしの後ろで闘って」
と言い、シーナはうれしそうにうなずいた。
トトは、ヘイザとシーナが話している間も休むことなく杖から光を放ち、前方から来るマーモを攻撃していた。そして、シーナが闘うと聞くと、心配そうに、しきりにシーナがいる後方を気にしていた。
ヘイザは再び前を向き、すばやくトトのそばへ寄ると、
「心配いらないわ。シーナも、けっこう闘えるんだから」
と言い、一歩前に出て、マーモに向かってナイフを振り下ろした。
ナイフで切られ、つんのめったマーモの頭にシーナがムチを当てた。
トトが止めを刺す必要は無く、シーナの一撃で、マーモは息耐えた。
トトはそれを見て、安心したように改めて前方のマーモたちに集中した。
4人の連携で、ドトル村にはびこっていた30体ほどのマーモたちは、ビーム攻撃を出す隙も与えられず、あっけなく一掃された。
「——なんだよ、シーナも闘ってたのか!?」
かなり前に出て闘っていたソウは、後ろに戻って来ると、ムチを巻いて腰に戻そうとしているシーナを見て、驚いた顔をして言った。
「うん。最初にマーモを見た時は、昨夜のことを思い出して怖くなっちゃったんだけど……みんなが闘ってるところ見てたら、わたしも闘いたくなったの」
「シーナさんは、立派なムチ使いだったのですね。ぼくたちは心配しすぎていたようです」
トトが言うと、シーナははにかんだような顔をして、
「わたしはまだまだよ。これからもっとがんばって、ソウくんやトトくんや、ヘイザと同等に闘えるようになりたいな」
と言って笑い、隣にいるヘイザを見上げた。
「シーナは、十分よく闘ってたわ」
ヘイザはそう言って、やさしくシーナの頭をなでた。
「ありがとう。リミトルに行ったら、討伐の人たちを手こずらせてるっていう、打たれ強いマーモとも闘えるかしら」
とシーナが言うと、ソウが楽しげに言った。
「あぁ、オレたちでやっつけちまおうぜ! 打たれ強いって言ったって、所詮、マーモはマーモだろ」
「兄さんは、リミトルへは僧侶として人助けをするために行くんですよ。魔物討伐は、ぼくたちにまかせてください」
トトにそう言われ、ソウは不満そうな顔をして、
「ちぇーっ。そうだった」
と言って、薄暗くなりかけている空を見上げた。
4人は台車を引きながら、人気も魔物の姿も無い、静かなドトル村を歩き始めた。
ドトル村は、田や畑が多い田舎村だが、マーモにぐちゃぐちゃに踏み潰され、荒れた様相をさらしていた。
歩き始めて間もなく、周囲を見渡しながら、ソウがつまらなそうに言った。
「何もいないや。オレとしては、まだまだ棍棒を振り回したい気分なのになー。まだまだ暴れ足りないぜ」
「兄さん、あまり魔物との闘いで体力を使っては、リミトルで人助けができなくなってしまいますよ」
トトが困った顔でそう言うと、ヘイザが興味深そうな顔をして、ソウにたずねた。
「ソウ、あんたくらいの年の僧侶って、みんなそんな感じなの?」
「そんな感じって?」
「だって、あんたって全然僧侶らしくないっていうか……わたしのイメージだと、僧侶の子供って、おとなしくてまじめで、トトみたいなタイプだと思ってたわ」
「あぁ、実際トトみたいなタイプばっかりだぜ。オレはさ、ほんとは棍使いになりたかったんだ」
ソウはさらりと言って、自分の棍棒を掲げて見せた。
「あんたの棍の腕前なら、十分、棍使いとしても、やっていけるんじゃないの?」
ヘイザが言うと、ソウはうれしそうな顔をした。
「兄さんが僧侶になったのには、訳があるんです」
トトが振り返って、穏やかに言った。
「訳って、どんな?」
シーナがたずねた。
「オレのすばらしい心が僧侶にふさわしいからって、今の寺の師匠にスカウトされちまったんだよ」
ソウの言葉に、きょとんとしたシーナとヘイザに向かって、
「その言い方には語弊があります」
とトトが口を開いた。
「ぼくは幼少期に魔法学校へ入ったので、これは孤児院の先生と、兄さんから直接聞いた話になりますが——、兄さんは幼い頃、わんぱくが過ぎてイタズラばかりしていたため、その罰として、何度もお寺に修行に行かされていたそうです」
きまり悪そうに肩をすくめたソウをよそに、トトは淡々と話し続けた。
「同じお寺に何度も修行に行かされているうちに、今の兄さんの師匠となった和尚さんが、兄さんを気に入って、僧侶になる道に導いてくださったという訳です。兄さんはもともと、気持ちのやさしいところがありますから」
「うんうん。そういう訳だ。オレって、やさしいからさ」
ソウはあっけらかんと笑って、言った。
「でも……それで、棍使いになりたかったのに、僧侶になっちゃったの?」
シーナは困惑した表情でたずねた。
「あぁ、オレ、ずっと棍使いになりたかったけど、でも、人命救助とかそういう人助けの仕事も悪くないかなーって思ったんだ。師匠がすっごいいい人で、その期待に応えたいっていうのもあったし。で、僧侶になっても、棍棒を使って魔物討伐ができればいっかーって思って、僧侶になるって決めたんだ。だから、寺で修行をしてる間も、自分で棍棒の練習は続けてるってわけ」
ソウは明るい笑顔を見せた。
「じゃあ、別に後悔してるわけじゃないってことね」
ヘイザが言うと、ソウは少し困ったように、
「うーん、まぁなー。でも、たまーに思いっきり闘いたくなると、闘う専門の棍使いになっとけばよかったかなーって思ったりするんだけどさ」
と言って、複雑な表情で笑って見せた。
シーナはソウの気持ちを理解したようにうなずいて、
「わたし、ソウくんはすばらしい僧侶だと思うわ。だからソウくんが決めたことは、正しかったと思う。でもね、もし途中でどうしても棍使いになりたいと思ったら、大人になってからだって遅くないのよ。だって、わたしなんて、つい3ヶ月前までは、武器を持ったこともなかったんだから。それまでは、田舎の村で、薬を作る博士の身の回りのお世話をして暮らしてたの」
と言って、やさしく笑いかけた。
「そりゃあ、でかい転身だな!」
「うん、そうよ」
驚いて目を丸くしたソウに、シーナはうなずいた。
「へぇー、そっかぁ。だけど、いざ棍使いに転身するかって考えると、やっぱオレって僧侶が合ってる気もするんだよなー。僧侶のポリシーって、すっごい古くさいのもあるんだけどさ、基本的に殺し・盗み・嘘はご法度とか、そういうのが、オレの価値観に合うっていうか」
ソウの口から出た〝盗み〟という言葉に、ヘイザとシーナはそっと目を見合わせた。
「兄さんは、正義感が強いですから。しかし、嘘がご法度というのはどうかと思います。人間関係、特に恋愛においては、嘘が必要になることが多くありますからね」
トトが大人びた口調で言った。
「ふーん。でもオレは僧侶だからな、誰にでも、いつも正直でいなきゃいけないんだ」
「そんなことでは恋愛はうまくやれませんよ。先が思いやられます、本当に」
あきれたようにため息をついたトトをよそに、ソウは急にヘイザを見て、
「なぁ! ヘイザは、職業はやっぱナイフ使いか?」
と唐突にたずねた。
「……えっ?」
突然の問いかけに、ヘイザは驚いた顔でソウを見た。
ソウはくったくのない笑顔で、さらにたずねた。
「オレは僧侶で、トトは魔術師、シーナはムチ使いだろ? ヘイザは、何をやってるんだ? あのナイフの扱い方だと、やっぱ、どう考えてもナイフで闘ってるプロだよな?」
ヘイザは内心どう答えようかと考えながらも、ソウの質問には、わざとふざけているような様子で、
「さぁどうかしらね。当ててみたら?」
と内心の動揺を隠して、微笑んで見せた。
シーナには、ヘイザが動揺を隠しているようには見えなかったため、ふざけているような様子に、何を考えているのかと不安を感じていた。
「うーん、オレはやっぱ、ナイフ使いだと思うけどなー。それ以外思いつかないや」
ソウはそう言って、首をかしげた。
「ぼくは、ヘイザさんの職業は、夜道の護衛ではないかと思います」
トトは真顔でそう言うと、ヘイザを見た。
意外な言葉に、ヘイザは少し驚いたような表情を見せた。
トトには、ヘイザの反応は、答えが合っているための驚きに見て取れたらしく、自信満々な表情になった。
「護衛?」
ソウがたずねた。
トトは自信にきらりと瞳を光らせ、すらすらと話した。
「はい。魔物討伐に慣れている様子や、見事なナイフさばきはもちろんのこと、夜道で闘うことに慣れているという言葉、そして、シーナさんを気遣い、かばいながらの的確な闘い方……これらのことから、ヘイザさんの職業は夜道の護衛ではないかと思うのですが」
言い終わったトトは、じっとヘイザを見つめた。
ソウも同じくヘイザを見つめ、シーナは不安そうな目をしてヘイザを見た。
「まぁ、そうね。そんなとこかしら」
ヘイザは短い沈黙の後、落ち着いたような素振りで、あいまいに答えた。
「なんだよ! はっきり教えてくれたっていいじゃん」
ソウが不満そうに言うと、トトははっとした顔をして、ひとり納得したようにうなずき、
「そうでした! 忘れていましたが、護衛の仕事というのは、秘密を守る契約をすることがあると本で読んだことがあります」
と真顔で言った。
きょとんとしているシーナとヘイザをよそに、ソウがたずねた。
「契約って、何だ、それ?」
「はい。ある程度の地位や名誉のある人たちは、スパイに狙われていることもありますし、仕事上の事からプライベートな事まで、他人に知られたくない秘密があります。なので、秘密の護衛を雇い、雇われた護衛は、護衛をしていることを絶対に人に言わないという契約をさせられることがあるそうです」
トトはすらすらと説明していたが、そこまで話すと、再びひとりではっとして、ヘイザを見て言った。
「そうです、ヘイザさん! ぼくとしたことが、全然気付きませんでした……」
ヘイザはぽかんとした様子で、何かに気付いて目を輝かせているトトを見ていた。
トトは再び口を開き、
「ほら、ヘイザさんは荷物の整理をしていた時、たくさんのターバンを持っていましたよね? ぼくはよくある女性のファッションかと思っていましたが……。重要人物の護衛をするには、その人もまた、他人からは容易に知られないようにしなければいけないですよね。……そうか、そういうわけだったんですね」
と言って、ひとりで大きくうなずいた。
「ヘイザって、なんかすごい人の護衛をしてるってことか?」
ソウはトトの話を聞いて、興味深そうにヘイザを見た。
「はい、きっと、そうでしょう。だから、はっきりとは言えないんです」
トトはソウに言うと、黙ったままのヘイザに向かって、
「すみません、ヘイザさん。ぼくとしたことが、全然気がつかなくて……でも、もう大丈夫です。契約違反になってしまう質問で、困らせるようなことはしませんから」
と申し訳なさそうな顔をした。
ヘイザはあっけに取られたような顔をしていたが、やっとのことで微笑みを取り戻し、
「ありがと。……トトが物知りで、ほんとに助かるわ」
と言って、シーナにさりげなく目配せをした。
シーナはほっとしたように微笑んだ。
「なぁ、ヘイザ、誰の護衛してるんだよ? 有名人か?すっごい偉い人か? 命の恩人のオレには、教えてくれてもいいだろ?」
「だめです、兄さん。もう聞いてはいけませんよ。契約があるんですから」
好奇心いっぱいの目でヘイザにまとわりつくソウを、トトが制止した。
シーナとヘイザはどちらからともなく手をつなぎ、意味ありげにそっと目を見合わせ、おかしそうに微笑んだ。

こうして、ムチ使いのシーナ、修行中の僧侶のソウ、魔術師見習いのトト、そして護衛——ではなくスリのヘイザはドトル村を抜け、リミトルを目指し、暗い夜道を進んで行った。

***

4人は山道で一晩キャンプし、その翌日、いたって順調に、リミトルに続く小道までやって来た。
「ねぇ、あれがリミトル?」
薄暗くなった小道の向こうに見えた町灯りを指差し、シーナがうれしそうに声をあげた。
「そうね。もう着いたも同然だわ」
ヘイザは町灯りを見つめながら、感慨深い表情を浮かべて言った。そして、さりげなく台車からターバンを取り出し、顔に巻いた。
トトはヘイザがターバンを巻くのを、納得したという満足げな表情で見ていた。
「あ、オレも帽子かぶっとかなきゃ」
ソウはターバンを巻いたヘイザを見ると、あわてたように、リュックサックからくしゃくしゃになったニット帽を取り出し、
「師匠がリミトルに連絡してませんよーに」
と言って、坊主頭にニット帽をすぽっとかぶった。
「顔を隠したいなら、もっと深くかぶらなきゃ」
ヘイザはそう言って、ソウのニット帽に手をかけたが、
「でも、あんたの場合……褐色の子供の僧侶って言われたら、それだけで、もうバレバレよね」
と言って、手を止めた。
「その時は、仕方ありません。他の僧侶にまかせて、兄さんはお寺へ帰ってください」
さらりとそう言ったトトに、
「おい、おまえなー、せっかくここまで一緒に来たのに、血も涙も無いこと言うなよ」
とソウは不満そうに言った。
「だって兄さんは修行中の身なんですから。リミトルまで来ることは、ぼくらにとって大きな意味があるので、お寺を抜け出す時はあえて反対しませんでした。しかし、これ以上、お世話になっている師匠に逆らうようなことはすべきではないと思います」
トトは冷静な顔つきで、きっぱりと言った。
「ちぇっ、なんだよ、えらそーに。人助けしないで帰ったら、ここまで来た意味がないじゃん!」
「そんなことはないでしょう、兄さん。大切なお母様の写真の町に、足を踏み入れられるというだけでも、ぼくたちにとっては大きな意味があるんですから」
「そりゃまぁ、そうだけど……でもさ、やっぱ人助けしてこそ……ん?」
ソウが突然言葉を切り、シーナ、ヘイザ、トトの3人も、前方からこちらにやって来る人影に気付いた。
リミトルの町灯りに照らされ、遠くから、ひどくあわてた様子で、男がこちらに向かって来る。
少しずつ男が近付くにつれ、汚れの目立つ穴の開いたジャンパーに、粗末なズボン、ぼさぼさの髪に、ひげの伸びた汚れた顔などが徐々に見え始めた。
男はこちらに気付いていない様子で、ひたすらに向かって来る。
ヘイザは警戒するように男を見ながら、寄り添うシーナの腕を取り、自分の後ろに引き寄せた。
シーナ、ヘイザ、トトが緊張した様子で男を見ている中、ソウがためらう様子も無く、男に向かって声をかけた。
「おーい! おじさん、そんなにあわててどうしたんだ?」
「うわっ!」
男はソウの声に驚き、叫び声をあげ、後ろにしりもちをついた。
そして、目の前の褐色の子供と、その後ろに見えるターバンを巻いた長身の女、杖を手にしたもうひとりの褐色の子供に気付くと、けげんそうな顔をした。しかし、男はその時、やさしい目をしたもうひとりの女が、心配そうにこちらを見つめているのに気付いた。
男はシーナの目を見ると、どこかほっとしたような表情になり、手をついて弱々しく立ち上がり、口を開いた。
「あんたたちは……政府の人間か? 俺は、本当に何も知らんのだ」
「何の話だ? オレたちはリミトルに魔物討伐に行くけど、政府の人間じゃないよ」
ソウが言った。
ソウの言葉に、男はさらにほっとしたように言った。
「そうか……てっきり、また俺を捕まえに来たのかと思ったが、違うんだな」
「捕まえに来たのかと思ったって? なんだ、それ?」
ソウが驚いたように声をあげた。
「あんた、何をしたの?」
ヘイザが警戒した厳しい目をしたまま、冷たくたずねた。
「俺は何もしちゃいないし、何も知らん。ただ、ルパートと友人だっただけだ……」
「すみませんが、ルパートさんとは? 何の話をされているのか、詳しく説明していただけませんか?」
トトの丁寧な口調に男は一瞬驚いたような顔をして、リミトルの方を気にするように一度振り向き、誰もいないことを確認すると、ため息をついて話し始めた。
「話してもどうにもならんが……まぁ、いいか。俺はこの通り、ただのホームレスだ。もう何年も、仲間たちとリミトル河近くのほとりでひっそりと生活をして来た。そこであの爆発が起こり……リミトルの町とは反対側のほとりにいた俺たちは助かった。だが、自爆テロの犯人がわかった途端、政府の人間たちがやって来たってわけだ。そして、しつこく何か言わせようとするんだ。しかし、俺は本当に何も知らんのだよ」
男が言葉を切ると、シーナがヘイザの後ろから前に進み出て、真剣な顔で男をまっすぐ見つめてたずねた。
「自爆テロの犯人がわかったって、本当なんですか?」
「あぁ……まだニュースにはなってないのか。リミトルの町の人間はみんな知ってるが……」
「誰なんだ?」
ソウが身を乗り出すようにして、たずねた。
「ルパートだ。俺のホームレス仲間だった」
「なぜ、わかったんですか? この規模の爆発では、おそらく遺体は……」
トトがその後の言葉を選ぶ前に、男が答えた。
「あぁ、ルパートの体は砕け散ったよ。だが、リミトルには災害用の耐久性の高い監視カメラが試験的に設置されていたのは知ってるか? もちろん爆発で吹き飛んだが、後から発見されてな、そこには、ルパートのわずかな映像が残っていたんだ」
男は苦痛の表情を浮かべ、さらに話を続けた。
シーナは男を見つめたまま息をのみ、無意識にヘイザの腕にしがみつき、たずねた。
「……どんな映像だったんですか?」
「ルパートが……黒い大きなリュックサックを背負って、ふらふらと歩いている映像だった。そして、ルパートが手を後ろに回し、リュックサックの中に手を入れて、何かを引っ張るような仕草をした。その1秒後くらいに……映像は真っ黒になった。爆発したということだ」
「リュックサックに、爆弾を入れていたということですね」
トトが真顔でうなずきながら、言った。
「あぁ、そうだ。おかしなことばかりだよ」
「何がおかしなことなんだ?」
ソウがたずねると、男は訴えかけるような目になって言った。
「確かに、カメラに映っていたのはルパートだった。政府の人間に見せられて、目を疑ったさ……。でも、カメラに映っていたルパートが背負っていたリュックサックはあいつが持ってた物じゃないし、歩き方も変だった。政府を騒がせているテロ事件に使われる爆弾は、何か特別な物だろうが……俺たちホームレスが、どうやってそんな物を手に入れるっていうんだ? 作れるわけないし、買う金だって無い。それにルパートは、爆弾を使ってテロを起こすなんて、そんなこと考えつくようなやつじゃなかった。明るくて、友達が多くて、いいやつだったんだ」
トトは少し考えるようなそぶりを見せ、たずねた。
「ルパートさんの友人の中に、爆弾を入手できるようなお金持ちの人がいたとかではないですか?」
「それから……魔術師の友達は、いませんでしたか?」
シーナがさらに質問を投げた。
「なんだ、あんたたちも政府の人間みたいだな」
男はうんざりしたような顔をして、
「俺はよくは知らん。ただ、ルパートは時々リミトルの町に出て行って、道でコメディアンの真似をして金を稼いでいた。だから、ホームレスではない人間とも交流があったよ。あいつのテントには来客も多かった。だけど、いちいち誰が誰でなんて、俺たちは気にしちゃいなかったから、本当に何もわからんのだよ……」
と言って、リミトルの方へ目をやると、目を見開いた。
シーナ、ヘイザ、ソウ、トトの4人も、つられてリミトルへ目をやった。
政府のマークが付いた車がこちらに向かってやって来る。
「くそっ!」
ホームレスの男は顔をしかめ、逃げようと山道の方向へ走り出した。
車はスピードを上げ、シーナたちの横をすり抜け、男を追い越したところで急ブレーキがかけられた。
「逃げても無駄だ!」
車からふたりの若い男が出てきて、ホームレスの男の腕をつかんだ。
「おい、そのおじさんは何も知らないぞ!」
ソウが大きな声で、若い男ふたりに言った。
若いふたりの男は、ホームレスの男の腕をつかんだまま、驚いた表情で振り向いた。
「あれ?」
ふたりの男のうちのひとりが、シーナを見るとはっとしたように表情を変えた。
シーナも、さらさらしたブラウンの髪のその男に見覚えがあった。
「君……フロートル行きの飛行機で会った子だよね? 僕のこと、覚えてるかい?ヒュートだよ。名刺、渡しただろう?」
ひとなつっこい笑顔になったその男は、シーナにやさしく話しかけてきた。
「あ、はい、覚えてます」
シーナもその笑顔につられるように、笑顔を見せて男のそばに寄った。
もう一人の政府の男と、ホームレスの男、ソウとトトがきょとんとした顔で、そしてヘイザが不機嫌そうに見つめる中、ふたりは笑顔で会話を続けた。
「君は、名前はシーラだったよね。僕は、かわいい子の名前は忘れないんだ」
シーラ、という名前を聞いて、何か言おうとしたソウの腕をヘイザは力強くつかんだ。
そして、驚いて振り返ったソウを鋭くにらみつけた。
ソウはヘイザの気迫と腕をつかまれている痛みに、思わず口をつぐんだ。
トトはその様子を横目で見ながら、納得したような顔をして、黙っていた。
「シーラは、ずいぶん変わったね……あの時は、武器は扱えないって言ってたのに、今はムチ使いをやってるのかい?」
ヒュートはシーナの腰のムチと、防具を身に付けた全身にすばやく目を走らせて、感心したように言った。
「はい、そうです。まだ新人ですけど……」
はにかんだようにシーナが言うと、ヒュートはますますやさしさを帯びた笑顔になり、
「いやいや、たいしたものだよ。こんな短期間で、普通の女の子がムチ使いになってるなんて。シーラって、ただかわいいだけじゃなく、すごい才能があったんだね」
と言うと、シーナは照れたように微笑んだ。
ふたりの間には、あたたかい空気が流れている。
ターバンの間から覗いた切れ長の青い目が、ヒュートをにらむように見つめていた。
さりげなくシーナから視線を外したヒュートは、その視線に気がつき、おかしそうに笑いながらヘイザに向かって手を上げた。
「あっ、あぁ、違うよ。君の恋人にちょっかいを出そうとしてるわけじゃないんだよ」
シーナが驚いたようにヒュートを見た。その様子を見てヘイザは、シーナがヒュートに自分のことを恋人だと話したわけではないことを悟った。シーナが話していないのなら、今この場で、自分を見て、瞬時に恋人だと見抜いたのだろうか……ヘイザは、ヒュートの勘の鋭さに驚きながらも、余裕のある笑みを瞳にたたえ、軽く鼻で笑うと、
「そうかしら? どっからどう見ても、わたしの恋人をナンパしてるようにしか見えないんだけど」
と言って、挑むように前に進み出た。
「いやいや、違うよ。シーラと僕はただの友達さ。フロートルに行く飛行機の中で会ったんだよ。ねぇ、シーラ?」
ヒュートはくったくのない表情で笑いながら、そう言って、目の前の敵意を持った目線から目をそらし、シーナに同意を求めた。
シーナは素直にうなずいて、
「うん、そうよ」
と言ってヘイザを見ると、なだめるように微笑みかけた。
「心配しないでよ。僕は君の恋人を奪う気なんてないし、下心なんて無いからさ」
ヒュートはそう言って、黙ったままのヘイザに、ニコッとひとなつっこい笑顔を見せた。
「おい、ヒュート」
ホームレスの男の腕をつかんだままのもうひとりの若い男が、ヒュートをせっつくように声をかけた。
「あっ、あぁ、悪い」
ヒュートはそう言うと、急いでジャケットの内側に手を入れ、
「時間がある時、いつでも電話してよ。今度ゆっくり話したいんだ」
と言うと、名刺を1枚取り出し、
「ね、もう1回名刺渡すからさ。今度は、電話して来てよ」
と言って、シーナに手渡した。
そして、疲れたように突っ立っている若い男と、ホームレスの方に向き直ると、真顔に表情を変え、「悪かった。行こう」と声をかけた。
「あ……ねぇ、ヒュートさん」
シーナは遠慮がちにヒュートの背中に声をかけた。
「うん? 何だい?」
ヒュートは振り返ってシーナを見ると、再び笑顔を見せた。
「あの、その人……さっき少し話したんですけど、本当に何も知らないみたいです。ルパートさんって人はホームレス仲間以外にもたくさん友達がいたみたいだから、きっとテロ事件のことを知ってるのは別の人だと思います……」
「そうだ! そのおじさんはもううんざりしてるんだ。解放してやってくれよ」
ずっとおとなしくしていたソウが、シーナに続いて、後ろから声を発した。
ヒュートはやさしく微笑むと、
「あぁ、僕もそうしたいけどね。上からの命令で、僕は仕事をしてるんだ。とりあえず、ルパート・ジョンソンを知ってる人間を集めてるらしい。もちろん、ホームレス以外の人間も探してるよ」
と言った。
がっくりと肩を落とし、疲れきったようなホームレスの男を、シーナは同情するような瞳で見つめた。
ヒュートはシーナの瞳の色に気付き、
「心配しなくていいよ。話を聞くだけさ。別に拷問にかけたり、乱暴したり、そんな真似をするわけじゃないよ」
と笑い、ホームレスの男の肩を軽く叩いた。
ホームレスの男は、力なく少し笑い、
「質問攻めで、うんざりだがな」
と言うと、もう一人の男にうながされるまま、あきらめたように車に乗り込んだ。
「じゃあね、シーラ。電話待ってるよ!」
ヒュートはひとなつっこい笑顔でシーナにそう言うと、ヘイザとソウとトトにも笑いかけ、手を振って運転席に乗り込んだ。車はリミトルの方向へ向かったが、リミトルには入らず、そのまま公道へ向かったようだった。
「——下心無いなんて、どこまで本当だか」
走り去る車を見送りながら、ヘイザは不機嫌そうにつぶやいた。
「そんな言い方しないで、ヘイザ。ヒュートさんは、いい人だわ」
ヒュートをかばうシーナの言葉に、ヘイザはいらだった口調で、
「わたしには、軽薄そうな男に見えたけど。へらへら笑って、口が軽そうだし、手も早そうだわ」
と言った。
シーナは怒ったような表情で口を開いた。
「どうして、そんなことばっかり言うの? ヒュートさん、言ってたでしょう? 下心なんて無いって」
「口が軽い男は、そんなこと簡単に言うのよ。友達だから会おうなんて言われて、わたしの目の届かない場所で、あいつに何かされたらどうするの?」
「そんな人じゃないわ。ヒュートさんは、いい人よ」
少しずつケンカに向かいそうなふたりの会話を止めるように、トトが口をはさんだ。
「わたしにも、あの方はシーナさんに好意を持っているように見えましたが、でも、心配はいらないのではないでしょうか? 恋人のヘイザさんに、下心は無いと宣言したわけですから。宣言したということは、すなわち、何もしない、手は出さないと言っているのと同じですから」
「そんなの、信用できないわ」
ヘイザは不機嫌な表情で言った。
「ヒュートさんが、何かするなんて。そんなこと、心配する方が失礼よ」
シーナは不満そうに、そう言った。
「あのさ」
ソウが、不思議そうな顔で口を開いた。
シーナとヘイザ、トトはほぼ同時にソウに顔を向けた。
「さっきから、何かするとか、手を出すとか、何のことだ?」
その子供っぽい質問で、とげとげしかった空気が一瞬なごんだようだった。
「まぁ……いろいろあるんですよ」
トトが困ったようにそう言うと、ソウは余計に気になるらしく、しつこく聞いた。
「何だよ? 何をするんだ? 何か悪いことなんだろ?」
「そうですね……一般的にその行為そのものは悪いことではないのですが、恋人がいる人とはいけませんね。普通は付き合っている男性と女性が……いえ、ヘイザさんたちのように同性同士の場合もありますが……とにかく付き合っているふたりがする行為であって……いえ、ふたりでない場合もありますね……えぇと……」
トトは出口の無い迷路に迷い込んでしまったように、難しい顔をして、ぶつぶつと話し続けている。
「はぁ? 全然わけわかんないよ!」
ソウは首を横に振りながら、大声で言った。
「ですから、これには、いろいろな場合があるんですよ……」
「付き合ってるやつらが、悪いことやってるのか?」
「いいえ、ですから、一般的には悪いことではないんです。それに、付き合っていない場合もありますし……」
「悪いことじゃないのか? だったら、別にいいじゃん」
「いいえ、一般的には悪いことではないとはいえ……」
ソウとトトは、出口の無い迷路をさまよい始めた。
ヘイザはゆっくりと歩きながら、小さくため息をつき、怒っているようにそっぽを向いて歩いているシーナの横顔に話しかけた。
「シーナ……わたし、ちょっと悪口言い過ぎたわ」
シーナはほっとしたように、ヘイザを見た。
「ただ、あいつと会う時は、ふたりっきりはやめて。まだシーナだって、あいつのこと、よくわかってないんだから」
ヘイザが真顔でそう言うと、シーナはやさしく微笑んで、口を開いた。
「さっきは、わたしもちょっと意地張っちゃった。わたしね——本当は、別にヒュートさんのことなんて、どうだっていいの。ヘイザが嫌がるなら電話なんてしないし、偶然が無ければ、もう会うこともないわ」
シーナの言葉に、ヘイザは胸にこびりついていたイライラが、すっと取れたような気分になった。しかし、シーナを縛り付けたいわけではないと言おうとしたヘイザを待たずに、シーナはさらに言葉を重ねた。
「ヘイザが死んじゃうって思った時、わたしは絶望して、自分も死のうとしたのよ。他の誰にも、そんな気持ちになったことなかった」
シーナはヘイザの腕に自分の腕を絡めながら、
「ヘイザより大切な人なんていないもの。ヘイザが嫌がる人と、会う必要なんてないわ」
と言って、愛情のこもったまなざしでヘイザを見上げた。
シーナの瞳は、いつも以上にきれいな光を放っているように見え、ヘイザは思わずキスをしようと首を傾けた。
その時。
前を歩いていたソウが突然後ろに向かって声を出した。
「そうだ! なぁ、さっき、シーラって言ってたろ? シーナじゃないのか?」
ヘイザは真顔になって顔を上げ、どう答えようか困っているシーナを横目に、口を開いた。
「シーナはシーナよ。でも、シーラって名乗るようにしてるの」
「なんでだ?」
ソウがたずねると、ヘイザは少し考えるようにして、ふざけているように見えるくらい、ばかに神妙な顔つきで言った。
「大人の事情ってとこかしら」
「大人の事情?」
そう声を発した困惑顔のソウとは対照的に、トトは妙に納得した様子で、
「なるほど。大人の事情ですか。いろいろありますよね」
と言って、わかったような顔をしてうなずいている。
何をわかっているのだろうか、とシーナはトトの様子をこっけいに感じ、笑いをこらえてヘイザを見た。ヘイザも同じ気持ちなのだろう。同じようにシーナに目をやり、目が合うと、小さく口元をゆがめて笑みを見せた。
「さっきから、わけわかんないことばっかだよ。大人って、なんか、めんどくさそーだな」
ソウは不満そうに口を尖らせ、つぶやいた。

- -

第10章

町に足を踏み入れた時、4人の目に入って来たのは、爆発によって無残に変わり果てたリミトルの姿だった。
テレビで映像を何度も見ていたはずなのに、実際にその風景を目の前にした途端、4人は言葉を失った。
ターバンから覗くヘイザの目は、まばたきもせずにじっとその風景を見つめ、そして、目の前の現実を受け入れる苦痛を表すように、青い瞳が小さく震えていた。
シーナは、ショックを受けているヘイザの背中にそっと手をかけ、あの日——6歳の時に見たオクトルの光景を冷静に思い出していた。
あの時と似てる……
でも……
ここの爆発は、オクトルより小さいんじゃないかしら。
テレビでは一部分の映像しか見られなかったから、わからなかったけど……。
オクトルの時は、爆発ですべてが吹き飛んで、一瞬で町が無になってしまっていた……でも、ここはまだ遠くに、崩れた家ががれきと化して残っているのが見えるもの。
あのホームレスの人が話していたルパートさんっていう人は、シャーロ博士の薬を飲まされたのかしら……
そして、あやつられて自爆をさせられたのだとしたら……
同じ薬なのに、リミトルとオクトルの被害の大きさが違うのはどうしてだろう……
ううん、リミトルだけじゃない……
ルビラ山の爆発も、オクトルより規模が小さかったってチャドさんが言ってた。
シャーロ博士の薬の威力が、ばらばらだったということかしら……?
あの完璧主義者のシャーロ博士に限って、そんなことが……
シーナが頭の中であれこれと分析していると、
「あなた、ファルラさんとこの見習いのトトくんね? 到着が遅かったから、少し心配してたのよ」
という声がして、トトが着ているものとよく似た白いローブを着て、細身の杖を手にしたきれいな女性が、知的な笑みを浮かべて歩み寄って来た。
定規で線を引いたように、まっすぐに切りそろえられたおかっぱの黒髪が、さらに女性を知的に美しく見せている。
「あっ、はい。師匠から、連絡が?」
トトが驚いたように前に進み出て、その女性にたずねた。
「えぇ、そうよ。今、再生するマーモを倒すために、一人でも多くの優秀な魔術師が必要なの。あなたはまれに見る優秀な子だってファルラさんが言っていたから、期待して待ってたのよ。よろしく頼むわね」
「はい、わかりました」
礼儀正しいトトの返事に微笑むと、女性はソウに目を止め、
「あなたは僧侶のお兄さんね?」
と声をかけた。
寺から連絡が来ているのではと心配していたソウは、何を言われるのかとびくびくしている様子で、
「うん、そうだけど……」
と言って、うつむきがちに女性の言葉を待った。
「あのプレハブに回復魔法を待ってる人が休んでるから、急いで行ってくれる? 今はね、とにかく魔術師の力で残ったマーモを倒さなければいけないから、命に関わる場合でない限り、怪我人よりも疲れた魔術師を優先的に回復してくれると助かるわ」
女性は淡々とした口調で言った。
ソウは、寺に帰らなくていいことがわかり、明るい表情になって顔を上げると、
「うん、わかったよ! マーモの呪いにかかった人は、優先しなくていいのか?」
とたずねた。
「もう、呪いにかかっている人はいないわ。目を攻撃すると呪いをかけられることを知らない時に、大勢やられて一時パニックになったけれど。助かった人は助かったし、手遅れの人はもう亡くなったわ」
女性の〝亡くなった〟という言葉に、ソウの表情が一瞬、暗くなった。
しかし、女性は気にとめる様子もなく、
「そういうわけだから、今は、魔術師を優先的に回復してほしいの。協力してくれるわね?」
とたずねた。
「あぁ、もちろん。まかせてくれよ」
ソウは前に進み出ると、女性が指差した方向に見える大きなプレハブに向かって、走って行った。
「えぇと……」
ソウの背中を見送ると、まっすぐなおかっぱの髪を揺らし、女性がくるりとヘイザとシーナの方を向いた。
知的な色をたたえた瞳が、戸惑った様子でヘイザとシーナの全身に目を走らせ、
「あなたたちは……トトくんの知り合いですか? ファルラさんはトトくんとお兄さんの話しかしていなかったけど……」
と言った。
シーナとヘイザが答えようとする前に、トトが口を開いた。
「こちらのおふたりとは、ここまで来る途中で出会ったんです。おふたりは政府の魔物討伐者ではありませんが、とても腕が立つので、一緒に魔物を討伐しながらここまで来ました」
「そうだったの」
女性はトトにあいづちを打つと、シーナとヘイザに向き直り、真剣な表情で話し始めた。
「実はですね、今ここに生き残っているマーモには、何者かによって自己再生の魔法がかけられています。つまり、武器で討伐しても、時間が経つと生き返ってしまうんです。自己再生の魔法はかけた者しか解くことができず、マーモを討伐するためには、その魔法を破壊しなくてはなりません。そして、その破壊は、強力な魔法による攻撃でのみ可能です。今、リミトルには力のある魔術師が集まっていますので、これから自己再生の魔法を破壊する計画を立てているところなんです」
「じゃあ……武器の力は、今は必要ないということですか?」
シーナがたずねると、女性は、気を使うような表情をして言った。
「いいえ……すべてのマーモを私たちが倒すまで、集まって来る低級魔物を討伐していただけると助かります。呪いをかけたり、自己再生したりする異常なマーモたちは、爆発と共に一気に発生しましたが、増えている様子はありませんので、おそらく1週間ほどあればすべて討伐できると思います。せっかく腕のいい方に来ていただいたのに、申し訳ないですが……その間の低級魔物の討伐をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい、かまいません。喜んでお手伝いします」
ヘイザがやさしい口調で、礼儀正しく答えた。
いつも外で見るのとは違う態度のヘイザを、シーナは驚いたように見つめ、そして、すねたように目をそらした。
「ありがとうございます。では、行きましょう」
女性がローブをひるがえし、前を歩き始めると、トトはシーナとヘイザを一度振り返り、早足で女性の後について歩いて行った。
女性とトトに距離を置くようにゆっくりと歩きながら、ヘイザが町を見渡し、顔をしかめながら言った。
「テレビで見たよりずっとひどい風景ね……それに、まさか低級魔物の討伐をさせられるとは思わなかったけど、せっかく来たんだから、やることがあっただけマシかしら」
シーナはそっぽを向いたまま、
「……うん」
と小さな声で答えた。
「シーナ? ……どうかした?」
どう見てもふくれっつらのシーナに、ヘイザは不思議そうな顔でたずねた。
「別に。ただ、ヘイザって……いつもはわたしだけが好きなんて言ってるけど、さっきはあんなやさしい声で話しちゃって……きれいな人にはやさしいのね」
シーナはいじけたようにそう言って、口を尖らせた。
「あら、シーナったら嫉妬してるのね?」
ヘイザはターバンの奥でにやっと笑った。
シーナは困ったような、怒ったような顔をして、言葉を探している。
ヘイザはにやにや笑いながら、
「わたしだけが嫉妬深いのかと思ってたけど、シーナも案外、嫉妬深いのね。なんだ、悩んで損しちゃったわ」
と言って、からかうような目でシーナを見た。
シーナはますます怒ったように頬を上気させたが、ヘイザはそれを見るとうれしそうに、
「たまには嫉妬されるっていうのも、いいもんだわ」
と言って、くったくのない表情で笑った。
「ひどい……そんな言い方するなんて」
シーナはぷいとそっぽを向いて、ヘイザから離れるように体の向きを変えた。
ヘイザは余裕の笑みを浮かべ、すばやくシーナの腕を取ると、耳元に顔を近付けた。
「わかってるでしょ。わたしが愛してるのはシーナだけよ」
「そんなの……口だけじゃないの? ……だって、さっきなんて……」
まだいじけて口を尖らせるシーナに、ヘイザは苦笑いしながら、再び愛の言葉をささやいた。
あと何回愛してると言えばシーナの機嫌が直るかしらと考えながら、ヘイザの足取りはすっかり軽くなっていた。

***

「魔術師の人たちと一緒に、あのマーモの討伐ができたらよかったのに……せっかくリミトルに来たのに、低級魔物しか討伐できないのね」
シーナは色とりどりの野菜が乗ったピザを食べながら、テントの入り口の隙間から外を覗いて、つぶやいた。
真っ暗になった外には、オレンジ色の電灯が点けられ、魔術師によって一時的に眠らされた40体ほどのマーモが横たわっているのが見える。
今日は、1体のマーモに付き3~4人の魔術師たちが攻撃をかけ、自己再生の魔法の破壊に成功し、11体を討伐したらしい。マーモは強い魔物では無いが、自己再生の魔法は強力なものらしく、魔術師たちは、その破壊に労力を使っていた。
今、魔術師たちは、政府が用意した派手な模様の立派なテントで食事を取っている。
僧侶であるソウも、トトの兄ということで特別にそのテントに招かれていた。
そして、トトの知り合いと知られているシーナとヘイザも、そのテントで皆と食事をしないかと誘われたが、疲れているからと断った。——スリのヘイザにとっては、政府に属した人間が大勢いるところでターバンを外し、素顔をさらけ出して食事を取るなんて、考えられないことだった。それだけではなく、そこで会う人間に、身元などをいろいろ聞かれたりする可能性もあり、とにかくめんどうだった。
そんなわけで、シーナとヘイザは、自分たちのテントを広げ、政府が魔物討伐者用に用意した売店で食べ物を買って、ふたりで食事を取っていた。
「低級魔物の討伐でよかったじゃない。命の危険がなく、安全なのが一番だわ。なんたって、あのマーモのせいで死にかけたんだから」
ターバンを外したヘイザは、リラックスした表情でそう言うと、ボトルに入ったジンジャーエールを一口飲み、
「ただ……安全なのはいいけど、低級魔物討伐の報酬がこんなに安いなんて、驚きだわ」
と言って、言葉とはうらはらに穏やかな笑みを浮かべた。
「日払いなんだもの。このくらいが普通よ」
シーナはあきれたように笑いながら、振り返って言った。
「政府から支払われるんなら、もっとくれたっていいじゃない? スリの一日分の稼ぎの方がずっと上だわ。スリの方が上等な仕事ってわけね」
ヘイザはおかしそうに笑った。
シーナは反論する言葉がいくつも浮かんできたが、口には出さず、黙って外を見た。
「だけど、悪くないわ」
ヘイザが独り言のようにつぶやいた。
「えっ?」
シーナが振り返ると、ヘイザは穏やかな目をしたまま、日払いで受け取った紙幣の入った袋を取り上げ、
「こんなちっぽけな金額を稼ぐために働いたのは、もう6年振りよ」
と言って、晴れ晴れとした表情をした。
魔物討伐の報酬が安いと文句を言っていると思って聞いていたシーナは、その晴れ晴れとしたヘイザの表情を改めて見つめた。
ヘイザはトレイからピザを一切れ取り上げると、ゆっくりと一口かじって口を動かしながら、
「たまには、こんな仕事するのもいいわね」
と楽しそうに言った。
シーナはまじまじとヘイザを見つめながら、夜になるとスリの仕事に出かけ、朝方に帰宅していたカートルのアパートでのヘイザを思い出していた。
改めて見ていると、ヘイザの目つきが、あの頃と少し違うような気がした。
鋭く、やさしい目——それがヘイザの目つきの特徴。
それは今も以前も変わらないけれど……
何だろう……
……影?
そうだわ。
影。
以前のヘイザは、もっと深い影のある、どこか暗い目をしていた気がする。
一緒にいると、どんなにしあわせな時間を過ごしていても、なぜか心のどこかに暗さや緊張感を感じさせられるような、そんな目だった。
でも、今のヘイザの目は、その影が薄くなって、とても穏やかで……
心からゆったりと寛げるような……そんな目だわ。
それは、ヘイザがカートルを出てから今日まで数日間、スリの仕事から離れ、以前ほど人目を気にする必要も隠れる必要もなく、緊張感から解き放たれていることを表していた。
シーナはやさしくヘイザを見つめながら、そっと寄り添って、ヘイザの肩にもたれた。
ヘイザは片手でピザを食べながら、もう片方の腕を伸ばし、シーナの肩に手をかけた。
シーナは、ヘイザの腕に身をあずけ、ヘイザを見上げながら、ためらいがちに口を開いた。
「……たまにするのは、スリの仕事の方にしたら?」
ヘイザはシーナの言葉に驚く素振りもなく、
「そうね」
と、冗談とも本気とも取れるような笑みを浮かべた。
その言葉に、シーナの瞳は一瞬にしてぱっと輝いた。
もし、ヘイザがスリの仕事を辞めてくれたら……
もう隠れたり人目を気にしたりせずに、堂々と暮らせるようになるのかな……
少しくらいお金が稼げなくたって、そっちの方がずっといい……いざとなったら、シャーロ博士にもらったお金だってまだあるんだし……。
シーナはヘイザの生き方を尊重して来たが、スリをいい仕事だと思ったことなど一度も無かった。
だって、悪いことだもの。
本当にヘイザがスリを辞めてくれたら……
シーナは期待に瞳をきらきらさせながら、ヘイザを見つめて、何か言おうと口を開きかけた。
「——イテっ!」
その時、テントの外で声がして、シーナとヘイザは反射的に体を起こした。
「何だよ、杖で小突くなって!」
「やっぱり帰りましょう。夜間のおふたりの邪魔をしてはいけません」
「でも明日になったら、もう溶けちまうじゃん。今じゃないと……」
聞き覚えのある声が小声で言い争うのが聞こえ、シーナとヘイザは顔を見合わせて、テントの入り口から顔を出した。
「あっ……シーナ! ヘイザ!」
ソウがうれしそうな声を上げて、駆け寄って来た。
「すみません。お邪魔じゃなかったでしょうか?」
後からトトが心配そうな顔をして、あわててついて来る。
「大丈夫よ。入って」
シーナがそう言うと、ヘイザはテントのチャックを大きく開けて、ふたりを迎えた。
「あー、よかった! なぁ、これ持って来たんだ」
ソウは大事そうに持っていた箱を前に差し出した。
シーナはひんやりとした箱を受け取り、覗き込むと、うれしそうに声を上げた。
「わぁ、アイスクリーム!」
ソウはその反応を見て満足そうな笑みを浮かべ、
「めちゃくちゃうまかったんだ! だから、シーナとヘイザにも食わせたくって」
と言って、靴を乱暴に脱ぎ捨て、テントに入って来ると、
「護衛って仕事も大変だよなー。こんなうまいもの食いに来れないんだからさ」
とヘイザに向かって言った。
脱ぎ捨てられたソウの靴をそろえながら、トトが、
「仕方ありませんよ。重要人物の護衛というのは、顔を見られてはいけないんですから」
と言った。
ヘイザは表情を変えなかったが、一瞬、小さく眉を動かした。
シーナは不安そうな顔になって、口を開いた。
「ねぇ、その、えっと……ヘイザが護衛をしてるってこと……他の誰かに話した?」
「言うわけないじゃん! 契約が何とかで、ヘイザが困るんだろ? オレは友達の秘密は守る男だぜ」
力強いソウの言葉に続いて、テントに入って来たトトが、
「はい。ヘイザさんの職業については口外しませんので、どうかご安心ください」
と言って礼儀正しく座ると、ヘイザとシーナに微笑みかけた。
「ありがと」
ヘイザはそう言って、軽く微笑んだ。
「心配するなって。あっ、ほら、早くアイスクリーム食わないと、溶けちまうぜ!」
ソウにうながされ、シーナは箱の中から、2つの高級そうなアイスクリームを取り出し、ひとつをヘイザに手渡した。
付属のスプーンでアイスクリームを口に運ぶと、ひんやりと甘い潤いが広がった。
「おいしい!」
とシーナは思わず声を上げ、ヘイザも同意するように笑顔になった。
「なっ? うまいだろ?」
ソウがうれしそうに、ふたりの顔を交互に見た。
「うん、すごくおいしい。ありがとう」
シーナが笑顔で礼を言い、ヘイザもうなずいた。
ソウは満足そうな顔で、その場にあぐらをかくと、アイスクリームを食べるふたりを見ながら、
「トトってさ、すっごいちやほやされてんだぜー。大人の魔術師のくせにトトのご機嫌をうかがうようなやつもいたりしてさ、そいつら見てるとおもしろいのなんのって」
と楽しげに言った。
「それはぼくの師匠のせいです。師匠は魔術師審査会の副会長ですから」
さらりと答えたトトに、
「魔術師……審査会? 何だ、それ?」
ソウがけげんな顔をして、たずねた。
「兄さんには、前に話したじゃないですか。政府公認の魔術師を審査する団体ですよ」
トトは大げさにため息をついて、そう言った。
「あんたの師匠が、そこの副会長なの?……なんか、イメージ違うわね」
ヘイザは戸惑いの表情を浮かべて、言った。
「うん、ほんと……恋愛ドラマのイメージが強くって……」
シーナはアイスクリームのスプーンをくわえたまま、あっけに取られたような顔で言った。
「よくわかんないけどさ、トトの師匠さんって、すげぇ偉い人らしいぜ」
ソウはそう言って、あくびをひとつすると、
「しかも、いい人なんだ! 寺にも連絡してくれてたしな。オレの師匠に、今回の人助けを許してくれるように言ってくれたみたいで……マジで助かったよ」
ソウはそう言って、もうひとつ大きなあくびをすると、その場に寝転んだ。
「兄さん、こちらで寝てはいけませんよ。もう、テントに戻りましょう。おふたりの邪魔になるといけませんから」
トトは立ち上がって、寝転んだソウの腕を引っぱり、体を起こした。
「あぁ、オレも今日は回復魔法いっぱい使って疲れたんだ。明日のために、もう寝とかないとな」
ソウは目をこすりながら、素直に立ち上がった。
「では、ぼくたちは自分のテントに戻ります。シーナさんとヘイザさんも、明日の魔物討伐がつらくなるといけませんから、できるだけ早く休んでくださいね」
トトは、ソウがだるそうに靴を履くのを見守りながら、シーナとヘイザを交互に見て、礼儀正しくそう言った。
「うん、ありがとう。ソウくん、トトくん、またね」
シーナはテントの入り口で、笑顔で声をかけた。
「アイスクリーム、ありがと」
ヘイザがシーナの隣に立ち、片手を上げてそう言うと、ソウは無邪気な笑顔で振り返り、手を振りながら前に歩き出した。トトは軽く会釈をして、せかすようにソウの背中を押しながら、急ぎ足でテントを離れて行く。
小さなふたつの褐色の頭が暗闇に消えて行くのを見送ると、シーナはテントのチャックを閉め、スプーンでアイスクリームをすくっているヘイザに向かって、
「さっきの話、びっくりしちゃった。トトくんの師匠さんって、恋愛ドラマの印象ばっかり頭にあったから……」
と、改まったように言った。
ヘイザはその言葉にうなずき、
「ただのミーハーな魔術師と、ませた見習いの子供かと思ってたのに」
とおかしそうに笑って、アイスクリームを口に入れた。
シーナはつられるように笑顔を見せたが、急にどこかしんみりとした表情になって、
「でも……ここのマーモの討伐が終わったら、もうソウくんともトトくんともお別れになるのよね……さみしくなるわ」
とつぶやいた。
「別れない出会いなんて少ないわ。出会いがあれば、別れが来るものよ」
ヘイザは、やけに落ち着いた口調でそう言った。
「わたしとヘイザにも?」
シーナは絶対に否定してくれるとわかりながらも、思わずそうたずねていた。
ヘイザはやさしい笑みを浮かべ、
「わたしたちは特別でしょ」
と言って腕を伸ばし、シーナの肩を抱いた。
シーナは答えをわかっていたものの、心のどこかでほっとして、ヘイザに体を寄せた。
ヘイザは落ち着き払った声で、
「ソウとトトは、わたしたちとは違う人生を歩んで行くんだから、仕方ないわ」
と言った。
「うん……」
シーナはさみしい気持ちで、ただそう答えるしかできなかった。
「わたしとシーナは、また以前の平和な生活に戻るのよ。カートルにいた頃みたいに。ふたりでいれば、しあわせでしょ?」
ヘイザはそう言って微笑むと、シーナの顔を覗き込んで、やさしくキスをした。
シーナはアイスクリーム味のひんやりとしたキスに目を閉じながら、やはりスリをやめる気などなさそうなヘイザの言葉に気持ちが沈むような気がしていた。
やっぱり冗談か……
ヘイザは、もう6年もスリとして生きてきたんだもん……。
簡単にやめられるはずないよね。
あんな冗談を真に受けて、わたしったら、本当にバカみたい……
シーナは心の中であきらめの言葉をつぶやいてみたが、心の奥底では、まだ小さな希望を捨てきれず、はっきりと真意を問い正す勇気は出ないのだった。


リミトルに着いて2日目の夜。
——やっぱり、夜の方が落ち着くわ。
ヘイザは無駄のない動きでナイフを振り、低級魔物を倒しながら、改めて思った。
隣でムチを振っているシーナのそばにモモが近付いている。
シーナは別の低級魔物に気を取られ、気がついていないようだ。
ヘイザは軽くシーナのそばに寄り、振り払うように、モモにナイフを当てた。
「あっ、ありがとう……全然気がつかなかった……」
シーナは地面に落ちたモモを見ると、悔しそうな表情でそう言った。
ヘイザはターバンの奥で微笑みながら、
「仕方ないわ。夜は慣れてないと、難しいのよ」
とシーナを励ますように明るい口調で言って、
「わたしのために、夜の討伐を一緒にやってくれてるんだもの。ありがとうって言うのはこっちだわ」
と、夜の闇からすっと出て来た別のモモにナイフを振った。
「うん……でも、わたしだって、だいぶ慣れて来たと思ってたのに……」
シーナは神経質にポニーテールを揺らしながら、夜の闇を見づらそうににらんでいる。
「焦らないで。そんなに急に慣れるなんて無理よ」
ヘイザは明るい口調で言ってみたが、シーナはまだ難しい顔で夜の闇をにらんでいる。
ヘイザは周りに目を光らせながら、シーナのそばに寄ると、
「わたしには6年も、夜のキャリアがあるのよ。たった数日でシーナに追いつかれたら、わたしの面目丸つぶれじゃない?」
と小声で言って、シーナの笑いを誘うように冗談っぽく笑って見せた。
シーナはつられて少し笑みを見せた。
ヘイザはシーナの笑顔を見てほっとすると、再び夜の闇に魔物の影を見つけ、ナイフを構えた。
——政府に雇われた人間が多くいるこの場所で、ターバンを巻いているとはいえ、できるだけ目立たぬように行動したかったヘイザは、シーナとふたりで夜の魔物討伐を希望した。もともと夜の希望者は少なかったため、ふたりはすんなりと夜の討伐に配置された。
低級魔物の討伐は、怪我をしてもたかが知れているし、武器を扱う人間にとっては、身の危険を感じることはない単調な仕事だ。それゆえに無駄な余裕が生まれ、生真面目なシーナは、隣にいるヘイザと自分の腕を比べて、変に焦ってしまっているようだった。
しかし本人が焦っている間にも、シーナの夜の討伐の腕は、驚くべきスピードで上がって来ているとヘイザは感じていた。
ヘイザは隣で暗闇をにらんでいるシーナをちらりと見て、満足そうにそっとうなずいた。


深夜になり、休憩の順番が回って来た。
先に休憩に出ていたふたりの剣士が戻って来て、入れ替わりに持ち場から離れると、シーナはどっと疲れが出るのを感じた。
「ねぇ、シーナ。ちょっといい?」
売店で買ったオレンジジュースを飲みながら、テントへ戻ろうと歩き出したシーナは、ヘイザの声に足を止めた。
「えっ?」
振り返ると、ヘイザがどこか他の方向へ行きたそうに足を止めている。
「疲れてるのはわかってるんだけど……ちょっとだけ、付き合ってくれる?」
ターバンから覗いた目がやさしくシーナに笑いかけている。
シーナは確かに疲れていたが、
「うん……いいよ。どこへ行くの?」
とたずねながら、ヘイザのそばへ歩み寄った。
ヘイザはやさしくシーナの手を取ると、
「ここから、そう遠くないわ」
と言って、灯りの無い暗い道の方へ歩き始めた。
その方向は、今は焼け野原のようになってしまっているが、以前は家々が並ぶ通りだったと聞いていた。
シーナはぴんと来るものがあった。
ヘイザはリミトルに来てから、一度も母と暮らした家があった場所について話さなかった。
爆発でもう無くなってしまったから、言いたくないし、見たくないんだろうと思い、シーナもそのことについてたずねなかった。
……今になって、家があった場所を見たくなったのかしら……
政府が夜間の魔物討伐のために用意したオレンジ色の灯りから少しずつ遠のきながら、シーナは黙ってヘイザに手を引かれて薄暗い道を歩いた。
低級魔物が飛ぶ音がして、シーナが腰のムチに手を伸ばしかけると、すでにヘイザがナイフを腰から抜いていて、前方に浮かんでいたヒモスに切り付けた。
「ここは、わたしにまかせて」
ヘイザはそう言って、シーナを抱えるように片腕を伸ばした。
シーナは疲れていたせいもあり、素直にヘイザの腰に抱きつくように手を回し、ヘイザに守られながら奥に進んだ。
魔物討伐用の灯りが遠のき、かなり暗くなった場所でヘイザがぽつりと言った。
「この辺に、わたしが母さんと暮らした家があったの。今は、何もないけど……」
……やっぱり、家があった場所を見たくなったのね……
焼け野原のようになって、土とがれきの破片しかないその場所を、ヘイザはどんな思いで見ているだろうかと、シーナは心を痛めた。
シーナは当然のようにその場所で足を止めようとした。しかし、ヘイザは立ち止まる様子は無く、かと言ってテントの方へ戻るわけでもなく、さらに奥へと歩き始めた。
シーナはヘイザの目的地がわからなかったが、ヘイザのしっかりとした足取りを信じ、とりあえず一緒に歩き続けた。
そしてとうとう、魔物討伐用の灯りがほとんど届かなくなった。
シーナが不安になり始めた時、ヘイザはようやく足を止め、シーナに回していた腕を外すと、ウェストバッグからポケットライトを取り出し、前方を照らした。
シーナはヘイザの腕に自分の腕を絡め、前を見つめた。
ぼきっと折れて焼け焦げたような太い木の幹と、大きな石の塊や、石版のようなものがあちらこちらに散乱している様子が浮かび上がった。
シーナは、隣でヘイザがはっと息をのむのがわかった。
「ひどいありさまね……」
ヘイザはターバンを引き下げ、悲しそうな顔をあらわにし、その様子を見渡した。
「ねぇ……ここ、どこなの?」
シーナは不安な気持ちで、ヘイザに体を密着させてたずねた。
「墓地よ。母さんがここに眠ってるの」
「お墓……」
シーナは、深夜に墓地に来てしまったとわかると一瞬寒気を感じたが、すぐにヘイザの母の墓なのだと思い直し、めちゃくちゃになっていることに胸を痛めた。
ばさばさと低級魔物の羽音が聞こえ、ヘイザはいつもより乱暴に魔物を切り払った。
ヘイザはポケットライトで辺りを照らしながら、ブーツを履いた足で石の塊を動かし、少しずつ道を作りながら前へと歩いて行く。
石の塊が壊れた墓石だとわかった今、シーナはできるだけ石に足が触れないように歩きたかったが、それは無理だった。
ヘイザは突然立ち止まり、
「たぶん、この辺りだわ……」
と震えた声で言って、足で石の塊をどかし、わずかな場所を作った。
そして、シーナを引き寄せて腕に抱き、その場にしゃがみこんだ。
ヘイザは唇をきゅっと結び、じっと地面を見つめながら、
「母さん……」
とつぶやくように言うと、土の地面にてのひらを当て、短く祈るように目を閉じた。
シーナも目を閉じ、心の中でヘイザの母にあいさつをした。
そして、ゆっくりと目を開け、ヘイザを見ると——
ポケットライトの灯りに照らされた青い瞳がきらりと光り……
一粒の涙がこぼれ落ちた。
ヘイザは涙を隠そうともせず、シーナと目が合うと、悲しそうに微笑んだ。
「ヘイザ……」
シーナは胸がきゅっと痛くなるような感覚を覚えながら、思わずヘイザを抱きしめた。


「——15歳くらいの時かしら……わたし……寝たきりの母さんに、反抗的な態度を取ってたわ……」
ヘイザは手に持ったウィスキーのボトルをぼんやりと見つめながら、話し始めた。
シーナは、ヘイザの横顔をほっとした気持ちで見つめていた。
——テントの外は、しだいに明るくなり始めている。
墓地からの帰り道、ヘイザはずっと無言だった。そしてその後は、黙々とその夜の魔物討伐に打ち込んだ。シーナは、墓地で見たヘイザの涙が頭に焼き付き、自分から話しかけることができなかった。
仕事を終えてテントに戻り、ウィスキーを開けた後、ヘイザは突然話を始めた。
アルコールのせいだったとしても、どんな内容であっても、とにかくヘイザが話し始めてくれたことに、シーナは心から安堵していたのだった……。
3分の1ほど中身が残ったウィスキーのボトルを揺らしながら、ヘイザはゆっくりと話を続けた。
「はっきり自覚した頃だったの……わたしは女の子しか好きになれないって。他のみんなとは違う自分に戸惑って、やり場の無いいらだちを、母さんにぶつけてた……」
シーナはヘイザを見つめながら、黙って聞いていた。
「でもね……ある時、わたしがそのことを言ったら……母さんはこう言ったの……〝どうしてそんなことで悩んでるの? 女の子が好きで、何がいけないの? ヘイザなら、きっとかわいい彼女ができるわね〟って……。わたし、すごく気が楽になった……」
ヘイザはふっと笑顔を見せると、とろんとした目でシーナを見た。
シーナは笑顔を返し、
「いいお母さんね。ヘイザのこと、ちゃんと理解してくれたんだ」
と言って、やさしくヘイザのひざに手を置いた。
「そう……。なのに……わたしはスリになって……母さんにずっと嘘ついて……ずっと裏切ってた……」
笑顔を見せたばかりだったのに、ヘイザは急に泣きそうな表情になり、がっくりと肩を落としてそう言った。
「でも……病気のお母さんの薬代や通院費のためだったんだから……仕方なかったんでしょう?」
酔っているせいで感情の起伏が激しくなっていると理解しながら、シーナはヘイザをなだめるように言った。
「そう……そうよ……あの時はお金が足りなくて……仕方なかったの。普通の仕事じゃだめだった……でも、今は違うわ……」
ヘイザはそう言って顔を上げると、酔いの回った目でシーナを見つめ、
「今は……スリになって磨いたナイフの腕がある……シーナと一緒に魔物討伐の仕事ができるもの……」
と言って、今度は満面の笑顔になった。
シーナはその言葉に期待してヘイザを見つめ返したが、酔っぱらったヘイザのうつろな目を見ると、その言葉を容易に信じる気にはなれなかった。しかし、シーナはヘイザの言葉を信じたかった。
「うん。一緒に魔物討伐の仕事ができたら、わたしもうれしいわ……魔物討伐の方が、スリよりずっといい仕事よ」
シーナはそう言って、ヘイザを見つめた。
ヘイザはアルコールのにおいをさせてふふっと笑いながら、
「そうね……」
と言って、いつもよりたどたどしくシーナの肩を抱いた。
「ヘイザのお母さんだって、きっと喜んでくれるわ」
シーナがそう言うと、ヘイザはうつろな目でやさしく微笑んだ。
「そうね……母さんも、喜ぶわね……」
しかし、そう言い終わると、ヘイザの顔から徐々に笑顔が消え、
「……でも、母さんの墓が……」
と言って、今度はしだいに怒ったような表情に変わり始めた。
「母さんの墓をあんなふうにしたのは……ルパートってやつでしょ……まだ死んでなかったら、わたしが敵討ちをしてやるところだわ……」
ヘイザは宙をにらみながら憎々しそうに言った。
「違うわ、ヘイザ。ルパートさんは、きっと利用されただけ……自爆テロを起こさせてるのは、別の人間だと思うわ。シャーロ博士の薬を盗んだ魔術師かも……」
シーナは、酔ったヘイザが理解できるかどうかはわからなかったが、真剣に話していた。
「魔術師だろうが……何だろうが……かまわない……わたしが……敵を打つわ……」
少しずつシーナの肩にかかった腕が重くなり、ヘイザの言葉は寝息に変わって行った。
シーナは眠りに落ちたヘイザの腕を肩から外し、起こさないようにゆっくりと体を横たえ、ブランケットをかけた。
ヘイザは赤い顔をして、規則正しく深い寝息を立てている。
ヘイザったら、すっかり酔っ払っちゃって……
明日はきっと二日酔いね……。
シーナはヘイザの寝顔を見つめながら、小さくため息をついた。

- -

第11章

強い意思

低級魔物の夜間討伐が行われている広場では、今夜も魔物討伐者たちがそれぞれの持ち場で武器を構え、魔物と闘っていた。
「よっ、シーナ!」
聞き覚えのある声に、広場の片隅で、ひとりぼんやりとオレンジジュースを飲んでいたシーナは顔を上げた。
「ソウくん!」
「今って、シーナは休憩中なのか?」
棍棒を持ったソウはきょろきょろと周りを見回しながら、シーナが座っている休憩用のベンチにどかっと座った。
「うん……そうだけど、ソウくん、一体どうしたの?」
シーナは戸惑った様子で、隣に座ったソウにたずねた。
「もちろん、夜間の魔物討伐に来たんだよ! 12時までだけどな」
ソウは棍棒を掲げ、ひとなつっこい笑顔を見せながら、
「夜間討伐は、人が足りてないって聞いたからさ。オレもそろそろ棍棒を振り回したくなったし、シーナとヘイザにも会いたかったしな……って、あれ? ヘイザはどこだ?」
と言って、探すように辺りを見回した。
「今日は、ヘイザはお休みなの」
シーナはやさしく微笑んで言った。
「休み? どうしたんだ?」
心配そうなソウに、シーナは苦笑いをした。
「二日酔い。お酒、飲み過ぎちゃったの」
「なーんだ、だらしないなぁ、ヘイザのやつ。オレが回復魔法で元気にして来てやろうか?」
そう言って立ち上がりかけたソウを、シーナが止めた。
「ううん、いいの。薬も飲んでるから大丈夫……今は寝かせておいてあげて」
シーナは墓地で見たヘイザの涙、そしてやけ酒のようにウィスキーを飲んで、笑ったり悲しんだり怒ったりしていた昨夜のヘイザを思い出していた。
「あぁ、いいけど……必要な時は、遠慮なくオレに言ってくれよ。ヘイザでも、シーナでも、いつでも回復してやるからさ」
「ありがとう」
シーナが言うと、ソウははにかんだように笑い、
「12時までって思ってたけど、ヘイザがいないんなら、オレ、もうちょい長く魔物討伐やってくよ」
と言って、ウェストバッグから時計を取り出して、時間を見た。
時計は、PM10時02分と表示されている。
「ありがとう。うれしいけど……ソウくん、昼間の僧侶の仕事で疲れてるでしょう? 無理しなくていいのよ」
シーナは気遣うようにソウを見て言った。
ソウはぶんぶんと首を横に振り、
「いいんだよ! 今やってるのって、ちょっと疲れた程度の魔術師の回復ばっかりなんだから。呪いを解くとか、怪我の治療とか、すっごく疲れてる人の回復は大変だけど、今はそういうやつ無いからさ、オレは全然疲れてないぜ。だから、心配するなって!」
と言って胸を張って見せた。
「ソウくんがいてくれると、頼もしいわね」
シーナはそう言って微笑んだが、
「でも、遅くまではダメよ。ソウくんが体壊しちゃうもの。11時半までかな……」
と考えるように首をかしげた。
「えー? 2時くらいまで大丈夫だって!」
「だめよ、2時なんて遅すぎるわ。明日、ソウくんは昼間の仕事があるんだから……」
不満そうにじっとシーナの顔を見ていたソウは、突然ぱっと笑顔になった。
「えっ……何?」
シーナは突然のソウの笑顔に戸惑って、たずねた。
ソウは少し照れたような表情になり、
「オレさぁ……初めてシーナのこと見た時、なんか母ちゃんみたいだなって思ったんだ。トトは、オレたちの母ちゃんは天国にちゃんといるんだからって、こういうこと言うと怒るけど……でも、さっきの会話って、母ちゃんと息子って感じだったよな? 映画とかであるじゃん! 寝たくない子供に、早く寝なきゃだめだって母ちゃんが言うようなシーンだよ!」
と言って瞳を輝かせてシーナを見上げた。
シーナは理想の母に憧れる純粋なソウの瞳に、心を打たれるような気がして、
「うん。そうね」
とやさしく微笑んで、思わずソウの頭をなでた。
その時、入れ替わりの討伐者たちがこちらに向かって来るのが視界に入った。
「休憩時間、もう終わりみたいだわ。……さっきの話だけど、ソウくんは11時半までだからね」
そう言ってシーナがベンチから立ち上がると、ソウもあわてたようにぴょんとベンチから立ち上がって、
「あ、だから2時まで大丈夫だって! オレがいると、頼りになるだろ?」
と再び胸を張って見せた。
「もちろん頼りになるわ。でも、11時半までね。いい子はお母さんの言うこと聞かなくちゃ。そうでしょう?」
シーナはムチを腰から外しながら、冗談っぽくソウに笑いかけ、前に歩き出した。
「そうだけど……オレ、そんなに子供じゃないぜ! 大丈夫だって!」
「ダメよ」
「いいじゃん、2時までで……」
「ダーメ」
「ちぇーっ」
ソウは棍棒を片手に口を尖らせながらも、軽快な足取りで、シーナの後について歩き出した。


「——ソウくん、11時半になったわ」
シーナは時計を確認して、ソウの背中に声をかけた。
ソウは棍棒を振って最後の低級魔物を倒すと、辺りに魔物がいないことを確認し、あきらめたように戻って来た。
「お疲れさま。もう帰って、早く寝ないとね」
シーナは辺りに注意を向けながら、ソウに声をかけた。
「まったく、シーナは心配性だなぁ」
ソウは笑いながら、おおげさにため息をついた。
シーナは5メートルほど離れた隣の剣士に手を上げて合図を送ると、ソウをうながし、持ち場を離れた。
「遅くまで、ありがとう。眠くない?」
シーナは歩きながら、眠そうに目をこすったソウにたずねた。
「心配すんなって。ほんとはオレ、まだまだ闘えるんだぜ」
「はいはい」
シーナはそこで、タイムレコーダーに目を止め、
「忘れずに報酬もらってね」
と言ってソウの肩をぽんと軽く叩いた。
「あっ、あぁ、そうだった!」
ソウはあわててタイムレコーダーに駆け寄ると、ポケットから出したカードを差し込み、機械から出て来た袋を引き出した。
ソウは袋から紙幣を一枚取り出すと、
「これでジュース買って帰ろっと。シーナにも買ってやるよ、何がいい?」
と、売店の灯りを見ながらたずねた。
「わたしには何もいらないわ。たった1時間半の討伐の報酬じゃ、ほんのちょっぴりしかもらえなかったでしょ?」
ソウは楽しそうに笑い、
「いや、百ゴールド札が入ってたぜ。1時間半の仕事なら、これで十分だ」
と言って、袋から紙幣を覗かせて見せた。
シーナは、胸がほっとして思わず微笑んだ。
ヘイザなら、ぽいと捨ててしまうんじゃないかと思うくらいの小額の紙幣を手にして、ソウは十分だと笑っている。
「遠慮するなよ。何が欲しい?」
無垢な目をしたソウにせっつかれ、シーナは申し出を断る方が悪い気がした。
「じゃあ……アイスティーにするわ」
「わかった! 待っててくれ」
ソウはうれしそうに駆け出し、すぐに紙のカップをふたつ持って戻って来た。
「ありがとう」
シーナはソウからカップを受け取って、礼を言った。
ソウは満足そうに笑顔を見せると、手に持ったパイナップルジュースを勢いよく飲み干し、
「あー、仕事した後のジュースって最高!」
と言って、カップを道の端に設置されたダストボックスに放り投げた。
「ソウくんは、とっても働き者で偉いわ。僧侶と棍使い、どっちの腕も文句なしに優秀だしね」
シーナが改まって言うと、ソウは照れくさそうに笑い、
「まぁなー。オレ、どっちの仕事も好きだぜ」
と言った後、急にふっと真顔になった。
「だけど……こんな爆発事件のせいで仕事するのはつらいよな。かなりの人が死んだみたいだし。母ちゃんの町とかそういうの関係なく……自爆テロなんか起こすやつ、オレ許せないよ」
ソウは、大人びた悲しそうな表情で町を見回した。
「うん……そうね」
シーナも焼け野原となった町を改めて見つめ、記憶の中のオクトルの風景と重ねていた。
ソウは星を眺めるように、暗い空に顔を向け、ゆっくりと歩きながら、
「ルパートってやつは、なんでこんなことしたんだろ……いっぱい人を死なせて楽しいのか? でも、自分も死んじまうんだから、わけわかんないよな。ほんとに頭のおかしなやつだよ……」
とつぶやくように言った。
……そっか……ソウくんは、ルパートさんがあやつられて自爆テロを起こしたとは思っていないのね……
ソウは星空を見上げながら、今度は悔しそうな表情になり話を続けた。
「またルパートみたいなやつが自爆テロ起こさないように、前もって、なんかオレにできることってないのかなー。爆発後に、回復や治療するしかできないなんてさ……そんなのって悔しすぎるだろ?」
シーナは考え込むようにソウの話を聞いていたが、
「ねぇ、ソウくん……ちょっと聞きたいんだけど」
と言って、改まったようにソウを見た。
「なんだ?」
「トトくんって……いつも何時くらいにテントに戻ってるのかな?」
「トト? 夜は6時くらいには戻ってるけど……なんでだ?」
ソウは、不思議そうにシーナの顔を見た。
「あ、えぇとね……今日ソウくんに会えたから、トトくんにも会いたいなって思って」
シーナはソウを安心させるように、やさしく微笑んだ。
「あぁ、それなら夜間討伐が終わった後、オレたちのテントに寄ればいいよ」
「夜間討伐は朝5時までだから……その時間だと寝てちゃってるでしょう?」
「オレは寝てるけど、トトは起きてるみたいだぜ。なんか、朝早く起きて、本読んでるって言ってたから。あいつ勉強家だからさ」
ソウは笑って、立ち止まった。
シーナとソウは、もう低級魔物討伐の広場の出口の前に来ていた。
シーナも足を止めて、言った。
「じゃあ今日、夜間討伐が終わったらテントに行ってみようかな」
「あぁ。でも、トトとふたりで話しても退屈だろうから、オレのことも起こしてくれよ」
ソウはくったくのない笑顔を見せ、
「じゃあ、またな! 怪我しないように気をつけろよ」
と言うと、振り返って手を振りながら出口を後にした。
シーナは元気よく駆けて行くソウを見送り、くるりと方向を変えると、一瞬で深刻な表情になった。
……世の中の多くの人たちは、ルパートさんがあやつられて自爆テロを起こしたとは考えていないのかしら……
政府は? 警察は? そして、魔術師の人たちは、どう思ってるのかしら……
トトくんは、まだ子供だし、ちょっと思い込みが激しいところもあるけど……それでも頭が良くて優秀なことは間違いないわ。そして魔術師。
この爆発事件を起こさせているのが、シャーロ博士に薬を作らせ、そして盗んだ魔術師なのかどうか……
トトくんなら、わたしには考えつかないようなことも、何かわかっているかもしれない。
シーナは真剣な顔をして考えながら、ムチを手に、夜間討伐の広場へ戻った。


夜間討伐を終えたシーナは、待っていたようにタイムレコーダーにカードを差し込み、その夜の報酬を受け取った。
そして売店でホットティーとドーナツのセットを買い、まだ暗い空の下を、いつもテントに戻るのとは違う方向に歩き始めた。
シーナは疲れていたが、その黒い瞳は強い意思を持って輝いていた。
それは、シーナの新たな気持ちを表していた。
——最初にムチ使いになりたいと思った理由は、爆発事件のことを知りたかったからだった。
でもヘイザと出会って、ヘイザが何より大切な存在になった。
ヘイザが呪いにかかった時は、わたしも死のうと思った。そして、シャーロ博士の薬のことを考えるよりも、ヘイザと平和に生きて行くことを考えようと思ってたけど……
でも……
わたしは、シャーロ博士の薬のことを知っている。
他の人は知らないことを、知っている。
わたしが何もしなければ、シャーロ博士の薬を使って、人をあやつり、自爆テロを起こさせてる人間は、永遠に捕まることもなく喜んでいるかもしれない。
もしも、すべての爆発がシャーロ博士の薬で起こされたんだとしたら……
オクトル、ルビラ山、リミトルと3つ使われた。薬はまだ残ってる。
爆発事件は終わったわけじゃない。
犯人は捕まっていない。
このまま無視しているわけには、いかないわ……。
「——トトくん?」
シーナは灯りの点いた小さなテントの前で、小さな声で呼びかけた。
すぐに入り口が開き、早朝だと言うのに、きれいに整えられたモヒカン頭のトトが顔を出した。
トトはシーナを見ると、はにかんだように微笑んだ。
「兄さんから聞いていました。どうぞ」
シーナがテントに入ると、本が積まれたテントの端の方でソウが大の字になってぐぅぐぅと寝ていた。
「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます。ヘイザさんの具合は、どうですか?」
トトはそう言いながら、床に積まれた何冊もの本をてきぱきとテントの端に寄せた。
「たぶん、まだ眠ってると思うわ」
「たぶん、といいますと……シーナさんは夜間討伐の後、まっすぐここへ来られたということでしょうか?」
トトは本を片付ける手を止め、少し心配そうにたずねた。
「うん、そうよ」
「一度、様子を見て来られた方がいいのではないですか? もし、おひとりで具合を悪くされていたら……」
「大丈夫。ただの二日酔いなのよ」
シーナは苦笑いをしながら大きく首を横に振り、
「30分くらいトトくんとお話したら帰るつもりだから、心配いらないわ」
と、トトを安心させるように笑いかけた。
「そうですか……わかりました」
トトは真顔になってうなずくと、本を片付けた場所にミニテーブルを置き、シーナの足元に平たいクッションを置いた。
「ありがとう」
シーナはクッションの上に静かに座り、
「お腹すいてない? これ買って来たの」
と言って、ドーナツのセットをテーブルに置いた。
トトはうれしそうな表情を見せた。
「ありがとうございます。今、飲み物を用意しますね。ジュースと紅茶しかないですが……」
「飲み物も買ってきたわ」
シーナは手に抱えていた袋を開けて、カップに入ったホットティーを手渡した。
「あ、すみません……気を使っていただいて」
トトは申し訳なさそうに、カップを受け取った。
「ううん。わたしこそ、トトくんの勉強の邪魔しちゃって、ごめんね」
シーナがそう言ってドーナツをすすめると、
「いいえ、邪魔だなんてとんでもない……あっ、ありがとうございます」
トトはチョコレートのかかったドーナツを取り、行儀よく座って食べ始めた。
シーナはホワイトチョコレートのかかった白いドーナツを取った。
先に食べ終わったトトは、シーナが食べ終わるのを待つように、ナプキンで何度も指をきれいにぬぐっていた。そして、シーナが白いドーナツの最後のかけらを口に入れるのを確認すると、ひとつ咳払いをして、待っていたように口を開いた。
「兄さんは、シーナさんがただぼくに会いたがっていると言っていましたが……おひとりで改めて来られたわけは、ぼくに相談事、もしくは聞きたいことがあるからではないですか?」
トトの的確な言葉に、シーナはドキッとした。
「えっ……うん……そうだけど……」
トトは自信ありげにうなずき、
「はい……実は、ぼくも少し気がついていたんです」
と神妙な顔つきで言った。
「……えっ?」
シーナはますます驚いて、トトを見つめた。
「率直に言いますと……まったく心配はいらないでしょう。ぼくが見た限り、ヘイザさんは、トーラさんを個人的に気に入ったわけではないと思います」
トトは真剣な顔つきで、きっぱりと言った。
「えっ? 一体……何のこと?」
シーナは、今度は別の驚きに頭を混乱させて、たずねた。
「えっ……と言いますと、違うのですか? ……シーナさんは、ヘイザさんのトーラさんへの態度を気にされていたように思ったのですが……」
トトはあわてたように目を泳がせながら、おずおずと言った。
「あ……トーラさんって、リミトルで最初にトトくんに声をかけて来た……おかっぱ髪の、きれいな魔術師の人?」
「はい……そうです」
シーナはそれを聞くと、恥ずかしそうに笑った。
「すごい、トトくん……気付いてたんだ」
「はい」
「その通りよ……確かにあの時、わたし嫉妬しちゃったの……。だって、ヘイザって、いつもはあんな感じじゃないから……なんだかびっくりしちゃって……」
トトは自信を取り戻したような目になって、シーナを見つめた。
「はい、よくわかります。ですが、ヘイザさんは男嫌いだと聞いていましたから……ぼくはてっきり、ヘイザさんは女性にはいつもあのような態度なのかと思ったのですが……。他の女性への態度と比べても、あの時のヘイザさんはやはりどこか違ったのでしょうか?」
シーナはトトの言葉にはっとしたような顔をした。
「あ……そう言われたら……。わたし、ヘイザが他の女の人と話すところって、全然見たこと無かったんだわ。そっか……ヘイザって、女の人にはみんなにあんな態度なのかも……」
シーナはそう言って、表情を曇らせた。
「でしたら、ただ単に礼儀正しく振舞っていただけでしょう。気にする必要はないと思いますよ」
トトは、なだめるように言った。
シーナはふっとため息をつくと、
「うん……そうね……」
と言って、無理に作ったような笑顔を見せた。
トトはすべてを理解しているような表情で、シーナを見つめながら、
「シーナさん、恋愛に嫉妬は付き物です。しかし、それはある種、強く愛し合っている証拠でもあるのですよ。ヘイザさんも、シーナさんに近付く男性に嫉妬しているでしょう? ここは思い切って、嫉妬という感情を、愛の証として前向きに捉えてみるのはいかがでしょうか?」
と早口で言って、大人びた微笑みを浮かべた。
まるで恋愛相談のアドバイザーのようなトトに、シーナは急に笑いが込み上げて来た。しかし真剣そのもののトトを目の前に笑い出すわけにもいかず、シーナは笑いをこらえながら、
「うん……ありがとう。そうしてみようかな」
と、できるだけ真剣な表情であいづちを打って見せた。
「はい。ぼくでよければ、これからも、いつでも相談に乗りますよ」
トトは満足そうな表情で言った。
——すっかり話が脱線しちゃったわ……。
シーナは苦笑いをしながら、テントに来た本当の目的へと頭を切り替えた。
「トトくん。あのね、実は……」
改まったように口を開いたシーナは、トトの肩越しに見える積み上げられた本とノートに何気なく目をやった。
そして、はっとして一点を凝視した。
トトは戸惑ったように、シーナの視線の先を追った。
シーナはクッションから立ち上がり、
「あれって……トトくんのノート?」
と言って一番上に置かれている真新しいノートを指差した。
「えっ、これですか? は、はい……これは、ぼくなりの考えをちょっとまとめてみただけで、ただのメモのようなものですが……これが、どうかしましたか?」
トトは立ち上がってノートを取り上げると、戸惑った様子でシーナを見た。
そのノートの表紙には、几帳面な字で「リミトルの爆発について」と書かれている。
「うん、わたしもね……リミトルの爆発について、いろいろ考えてたから」
シーナは自分の気持ちを落ち着かせるように、再びクッションに座り、
「リミトルの爆発のことで、トトくんの意見を聞いてもかまわないかしら?」
と強い意志を持った目をトトに向けた。
「は、はい。でも、ぼくは専門家ではないので……正しく答えられるかどうかはわかりませんが……どのようなことでしょうか?」
背筋をぴんと伸ばして座り直したトトに、シーナはたずねた。
「まず……リミトルの爆発は、ルパートさんっていうホームレスの人が起こしたって聞いたでしょう? カメラに映像が残ってたって……」
「はい」
「でも、わたしはルパートさんが自分の意志で起こしたとは思ってないの。誰かにあやつられたんじゃないかって……」
トトはシーナが思っていたよりも、大きな反応を見せた。
「はい! シーナさんは鋭いです。ぼくを含め、ほとんどの魔術師もそう考えていますよ」
その言葉にシーナは、心の中に漂っていた霧が一気に晴れるような気分になった。
シーナは、すぐに次の質問を投げた。
「じゃあ、ルパートさんをあやつっていたのは、どんな人だと思う?」
「一番に考えられるのは、魔術師です」
シーナの胸がドキン、と大きく音を立てた。
——やっぱり……。
トトは得意げな表情になり、説明を始めた。
「なぜ魔術師と考えられるかを、お話しましょう。まず、爆発後に魔物が発生している点。そして、その魔物が普通ではない性質であるという点です。おそらく魔物は性質を作り変えられ、そして呪文によって、爆弾に閉じ込められていたと思われます。それが爆発と共に、この地に発生したのでしょう。このようなことができるのは、魔術をあやつる力を持つ者です」
シーナは大きくうなずきながら話を聞いていた。
トトは一呼吸置くと、さらに続けた。
「しかし、魔術師以外の人間も関わっていると思われます。理由は爆弾の謎です」
「爆弾の謎?」
「はい。自爆テロに使われた爆弾の威力の大きさはご存知でしょう? そして未だに爆弾の種類や出所は謎です。あのような破壊力の爆弾を作るために、おそらく、専門の人間の関わりがあったのではないかと思われます」
「なるほどね……」
シーナは真剣にうなずきながら、シャーロ博士の言葉を思い出していた。
〝——もし、あの薬を飲んだ、もしくは飲まされた人間が爆弾を抱えて爆発すれば、とてつもない大爆発を起こすだろう。町がひとつ消滅するくらいのな……〟
シャーロ博士は、爆弾が特別な物じゃなくても、あの薬を飲んだ人間が爆発すると、薬の威力でとてつもない大爆発になると言っていたわ……。
「シーナさんが、それほどまでに爆発事件について感心を持たれているとは気がつきませんでした。何か特別な理由でもあるのですか?」
トトは、真剣に考え込んでいる様子のシーナにたずねた。
シーナは一瞬間を置き、微笑みながら言った。
「わたしは……オクトルの出身だから。トトくんなら知ってるでしょう?オクトルの自爆テロ事件のこと……今から、12年前かな」
トトは大きく目を見開いた。
「はい、もちろん知っています。シーナさんが、あのオクトルの出身だったとは……」
「あの爆発でわたしは孤児になって、その後は養父に引き取られて暮らしたの」
シーナは落ち着いた様子で、少し冷めたホットティーを一口飲んだ。
トトは同情するようにシーナを見つめた。
「そうだったんですか……それで、爆発事件のことを……。亡くなられたご家族のことを思うとさぞかしつらいでしょう……。シーナさんのお人柄から察するに、シーナさんのご両親は、きっと心優しくすばらしい方たちだったのでしょうね」
「……」
シーナは一瞬、表情をかたくした。
そして、
「——わたしの親は、育ててくれた養父よ」
と言って、目線を下に落とした。
トトはシーナの様子に戸惑ったように目を泳がせ、必死にかける言葉を探しているようだった。
シーナはトトにやさしく笑いかけると、気を取り直させるように、
「トトくんは、オクトルの事件のことはどう思う?」
と新たな質問を投げた。
トトはちらちらとシーナの顔を見ながら、ためらいがちに口を開いた。
「あ、はい、実は……ぼくもオクトルの事件のことは調べていました。リミトルで爆発が起こる前からです……」
「そう……いつから?」
シーナは再び真剣な表情になってたずねた。
トトはシーナの表情に応えるように、しっかりとした口調になって答えた。
「ルビラ山の爆発の時です。噴火ではないと報道された時……歴史の授業で学んだオクトルの事件のことを思い出さずにはいられませんでした。大きな爆発だったので、何か関係があるのではないかと思って……」
「わたしもそう思ったの。オクトル、ルビラ山、リミトルの爆発は、やっぱり関係があると思うでしょう?」
シーナは思わず身を乗り出した。
しかしトトは、首を横に振って、
「それは、まだわかりません」
ときっぱりと言った。
「まず、オクトルの爆発は、他の2箇所には比べ物にならないすさまじい大きさでした。ルビラ山とリミトルの爆発は同等と言われ、オクトルより小規模です。しかし異常な魔物が発生するなど、手の込んだ悪意を感じます。おそらくルビラ山とリミトルの事件を起こした人物は同じでしょう」
「じゃあ……オクトルの事件を起こしたのは、また別の人っていうこと?」
「はい……断定はできませんが、ぼくはそう思っています。ルビラ山とリミトルの事件を起こしたのは、オクトルの事件に影響を受けた摸倣犯のような人間なのではないかとぼくは考えています」
「そう……」
シーナはそっとトトから目をそらした。
……じゃあ、オクトルの事件の真犯人は、どうしてるのかしら……。
その時、テーブルの端に置かれていた小さなデジタル時計が点滅を始めた。
「あ……」
トトはすぐに時計を取り上げ、スイッチを押して点滅を止めた。
「すみません。アラームを切り忘れていて……」
トトは申し訳なさそうに言った。
「何のアラームなの?」
「あ……ただ、朝の行動を調整するためです。勉強を止めて、ちょっと休憩する時間を作っていて……」
トトはなぜか恥ずかしそうに目を伏せ、もじもじとして言った。
シーナはその様子に、
「そう……もしかして、トトくんが好きなDVDでも見る時間だった?」
と冗談っぽく笑って言うと、トトは驚いたように顔を上げて、首を横に振った。
「いいえ! DVDは持ち出せないです……師匠のですから……。本ですよ。小説です」
「小説? おもしろそうね」
シーナはあわてた様子のトトを見て、おかしいのをこらえながら、あいづちを打った。
すると、トトは急にテントの端の本の山を片付け始め、隠すように置かれていた一冊の本を引っ張り出して来た。
本の表紙には、若く美しい男女がうっとりと見つめ合っている絵が描かれていた。
表紙の絵から察すると、この本は、おそらく十代後半から三十代くらいの女性向けだろう。
「素敵ね」
シーナは、まだ子供のトトがこんな本を読んでいることに、改めて少し驚きと気恥ずかしさを感じながらも、そう感想を述べた。
「はい、そうなんです。このふたりは、実はいとこ同士なんです。でも、そのことを知らずに愛し合ってしまい、周りに大反対をされ、駆け落ちをします。ところが、すぐに女性は家族に無理やり連れ戻され、男性は女性をあきらめようと、一度は他の女性と付き合い始めます。しかし! ふたりの愛は強く、再び駆け落ちをするんです。今後どうなっていくのか、非常に興味深いストーリーです。ぼくもまだ読んでいる途中ですが……」
トトは急に饒舌になり、生き生きとして、あらすじを説明した。
「そうなの……なんだか大変そうね」
シーナは苦笑いをしながら、本をぺらぺらとめくった。
「えっ……」
本をめくると、そこには、シーナには読めない不思議な形の文字がぎっしりと並んでいた。
「あ、これは外国語で書かれているんです。これなら、もし師匠に見つかっても、外国語の勉強のために読んでいると言えますから……」
トトは小さな声になり、恥ずかしそうに言った。
「外国語の本が読めちゃうなんて……トトくんって本当にすごいんだ」
シーナは感心したようにそう言って、そっと本をトトに返した。
「いいえ……それほどでも」
トトは大事そうに本を受け取ると、はにかんだような表情を見せた。
「じゃあ、わたしはそろそろ帰るわ」
「えっ? あの、どうか気にならさずに……」
シーナが腰を上げると、トトはあわてたように立ち上がった。
「ううん、いいの。そろそろテントに戻って、ヘイザの様子を見に行くわ。それに、トトくんの読書の邪魔しちゃ悪いもの」
シーナがそう言っていたずらっぽく微笑むと、トトは恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
「……お気遣いありがとうございます。今日は来ていただいて、ありがとうございました」
「うん。トトくんと、これからもいろいろお話できると心強いわ」
「はい、ぼくでよければ……」
シーナはテントの端でぐぅぐぅと寝ているソウをちらりと見た。
「ソウくんには、よく寝てたから起こさなかったって言っておいてね」
「あ、はい……わかりました」
「じゃあ、またね、トトくん」
「はい。ヘイザさんによろしくお伝えください」
礼儀正しく手を振るトトに見送られ、シーナはテントを出た。
外はうっすらと明るくなっていた。
シーナはトトと話したことを思い出しながら、ゆっくりと歩き始めた。
——わたしが考えていた通りだった。
爆発事件は、やっぱり魔術師があやつってるんだわ。
もし、トトくんの言う通り、ルビラ山とリミトルの爆発が摸倣犯の仕業だったとしても、オクトルの真犯人はやっぱり博士に薬を作らせた魔術師じゃないかしら。
その魔術師はどうしているんだろう……
そして、残りの薬はどうなってるんだろう……
結局、シャーロ博士のことは、トトくんに言えなかった。
言おうと思って来たのに……いざとなると、政府の魔術師と関わりがあるトトくんに簡単に話していいのかどうかわからなくなって……躊躇しちゃったわ。
シーナはふうっとため息をついた。
……まぁ、どうしても今日じゃなきゃいけなかったというわけじゃないし……。
シーナは自分を納得させるように、心の中でそうつぶやいた。
そして、ふいにトトに言われたある言葉を思い出し、苦笑いを浮かべた。
〝シーナさんのお人柄から察するに、シーナさんのご両親は心優しくすばらしい方たちだったのでしょうね……〟
あの時は……嘘をつけなかった。
——わたしの両親……
シーナは歩きながら再びため息をついた。
自分たちの遊びに夢中だった若い父と母の記憶がよみがえる。
いつもきつい香水のにおいを振りまいて、着飾ってパーティに出かけるのが好きだったパパとママ。
シーナと1歳違いの妹のアイナは、入れ替わりやって来る家政婦たちに世話をされていた。
爆発があった日は、めずらしくパパとママが家にいて……わたしは居心地が悪くって、泉に出かけた。アイナはめずらしくママが家にいるのを喜んでた……アイナは邪険に扱われても、いつもママのそばにいたがって……。
シーナはそこで記憶を振り払うように、目を閉じて首を振った。
わたしはシャーロ博士に引き取られて、家族の愛や、親子の愛を知った。
シャーロ博士のためにも、博士に悪い薬を作らせ、盗んだ真犯人を見つけたい……。
〝都会では、大勢の中に紛れて目立たないように暮らすんだ……〟
〝わたしの名前は口にするな……〟
最期の時、シャーロ博士はそう言った。
だけど、それはわたしが何もできない弱い子だったからよ。
シャーロ博士は、本当は、誰かに薬を見つけ出して爆発事件を阻止してほしいって思ってたはずだわ。
シャーロ博士……わたし、ウォートル村を出て、少しは強くなったのよ。
シーナは心の中でシャーロ博士に呼びかけると、強い意思を持った目をして、ヘイザが待つテントへと足を早めた。

- -

第12章

新たな旅立ち

——ちょっと遅くなっちゃったかな……。
トトと話した後、売店で買い物をしたシーナは、急ぎ足でテントへと戻った。 
「ヘイザ?」
テントの前で呼びかけたが、中から反応は無い。
まだ寝てるのかな……
無理に起こすこともないわね……
シーナはウェストバッグからキーを取り出し、音を立てないように、外からテントのロックを解除しようと手を伸ばした。
「シーナ!」
背後から突然呼ばれ、シーナは驚いて振り向いた。
「あ、ヘイザ! ……」
すぐ後ろに、ターバンで顔を覆ったヘイザが両手を腰に当てて、立っていた。
「もう大丈夫? どこか行ってたの?」
シーナがたずねると、ヘイザはターバンを引き下げ、大げさにため息をついた。
「それを聞きたいのはこっちよ、シーナ。一緒に買い物に行こうと思って待ってたのに。ちっとも帰って来なくて心配したわ。一体どこにいたの?」
「あ、ごめんね……トトくんたちのテントに行ってたの」
「こんな早朝に?」
けげんそうな顔で近付いたヘイザのウェストバッグに、シーナは目を止めた。
閉まりきっていないチャックの隙間から、無造作に突っ込まれたような札束の角が見えている。
千ゴールド札の束?
大金だわ……
シーナの瞳に失望の影が射した。
……ヘイザったら、いつの間にリミトルで換金屋を見つけたのかしら?
昨夜は、お母さんに嘘ついてスリになったことを、嘆いてたのに……
やっぱり酔っ払いの言葉なんて……
「一体、何の用で? こんな時間じゃ、トトとソウなんて寝てるでしょ?」
ヘイザはいっそうけげんな顔で、シーナに詰め寄った。
「そのわけは後で話すわ……。それより、ヘイザったら……」
シーナはヘイザと目を合わさず、ウェストバッグを見て、悲しそうにため息をついた。
「わたしが、何?」
ヘイザは困惑したように、両手を広げて見せた。
「ううん……いいの。最初からわかってたことだもん。わたしがとやかく言えることじゃないわ……」
シーナは力なくヘイザに背を向けると、テントのロックを外し、入り口を開けた。
「ちょっと待って、シーナ……」
ヘイザは背を向けてテントに入ったシーナを追いかけるように、テントをくぐった。
ヘイザがテントに入ると、シーナは急に振り返り、声をひそめて言った。
「だけど……ここは危険なんでしょう? 政府に雇われてる人がいっぱいいるんだから。いつもは用心深いヘイザが、どうして……」
「ちょっと待ってってば。わたしが何をしたって言うの?」
ヘイザはシーナの言葉をさえぎり、あきれたようにたずねた。
「……仕事したんでしょう? ヘイザの本当の仕事……そのお金見たらわかったわ……」
シーナは悲しそうに、ヘイザのウェストバッグを指差した。
「あぁ、これね……シーナは、わたしがここで稼いだと思ったわけ?」
ヘイザはシーナの顔を覗き込んで、おかしそうに笑った。
「えっ、違うの? ……だったら、そんな大金どうしたの?」
シーナは思いがけない反応に、面食らったようにたずねた。
「ディスペンサーで引き出して来ただけよ。全部、わたしが蓄えてた現金。シーナが田舎から持って来たお金には一切手を付けてないから、心配しないで」
「そんなこと心配してないわ。わたしが知りたいのは、そのお金を何に使うのかってこと……」

- -

ヘイザは機嫌のよさそうな笑顔を見せながら、
「新しい人生のためよ。シーナもわたしも、もっといい防具を買った方がいいわ。身の守りには、しっかりお金かけとかないとね」
と言って、不安そうに見つめるシーナの頬をなでた。
シーナはごくりとつばを飲みこんで、期待を込めたまなざしでヘイザをじっと見つめた。
「新しい人生って……?」
「あら、忘れちゃったの? 言ったでしょ。わたし、これからはシーナと一緒に魔物討伐の仕事をするって」
シーナは信じられないと言う表情で、目を大きく見開いてヘイザを見た。
「うれしくないの?」
ヘイザはからかうように、言葉が出ないシーナに笑いかけた。
シーナはみるみる満面の笑顔になり、
「すごく……うれしい!」
と飛び跳ねるような勢いで、ヘイザに抱きついた。
「あー、よかった。喜んでくれないのかと思って、心配しちゃったわ」
ヘイザは両手でシーナを抱きとめ、ふざけたように笑いながら言った。
「だって信じられなくって……ずっとヘイザは冗談で言ってるのかと思ってたから……。ヘイザがスリじゃなくなるなんて……本当に夢みたい。普通の恋人同士みたいに、普通の生活ができるようになるなんて……」
シーナはうれしくて仕方ないというように、きらきらした瞳でヘイザを見上げた。
ヘイザは決まり悪そうに苦笑いをし、
「それはどうかしら……残念だけど、わたしの過去が消えるわけじゃないわ。これからも慎重に暮らすのは変わらないし、もしお金に困ったら、たまにはスリをやるかもね」
と軽い口調で言いながら、反応をうかがうようにシーナを見た。
「……そっか……」
シーナは一瞬がっかりしたような表情になったが、すぐに気を取り直したようにヘイザを見上げ、
「でも……それでもいい。毎晩スリを仕事にしてるよりは、ずっとマシだわ」
と言って再び笑顔を見せた。
「わたしもできるだけ、やらないようにするわ。稼ぎのいいナイフ使いになるには、もっと腕を上げないといけないわね……新しいナイフも買おうかしら」
ヘイザは楽しげな口調で言った。
「じゃあ、すぐ買い物に行く? 政府公認の武器屋さんがあったよね?」
シーナはすぐにもテントを出るような勢いで、うれしそうにヘイザから体を離した。
「待って、その前に何か食べない? シーナもお腹すいてるでしょ?」
ヘイザはシーナの手を取って、自分の腕に引き戻した。
「あ、うん……あんまりうれしくって、お腹すいてることも忘れちゃってたわ」
シーナはおかしそうに笑って、買い物袋を手に取り、
「ミートパイとドーナツ買って来たの。このドーナツはね、さっきトトくんと一緒に食べて、おいしかったから……」
と言って、袋の中をヘイザに見せた。
ヘイザははっと気付いたように言った。
「そういえば、なんでトトたちのテントに行ったのか、まだ聞いてなかったわ」
「あ、そうね。今、お茶入れるからちょっと待ってて。食べながら話すから……」
シーナは楽しそうにハミングをしながら、お湯を沸かす準備を始めた。

「——ルパートってホームレスをあやつって、リミトルをこんなふうにしたやつはどこかでのうのうと生きてるってわけね。なんとかして見つけ出して、警察に突き出してやりたいわ」
ヘイザはシーナの話を聞くと、苦々しい表情でそう言った。
シーナはヘイザの言葉に、背中を後押しされるような心地よさを感じていた。
——リミトルに来る前、初めてヘイザにシャーロ博士の薬のことを打ち明けた時は……
〝危険だから関わらない方がいい〟って感じだったのに。
シーナは、ヘイザの考えが変化し、自分と同じ目線になったことをうれしく感じていた。
「わたし、トトくんにシャーロ博士の薬の話をしてみようと思ってるの……」
シーナはそう言って、眠そうにあくびをした。
食事をして胃が満たされたことで、急速に睡魔に襲われ始めていたのだった。
「シーナ、もう寝た方がいいわ」
ヘイザはブランケットを引っ張って、ラグの上に横たわったシーナの体の上にかけた。
「ヘイザは……眠くないよね……」
シーナは眠そうな目でヘイザを見上げ、おかしそうに笑った。
「まぁね。だって、シーナが仕事してる間、ずっと寝てたんだから」
「ヘイザの方が、今夜つらいかも……昼夜逆転しちゃってるもん……」
「そうね」
ヘイザは、眠そうなシーナに寄り添って、やさしく髪をなでた。
シーナは心地よさそうに目を閉じ、
「ねぇ、トトくんに……シャーロ博士のこと……言っていいよね?」
と途切れ途切れになりながら、弱々しくたずねた。
「どうかしら。少し慎重になった方がいいかもしれないわ……シーナ?」
ヘイザの答えを待たずに、シーナの呼吸はすでに寝息に変わっていた。


「ちょっと、シーナ」
その夜の夜間討伐は、始まったばかりだった。
ヘイザは、隣でポニーテールを揺らしているシーナの肘を軽くつついた。
「うん?」
夜間討伐に徐々に慣れて来たシーナは、余裕の笑顔でヘイザを見た。
「ねぇ、あれってトトじゃない?」
「えっ……」
ヘイザの視線を追うと、夜間討伐の休憩場所の近くに、ローブを着たモヒカン頭の少年がそわそわした様子で立っているのが見えた。
「何か用があるんじゃないの?わたしがここにいるから、シーナ、行って来たら?」
「うん……もしかしたら、今朝の話の続きかしら? 何か新たな話が聞けるかも」
シーナの目つきが変わった。
ヘイザはシーナの腕を取り、ターバンの奥から鋭い目を覗かせて言った。
「シーナ、わかってるでしょ? 博士の薬の話は……」
「うん、わかってる。まだ言うつもりないわ」
シーナはヘイザの目に微笑んだ。
ヘイザはほっとしたように軽くうなずいて、真新しい鋼のナイフを手に、体の向きを変えた。
「じゃあ、行って来るね」
シーナは、低級魔物にちょうどナイフを振り上げたヘイザの背中に声をかけ、休憩所へと駆け出した。
「——トトくん」
「シーナさん、すみません」
シーナが休憩所に着くやいなや、トトはあわてたように駆け寄って来ると、
「ここで休憩時間まで待っていますから、ぼくのことは気にせず、お仕事にお戻りください」
と困ったような表情を浮かべて言った。
「大丈夫よ、今夜はヘイザがいるから」
シーナはにっこりと微笑んで、空いているベンチを手で示した。
「あ、はい、すみません……」
「それで、今夜はどうしたの?」
トトがベンチに座ると、シーナは隣に腰かけて、すぐにたずねた。
トトは背筋をぴんと伸ばし、シーナに体を向けた。
「ぼくたち魔術師のマーモ討伐も、明日で終了する予定です。ここを離れてからも、シーナさんと連絡を取り合うことはできますか?」
トトが爆発事件に関する新たな情報を持って来たのではないことに、シーナは一瞬がっかりした。しかし、明日ここを離れ、トトたちと別れることを思うと、胸にぽっかりと穴が開くような寂しさを感じた。
「うん、もちろん。連絡を取り合いましょう。ヘイザとわたしは、これから新しい住まいを探すところだから、トトくんの連絡先を聞いておいて、落ち着いたら連絡するわ」
「はい、わかりました。ありがとうございます。あの……シーナさん」
トトは急に周りを気にするように、小声になった。
「うん?」
「実は……ぼくはリミトルを出たら、師匠のところへは帰らずに、グレイトルへ行くことになりました」
トトは知的な丸い目で、まっすぐにシーナを見た。
「えっ? グレイトルって、フロートルの次に大きい都市って言われてるところよね? わたしは行ったことないけど……」
シーナは戸惑った様子で、そう言った。
「はい、グレイトルはフロートルの東に位置する大都市です。ぼくは爆発事件を調べるために、そこへ行きます」
「爆発事件のために? どういうこと?」
シーナはトトの話がつかめず、焦るように早口でたずねた。
トトの目は強い意思を表すように輝き出し、声はさらに小さくなった。
「実は……噂があるんです。ぼくの師匠と周りの魔術師たちの間で、密かにささやかれている噂です。ルビラ山の爆発が起こる1年ほど前から、怪しい行動をしている年配の魔術師がいて、彼がルビラ山とリミトルの爆発に関わっているのではないかと考えられています。しかし、まだ警察もまだ彼を調べてはいないようですし、ぼくの師匠は、警察よりも早く証拠をつかめないかと考えているんです」
「それで?」
シーナは身を乗り出した。
「その魔術師は現在、グレイトルにいることがわかっています。もし何か証拠をつかむことができたら、次の爆発を防ぐことができるかもしれません。つい先ほど、師匠から電話でグレイトルへ行く任務を命じられました」
シーナは次々に飛び出す新たな情報を、懸命に頭で整理しながら言った。
「でも……次の爆発がグレイトルかもしれないってことでしょう? そこへ行くなんて、危険じゃないの?」
「大丈夫です。彼はいつも爆発が起こる時は、その現場にいません。しかし、爆発が起こる数ヶ月前にその場所に訪れています……おそらく視察ではないかと」
シーナはトトの言葉を理解したように、大きくうなずいた。
トトは再び周りを気にするようにしながら、
「このお話は口外しないよう、お願いします。師匠も多くの人には話していない情報ですから……」
と言って、シーナの目を見つめた。
「うん……その怪しまれてる魔術師のことは、トトくんは前から知ってたのね」
「はい。今朝はお話できなくて、すみません。師匠から口止めされていたものですから」
「そうだったの……話してくれてありがとう。ねぇ、この話は……ヘイザにも言っちゃだめかしら?」
シーナがたずねると、トトは苦悩するような表情になった。
「できれば話を広げたくないのですが……しかし、恋人同士の間の隠し事というのは、もっとも良くない行為のひとつです……わかりました、ヘイザさんだけにはお話してかまいません。ただし、それ以上は広げないようにお願いします」
「わかった。約束するわ」
シーナは、トトの目をしっかりと見つめて言った。
「はい。えぇと、では、先ほどの話に戻りますが、リミトルを離れても連絡を取れるようにしておきましょう。グレイトルで何か進展があれば、お知らせしますから」
トトは、話したいことはすべて話したという様子で、声のボリュームを普通に戻した。
「グレイトルへは、ソウくんも一緒に行くの?」
「いいえ、兄さんはお寺へ帰らなければいけないでしょうから……」
トトは淡々と話そうとしているようだが、沈んだ表情になって言った。
「じゃあ、トトくんの師匠さんと?」
「いいえ、師匠は行くことができません。相手の魔術師に知られすぎていますから。もし見つかれば、すぐに相手は警戒するでしょう。ぼくは魔術師ということを隠して、普通の子供のふりをしていれば、相手に気付かれることはありませんから……こっそりと魔術師の動向を探ることになっています」
「じゃあ……誰と行くの?」
「ぼくひとりです」
「えっ……その魔術師は、爆発事件を起こすような人かもしれないのに……子供のトトくんが、ひとりでそんな危険な人の動向を探るの?」
シーナは心配そうな顔で言った。
トトは、やわらかく微笑んだ。
「心配していただいて、ありがとうございます。でも、ご安心ください。ぼくは、自分で自分の身を守る自信はありますから」
「だけど……」
シーナはそこでトトの顔を覗き込むように見つめた。
「ねぇ、トトくん。その話を警察に言ったらどうかしら? ……何も、トトくんがこっそり動向を探らなくても……」
「いいえ、これはチャンスなんです。この事件の証拠を早くつかめば、師匠は出世できるかもしれないと期待しています。そして、それはもちろん、ぼくの将来にも大きく関わって来ることです」
シーナの頭で、トトの言葉がどこか別世界の人間のもののように響いた。
「そうかもしれないけど……。トトくんの師匠さんだって、トトくんの親代わりでもあるんだから、きっと心配なはずだわ……」
「師匠は確かに親代わりですが、親とは違います。師匠がぼくを弟子にしてくださったのは、ぼくの働きが師匠のキャリアになることを期待したためですから」
トトは表情を変えずに淡々と話し続けた。
「魔術師は、孤児を弟子にしたがります。理由は、たとえ弟子が任務に失敗して命を落としても、孤児ならば、両親から訴えられることもないですし、単なる事故死として処理することができるからです」
シーナはショックを受けたような目で、トトを見つめた。
恋愛ドラマが好きという、トトの師匠の愛情深いイメージが壊れて行くような気がした。
トトはシーナの目の色に気がつくと、
「仕方がないことなんですよ。ぼくの師匠のように地位のある方たちは、出世欲が強い世界で生きていますから。大きく出世をするには、時にはリスクが必要です。ぼくは師匠の期待に応えなくてはなりません」
と大人びた笑みを浮かべた。その目はどこか冷たく、感情の無い目つきのように見えた。
シーナはトトの心の裏側を垣間見てしまったような気がして、胸が苦しくなった。
トトの子供らしくない話し方や、子供らしくない気遣いの仕方がどのように身に付けられて来たのか……キャリアを気にして生きる大人の元で成長し、自然にそうなってしまったのかもしれないと感じた。
シーナは思わず手を伸ばし、トトの頭を軽くなでた。
隙なくきれいに整えられ、しっかりと固められた冷たいモヒカンの髪に触れると、さらに胸が詰まるような気がした。
トトはまっすぐにシーナを見つめ、
「シーナさんは、お優しい方ですね」
と言って、はにかんだ笑みを浮かべた。
シーナは言葉が見つからず、黙って微笑みを返した。
「兄さんが言ってたんです……シーナさんは、お母様のようだと。そのようなことを言うのは、天国のお母様にも、シーナさんにも失礼に当たるとずっとぼくは言って来たのですが……」
トトはそう言って、やさしい笑みを浮かべ、
「ぼくらのお母様がもし生きていらしたら……シーナさんのような方かもしれません」
と純粋な瞳をして言った。
シーナはさっきとは違う感情で、また胸がいっぱいになるのを感じた。
「あっ……いけません、ヘイザさんが心配しているようです。そろそろシーナさんをお返ししなくては」
トトに言われ、広場へ目をやると、ヘイザがこちらを気にするように振り返っているのが目に入った。
「では、明日はリミトル最後の日ですので……ぜひ、ヘイザさんと一緒にぼくたちのテントに来てくださいね。おふたりで過ごす時間の邪魔にならない程度でかまいませんので……」
トトはいつもの子供らしくない気遣いをする子供に戻り、礼儀正しく手を振って広場を出て行った。
シーナは寂しそうな表情でトトを見送ると、急ぎ足でヘイザの元へと戻った。

***

トトを含めた魔術師たちは、リミトルに残っていたすべてのマーモを討伐した。
マーモがいなくなると、いつの間にか低級魔物の姿も消え、低級魔物討伐も途中で打ち切られた。
焼け野原となったリミトルの地に、平和な静けさが戻りつつあった。
広場は片付けられ、魔物討伐者たちは次々と帰り支度を始めていた。
「トトくん」
テントの前で呼びかけると、すぐに入り口が開いた。
「シーナさん、ヘイザさん……」
トトはしんみりした表情で顔を出し、同時に軽く驚いたようにふたりの全身に目を走らせた。
「防具を一新されたのですか?」
「うん、そうなの。似合う?」
ピンクのワンピースタイプの防御服を着たシーナは、うれしそうにレースの付いたスカートのすそをひらひらさせた。スカートは短めだったが、そこから伸びた健康的な白い脚にはしっかりしたひざ当てを付け、ぴかぴか光る丈夫そうな銀色のブーツを履いている。
「はい、とてもよくお似合いです」
「ヘイザのはどう? マントより、こっちの方がカッコいいでしょう?」
シーナは機嫌よくヘイザを見て言った。
ヘイザは顔には相変わらずターバンを巻いていたが、いつもひるがえしていたマントの代わりに、ぴったりとしたノースリーブのジャケットを着て、すらりとした黒いレギンスを履き、丈夫で軽そうなブーツを履いている。ほどよく筋肉の付いた形の良い腕には、強いオーラを放つ腕輪が光っていた。
魔術師のトトには、それらの防具すべてに何らかの魔法がほどこされており、同時にそれなりの値打ち物だろうということも瞬時にわかった。
ターバンの奥のヘイザの目は満足そうに微笑んで、シーナの肩を抱いた。
「はい、ヘイザさんも、とてもよくお似合いで……」
トトはどこか寂しそうな表情でふたりを見つめながら、
「あ、どうぞ、お入りください」
と言って、テントの入り口をふたりに向けて大きく開けた。
「あれ……ソウくんは?」
シーナは、荷物がまとめられてがらんとしたテントを見回して言った。
「魔術師の皆さんの最後の体力回復に行っています。すぐに戻ると思います」
「そうなの……。ねぇ、トトくん。あのね」
シーナはにっこりと笑ってトトを見た。
「はい……?」
「わたしとヘイザもグレイトルに行くの」
「えっ……」
驚いて目を丸くしたトトに、ヘイザはターバンを外し、
「偶然ね。あんたと行き先が同じなんて」
と言って、冗談っぽくにやりと笑って見せた。
シーナはヘイザの言葉に、ふふっと声を立てて笑った。
「トトくんが迷惑じゃなかったら、一緒に行っていい?」
「それは、うれしいお言葉ですが……ぼくは、グレイトルにはどのくらい滞在するかもわかりませんし……シーナさんとヘイザさんにはお仕事があるのでは……?」
言葉とはうらはらに、トトの瞳は期待するようにシーナとヘイザを交互に見つめた。
「わたしもヘイザも、どこにも属してないフリーのムチ使いとナイフ使いだから大丈夫よ」
シーナは楽しそうに言った。
「ヘイザさんの護衛のお仕事は、いいんですか?」
「その仕事は、しばらく休業するの」
ヘイザはそう言って、すがすがしい表情でトトを見た。
「そうなんですか……ありがとうございます」
トトはようやく素直な笑顔を見せた。
「トトくん」
シーナはトトに歩み寄り、やさしく肩に手を置くと、
「師匠さんがトトくんを守ってくれなくても、わたしとヘイザが守ってあげるからね」
と言って、微笑んだ。
「あんたとソウに、一度は命を助けてもらったお礼よ」
ヘイザが、シーナの後ろから歩み寄ってそう言った。
「……シーナさん、ヘイザさん……」
トトは感動したように、丸い瞳を小さく震わせながら、シーナとヘイザを交互に見つめた。
「ソウくんが一緒に行けないのが残念ね……」
シーナがぽつりとつぶやいた時、テントの入り口が勢いよく開いた。
「あっ、シーナ! ヘイザ!」
元気な声と共に、ソウがバタバタとテントに入って来た。
「ソウくん、おかえり」
シーナはうれしそうに微笑んだ。
「あれっ……シーナもヘイザも服買ったのか? ヘイザは、ナイフも新しいじゃん!」
「そうよ。よく気付いたわね」
ヘイザが腰から新しい鋼のナイフを取り出して、よく見えるように掲げて見せた。
「うわぁ……ピッカピカだな!」
ソウが感心したように大きな声で言うと、ヘイザはふざけて、ソウに向ってナイフを構える格好をした。
「——お、おい! オレを切るなよ!」
ソウがおおげさにのけぞると、ヘイザはおかしそうに笑いながら、ナイフを腰に戻した。
「あー、びっくりした! 悪い冗談やめてくれよ、今日が最後の日だってのにさ」
ソウがおおげさに胸をなでおろし、シーナはどこか寂しそうな表情で笑った。
「あの、兄さん」
「シーナ、ヘイザ、まだ時間あるんだろ?」
トトの言葉をさえぎり、ソウが大きな声でたずねた。
「あ、うん」
シーナが微笑んで、そう答えた。
「じゃあ、最後に一緒になんか食おうぜ! まだ売店やってたからさ」
そう言って、テントを出ようとくるりと背中を向けたソウの腕を、トトがあわてたようにつかんだ。
「兄さん、待ってください」
「何だよ? 早く行かないと、売店終わっちまうだろ? 最後の飯を……」
「いいえ、最後ではないんです!」
「——え?」
ソウはまじまじとトトを見つめ、シーナとヘイザも驚いたようにトトを見つめた。
トトはソウに向かい、
「シーナさんとヘイザさんも、グレイトルに行くんです」
と言って、今度はシーナとヘイザの方に向き直った。
「兄さんも、グレイトルに行くことになったんです」
一瞬の間の後、
「やった! また4人で行くんだな!」
ソウは大きな声を上げて、飛び上がった。
「うん、ソウくんもまた一緒でよかった」
シーナも明るい表情で、ソウに笑いかけた。
「あぁ! やっぱ回復も闘いもできる、万能なこのオレがいないとダメだろ?」
ソウは胸を張って見せた。
「あんたがいれば、万が一、死にかけても安心だしね」
ヘイザがからかうように、ソウの坊主頭を人差し指でつついて言った。
「でもソウくん、お寺は大丈夫なの?」
シーナが心配そうに、たずねた。
ソウが答えるより早く、トトが前に進み出た。
「はい。僧侶で棍棒も扱える兄さんがいれば、ぼくが任務を務めやすくなるという理由で、ぼくの師匠に協力してもらいました」
「そうなんだ! オレの師匠もなんか喜んでたみたいだし」
ソウがうれしそうに口をはさんだ。
「はい。リミトルでの兄さんの活躍がすばらしかったので、もう少しの間、兄さんに人助けを手伝って欲しいと、ぼくの師匠が兄さんのお寺に電話をしたんです。兄さんの師匠さんは誇らしい様子だったと聞きました」
「あぁ! 今は師匠もオレの活躍を期待してるんだ。まかせとけ、悪いやつはオレが成敗してやるからさ」
ソウは張り切ったようにそう言って、トトの肩を叩いた。
「ちょっとソウ、あんたひとりでやるつもり? わたしだって、リミトルの敵を打ちたいんだけど?」
ヘイザがふざけたような口調で言った。
「じゃあ、オレの背中をあずけてやるよ。ヘイザもけっこう強いからな」
「〝けっこう〟なんて、ずいぶん生意気言うわね。あんたがわたしの背中を守ったら?」
「あの、ちょっと……兄さん、ヘイザさん……そんな物騒なことを言われては困りますよ。グレイトルでの任務は、魔術師の動向を探ることです。武器で闘って倒すことではないんですから……」
トトがあわてたように、ソウとヘイザの間に割って入った。
「わかってるよ! でも、その魔術師は悪いやつなんだから、もし追われてるってわかったら、オレたちを襲うかもしれないだろ? そういう時は受けて立つってことさ。なぁ、ヘイザ?」
「まぁ、そうね」
ヘイザは楽しげに微笑んで、ソウに同意した。
「しかし……相手の魔術師を死なせてしまっては、兄さんやヘイザさんの罪になってしまいます。ですから、いかなる状況でも、武器を用いることはできるだけ避けてくださらないと……」
トトは本気であわてているようだったが、ソウとヘイザは楽しげに会話を楽しんでいるように見えた。
シーナは3人のやりとりを、にこにこと笑みを浮かべながら見つめていた。
シーナの心に、グレイトルへ行く不安はまるで無かった。それよりも、ソウとトトと別れずに一緒にグレイトルへ行けることがうれしく、わくわくと心躍るような気分でいっぱいなのだった。

- -

第13章

疑惑の魔術師

特急列車で約1日かけ、シーナ、ヘイザ、ソウ、トトの4人は大都市グレイトルに到着した。
4人は街に溶け込めるよう、まず身支度を整えた。
グレイトルにはターバンを巻いた女性があまりいなかったため、ヘイザはターバンを外し、代わりにファッション用のサングラスをかけ、キャップをかぶった。シーナも同様に、流行のサングラスとキャップを買った。流行のサングラスは色が濃く、顔を隠すのには持ってこいのアイテムだった。
ソウとトトは、グレイトルの子供がよくかぶっている、ねじり編みのニット帽を買った。そして、トトの師匠に与えられた情報を元に、4人は中級のホテルを確認し、そのホテルがよく見える向かいの小さなホテルにチェックインした。
シーナとヘイザは、ソウとトトがチェックインした後、時間を置き、他人のフリをして部屋を取った。

「やっぱりシャワーって最高よ。ドライソープやドライシャンプーとは違うわ」
ホテルに着くと真っ先にバスルームに向かったシーナは、バスタオルを巻き付けて出てくると、まだ濡れた髪をときながら、鏡の前でうれしそうにヘイザに声をかけた。
昼間なのに暗い部屋で、カーテンの隙間から双眼鏡で外を覗いていたヘイザは、何か答えようとバスルームに顔を向けた。しかし同時に、シーナがドライヤーのスイッチを入れたため部屋中にブーンという大きな音が響き出し、ヘイザは再び双眼鏡に目を戻した。
「ね、聞いてた? 体中がさっぱりしたって感じなの」
薄いキャミソールに、フリルの付いたショートパンツを履いたシーナが、コームで長い髪をとかしながらバスルームから出て来た。
ヘイザは双眼鏡から顔を離し、シーナを見つめると微笑んだ。
「聞いてたわ」
ヘイザは腕を伸ばしてシーナを抱き寄せると、洗い立ての香りに包まれながら、ほんのりピンクに染まった頬にキスをした。
「何か動きあった? あのダロって人」
シーナはヘイザの背中に手を回しながら、カーテンの隙間を覗いた。
「何にもないわ。部屋にカーテンもかけずに、だらしない姿で、ずーっとTV見てるだけ。あんな隙だらけのバカみたいな男が、爆発事件を起こしてるなんて考えられる?」
ヘイザはあきれたようにそう言って、シーナに双眼鏡を手渡した。
シーナが双眼鏡を覗くと、小太りの年配の男が、ベッドに寝転んでTVを見ている様子が見えた。だらしなくワイシャツのボタンを開けたまま、時おり、薄くなった頭をぼりぼりと掻いている。
「確かにね……」
シーナは顔をしかめて、双眼鏡から目を離した。
「あんなやつを見張ってたら、わたしの男嫌いがさらにひどくなるわ」
ヘイザは大げさに身震いして見せると、目の前のシーナの胸元を覗き込み、
「ここを見張る仕事に変更しちゃおうかしら……ま、こっちは見張るだけなんて無理だけど」
と言って、シーナの胸元に手を差し入れようとした。
「ダメよ、ヘイザ。いつ、あの人が外出するかもわからないんだから……ソウくんかトトくんから連絡があったら、すぐ行かなくちゃいけないし……」
シーナは頬を赤らめて、ヘイザの手を押し戻した。
「大丈夫よ。あんなやつ、しばらくどこへも行きそうにないわ」
「もう、ヘイザったら……」
ヘイザに抱きすくめられ、シーナは困ったように微笑みながら、隙間の開いたカーテンをぴったりと閉めようと手を伸ばした。
「あ……待って!」
シーナは声を上げて、あわてたように双眼鏡を取り上げた。
「何なの?」
「誰か来たみたい!」
シーナは双眼鏡を覗き込み、すぐにヘイザに手渡した。
「恋人かな?」
シーナが外を覗いたまま、たずねた。
「あの男の? まさか……若くはないけど、けっこうきれいな人じゃない……あんな男にはもったいないわ。コールガールか何か呼んだんじゃないの?」
「あんな地味な人が、コールガールなんて。そんなはずないわ……」
男が親しげに肩を抱いて話しているのは、40代くらいの地味な印象の女性だった。深緑のカーディガンに、ロングスカートを履き、黒っぽい髪は後ろにきちっと束ねられている。清楚な美人と言った印象の女性だった。
「まぁね……でも、あんな男の恋人になるなんて……気が知れないわ」
ヘイザは眉間にしわを寄せながら言った。
「ヘイザはどんな男の人でも、気が知れないでしょう?」
シーナは苦笑いして、再び双眼鏡に目を戻して言った。
「恋人って言うより、奥さんって感じだけど……あのダロって人は、未婚で結婚歴も無いのよね……」
シーナとヘイザがかわるがわる双眼鏡で見ていると、女性はゆっくりとした動きで男の部屋を片付けながら、お茶を入れる支度を始めた。
「あの男があんまりだらしないから、部屋を片付けに来た友達とか……姉さんとか妹じゃないの?」
「ううん、そんなふうには見えないわ……」
女性が入れたお茶を飲みながら、ふたりはソファーに腰かけてしばらく親しげに話していたが、やがて空気が変わり始めた。
ふたりは見つめ合い、どちらからともなくキスをした。
「ほら……」
「……信じられない」
ヘイザが顔をしかめて言った。
ふたりはキスをしながら、ソファーから腰を上げ、男はワイシャツを脱ぎ捨てた。そして女性のカーディガンのボタンに手をかけながら、窓辺に近付いた。
カーテンはぴしゃりと閉じられた。
「——トトが大喜びしそうな展開になったわね」
ヘイザはそう言って笑うと、双眼鏡から目を離した。
「うん……今頃、ソウくんにいろいろ聞かれて困ってるかも」
シーナは小さく笑った。
「さてと。カーテンも閉まっちゃったし……あの男も楽しんでるんだから、しばらくはどこへも行きっこないわ。今なら、いいでしょ?」
ヘイザはシーナの腰に手を回し、カーテンの隙間をぴったりと閉めた。そして、シーナを腕に抱き、ゆっくりとベッドへ倒れ込んだ。

***

夜になっても、魔術師ダロの部屋のカーテンはずっと閉まったままだった。
トトはホテルの入り口も同時に見張っていたが、ダロも恋人らしき女性も外出した様子は無く、夕方になると部屋に明りがともった。
ソウとトトの部屋で、4人は食事を取っていた。
部屋は外から見えないよう電気を消していたが、見張りのために小さく開けたカーテンの隙間から漏れる外の明かりで、目が慣れると意外に不自由は感じなかった。
「——あんたの師匠さんは偉い人なのかもしれないけど、ダロに関しては何かの間違いじゃないの? どう見ても、だらしなくて冴えない、ただの年寄りの魔術師じゃない」
ヘイザはバカにしたような口調で言って、あつあつのカレーが乗ったナンをかじった。
「しかし、あの魔術師の行動は疑わしいのです。1年ほど前から、様子が急におかしくなったと噂されていて……彼が余暇と称して訪れたルビラ山とリミトルで、数ヶ月後に爆発が起こったことから、大きく疑われることになったのです」
窓辺で双眼鏡を覗いていたトトが、振り返って言った。
「1年前から様子がおかしくなったっていうのは、どういうふうに?」
シーナがナンをカレーに浸しながら、トトにたずねた。
「はい、彼はもともと友人の少ない人物だったようなのですが、1年ほど前から、仕事中でも秘密裏に誰かと連絡を取っている様子だったり、突然席を外すなどの疑わしい行動を取るようになったようです」
「あぁ、そりゃあ怪しいな! きっと爆発の計画を立ててたんだ」
ホームレスのルパートがあやつられていたらしいことを、ようやく理解したソウが、カレーを付けずにナンをほお張りながら大げさにあいづちを打った。
「1年前に恋人ができて、こっそり愛を育んでただけじゃないの?」
ヘイザは投げやりに言った。
「でも、あの人が行った後に、ルビラ山とリミトルで爆発が起こったのよ?」
シーナが言うと、ヘイザは新しいナンをちぎりながら、
「単なる偶然じゃない? 裏で悪事を働くようなやつって、もっとスマートで危険な匂いがすると思うの。でも、あの男はとてもじゃないけど……」
と言って顔をしかめた。
「しかし、偶然にしては出来過ぎていませんか? 爆発の場所もタイミングも……」
トトは途中で言葉を切ると、急に、窓に張り付くように双眼鏡を覗いた。
「どうしたの?」
シーナは思わず立ち上がって、トトのそばに寄った。
「部屋の明りが消えました。どこかへ出かけるのかもしれません」
トトは双眼鏡を覗いたまま、片手で帽子を取り上げ、手早く出かける支度を始めていた。
「ヘイザ、行きましょう」
シーナは携帯電話を手に持つと、ドアの方へ向った。
「待って、シーナ。わたしが先に行くから」
ヘイザは食べかけのナンを皿に放り投げ、腰のナイフを確認すると、立ち上がってシーナの後を追った。

シーナはヘイザに手を引かれ、ホテルの壁の暗がりに身を潜めると、向かいのホテルからダロが出てくるのを20分ほど待った。
「遅いわね……電気消して、部屋でいいこと始めただけだったんじゃない?」
ヘイザが言い終わると同時に、シーナはヘイザの腕をつかんだ。
「ううん、来たわ……ほら」
ホテルのロビーから、女性とダロがゆっくりと歩いてくるのが見えた。
女性はダロに頼るように身を寄せながら、時おりもつれるような足取りで、注意深く歩いている。ダロはグレイのジャケットを羽織り、頭にはハンチング帽をかぶっていて、昼間にカーテンを開けて見せていた格好より、ずいぶんマシな姿でロビーを出て来た。
ダロはやさしく見守るような表情で女性を支えながら、通りに向かって歩いて行く。
ふたりの歩く速度が遅いので、急いで追う必要は無さそうだった。
シーナとヘイザは暗がりの中で、ふたりの背中を見つめていた。
「あの歩き方……酔っ払ってるわけじゃなさそうね……」
ヘイザがつぶやくように言った。
「うん……女の人は、足が悪いのかな?」
「そうみたいね」
なんとなくしんみりとした空気になってふたりを見つめていると、ロビーから帽子をかぶったソウとトトが出て来た。
ヘイザはそっと暗がりを出ると、手招きしてソウとトトを呼んだ。
「あの人……病気だったのか? オレの回復魔法で治してやれないかな?」
ソウは、ダロと女性の後姿を見ると言った。
「その可能性はありますが、今、すべきことではありません。ぼくたちは、隠れてあの魔術師の動向を探っている最中なのです。それが任務なのですから」
トトは冷静な口調で言った。
「うん、わかってるけどさ……」
ソウは同情するように、女性を見つめていた。
シーナはソウの肩にそっと手を置いた。
ソウの気持ちが、シーナにもわかるような気がしていた。
もつれるようになりながら、ダロに支えられて歩く女性は、とても不憫に見えた。そして、その女性を支えて歩くダロは、献身的な良き恋人に見える。
「さ、追うなら行くわよ」
ふたりが通りの角に差しかかったところで、ヘイザが声をかけた。
4人は暗がりからそっと出ると、ヘイザを先頭に通りに向って歩き出した。
「護衛のヘイザさんがいると、心強いですね。さまざまな危険から対象者を守って来たプロの経験が感じられます」
トトはヘイザについて歩きながら、感心したように言った。
「うん、ヘイザについていれば安心よ」
ヘイザの代わりに、シーナが答えた。
ヘイザはダロと女性がバス停に立っているのを確認すると、少し離れた所に立って、ソウとトトに小声で言った。
「いい? バスに乗ったら、あんたたちは寝たフリして。無駄な会話は一切無しよ」
すぐに一台のバスがバス停に止まった。ダロと女性が乗り込むのを確認すると、4人はバス停に向かった。

ダロと女性は、最初ににぎやかな繁華街でバスを降り、レストランで食事をした後、婦人服店に立ち寄った。ダロは女性にきれいなセーターを買い、ふたりは仲むつまじい様子でタクシーに乗り込んだ。
ヘイザの的確な判断で、4人はレストランが見えるアイスクリーム屋に入ったり、ソウとトトのための学習教材を見ているようなフリをしながら、ダロと女性がタクシーに乗ったのを確認すると、別のタクシーで追いかけた。
タクシーは、グレイトルの中央を見下ろせる見晴らしの良いことで有名な高台の入り口前で停まった。
夜は恋人たちの場所になっており、ベンチの置かれた場所は、ロマンチックな演出をするように小さなライトでぼんやりと照らされ、飲み物や軽食を売るこじんまりとした売店が少し離れた場所にひっそりと立っている。
暗がりが多く、4人が隠れるのにも好都合な場所だった。
ダロは終始もつれそうな女性の足を気遣いながら、ベンチに辿り着いた。
4人が人気の無い森の影に身を隠して見ていると、ぽつりぽつりと集まっているカップルたちに紛れて、ダロと女性は星空を見上げたり、顔を近付けて話をしたりキスをしたり、いたって普通の恋人同士の時間を過ごしている様子だった。
「ふぁーあ、退屈だなー……オレ眠くなってきたよ」
ソウが大きなあくびをした。
「眠っていてかまいませんよ。何かあれば起こしますから」
「そっか。んじゃ、オレ少し寝るよ」
ソウは木の幹にもたれるようにして、寝息を立て始めた。
「やっぱり、特に怪しいところがあるようには思えないわね」
ヘイザはため息をつきながら言った。
「今のところはそう見えますが……しかしまだわかりません。いずれにしても、ぼくは任務を果たさなければいけません」
トトはダロと女性を見つめたまま、かたい表情で言った。
「ま、明日も見張って何もなければ、ダロが爆発事件の前にルビラ山とリミトルにいたっていうのは単なる偶然でしょ」
ヘイザはそう言って、小さく息をついた。
「ふたりは、とってもしあわせそう。ダロさんも、なんだかいい人みたいだし……」
シーナはやさしいまなざしでふたりを見つめながら言った後、小さくあくびをして、
「わたしも眠くなっちゃった。コーヒー買って来ようかな……ヘイザもいる?」
と言ってヘイザを見上げた。
「わたしも一緒に行くわ」
「ううん。ここって男女のカップルばっかりでしょう……女同士で出て行くと、けっこう目立っちゃいそうじゃない? もし、ダロさんたちの目に止まったら困るし……目に付かないように、ひとりでそっと行って買ってくるわ」
シーナはトトを振り返って、
「トトくんも何かいる?」
と声をかけた。
「ぼくは、けっこうです。お気遣い、ありがとうございます」
トトは礼儀正しく笑みを返し、すぐに、ダロと女性に視線を戻した。
シーナはトトの頭を帽子の上からなでて、体の向きを変えた。
「じゃ、ちょっと行ってくるね」
「気をつけて、シーナ」
シーナはヘイザに手を振ると、キャップを深くかぶり、早足で暗闇の中を売店に向って歩いて行った。
「コーヒーふたつ下さい」
「400ゴールドです」
シーナが支払いを済ませ、コーヒーの入った袋を持って歩き出そうとした時、ふと視線を感じて思わず振り返った。
「あれ……」
ダロと女性がいる場所の向かい側に立っていたカップルの男性が、こちらをじっと見ているのが目に入った。
シーナが振り返ると、男性は驚いたように笑顔を見せながら、近付いて来る。
シーナはダロと女性に見られないよう、森の方へ移動した。
「驚いた……やっぱり、シーラだよね? こんなところで会うなんて……すごい偶然だなぁ」
シーナはヒュートのひとなつっこい笑顔を見ると、ほっとしたようにサングラスを外した。
「本当ですね。こんばんは」
ヒュートは照れたような笑顔で、
「サングラスも似合ってたけど、やっぱりシーラはそのままの方がかわいいよ」
と言って、さらさらした髪をかき上げた。
シーナははにかんだように笑顔を見せた。
「グレイトルには、よく来るのかい?」
「ううん、今回が初めてなんです。ちょっと用事があって……」
と、シーナは言葉を濁し、
「ヒュートさんは、お仕事で?」
とたずねた。
「いや、ちょっと休みが取れたから遠出してみたんだ。明日は飛行機でフロートルに飛んで、警備の仕事だよ」
「警備? ヒュートさんのお仕事って……初めて飛行機で会った時は、扇使いだと思っていたけれど……」
シーナが困惑したような表情を受かべると、ヒュートはやさしく微笑んだ。
「うん。扇使いで、治安維持隊にも入ってるんだ」
「治安維持隊って?」
「いろんな場所へ行かされて、いろんなことをやらされる仕事さ。明日は警備の仕事だけど、こないだみたいに犯罪者の友人を捕まえさせられたりもするし……」
「あっ……あのホームレスの人、どうなりました?」
シーナはリミトルに行く手前で会った、ルパートの友人のホームレスを思い出しながらたずねた。
「あの後、警察に渡したけど、数日で開放されたみたいだよ。別の友人たちも片っ端から調べられたけど、自爆テロを起こした男の動機は不明のままらしい」
「そうですか……」
「うん。自爆テロやるやつなんて、やっぱりどこかおかしいんだろうね。もしかすると、動機なんて何も無かったのかもしれない」
……ルパートさんに動機なんてあるわけないわ。
彼の意思で自爆したわけじゃないんだから。
シーナは心の中でそっとつぶやいた。
「シーラがグレイトルにいるってわかってたら、少しは案内でもできたかもしれないのにな」
ヒュートは残念そうに言ったが、急に思いついたように表情を明るくした。
「ねぇ、シーラ、今日はもう時間ないの? 今からでも、ちょっとなら街を案内してあげるよ」
「えっ? でも……」
シーナが断りの言葉を考えていた時、背後で親しみ深い気配を感じた。
ヒュートはシーナの背後に目をやると、
「やぁ」
と愛想のいい笑顔を見せた。
「グレイトルでもあんたと会うなんて、驚きだわ」
そう言って、ヘイザは両手を腰に当て、シーナの後ろから前に進み出た。
「シーラにグレイトルを案内してあげようと思ったんだけど、よかったら君も一緒にどう?」
ヒュートは気のいい笑みを浮かべて言った。
「そんなことしてていいの? あんたも恋人と来てるんでしょ?」
ヘイザは眉をひそめながら、恋人たちが集まっている場所をあごでさした。
「あっ……そうよね」
シーナもはっと気付いたように、ヘイザがさした場所に目をやった。
カップルがそれぞれあちらこちらで肩を寄せ合っている中で、髪の長い細身の女性がひとり、ぽつんとこちら側に背を向けて座っているのが見えた。
「ひとりで待たせてちゃかわいそうだわ。行ってあげて、ヒュートさん」
シーナが言うと、
「あぁ、うん……そうだね」
と、ヒュートはあきらめたような顔をして、
「今回は無理そうだけど、改めてまた会えるの楽しみにしてるよ。僕の名刺まだ持ってる?」
と明るくシーナに笑いかけた。
シーナはヒュートにつられるように、笑顔を見せてうなずいた。
「よかった。シーラも忙しいのかもしれないけどさ、時間ができたら電話して来てよ」
ヒュートはそう言ってシーナから視線を外すと、むっとした顔のヘイザに向かい、
「心配だったら、君も一緒に」
とくったくのない笑顔を見せた。
あきれたような顔をしたヘイザの代わりに、ほっとした様子でシーナが答えた。
「ありがとう。じゃあ、今度一緒にご飯でも」
「うん、楽しみにしてるよ。じゃあ、またね」
ヒュートはさらさらした髪をかき上げ、手を振ると、恋人のいるベンチへ向かって走って行った。
「あきれた男ね。恋人が一緒にいるのに、シーナに声かけて来るなんて」
ヘイザは走り去ったヒュートに背を向けて歩き出すと、吐き捨てるように言った。
「やましい気持ちが無い証拠だわ。ヘイザが一緒でもいいって言ってくれたし」
シーナはすっかり安心しきった様子で、機嫌良くヘイザに腕を絡めた。
「わたしは御免よ。なんで、あいつと一緒に出かけなくちゃいけないの? 意味がわかんないわ」
「友達なんだから、別に意味なんかなくっていいでしょう?」
シーナは不機嫌なヘイザの横顔に笑いかけ、
「ヒュートさんは明るくていい人だから、きっと楽しいわ」
と言って、後ろを振り返った。
「大丈夫かな……」
シーナが後ろを向いたまま、ぽつりと言った。
「——え?」
ヘイザは不機嫌な表情のまま、首を後ろに回した。
相変わらずダロと女性が仲むつまじく肩を寄せ合っている向かいで、後ろ向きのヒュートと女性が見えた。ヒュートは女性を気遣うように肩を抱き、何か話しかけているようだが、女性はじっと座ったまま、ヒュートを見ようともしていない。
「あの女の人、怒っちゃったのかな? ヒュートさん、困ってるみたい……」
シーナが心配そうに言うと、
「当然だわ。いい気味よ」
と、ヘイザは口元をゆがめて笑った。
「もう! ヘイザったら意地悪ね」
「デート中に恋人をほっぽり出して、よその女の子をナンパしてる男なんて、振られて当然でしょ」
「ナンパじゃないわ。ナンパだったら、ヘイザも一緒になんて言うはずないもの」
「そうよ……あいつ頭おかしいんじゃない? どう見たって、シーナに気がある感じなのに、なんでわたしまで一緒になんて言うわけ?」
「きっと博愛主義者なのよ」
「あー、気持ち悪いったらないわ」
シーナとヘイザが言い合いをしながら元の場所まで戻った時には、ホットだったコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。

その夜、ダロと女性は何ら特別なこともなく、ホテルに戻った。
4人はふたりがホテルの部屋に戻るのを見届け、向かい側の自分たちのホテルへと帰った。

***

翌日。
トトは朝早くから、カーテンが閉まったままのダロの部屋を見張っていた。
「ダロはまだ寝てるんだろ? なぁ、これおもしろいぜ。おまえも見てみろよ」
ソウが、売店で買って来たばかりのマンガ雑誌を開いてみせた。そこには、ちょうどソウと同年代くらいの棍棒使いの少年が描かれていた。
トトはちらりと雑誌に目をやると、
「子供用のマンガですか。兄さんは、いつまでたっても子供っぽいんですから……」
と、ため息をついて双眼鏡に目を戻した。
「オレもおまえも子供じゃん! ……ていうか、オレの方がアニキだぞ!」
「兄さんはご存じないかもしれませんが、つい106年前までは、双子は後から生まれた方が兄とされていたのですよ。今がその時代なら、ぼくが兄だったというわけです。そもそも双子というのは……」
「そんな大昔のこと知るかよ! とにかく、今はオレがアニキなんだから、弟のおまえに子供呼ばわりされる筋合いないからな」
ソウが勢いよく立ち上がった時、ドアがノックされた。
ソウはマンガ雑誌を放り出してドアに駆け寄ると、覗き穴からドアの外を確認し、うれしそうにドアを開けた。
「おはよう」
シーナがにっこりとソウに笑いかけた。そしてシーナの後ろから、ヘイザがガサっと音を立てて、紙袋を差し出した。
「うわぁ、いいにおいだ!」
ソウはくんくんと鼻を動かしながら言った。
ヘイザが後ろ手でドアを閉めると、甘い香りが部屋中に広がった。
「おはようございます、シーナさん、ヘイザさん」
トトは礼儀正しい口調であいさつをしながら、興味深そうに紙袋を見つめていた。
「ほかほかのアップルパイよ。みんなで食べましょう」
シーナがそう言うと、ソウはうれしそうに飛び上がった。
「アップルパイかぁ! うまそうだなー。早く食おうぜ!」
「兄さん、お行儀が悪いですよ……すみません、今、飲み物の支度をします」
トトは、双眼鏡を置いて立ち上がろうとした。
「ううん、大丈夫。わたしがやるわ」
シーナはトトにそう言って、ソウの肩を抱き、
「ソウくん、手伝ってくれる?」
と笑いかけた。
「あぁ! もちろん」
ソウは張り切った様子で、紅茶のティーバッグが入った引き出しを開けた。
「——何か動きあった?」
紅茶の支度を始めたシーナとソウを横目で見ながら、ヘイザがトトにたずねた。
「いいえ。まだ寝ているようです。カーテンがずっと閉まったままですので」
ヘイザはカーテンの隙間からそっと外を見るような仕草をしながら、
「ふぅん……昨日のいちゃつき加減から言って、恋人とは久しぶりに会ったみたいだし。夜は相当忙しかったんでしょ」
と言って、からかうようにトトの反応を見た。
いつもならトトが必ず食いつく話題だと言うのに、トトは双眼鏡を覗いたまま、こわばった表情で返事をしそうにない。
「トト?」
ヘイザは不思議そうに、トトを見た。
トトは双眼鏡を持った手をゆっくりと下ろし、信じられないと言うように首を横に振った。
「何? どうしたの?」
ヘイザはトトの手から双眼鏡を取り、すばやく窓の外を見た。
カーテンが開かれたダロの部屋で、若い女性の清掃員がのんびりとベッドシーツを替えている。
ダロと女性の姿は無かった。
「いないの!? いつの間にいなくなったのかしら……わたしが最後に見た時は確かに電気ついてたのに……」
ヘイザは首をかしげた。
「ぼくは電気が消えてから、ずっと見ていました。外出する人もすべてチェックしていたのに……一体いつ部屋を出たんでしょうか……」
トトはショックを受けたような表情で、つぶやいた。
ヘイザは励ますように、トトの背中を軽く叩いた。
「まぁ、人間誰しも完璧じゃないわ。さすがのあんたでも、うっかり見落とすことだってあるでしょ」
「いいえ。そんなはずありません」
トトは強い口調で言い切った。
「ここで見てれば、そのうち戻って来るわよ。あんな何もできなさそうな男、見張ってたって見張ってなくたって同じだし」
ヘイザはそう言って軽く笑ったが、トトは更に表情をかたくした。
「ね、紅茶入れたわ。アップルパイ食べましょう」
テーブルに紅茶を入れたカップを置きながら、シーナがトトとヘイザの背中に声をかけた。
「わたしが見ててあげるわ。ダロが戻って来たら、教えるから。あんたは食べて、少し休んだ方がいいわね」
ヘイザは明るい口調でそう言って、トトの手から双眼鏡を受け取った。
「すみません、ヘイザさん」
トトは落ち込んだ様子でテーブルに向かいかけた。
「——トト」
双眼鏡を覗いたヘイザは、すぐにトトの腕をぐっとつかんだ。
「どうしました?」
「——もう、戻らないみたい」
ヘイザは困ったような表情で、トトに双眼鏡を覗かせた。
清掃員の女性は、ベッドメークと部屋の清掃を終え、出て行ったところだった。
チェックアウト済みの印に、部屋のドアは大きく開け放たれている。
「そんな……ふたりはもうチェックアウトしてしまったということですか?」
「……そうみたいね」
「ぼくが任務を失敗するなんて……見落としなど、絶対にしていないのに……」
トトは大きなショックを受けたように、瞳を震わせて言った。
「あんたの師匠さん……怒るかしら?」
ヘイザはトトの表情をうかがうように見ながら、たずねた。
「わかりません……しかし任務失敗となれば、ぼくに失望することは確かでしょう……」
トトはがっくりと肩を落として、小さな声で言った。


「やっぱり夜の散歩は落ち着くわね」
ヘイザはそう言って、サングラス越しに、にぎやかな夜の街を見渡した。
「そんなのんきな気分になれないわ。トトくん、すっかり落ち込んじゃって……かわいそう」
シーナとヘイザはホテルのロビーを出て、暗くなった通りを歩いていた。
「あの様子だと、今まで失敗した経験があんまりないのね。この世の終わりみたいな顔しちゃって」
「うん……トトくんは真面目で優秀な子だから……。せっかくわたしとヘイザも協力してたのに、まさか逃がしちゃうなんて……わたしもショックだわ」
シーナはそう言って、ふうっとため息をついた。
「わたしが見てた時間までは、ずっと電気がついてたわ。ダロは確かに部屋にいたってことよ。トトは認めないけど、絶対に、外に出るのをトトが見落としたんだわ」
「うん……」
ヘイザは歩きながらシーナに顔を近付け、声を小さくして言った。
「いい? もともとは、トトはひとりでダロを見張れってことだったのよ? 一睡もせずに、一晩中見張るなんて無理でしょ? どっちみち、最初から師匠さんの要求が無茶なのよ。しかも、見張る対象もあんな疑う必要なさそうな男だったわけだし」
「そうだけど……トトくんは師匠さんには文句言えない立場なんだから……」
「わたしだったら、そんな師匠からはとっとと逃げ出すわ」
「トトくんはそんなことできないわ。ヘイザとは違うんだから……」
シーナはため息をついて続けた。
「明日まで電話もできないっていうのが、さらにかわいそう。あんなに落ち込んだまま明日まで待たなくちゃいけないなんて……トトくんに任務を言いつけておいて、自分がデートの日は電話しちゃいけないなんて……なんて勝手なのかしら。そう思わない?」
シーナは怒ったようにそう言って、ヘイザを見上げた。
「まぁね……でも、トトの師匠さんには一度会ってみたいわね。恋愛が趣味って言うくらいだもの。どんな感じの人なのかしら」
ヘイザはそう言って、にやりと笑った。
「何それ? ……もう、ヘイザったら! トトくんの師匠さんがきれいな人だったら、すばらしい人だとでも言い出すつもり?」
シーナはますます怒ったように、ヘイザをにらんだ。
ヘイザはシーナににらまれ、おかしそうに笑い出した。
「ただ、どんな人かなって思っただけよ。シーナったら、また嫉妬してるのね?」
「違うけど……だって、ヘイザが悪いのよ……トトくんの師匠さんに会ってみたいなんて、にやにやして言うんだもん……」
すねてぶつぶつ言っているシーナの横顔を見て笑いながら、ヘイザはなぜか急に後ろが気になった。
誰かに見られてる……?
ヘイザは、そっと後ろを振り返った。
振り返ると同時に、道の端にさっと移動する影が目に入った。
人ごみに紛れ、その人物はこちらに背を向けている。しかし、人ごみに身を隠しながら、背後でしきりにヘイザの視線を気にしている様子がわかった。
黒い帽子から、長い金髪が出ているのが見える。ラフなジャンパーに、ジーンズという服装の男だ。
その男がこちらを振り返りそうな素振りを見せたので、ヘイザは思わず、顔を隠すように前を向いた。
「シーナ」
ヘイザは後ろの男を視界に入れながら、緊張したように低い声を出した。
「……だって、ヘイザったら……——えっ?」
すねて文句を言っていたシーナは、その声に、驚いたようにヘイザを見つめた。
「ちょっと、そこの喫茶店にでも入ってて」
ヘイザは右手で腰のナイフを確認しながら、すぐそばで人がごったがえしているにぎやかな喫茶店をあごで示した。
「……どうして? もしかして怒ったの? ……ヘイザ?」
シーナは不安そうな表情になって、ヘイザを見つめた。
「違うわ。わけは後で話すから、早く行って」
ヘイザは有無を言わせぬ口調で、シーナの背中を押した。
シーナは不安げな表情のまま、仕方なく喫茶店へと足を向けた。
シーナが喫茶店のドアを開けたところを見届けると、ヘイザはそっと後ろを振り返った。
さっきの男が逃げるように去って行く後姿が見える。
ヘイザは人ごみを縫って、男の後姿を追って走った。
人通りの多い通りから、その男は突然暗い裏路地に入った。
ヘイザはそれを見ると余裕の笑みを浮かべ、慣れた足取りで、暗い裏路地をすいすいと早足で進んだ。
しかし、前の男もまた慣れたような足取りで、ぐんぐんと前に進んで行く。
なかなか男との距離は縮まらない。
少しずつ疲れが出て、ヘイザの呼吸が乱れ始めた。
その時だった。
「わっ!」
男が大声を上げ、前のめりに転んだ。
どうやらダンボールの空き箱につまづいたらしい。
ヘイザは力を振り絞って全力で走ると、手を伸ばし、立ち上がって再び走ろうとした男のジャンパーのすそを思いきりつかんだ。
その勢いに、男は再び体勢を崩した。
ヘイザはすばやく身をひるがえし、しりもちをついた男の背後に回ると、首にナイフを突きつけた。
「女だからって甘く見ないで。あんた誰? なんで後をつけてたわけ?」
「——おい、その声は……?!」
「……!」
ヘイザと男の空気が一瞬にして変わった。
ヘイザは驚いた顔で男の首からナイフを離し、男は後ろを振り返った。
「ヘイザ……ターバンじゃなかったから、気付かなかった……おまえがグレイトルにいるなんて思わなかったし……」
「キド……この髪は!?」
ヘイザが帽子からはみ出した金髪を引っ張ると、キドはにやっと笑って帽子を脱ぎ、ウィッグを取って見せた。キドの赤い髪が現れた。
ヘイザはそれを見るとほっとしたように息をついたが、すぐにけげんそうな顔になり、
「あんた……一体何やってんの?」
と言って、しゃがみ込んだ。
かすかに入る通りの灯りに照らされながら、キドは軽く笑った。
「このオレにつけられるなんて、おまえは運がいい。いや、それともオレの愛がそうさせたのか」
「バカなこと言ってないで、ちゃんと話してよ。一体どういうこと?」
ヘイザはナイフを腰に戻し、怒ったようにキドを急かした。
「おまえに聞かれたんじゃしょうがねぇな……——後をつけるように頼まれた」
「誰に?」
「それは言えねぇ。ヘイザ、いいか——」
キドはスリ特有のぎらぎらした目を鋭く光らせ、真剣な表情になると、改まって口を開いた。
「どういうつもりか知らんが……おまえが見張りをしてたダロっていう男は政府の魔術師だぞ。我が身がかわいけりゃ、今すぐこの街を出ろ」
「ねぇ、もしかして……ダロにつけるように言われたの?」
ヘイザはひどく驚いたように、たずねた。
「いや、違う。だが、あのダロってやつは、ヤバい連中と関わってるらしいぞ」
「あいつが? ヤバい連中って?」
「やめろ、ヘイザ。なんだってそんなに首を突っ込みたがる? おまえらしくねぇ……それに……そうだ、女の他に、色黒のガキがふたり一緒だとか言ってたな……そいつらは何なんだ?」
ヘイザは余裕の笑みを見せようとしたが、動揺したように引きつった笑顔になった。
「ふぅん……あんたに尾行を頼んだやつは、こっちのことをちゃんと知ってるってわけね……」
「あぁ、そうだ。——悪いことは言わねぇ。俺がおまえを見失ったことにしてやるから、早く逃げろ」
キドはヘイザの腕をつかんで、説得するように言った。
「逃げるのは、あんたから聞いた話を、ダロを疑ってる魔術師に伝えてからにするわ。——厳密には、その魔術師の弟子にね」
「おまえ、オレを売るつもりか!?」
キドが思わず目をむくと、ヘイザは笑った。
「大丈夫、あんたの名前は出さないわ。ただ、誰かがわたしたちの後をつけさせてたってことを言うだけ……つまり、その誰かにとって、ダロを見張られるのがヤバいわけでしょ? ダロが何かに関わってるってことの証明になるもの……ねぇ、ダロがどこに行ったのか、あんた知ってるの?」
ヘイザの真剣な目つきに、キドは信じられないと言った表情をした。
「何のためにそんなこと知りたがるんだ!? おまえの女か? それとも一緒にいるっていうガキか? 何を言われてるのか知らねぇが、政府の魔術師なんて、おまえには関係ねぇだろ!?」
「関係なくないわ。ダロは……」
ヘイザは一瞬考えるように言葉を切り、
「リミトルを爆発させた犯人につながってるかもしれないの。もしくは、ダロがやったのかも」
と、思い切ったように言った。
「リミトルか……おまえの故郷だったな。あの爆発は気の毒だった。——けど、リミトルで自爆テロをやったのは、ホームレスだったろ? あの魔術師じゃねぇ」
「あんた、わたしをつけてたくせに、何も知らないのね」
ヘイザは急にバカにしたような顔をして、あきれたように笑った。
「あぁ、詳しいことは知らねぇ。オレはただ、女ふたりとガキふたりの行動を知らせるように言われただけだ。金払いがよかったんで引き受けた。最近はそういう仕事を持って来る知り合いができてな……——ところで、あの魔術師がリミトルの爆発事件と関係あるってのはどういうことだ?」
キドが声をひそめると、ヘイザは考えるような素振りを見せた後、
「……悪いけど、あんたに話すのはやめとくわ」
と言って立ち上がり、
「だって、あんたはダロの側の人間の指示で、わたしをつけてたんだものね」
と苦笑いを浮かべた。
「オレがおまえを裏切るとでも思うのか?」
キドはぎらっとした目でヘイザを見上げ、にやりと笑った。
ヘイザは軽く笑い声を立て、首を横に振った。
「まぁ、言いたくないなら言わなくていい。だけど、ひとつだけ約束してくれ」
キドはそう言うと、真剣な表情で立ち上がり、ヘイザの正面に立った。
「何?」
「これ以上、もう首を突っ込むな。リミトルの犯人だか何だか知らねぇが、後は警察にまかせて、おまえはとにかく早くここから逃げろ。いいな?」
キドの真剣な口調は迫力があったが、ヘイザは動揺する様子は無かった。
「忠告はありがたいけど、あんたのおかげでダロが疑われるべき男だってことがはっきりわかったんだもの。ここで逃げるわけにいかないわ」
「おい、ヘイザ……」
「心配しないで。ヤバい時には、ちゃんと逃げるから」
ヘイザはくるりと背中を向けて、歩き出そうとした。
「おい、待て!」
キドはすばやくヘイザの腕をつかんだ。
「どこへ行く!? まさか、またあのホテルへ戻るのか!?」
ヘイザが返事をする間も無く、キドは必死な様子で言葉を重ねた。
「オレがおまえを見失ったことにしてやっても、またすぐ別のやつがおまえたちを探しに行くぞ? わかってるのか? おまえはわけのわからん相手に追われてるんだ。あのホテルに戻るんなら、おまえを行かせられねぇ。今すぐ逃げるって約束しろ」
「逃げるって言ったって、ホテルに子供たちがいるの。戻って相談しないと……」
「ガキなんか放っておけよ! 女だけ連れて、すぐ逃げろ。そうすればまだ逃げられる。オレも協力してやるから」
ヘイザはキドの必死な目を見つめ、あきらめたように口を開いた。
「まだ逃げないわ。……わたしが一緒にいる魔術師の弟子は、師匠の命令でダロを追ってるの。自爆テロを起こしたホームレスは、誰かにあやつられたか何かで、真犯人とは違うって考えられてるわ。ダロは……ルビラ山とリミトルの爆発事件に関わってるんじゃないかって疑われてて、ここで次の爆発を計画してるんじゃないかって……」
キドはヘイザの話に関心を示すような表情をしたが、すぐに元の表情に戻った。
「それで、なんでおまえがその魔術師の弟子に付き合わされる必要がある? おまえには関係ねぇだろ!?」
ヘイザは苦笑いを浮かべた。
「リミトルに行ったら、母さんの墓がめちゃくちゃになってたわ……わたし犯人を許せなくなったの。――あんただって、家を放火されて親を亡くしたんでしょ? 放火犯がもしわかったら、逃げる?」
ヘイザの問いに、キドは思わず口をつぐんだ。
「わたしのことは、わたしが決めるわ。心配しないで」
ヘイザはそう言って、再びキドに背を向けた。
「待ってくれ、ヘイザ」
キドはさっきより力なく、ヘイザの腕をつかんだ。
「もう行かなくちゃ。彼女を喫茶店に置いて来てるの」
「このままおまえを行かせるなんて……ったく! どうすりゃいいんだ!」
キドはイラついたように赤毛の頭をかきむしった。
「キド」
ヘイザは頭をかきむしるキドの腕を取り、
「あんた、ダロがどこへ行ったか知ってるんでしょ?」
とたずねた。
「……知ってるって言ったら、どうする気だ?」
「もしダロの居場所を教えてくれたら、そこへ行ってあいつが何をしてるか確かめるわ」
「確かめるって——」
「別にわたしたちで捕まえようっていうんじゃないわ。こっそり見張って、何か証拠を見つけられればいいの。そうしたら、一緒にいる魔術師の子供が師匠に連絡して、たぶん師匠自らが動くと思うわ」
「簡単に言うな。おまえたちが証拠をつかむ前に、逆に捕まるぞ」
「じゃあ、いいわ。ホテルに戻って計画を立てるから」
ヘイザはそっけなくくるりと背を向けた。
「——ちくしょう! わかったよ」
キドは悔しそうに声を上げた。
ヘイザは振り返って、にこっと笑った。
「ったく、おまえって女は……惚れた弱みに付け込みやがって」
キドはそう言って、ヘイザをにらんだ。
「で、ダロはどこにいるの?」
ヘイザが涼しい顔でキドを見つめると、キドはしぶしぶ口を開いた。

- -

第14章

廃工場で見たもの

「早くして。あと5分しかないわ」
「勝手にホテルを出るなんて……師匠に何て言われるか……」
ヘイザは手際良く荷物をまとめながら、不安そうなトトにイライラした口調で言った。
「ダロを追うのがあんたの任務でしょ? もうあのホテルにダロはいないんだから、ここでぼんやりしてたって意味無いわ。あんた頭いいんだから、それくらいわかるでしょ?」
「しかし……次にどこへ行くかは、師匠に聞いてからにしないと……」
「あんたの師匠さんは、明日まで電話にも出ないのよ?待ってる暇は無いわ。ここで臨機応変な行動を取る方が、あんたの株も上がるでしょ」
ヘイザはまとめた荷物の片方を無理やりトトの手に押し付けると、
「早く!」
と言って、乱暴にトトの手を引っ張って、部屋を出た。
手早くチェックアウトを済ませ、ホテルのロビーを出ると、待たせてあったタクシーに乗り込んだ。
「イーストウッド通りまで」
タクシーが走り出すと、ヘイザは後部座席から首を回し、後ろを見た。
タクシーが出たのを確認したように、黒い帽子から金髪の髪を覗かせたジャンパーとジーンズの男が、すばやくホテルの壁から離れて行くのが見えた。
ヘイザはそれを見ると安堵したような表情を浮かべ、ホテルの角に停まっていたもう一台のタクシーが後を付いて来るのを確認し、前を向いた。
2台のタクシーはにぎやかな街を抜け、人通りの少ない街外れの道を30分ほど走り、大都会グレイトルとは思えない寂しい通りで停車した。
ヘイザとトトがタクシーを降りると、同時に後ろのタクシーからシーナとソウが降りて来た。
「けっこう遠かったなー。で、ダロはどこなんだ?」
タクシーが走り去ると、ソウはうきうきしたような口調でヘイザに声をかけた。
「とりあえず、その辺のホテルに荷物を置いてから行くわ」
ヘイザが注意深く辺りを見回しながら、答えた。
「あそこに見えるホテルは?」
シーナがヘイザに駆け寄ってたずねると、
「あれは、ちょっと立派すぎるわね……もっと目立たないホテルがいいわ」
ヘイザはそう言って歩き出した。
シーナはヘイザについて歩きかけたが、落ち込んだ様子でとぼとぼ歩いて来るトトに明るく声をかけた。
「心配いらないわ。ヘイザの言う通りにして、何か証拠をつかめばいいんだから。そうすれば、師匠さんはきっと誉めてくれるわ」
「はい……それはわかるんですが……でも、証拠をつかめる確証はどこにあるんです? ヘイザさんを尾行していた見知らぬ人物の言うことなんて、簡単に信じるべきではないと思うのですが……」
「大丈夫よ、トト。ナイフ突きつけて、めちゃくちゃ脅して聞き出してやったんだから」
ヘイザはトトを振り返って、笑いながら言った。
「しかし……その人物は、ダロ側の人間なのですよ? 秘密を守るために、嘘をつくことだって考えられるのでは?」
「それは大丈夫。嘘はついてないわ」
「なぜわかるんです?」
トトは食ってかかるように、たずねた。
「まぁ……勘よ」
「勘、ですか……」
トトは失望したようにつぶやいた。
「あ、勘って言っても……ヘイザはね、普通の人より、勘がとっても鋭いのよ」
シーナはヘイザと目配せをしながら、作り笑いをして言った。
「……お言葉ですが、その尾行していた人物に会うまでは、ヘイザさんはダロは疑わしくないとずっと言っていたじゃないですか」
的確な指摘に、ヘイザは決まり悪そうな顔をした。
「まぁね……それはそれよ。でも、今回の情報は大丈夫。尾行してた男は、それほど悪そうなやつじゃなかったし……絶対、信用できるわ」
「絶対なんて……そもそも、勘が絶対だなんてありえません。この情報の真偽をパーセンテージで表すなら……」
「100パーセントだってば! わたしを信用して」
ヘイザはトトの言葉をさえぎって言い切ると、
「あ、あれがいいわ」
と、こじんまりとした小さめのホテルを指差し、そこへ向かって歩き出した。
「そっか、100パーセントなら安心だな」
ソウは納得した様子でそう言うと、ヘイザについて行った。
トトは絶望したような表情で深いため息をつき、
「やはり、ホテルを出て来るべきではなかったのです……ぼくとしたことが……師匠に何て言ったらいいのか……」
と、弱々しくつぶやいた。
シーナはもどかしそうに唇を噛み、黙ってやさしくトトの手を引いた。


荷物を置いてホテルを出た4人は、ヘイザを先頭に、街灯りとは反対の方向へ向かって歩いていた。
草が生い茂った歩きにくい道をしばらく進んだが、前には何も見えて来ない。
「廃工場なんて、ちっとも出てこないじゃないですか……やっぱり、嘘の情報だったのではないですか?」
すっかり意気消沈したトトが、ヘイザの背中に向かって言った。
「そんなはずないわ。きっと出てくるから」
ヘイザは振り向きもせずにそう言って、自分で言った言葉を信じるようにうなずいた。
「今日のヘイザさんは、なんだかおかしいですよ……見知らぬ人物の情報を、何の根拠もなく簡単に信じてしまうなんて……」
「トトは後ろ向きだなー。100パーセント信用できるってヘイザが言ってんじゃん」
ソウが首を後ろに回して言うと、トトはあきれたように大きく首を横に振った。
「100パーセントだなんて……根拠もないというのに……」
その時、ソウが暗闇に向かって棍棒を構えた。
ソウが棍棒を振ると、ガサっと草の中に何かが落ちる音がした。
「低級魔物がいるみたいだな」
ソウが棍棒を構えたまま言うと、ヘイザは辺りを見回しながら、シーナを自分の背中に寄せた。
トトはウェストバッグからポケットライトを出し、ガサっと音がした草の中を照らして見た。
「これは……シルではないですか!」
トトはひどく驚いたように草の中を見つめて、言った。
「シル? 初めて見る魔物だわ」
ヘイザがけげんな顔をして言うと、シーナはヘイザの背中から、興味深そうに草むらを覗き込んだ。そこには青く光る大きめのカタツムリに羽が生えたような小さな魔物が横たわっていた。
「おっ、また来たぞ」
ソウは前方の青く光る小さな魔物に向かって棍棒を振った。
ガサッ。
トトは再びポケットライトで確認すると、
「——やはり、シルですね。シルが出てくるなんて……」
と言って、暗い辺りを見回した。
「ねぇ、シルって? 珍しい魔物なの?」
シーナがトトにたずねた。
「はい。シルは土の中に住み、土の中で一生を終えると言われ、とても臆病だと言われている低級魔物です。ぼくも実際に見るのは今回が初めてですが……シルが空を飛んで来るとは……」
トトは難しい顔をして、ソウに顔を向けた。
「兄さん。シルが飛んで来たのは、前方からでしたね?」
「あぁ、そうだ」
「わかりました。このまま、まっすぐ行きましょう」
トトはさっきとは打って変わってしっかりとした足取りで、前に向かって歩き出した。
「ちょっと、トト。どういうことなの?」
ヘイザは、自分を追い抜いて、積極的に歩き始めたトトの背中にたずねた。
「臆病なシルが、土を出て、空を飛んで来るというのは異常です。何かから逃げて来ているのではないでしょうか? もしそうであれば、その何かは、シルが飛んで来た方向にあると思われます」
トトはヘイザを振り返り、はきはきと答えた。
「廃工場に何かあるっていうことね」
ヘイザは、確信を持った表情で前方を見つめた。
「はい。その可能性があります」
4人はトトを先頭に暗い道を進んで行った。
そしてついに、前方にぼんやりとした灯りに照らされた大きな建物が見え始めた。
「あれが、廃工場?」
「そうらしいわね」
不安そうにたずねたシーナに、ヘイザが答えた。
少しずつ近付くにつれ、ところどころひびの入った古びた灰色の大きな建物の周りで、砂ぼこりのようなものが舞っているのが見て取れた。
「なんで、あの場所だけ風が吹いてるんだ?」
ソウが砂ぼこりを見て、不思議そうに言った。
「わかりません。自然現象ではないようです。もう少し近くへ行ってみなくては」
トトは興味深そうに廃工場を見つめながら、引き寄せられるように前に進もうとした。
「まさか、真正面から向かって行く気じゃないわよね?」
ヘイザが笑いながらそう言って、トトの腕をつかみ、
「遠回りになるけど、林の方から回った方が安全だわ。わたしたちの姿を見せるわけにいかないんだから」
と言って、廃工場を遠巻きに覆うように位置している林に向かった。
「ごもっともです」
トトは恥ずかしそうにそう言って、ヘイザの後に続いた。
4人は林の中に隠れながら、廃工場に近付いた。
廃工場の窓は小さい上に、工場の周りを舞う砂ぼこりのせいで、双眼鏡を使っても中の様子を見ることはできなかった。
林から出ないようにぎりぎりの位置に立ち、トトが悔しそうに言った。
「あの砂ぼこり……普通ではありません。なぜあのような砂ぼこりが立っているのか……もう少し近付いて、工場の中を見ることができればよいのですが……」
「オレが行って来ようか?」
「バカ言わないで」
ヘイザは、あっけらかんと名乗り出たソウをにらみ、
「ここから先は、難しいわね……」
とつぶやいて、目の前の建物を見つめた。
ちょうどその時、突然すっと消えるように、廃工場を舞っていた砂ぼこりがおさまった。
そして、ゆっくりと正面の扉が開き始めた。
廃工場の中から弱い光があふれ出す。
ヘイザは光から離れるように、シーナの腕を取ってすばやく林の奥に身を引いた。
ソウとトトも状況を理解したように、緊張した様子で後方に移動した。
開いた扉から出てきたのは、ダロだった。
ダロは相変わらずスマートな印象ではなかったものの、どこかびくびくした様子で辺りを見渡している。
そして、腕に抱えていた頑丈そうな鉄の箱を地面にそっと下ろした。
すると、ダロの後ろの扉から、もうひとつの人影のようなものが現れた——4人ははっと息をのんだ。
それは、人ではなかった。
人間の背丈ほどの大きさで、手足のようなものがついている。しかし、体は全体的に赤茶色く、皮膚はうろこのようなもので覆われ、トカゲのような顔をした魔物だった。目は鋭く光り、大きな口からは長い舌が出ていて、興奮したように自分の顔をべろべろとなめまわしている。
ダロがやさしい笑顔を向けて何か言うと、そのトカゲのような魔物はゆっくりと鉄の箱に向かって歩き出した。
「ねぇ……あの歩き方は……」
シーナが怯えたような表情で、のどの奥からしぼり出すように声を発した。
「……あれって——どういうこと?」
ヘイザはけげんな顔をして、トトを見た。
「あの魔物……ダロの恋人と同じ足の病気なのか?」
ソウが続けてたずねた。
トカゲのような魔物は、ダロの恋人らしき女性とよく似た、もつれるような歩き方で、鉄の箱にゆっくりと近付いている。
「ちょっと待って下さい……もう少し、様子を見てみましょう」
トトは魔物から目を離さずに、声をひそめて言った。
魔物はうろこに覆われた腕で鉄の箱を持ち上げると、軽々と小脇に抱えた。と同時に、背中からにょきっと黒い翼が現れた。
ダロは魔物を気遣うように何か話しかけ、魔物は荒い息で長い舌を出し、ダロの顔をひとなめした。
ダロは困ったように身をよじっている。しかし、嫌がっているようには見えない。
ダロはやさしい表情を見せながら、魔物に話しかけている。
魔物もダロに寄添うように耳を傾け、遠目から見ていると、恋人同士のような雰囲気にも見えた。
そして数分後、魔物は箱を両手で大事そうに抱えると、人間の体ほどの大きさだった体がみるみる縮み、同時に黒い翼が大きく広がった。
翼の大きいカラスのような姿になった魔物は、バサバサと翼を動かし、一瞬で空に舞い上がった。そして、流れ星のように暗い空にすっと消えた。
ダロは魔物が飛び立った空をしばらく心配そうに見上げていたが、やがて、再びびくびくした様子で辺りを見回し、4人が隠れている林の方を見て目を細めるようにした。
4人は思わず身をかたくして、息をのんだ。
ダロは首をかしげながら、廃工場に入って扉を閉めた。
「——まずいわ。気付かれたかも」
ヘイザが最初にそう言って、腰を上げた。
シーナはショックを受けたように青ざめた顔をしている。
「ホテルに帰りましょう」
トトは緊張した声でそう言って、来た道の方を向いた。
「まだだろ? まだダロがいるんだし、ここで見てようぜ」
「だめです、もう行かなくては……」
トトが言い終わらないうちに、廃工場の扉が再び開き、中から複数の円盤のようなものが3体飛び出してきた。
円盤はくるくると回りながら、どこへ行こうかと方向を探しているような動きをしている。
「あれはテソーンという魔物です! 早く逃げましょう!」
危機迫ったトトの声に押されるように、ヘイザはシーナの手を取り、ソウは仕方ないという様子で、来た道を戻り始めた。
「きゃあっ!」
後ろを振り返ったシーナは叫び声を上げた。
ヘイザが反射的にナイフを抜きながら振り返ると、3体のテソーンは、まっすぐこちらに向かって来ていた。
「おい、やっつけようぜ!」
ソウは棍棒を構えた。
「仕方ありません。ビーム攻撃をして来るかもしれませんので、注意してください」
トトは、すばやく杖を持ち直し、攻撃する姿勢になった。
狙いを定めたように向かって来る3体のテソーンに、待ち構えていたようにソウが棍棒を振り、ヘイザはシーナをかばうように立ちはだかってナイフで切りつけた。
ソウとヘイザの攻撃に一度は地面に落ちたものの、テソーンは起き上がりこぼしのように、再び宙に浮かんで、こちらへ向かって来る。
「止めを刺すわ……」
シーナがムチを当てようと構えた時、テソーン全体が金色にきらきらと光り始めた。
「ビーム攻撃です、避けてください!」
トトが杖からまばゆい光を放ちながら、声を上げた。
ヘイザはシーナの上に覆いかぶさるように地面に伏せ、ソウもすばやく地面に這いつくばった。
テソーンがビームを出した瞬間、そのビームごと包むように、トトの杖から勢いよく光が放たれた。
金属が割れるような耳障りな音を立て、テソーンは一気に砕け散った。
「何だよ、大したことないじゃん」
「早く行きましょう。また別の魔物を送って来るかもしれません」
トトはあわてた様子で、起き上がったソウの背中を押した。
「大丈夫、シーナ?」
「うん……」
ヘイザはすばやくシーナを立たせると、手を引いて、トトとソウの後を急いだ。
シーナは、魔物が追って来ていないかと何度も不安げに後ろを振り返りながら、ヘイザに手を引かれ、来た道を必死で走った。


「ダロはおそらく魔物召喚をしています。魔物召喚は犯罪ですから、これは有力情報ですよ」
ホテルに戻ったトトは、上機嫌な様子で目を輝かせていた。
「魔物召喚って?」
シーナは、ホテルの前の売店で買った温かいホットドッグの包みを開けながらたずねた。
「魔術師が召喚魔法を用いて、魔物を召喚することです。ダロと共に現れた魔物は、おそらく召喚された魔物でしょう」
「なんでそう思うの?」
ヘイザは緊張した様子で、暗い部屋のカーテンの隙間からからちらちと外を見ながらたずねた。
「あの魔物はダロと会話をしている様子でした、そして、飛び立つ際にカラスのような姿に変身しました。会話や変身ができる知能の高い魔物は、現代では召喚でしか呼び出すことは不可能と言われています」
トトは得意げに説明をすると、目を大きく開け、
「そして、ぼくは気がつきました」
と、もったいぶるような口調でゆっくりと言った。
「何に気がついたんだ?」
ソウはのんきな様子でたずねて、ホットドッグにかぶりついた。
「はい、ぼくたちが見張っていたダロと一緒にいた女性が……」
「あ、そうだそうだ! あの魔物と同じ足の病気だったよな?」
ソウはもぐもぐと口を動かしながら、トトの言葉をさえぎった。
「違います、兄さん。同じ病気だったのではありません。あの女性の正体が、おそらくあの魔物なのです」
「え?」
思いがけない言葉に、ソウが口を動かすのを止め、シーナとヘイザも一斉にトトを見た。
「あの女の人は……人間じゃないっていうこと?」
シーナが驚いた様子でたずねた。
「はい。おそらく。召喚で呼び出された知能の高い魔物なら、人間に変身することも可能でしょう。そして魔術師が術を教えれば、窓やドアを開けずに一瞬で外に出ることもできます。おそらく、ぼくたちがずっと見張っていたにも関わらずふたりがホテルからチェックアウトできたのは、そのせいでしょう。あの魔物が、人間の女性の姿になっていたのだと思われます」
「一体、何のためにそんなこと……?」
シーナは不安そうな顔をして、たずねた。
「それは、ぼくにもまだわかりません。しかし、ダロが魔物召喚をしているということを師匠に言えば、その理由も調べられることになるでしょう」
トトはすがすがしい口調で言うと、
「ここまでの、ぼくの任務はうまく行きました。今後どうなるかは師匠に話してからですね」
と言って、安心したようにホットドッグの包みを開け始めた。
「また次の任務があるといいなー。オレ、もっと危険なやつの見張りだって、もっと危険な魔物の相手だってへっちゃらだぜ」
ソウは胸を張って、トトに言った。
「兄さんは、いい加減、もうお寺に帰らなければいけないのではないですか?」
「いいじゃん、師匠だってオッケーしてるんだからさ」
「ちょっと、あんたたち」
軽快に話すソウとトトの間に、難しい顔でヘイザが割って入った。
「はい、何でしょう?」
トトはきょとんとした顔で返事をした。
「ずいぶん気楽そうだけど……わたしたち、ダロに見られたかもしれないのよ? ここへ来る途中、ダロの仲間につけられてたって不思議じゃないわ」
「つけて来た魔物は倒しただろ? あの後は、何も追ってこなかったぜ」
ソウはのんびりとした様子で言うと、食べ終わったホットドッグの包みをくしゃっと丸めた。
「ヘイザさんは、テソーンを倒した後で、何か追って来ているようなものを見かけたのですか?」
トトは真顔になって、たずねた。
「ううん、何も見てないけど……でも、用心した方がいいと思うわ。朝になる前に、ホテルを変えるとか……でも、もしこのホテルを突き止められてたら、今出て行くのも危険かしら……」
ヘイザは深刻そうに考え込んだ。
「ぼくは今出て行く方が危険だと思います。もう夜も遅いですし……明日の朝、師匠に連絡しますよ。そして、どうしたらいいか相談します」
トトは自信ありげな口調で言い、
「ダロが魔物召喚をしていることは、爆発事件の解明につながるような気がします。きっと師匠がうまく解決してくれますよ。後はおまかせしましょう」
と、安らいだ様子で微笑んだ。
ヘイザはしぶしぶと言った様子で、小さくうなずいた。
「なぁ……明日、シーナとヘイザはどうするんだ?」
ソウが急に寂しそうな目になってたずねると、シーナも寂しそうな表情になった。
ヘイザはソウに笑いかけながら、
「どこかの街に行って、アパートを探して、魔物討伐をやるわ。あんたも寺に帰るんでしょ?」
とシーナの横に腰を下ろし、あきらめたように紙袋に手を伸ばすと、最後のホットドッグを取り出した。
「あぁ。じゃあ、今度こそ本当の別れかぁ……」
「きっとまた会えるわ。離れても、連絡だって取れるんだし……そうでしょう?」
シーナはソウを励ましながら、自分自身をも励ますようにそう言った。
「あぁ、もちろんだ。また魔物討伐とか、一緒にできたらいいな!」
ソウは努めたように明るい口調で言った。
「その時はソウくんは、今より立派な僧侶になってるのかな……今でも十分に立派だけどね」
シーナが言うと、ソウはうれしそうに笑顔を見せた。
ホットドッグを一口かじったヘイザは、
「味気ないホットドッグね」
と不満そうにつぶやいた。
「あ、そう言えば忘れてたわ」
シーナははっと気がついたように、紙袋の中に手を入れ、特製スパイスと書かれた小袋を取り出して言った。
「これ、大人の方はどうぞって言われてたのに……わたしったら、すっかり忘れて食べ終わっちゃった」
「ま、あんな寂れたホットドッグ屋のスパイスなんて……全然期待できないけど」
ヘイザはそう言いながら、スパイスを振りかけた。そして無表情でかぶりつくと、わずかに表情を変えた。
「あら、思ったよりイケるかも。シーナも、食べてみる?」
「ううん。わたしはいい……もうおなかいっぱいだし」
「ソウ、あんた食べてみる?」
「いや、オレ、辛いのは苦手だからさ」
ソウがしかめっつらで言うと、ヘイザはからかうように笑って言った。
「そうだったわね。あんたまだ甘~いお菓子が大好きなお子ちゃまだもんね」
「おい、なんだよ、その言い方! バカにするな!」
恥ずかしそうな顔で怒るソウと、おかしそうに笑うヘイザのやり取りを、シーナとトトはどこか寂しそうな目で見つめていた。


翌日の早朝にホテルを出るつもりで、シーナとヘイザは30分後には部屋に戻り、ソウとトトも眠りについた。

- -

第15章

敵の正体

翌朝。
シーナとヘイザの部屋で、電話の呼び出し音が鳴り続けていた。
しかし、一向に電話が取られる様子はない。
電話をかけ続けていたのは、隣の部屋のソウとトトだった。
「シーナさんもヘイザさんも、全然出ませんね……おふたりの邪魔はしたくありませんが……師匠から、早くチェックアウトするよう指示されましたし、そろそろ……」
「おい! ふたりの邪魔とかそういう問題か? こんなに電話しても出ないって、どう考えても変だろ!?」
ソウは怒ったように、電話を握っているトトの腕をつかんだ。
「まぁ、確かにそうですね……どうしたんでしょうか……」
トトは不安そうに、鳴り続ける呼び出し音を聞いていた。
「なぁ、シーナたちの部屋に何とかして入れないか? 何かあったのかもしれないぞ」
「ぼくたちはカギを持っていないんですから、入れませんよ……やむを得ない場合は、フロントに申し出るしか……」
その時、トトの耳元で鳴り続けていた呼び出し音が止んだ。
「あ……あれ? あの、もしもし?」
トトは驚いて、電話をしっかりと握りしめた。
「——う……ん……」
電話口から、小さくうめくような声が聞こえた。
ヘイザの声だった。
「ヘイザさん!? 一体どうしたんですか!?」
トトは思わず大きな声を出した。
「……よく、わからない……頭が……くらくらして……」
しぼりだすように、苦しげなヘイザの声が小さく聞こえてきた。
「大丈夫ですか? とにかくお部屋に行きますので、カギを開けてもらえますか?」
「ん……わかったわ……」
電話を切ると、ソウとトトはすぐに隣の部屋のドアの前へ行き、カギが開くのを待った。
やけに時間がかかった後、やっとガチャッとカギが開くと、青白い顔をしたヘイザがうつろな目をして立っていた。
そしてドアを開けると同時に、ヘイザは立っているのもままならない様子で、床に座り込んだ。
「お、おい、ヘイザ!」
「ヘイザさん、大丈夫ですか?」
トトとソウは、座り込んだヘイザを支えるように手を回し、顔を覗き込んだ。
青白い顔をしたヘイザは、懸命に目をしっかりと開けようとしているようだが、まぶたが重くて仕方ないらしかった。
そしてトトは、ヘイザの肩越しに部屋の様子を見て、はっと息をのんだ。
ベッドのシーツと枕が床に投げ出され、窓は閉まったままだが、カーテンの半分が乱暴に引きちぎられたように破れ、だらりと下がっている。
何かあったのは一目瞭然だった。
ソウも部屋の様子に気がつくと、ショックを受けたようにつぶやいた。
「おい、これ……」
「ヘイザさん、一体何があったんですか? ——シーナさんは?」
トトは焦った様子で、今にも床に突っ伏してしまいそうになっているヘイザを揺すってたずねた。
「シーナ……いないけど……あんたたち……知らないの……?」
ヘイザは懸命に目を開けようとしながら、そう言って眉間にしわを寄せた。
ソウとトトは、ヘイザの言葉に愕然とした様子で目を見合わせた。
「兄さん、今すぐヘイザさんの回復をお願いします。とにかく何があったのか、お話を聞かなくては……シーナさんはどこへ行ったのか……」
トトは声を震わせながら、再び荒らされた後のような部屋を見渡した。
「あぁ、わかってる……」
ソウは緊張した表情で、再びヘイザの顔を覗き込み、
「毒でも呪いでもなさそうだけど……自然な衰弱じゃないことは確かだから……たぶん浄化の魔法で大丈夫だよな……」
と不安そうにつぶやきながら、トトとふたりでぐったりとしたヘイザの体を床に仰向けにした。
トトが心配そうに見守る中、ソウはヘイザの額に手をかざし、呪文を唱え始めた。

***

頭が痛い……
シーナは頭痛に顔をしかめながら、少しずつ意識を取り戻しつつあった。
目を開けようとするが、まぶたが重い。
どうやらじゅうたんがひかれた床の上に横たえられているらしかったが、起き上がることはできなかった。
手も足もロープでがっちりと縛られている。
その時、聞き覚えのある声が耳に入って来た。
「——あ、はい、今は眠らせてますよ。昨夜はちょっと大変でしたが……あ、いいえ、売店で薬は使ったんですがね、どうやらシーナは口に入れてなかったみたいで。眠りこけてぐったりしてるはずが大暴れされて、ゲドゥのやつの方がぐったりしてましたよ……いやいや笑えませんって」
男は声を立てて笑った。
どうやら電話で誰かに昨夜の報告をしているらしい。
シーナは、どこかぼんやりと男の言葉を聞いていた。
「——もうひとりは薬が効いてたみたいで、まったく起きませんでしたよ。あ、シーナと一緒にいるスリ女です。えぇ、まぁ、探しはすると思いますが……もともと人目を避けて生きてるクズみたいなやつですからね、うまくおびき寄せてシーナと一緒に消してしまうっていうのもありですね。問題はエウル兄弟ですよ、特に弟の方は政府に知られているし、簡単には消せませんよ……」
……エウル兄弟って、ソウくんとトトくんのことかしら……
シーナは昨夜のことをゆっくりと思い出していた。
——昨夜……物音がして目が覚めたら、ワニの頭に人間の体がついたような大きくて黒い魔物が部屋にいた。思わず声を上げかけたけど、声を出す前に、すごい力で押さえられてさるぐつわをされて、声を出せなかった……。
そして、抱えられて連れ去られそうになって……。
でも、あの魔物は力は強かったけど、どこか間の抜けたような動きだったから、ヘイザがナイフで切りつけてくれればって思って……必死でもがいて抵抗したけど……隣で寝てたヘイザは全然起きなくて……最後はカーテンにしがみついて抵抗したけど……結局、何か魔法みたいな力で、気がついたら魔物に抱えられたまま窓の外にいた。
その後は、両手足を縛られて、車に乗せられて……そして、この場所に連れて来られて、わけがわからないまま得体の知れない薬を無理やり飲まされて、眠ったんだわ……
ガチャッ。
ドアが開く音がして、シーナは重いまぶたを開こうと力を込めた。
わずかに目が開いて、ぼんやりとしたシルエットが目の前に見えた。
「——やっと薬が切れてきたみたいだね、シーナ。気分はどうだい?」
軽快な口調でそう言って、ヒュートはシーナを見下ろした。
シーナはヒュートを見返そうとしたが、目をしっかり開けることができない。
「シーナって意外と強いんだね。泣きわめいて、命乞いする姿くらい見せてほしかったんだけどなぁ」
ヒュートは楽しげな口調でそう言って、シーナの前にしゃがみ込むと、シーナの体を起こした。そして、シーナの瞳を無理やりこじ開け、手に持っていた目薬を点した。
目薬が入った途端、シーナの視界は一気に開け、はっきりとヒュートの姿を捉えた。
「そんな怖い顔するなんてひどいなぁ。大丈夫、今日はまだ死なないよ」
ヒュートは以前と変わらぬ人なつっこい笑顔を見せた。
その笑顔にシーナはぞっとした。
ヒュートは楽しくて仕方ないというように、べらべらと続けてしゃべった。
「僕のボスがシーナに用事があるから、今夜会いに来てくれるよ。それで用が済んだら、僕がシーナを殺す。いやぁ、楽しみだね。どんな方法がいい? やっぱり少しは痛くしないと、シーナは泣き顔も見せてくれないのかな?」
シーナは恐怖に、身をかたくした。
「ねぇ、何か質問ないかい? たくさんあるんじゃないの? 死ぬ前に、いろいろ聞いておきたいだろう?」
ヒュートは親しげに、シーナの前にどっかりと座った。
「ヒュートさん……」
シーナは、思い切って声を出した。
「はいはい。何だい?」
シーナは、おどけたようなヒュートをまっすぐに見た。
「わたし、全然わからないわ……ヒュートさんのこと、ずっといい人だと思ってたのに……」
そう言いながらシーナは、以前のヒュートの印象を思い出し、悲しい気持ちでいっぱいになった。
今もヒュートの笑顔や態度はまったく変わっていない。しかし、好印象を持っていたそれらがすべて、今は恐ろしく不気味なものに一変してしまった。
ヒュートはさらさらした髪をかき上げながら、微笑んだ。
「ありがとう。僕もシーナをいい子だなってずっと思ってたよ。一生懸命、偽の名前で僕を騙そうとしていたところもかわいらしかったね。僕は騙されたフリをしてたけど。うっかり〝シーナ〟って呼びそうになったことが何度もあったよ」
「ヒュートさんは、ずっとわたしのこと……知ってたの? まさか、飛行機で初めて会った時も?」
「うん、知ってたよ。あらかじめ、シーナの隣に座れるように手配してもらって、それで話しかけたんだからね」
「どうしてそんなこと……何のために?」
「知り合いになれば、殺しやすくなるからさ。できれば昨夜みたいな手荒なことはしたくなかったからね。でも、いつもヘイザがくっついてるせいで、シーナひとりを連れ出すチャンスが無かったから仕方なかったんだ」
「ヒュートさんは……どうして、わたしを殺すなんて……」
シーナはのどの奥からしぼり出すような声でたずねた。
ヒュートはにっこりと笑いかけて、続けた。
「長年の恨みだよ」
「恨み? わたしが、何かをしたの……?」
「シーナは知らないだろうけどね」
そこでヒュートは急にシーナに顔を近付け、ささやくような声になった。
「僕もオクトルの出身なのさ。そしてあの爆発で両親を失くして孤児になり、それはそれは苦労したんだよ」
「えっ……」
シーナは目を見開いて、ヒュートを見つめた。
「驚いたかい? シーナだってあの爆発で孤児になったっていうのに、大爆発を起こさせる薬を作ったシャーロに引き取られ、あいつの味方になった。裏切り者なんだよ。そして長い間、シーナはあいつの薬を作る手助けをしながら、何の苦労もせずにぬくぬくと暮らして来た。一方、僕は孤児院でみじめな子供時代を過ごしながら、いつかシャーロと裏切り者のシーナに復讐しようと必死で扇を学び、必死で勉強して来たってわけさ」
ヒュートの顔からは、ようやく不気味な笑顔が消えていた。そして、立ち上がって、真実に驚いているシーナを見下ろしながら続けた。
「まぁ、レイさんに出会わなかったら、シャーロがあの薬を作ったってことも知らずにいたかもしれない。本当にレイさんと出会えてよかったよ」
「レイさん? ……それは誰?」
面と向かって〝殺す〟と言われたというのに、シーナの心は知りたい欲求でいっぱいになっていた。
「レイさんは、ものすごく優秀な魔術師さ。そして、シーナやトト・エウルみたいな、恵まれた環境の人間じゃない。僕と同じで、復讐のために裏でこつこつと努力して来た人なんだ。シャーロに薬を依頼したのもレイさんだよ」
「薬って……」
「もちろんオクトルを壊滅させた、あの薬さ」
シーナの胸がドキンと鳴り、一気に鼓動が早くなった。
レイ……その人物が、シーナがずっと探していた、シャーロ博士に薬を作らせた魔術師なのだ……。それならば、爆発事件を起こしている真犯人も——
シーナはごくりとつばを飲み込んで、口を開いた。
「それじゃ……レイさんって人が、シャーロ博士に薬を依頼した魔術師で……オクトルの爆発事件を起こした真犯人なのね……?」
「真犯人はシャーロだよ。レイさんは依頼した薬を使っただけさ」
シーナは、理解できないというように目を細めた。
「何を言ってるの? 薬を使ったレイさんが真犯人でしょう? それに……シャーロ博士は、レイさんに薬を渡していないわ。恐ろしい薬だから……作ったけど、渡さなかった。なのに、レイさんが勝手に薬を盗んで、オクトルの爆発に使ったのよ? ヒュートさんが恨むのは、シャーロ博士より、むしろレイさんだわ……」
「誤解しないでほしい。レイさんは、あんな大爆発を起こすつもりじゃなかったんだ。シーナの家族や僕の両親を巻き込むつもりなんてなくて、ただ恨みのある数人の人間をまとめて殺そうと思っただけなんだよ。それで、身寄りの無い年寄りに薬を飲ませて、爆弾を持たせ、恨んでいたやつらに近付かせた。そうしたら、あの規模になってしまったというわけさ。あんな大きな爆発になるなんて、レイさんだって知らなかったんだ。悪いのはシャーロだよ」
「そんな……」
「まぁ、でもあの爆発がきっかけでレイさんは新しい理想の世界を作る夢を抱いた。僕も今はその夢を叶えるために協力している。レイさんはシーナを恨んじゃいないけど、夢を叶えるためにシーナを探していた。だから、レイさんと僕は協力し合える関係になった。レイさんの用が済んだら、僕がシーナを殺すんだ。レイさんと僕、それぞれの長年の夢が叶うっていうわけさ」
「ヒュートさんの夢は……わたしを殺すこと?」
「うん、そうだよ」
ヒュートは相変わらずの笑顔で答えた。
そのヒュートの笑顔を見て、シーナは軽い吐き気を覚えた。
シーナはヒュートから目をそらし、気分の悪さと闘いながら、たずねた。
「じゃあ……レイさんの夢っていうのは何なの?」
ヒュートは鼻で軽く笑い、
「そんなの聞かなくたってわかってるんじゃないの? ヘイザとエウル兄弟と一緒になって、散々レイさんの邪魔をしようとしてたじゃないか」
と言って再びシーナの前にゆったりと座った。
シーナは力なく首を横に振った。
「わたしたちは、ただ……ダロっていう魔術師を追っていただけだもの」
「ふぅん、そうなんだ。トト・エウルは何でもわかってるのかと思ってたけど、やっぱりまだまだ子供だな。さすが、あの男ったらしのファルラの弟子だ」
ヒュートはそう言ってバカにしたように笑い、
「まぁ、シーナはもうじき死ぬんだ。隠すこともないだろう。全部、教えてあげるよ」
と言って、シーナに向き合った。
「レイさんの夢は、理想の国を作ることさ。いらない人間を排除して、崇高な人間だけを残し、魔物を従えて幸せな国作りをするんだ」
シーナはよくわからないという様子で、いぶかしそうな顔をした。
ヒュートは大げさに手を広げ、
「わからないかい? シャーロのもとで苦労せずに育ったせいか、頭が悪いな。いらない人間っていうのは、例えばシーナやエウル兄弟みたいに、孤児のくせに金持ちの世話になり、苦労をせずにぬくぬくと生きて来た人間や、ヘイザみたいに隠れてこそこそ生きてるスリみたいな人間たちだ。そんな人間は社会のクズさ。そんなやつらを排除し、僕やレイさんのように、恵まれない環境でもこつこつと目標を持って努力して来た強い人間だけを残すんだ。そして、排除した人間の代わりに知能の高い従順な魔物を召喚して理想の社会を作るってわけさ。すばらしいだろう?」
と言って、楽しげに笑った。
シーナは固まった表情で、口を開いた。
「……その夢のために、あなたたちは何をしようとしているの? ダロさんがやっていたことは……?」
「ダロは理想の国を作るため、レイさんの手伝いをしてるんだ。召喚した魔物を調教したり、新種の魔物を生み出す実験をしているよ。ダロは魔物が大好きなんだ。魔物に人間の女の格好をさせて楽しんでたのを見ただろう? まぁ、要するにちょっとイカれてるんだけどね。人間の女に相手にされないダロが、レイさんが召喚した魔物に、昔好きだった女の格好をさせて楽しんでるらしい。まぁ僕にはそんな趣味はないから、よくわからないけどね」
そう言ってヒュートはおかしそうに、
「僕が調教してるのはゲドゥって魔物なんだ。頭が良くて従順だけど、人間の女の格好をさせるつもりはないね。あ、一度させたかな? ほら、あの時だよ。シーナたちがダロを追いかけて夜のグレイトルの高台に来た時、僕と会っただろう?カップルだらけのあの場所でひとりは不自然だからね、ゲドゥに人間の女に化けさせてみたんだけど、あれはひどかったよね。ほんと、今思い出しても笑えるよ……」
と言って、くったくのない表情で笑った。
シーナはにこりともせず、ヒュートの笑い顔を見ないようにしてたずねた。
「……それで、レイさんは何をするつもりなの? 召喚した魔物を使って、いらない人間を襲わせるつもり?」
「まさか、そんな野蛮なことしないよ。それに魔物に襲わせるには、いらない人間が多すぎる。今はレイさんが、いらない人間を一気にまとめて爆発で片付けられるよう、逆にシャーロの発明を利用しようとしてるんだ」
シーナは緊張した面持ちでたずねた。
「どういうこと……?」
「レイさんはずっと、シャーロの薬を再現しようと努力して来たんだ。そして、あともう少しで、あの薬の威力を再現できるというところまで来ている。そうしたら、残りのシャーロの薬と合わせて各地で一斉に爆発を起こし、いらない人間たちを街ごと一気に排除するんだ。ぬるま湯につかって生きてる政府の連中や、社会のクズたちなんかをね……」
「——残りのシャーロ博士の薬は……あと2つね……」
シーナはオクトル、ルビラ山、リミトルと考え、残っているであろう薬の数を言った。
ヒュートはにやにやと笑い、
「いいや、違うよ。シャーロの薬は、レイさんがあと4つ持ってる」
「えっ……4つって……。オクトルの後は、シャーロ博士の薬を使っていないっていうこと?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ……ルビラ山やリミトルの爆発はどうやって……?」
「あれは実験だよ。レイさんが、シャーロの薬を再現しようとしてるって言っただろう? ルビラ山とリミトルは、レイさんが作った薬を試したんだ。ダロが作った兵器の魔物を閉じ込めてね。シャーロの薬はちゃんと温存してるよ」
シーナがずっと疑問に思っていたこと……なぜルビラ山とリミトルは、オクトルの爆発より規模が小さかったのか、なぜルビラ山とリミトルの爆発後は魔物が出現したのか……
ヒュートの言葉で、これらの謎がするすると解けた。
そしてシーナは、急に何かを思い出したように悲しげな表情になった。
「じゃあ、レイさんは……ホームレスのルパートさんをあやつった魔術師なのね……? あやつって自爆させて、リミトルを……?」
「うん、そうだよ。ルビラ山の爆発もホームレスを使ったんだ。ホームレスは、社会にとってクズ中のクズだからね。こういうことに利用するのはいいアイデアだろう?」
「ひどいわ……よくそんなことが……」
シーナは悲しみと怒りが入り混じったような目をして、つぶやいた。
「ひどい? シーナがそんなこと言える立場かな? ずっとシャーロの手助けをしてきたくせに。シャーロが最大の人殺しだってこと、忘れたのかい?」
「だけど……今、ヒュートさんが協力しようとしてるレイさんは、シャーロ博士の薬を再現してもっと多くの人間を殺そうとしてるんでしょう? 自分が言ってることが、おかしいと思わない? レイさんはシャーロ博士と同じこと——ううん、もっとひどいことをしようとしてるのよ? そして、シャーロ博士と暮らしたわたしを裏切り者って言いながら、ヒュートさんはレイさんに協力しようとしてるなんて……何もかも矛盾してるわ」
シーナは手足を縛られたままの格好で、身を乗り出すようにして、ヒュートをにらんだ。
ヒュートはことさら穏やかに微笑んだ。
「矛盾なんてしてないさ。いいかい? シャーロの薬は無差別に人を殺したんだ。教師として優秀な子供たちを育て、崇高に生きていた僕のパパやママを含め……きっと他にも、死ぬべきでなかったオクトルの人々の命を奪った。でもレイさんは、そんな薬の使い方はしない。必要な人間は残し、いらない人間だけを排除するんだ」
「オクトルの爆発は、レイさんが薬を勝手に使ったせいで起こったのよ? シャーロ博士は薬を使ってほしくなかった。だから渡さなかったのに……」
「シャーロはあんな威力のある薬を作っておいて、それが危険だと思ったなら、薬を隠すんじゃなくて、説明すべきだったんだ。だからレイさんは威力の大きさをわからなかった。不要な人間だけを殺すつもりだったのに、シャーロのせいで、無差別殺人になってしまったんだ。不要な人間を殺すことは罪じゃないが、必要な人間を殺してしまうことは大きな罪だ。その違い、わかるだろう? 矛盾なんかしてないよ」
シーナは急に脱力的な気持ちになって、ヒュートから目をそらした。
言い合いをしたところで、無駄だろうという気持ちになった。
そして、この男——ヒュートは確実に自分を殺すだろうと思った。ヒュートが不気味で恐ろしかった。そしてレイという魔術師もおそらく同類なのだろうと思うと、これからレイが自分に会いに来るということに大きな恐怖を感じ始めた。
「わかってくれたかい? どうしたの? シャーロの罪の大きさを今さら理解したのかい?」
ヒュートは、急に元気がなくなったシーナの顔を覗き込んで、楽しげに微笑みかけた。
「さぁ、何か食べようよ。僕もお腹すいたから、一緒に食事しようか」
ヒュートは明るくそう言って立ち上がった。
「……毒でも、入れるつもり?」
シーナは不信そうな目でヒュートを見た。
「あはは、まさか。言ったろう、レイさんの用が済むまでは、シーナを殺したりしないから安心していいよ。意外と疑り深いんだなぁ、シーナって」
ヒュートは笑いながらドアの方へ歩きかけたが、
「あっ、そうだ」
と言ってくるりと首を回し、
「ヘイザのことは、どうしようか? 一緒に死にたいかい?」
と軽快な口調で微笑んだ。
ヘイザ……
シーナは言葉に詰まり、戸惑いの表情を浮かべた。
「どっちみち、レイさんの計画がうまく進めば、ヘイザも死ぬことになるからね。もし一緒に死にたいなら、最後の希望を叶えてあげてもいいよ」
……もしヘイザがここへ来ることになったら……ソウくんとトトくんも、一緒に来てくれるんじゃないかしら?
ソウくんとトトくんとヘイザが一緒に来てくれたら、この人たちに勝つことができるかも……
シーナが考えを巡らしていると、ヒュートが続けて言った。
「エウル兄弟がくっついて来ると面倒だから、こっちはヘイザの知り合いのスリを使おうかな。この間ヘイザとシーナの尾行をさせるために雇ったら、すんなり逃がした上に、廃工場の場所までちゃっかり教えたやつさ。シーナも知ってるんだろう? やつはヘイザの知り合いというか、ヘイザのことが好きみたいだね。だからこっちはやつのミスを許したフリをして、これからも利用することにしたんだ。やつを使って……そうだな、エウル兄弟といると危ないとか何とか嘘の情報を与えて、うまくヘイザだけを逃がすように仕向けて、実はこっちにおびき寄せるって言う手はどうだろう?」
キドさんのことも……全部知られてるんだわ……
シーナは愕然として、言葉を失った。
「まぁ、まだ少し時間があるから、考えておいてよ。僕としてはヘイザを一緒に殺すのも悪くないと思ってるんだ。クズの分際で、散々この僕に生意気な口を聞いたからね。昨夜シーナと一緒に連れて来ちゃえばよかったんだけど、レイさんからまずはシーナだけを捕まえるように言われてたからできなかったんだよ……だから……」
楽しそうにひとりでしゃべり続けるヒュートの声をぼんやりと聞きながら、ロープでがっちりと縛られたままのシーナは、力が抜けたようにがっくりとうなだれた。

***

「——ずっと隣で寝てたのに、何も気がつかなかったなんて!」
ヘイザは破れたカーテンをにらみつけながら、悔しそうに声を上げた。
「ヘイザは、たぶん薬か何か飲まされてたんだ。あんな症状は見たことないよ、毒や呪いじゃない。きっと、シーナを連れ去ったやつに何か飲まされたんだ」
ソウが深刻な表情で言った。
「薬なんて……いつ飲まされたっていうの!? そんなの、飲まされる時に気がつくわ!」
ヘイザはやり場のない怒りをぶつけるように、大声を出した。
すると、考え込むように難しい顔をしていたトトが顔を上げた。
「確かにそうです。その場で飲まされたとは考えにくいですね……では、気がつかずに飲んでしまったという可能性もあるのではないでしょうか? ヘイザさん、昨夜、ぼくたちの部屋を出てから、飲んだり食べたりしたものはありますか?」
ヘイザは少し考える素振りを見せたが、すぐに首を横に振った。
「ううん、何も。昨夜あんたたちの部屋を出る時は、ものすごく体が疲れてて……ここに戻って来て、すぐに眠ったわ」
ヘイザの言葉に、トトははっとしたような表情を見せた。
「ヘイザさん! ぼく……わかりました!」
ヘイザはけげんな顔をし、ソウは興味深そうにトトを見つめた。
「ヘイザさん、昨夜、売店で買ったホットドッグですよ! あれにスパイスをかけて食べたのは、ヘイザさんだけだったでしょう? 部屋の荒れ方から見て、シーナさんは意識があり、抵抗しながら連れ去られたと思われます。ヘイザさんだけが眠ったままだったのは、あのスパイスのせいではないでしょうか……」
ヘイザの目つきが鋭く光った。
「そう言われれば、あの売店……ホテルにチェックインした時は無かったわ。でも、廃工場から逃げて来た時にはあった……」
「そうです! ——あの店員の男性は、〝辛いので、子供さんの口には合わないでしょうが、大人の方はどうぞ〟って言って、スパイスをふたつくれましたよね? ということは、シーナさんとヘイザさん、おふたりに、あれを口にしていてほしかったんでしょう。そうすれば、ほぼ無抵抗な状態になったシーナさんを連れ去ることができたわけですから。無抵抗な状態だったヘイザさんを置いて、シーナさんだけを無理やり連れて行ったということは、おそらく最初からシーナさんだけが目的だったのではないでしょうか?」
「そうね……」
ヘイザは宙をにらみつけながら、低い声でつぶやいた。
「じゃあ、犯人はダロで、シーナはあの廃工場にいるってことだろ? 今すぐ助けに行こうぜ!」
ソウが言うと、ヘイザは大きくうなずいた。
すると、慌てたようにトトがふたりの間に割って入った。
「ちょっと待ってください。連れ去った方法を疑問に感じませんか? ホテルの窓は開かない仕組みになっていますし、ガラスが割られた跡もなく、ドアにもカギがかかったままで、カギは部屋の中にありました。一体どうやって犯人は部屋に入り、シーナさんを連れて出たのか……」
「そんなのわかんないけどさ、犯人がダロなら、あの廃工場にシーナを助けに行けばいいだろ!?」
イライラしたようにソウが言うと、トトは深刻な顔で口を開いた。
「ぼくが言いたいのは、敵は、召喚した魔物を使ってシーナさんを連れ出したのではないかということです。術を覚えた魔物を使えば、ガラスも割らず、ドアも開けずに、この部屋に入り、シーナさんを連れ去ることができるでしょうから……——わかりますか? 召喚されるような魔物は知能が高く、人間にとって非常に危険な存在にもなり得るんです。もしそうなら、今あの廃工場に乗り込むなんて危険すぎます」
「だったら、連れて行かれたシーナはどうなるんだ? オレたちが助けなきゃ!」
ソウは怒ったように地団駄を踏んだ。
「もちろんです。だからこそ、ぼくたちが簡単に敵に捕まってしまうようなことがあってはならないんです」
「じゃあ、どうするんだよ!?」
「——ぼくが師匠に相談してみます。ここまでシーナさんに協力していただいたことをお話して、なんとか政府か警察に動いてもらえるように……」
「トト、わたしがひとりで助けに行くわ」
ヘイザがトトの言葉をさえぎって言った。
「えっ? ——あっ、ヘイザさんのお名前は言いませんよ、護衛のお仕事でご迷惑がかかるようなことは言いませんからご安心を……」
「ありがと、でも、わたしは行くわ。警察は好きじゃないけど……今夜になってもわたしから連絡が無かったら、警察でも何でも呼んで」
「そんなこと……ヘイザさんおひとりで行くなんて、敵の手の内にまんまとはまってしまうかもしれませんし……」
「大丈夫、注意深くやるわ。きっとシーナを見つけ出して、うまく逃げて来るから」
「そんな無茶な……」
「わたしね、自慢じゃないけど、隠れたり逃げたりするのは得意なのよ。呪いと薬にはやられたけどね」
ヘイザはそう言って、皮肉な笑みを浮かべて見せた。
「おい、なんでヘイザひとりで行くんだよ? オレも行くよ!」
「待ってください、兄さんもヘイザさんも、もっと冷静に……」
トゥルルル……
その時、電話の呼び出し音が鳴った。
「あ、ぼくの電話……」
トトは携帯電話を取り上げた。
「もしもし。——はい、そうですが……えっ、ヘイザさんですか? は、はい、ここに……お待ちください……」
トトは戸惑った表情で、電話をヘイザに差し出した。
「——わたしに? 誰なの?」
トトは首をかしげるようにして、電話の相手がわからないと伝えた。
ヘイザは警戒した表情で、電話を受け取った。
「——ヘイザよ。誰?」
「もしもし、ヘイザさん? 僕、チャドです。覚えてますか?」
「……チャド!? もちろん覚えてるけど……」
ヘイザはわけがわからないという表情で、言葉に詰まった。
チャドは、シーナにムチの扱いを教えたムチ使いだ。
ヘイザがキドに頼んで紹介してもらった男で、シーナはとても信頼を寄せていたが……。
なぜ、そのチャドが今、トトの電話を鳴らし、ヘイザがここにいることを知っているのか……わけがわからなかった。
「ヘイザさん、急な電話で驚かせてすみません。シーナのことなんですが……」
「シーナのこと? あんた、何か知ってるの?」
ヘイザは思わずチャドをさえぎった。
「はい。シーナはある魔術師の命令で誘拐され、今、彼らのアジトにいます」
「魔術師ってダロでしょ? アジトは廃工場ね?」
「いいえ、違います。ダロは上の命令で仕事をしているだけで、ほとんど力はありませんし、シーナがいるのは別の場所です。とにかく……今、シーナは危険な状況にあります」
「シーナが……」
ヘイザの顔つきが変わった。
「ヘイザさん、僕もシーナを救出したいんです。協力してもらえますね?」
「だけど……こんな突然の電話で、いきなり協力しろなんて言われて……あんたのこと信用できると思う?」
ヘイザは動揺を隠せない様子で、語気を強めた。
「僕を信用してくださいとしか、今は言えません。わけは後できちんとお話します。今は、とにかくシーナを助けるために協力してほしいんです」
電話口から聞こえる落ち着いたチャドの声に、ヘイザは一瞬間を置き、答えた。
「——わかったわ。どうすればいいの?」
「トトくんを連れて、今すぐ駅に向かって、ラルストル行きの特急列車に乗ってください。ラルストル駅で落ち合いましょう。今はあまり時間がありませんので、詳しい話もそこでします」
「いいわ」
ヘイザは即座に返事をした。
「よかった。じゃあ、トトくんに代わってもらえますか?」
ヘイザはトトに電話を渡し、話をするようにジェスチャーで伝えた。
「はい……あの、もしもし」
トトはいぶかしそうに電話に向かった。
「——はい……でも、師匠に聞いてみないと……えぇと……」
トトが困った様子で話をしている横で、ヘイザはてきぱきと荷物をまとめ始めた。
「おい、ヘイザ。何なんだ? あの電話は?」
ソウが戸惑った様子で、ヘイザのそばに近寄った。
「シーナにムチを教えたムチ使いよ。シーナの居場所を知ってるみたい。これからラルストルで落ち合って、シーナを助けに行くわ」
「ラルストル? ……あの廃工場じゃないのか?」
「違うみたい。よくわからないけど……とにかく、シーナを助けに行かなくちゃ」
「あぁ、オレも行くぜ! オレの棍棒で、悪いやつらをやっつけてやるから安心しろよ」
頼もしいソウの言葉に、ヘイザはうなずいて見せた。
「——わかりました……はい……では、後ほど……」
トトは不安そうな声で返事をしながら電話を切ると、落ち着かない様子で、ヘイザに顔を向けた。
「あの……ヘイザさん。さっきの方は……どれくらい信用できるんですか? シーナさんを助けるために、ぼくの協力がどうしても必要だと言われましたが……。政府や警察が動くと、敵が強硬手段に出る可能性があるから、師匠には言わないでほしいと言われたり……なんだかおかしくないですか? ……ぼくたちが、敵側の人間におびき出されている可能性はありませんか?」
「チャドはわたしの友達の友達で、シーナにムチを教えた男よ。わたしだってよくわからないけど、敵側のことをよく知ってるみたいだし、今はとにかく信用するしかないでしょ? 万が一、敵側の人間におびき出されてたとしても、シーナに近付けるチャンスだわ」
「そんな無謀なこと……」
「とにかく、チャドに会ってみましょ。ラルストルはそんなに遠くないんだから、そこで判断したって遅くないわ」
ヘイザは荷物をまとめる手を休めることなく、早口で言った。
「オレとヘイザとおまえの力があれば、何があったって大丈夫だろ。オレたちの手で、シーナを助けに行くんだ!」
闘志満々なソウを横目に、トトはますます心配そうな顔で、手早くラルストルへ行く準備を進めるヘイザの背中を見つめていた。


——ヘイザ、ソウ、トトの3人はラルストル駅に降り立った。
約束の時間ちょうどになったが、チャドはまだ現れない。
辺りはのどかな畑や森が見える、田舎の寂れた駅で、人気もまばらだった。
「ヘイザさん、やっぱりぼくたち……騙されたんじゃないですか? もしかしたらシーナさんはあの廃工場にいて、そこから遠ざけるためにぼくらをここへ……」
トトが不安そうに辺りを見回しながら言った。
「まだわかんないわ。少しだけ、待ってみましょ……」
ヘイザは表情を隠すように口元に手を当て、サングラス越しに辺りをにらんだ。
「大丈夫だよ! シーナのムチの先生なんだぜ? オレたちと同じように、シーナのこと心配してるはずだよ」
きっぱりと言い切ったソウの隣で、トトはそわそわしながら、誰に言うともなくぶつぶつとつぶやいた。
「やっぱり……師匠に言うべきだったんじゃないでしょうか……どう考えても、政府や警察の力を借りた方が……ぼくらで解決できるような問題なのかどうか……」
「だから、大丈夫だって! シーナのムチの先生で、ヘイザの友達の友達なんだからさ。悪い人なわけないよ!」
「ぼくには、そんな楽観視はできませんよ。それに……師匠にはフロートルに戻るよう言われたのに、こんなことをしていていいのかどうか……」
その時、ヘイザがふたりの肩を叩いた。
「——来たわ。チャドよ」
古びているが頑丈そうな防具を身につけた長身の男性が、早足でこちらにやって来る。
ヘイザはほっとした様子で、男性の方へ歩き始めた。
「ほら、言ったろ? トトはさ、心配しすぎなんだよ」
ソウはそう言って、ヘイザの後ろについて歩き始めた。
トトは疑うような表情のまま、ゆっくりと前に進みながら、チャドを見つめた。
「遅くなってすみません。車を用意してありますから、中でお話しましょう」
チャドは礼儀正しくそう言って、注意するように辺りを見回しながら、駐車場に向かって歩き出した。
早足のチャドについて、ヘイザ、ソウ、トトの3人は、駅近くの駐車場の片隅に停まった黒いワゴン車の前に立った。
窓には濃いスモークが張られ、中の様子は外からは見えない。
チャドがスモークを張られた窓に近付くと、中でロックを外す音がして、後部座席のドアがガラッと開いた。
中から顔を出したのは、長いおさげ髪を両肩に垂らし、黒縁の眼鏡をかけた、丸顔で地味な印象の女性だった。年齢は、シーナやヘイザと同じくらいに見える。
「早く、乗って」
ヘイザたちを見ると、女性はそう言って子供っぽい仕草で手招きをし、おっとりとした動きで助手席に引っ込んだ。
ヘイザは不思議そうな目で女性を見ながら、言われるままワゴンに乗り込んだ。
女性は助手席の窓にぴったりと身を寄せ、車に乗り込んだヘイザたちをちらちらと見ながらも、目を合わせないよう努めるように、せわしなくおさげの髪をいじっている。
ソウとトトはそれぞれ、棍棒と魔法の杖をしゅるっと短く縮め、車に乗り込んだ。
チャドは運転席につき、
「ここではちょっと何なので、少し移動します」
と言ってエンジンをかけた。
「ねぇ、シーナはどこなの?」
ヘイザは、運転席のチャドに向かっていらだったように声を投げかけた。
「ラルストルにいますよ。後で、その場所へ行きます」
「後で? ……場所がわかってるなら、今すぐ連れてってよ!」
「今はまだ難しいんです。僕たちも準備をしなくてはいけません」
「準備って!?」
「ヘイザさん、お願いですから、ちょっと待ってください。今、安全な場所に移動して、きちんとお話しますから」
ヘイザをなだめるように、チャドはバックミラー越しに誠実な視線を送りながら、慎重に車を出した。
「コーア、ノ・オーネ」
おさげ髪の女性が、薄いが重そうな板のような物を取り出しながら、チャドに向かって外国語のような言葉を発した。
トトは、女性が取り出した板が目に入ると、はっと息をのんだ。
「エスト、ダ・ルーア」
チャドは女性に答えるように、同様に外国語のような言葉を発した。
ヘイザとソウは、落ち着かない様子で顔を見合わせた。
チャドと女性は、ヘイザたちにはわからない言語で短く会話をしながら、15分ほどかけて、寂れたビルの薄暗い駐車場に入った。
まばらに車がぽつりぽつりと停まってはいたが、人気は無く、しんとしていた。
「まぁ、ここはいい場所でしょう」
チャドはバックミラー越しにヘイザに向かってそう言いながら、注意深く、フロントガラスにカーテンをかけて外から車内を見えないようにした。
「さて、それじゃ詳しい話をします。説明が遅くなって、すみませんでした」
薄暗くなった車内で、チャドがヘイザたちに向かって話し始めた。
——その時だった。

- -

「兄さん! ヘイザさん! 構えてください!」
トトが突然大きな声を上げ、魔法の杖を前に構えた。
ヘイザとソウは突然の出来事にあっけに取られ、チャドは驚いた様子で、
「ちょ、ちょっとトトくん……どういうつもりだい?」
と言いながら、自分に向けられた魔法の杖の先から少しでも離れるようにのけぞった。
「ぼくはわかっていますよ! シーナさんを誘拐したのは、あなたたちですね? 今すぐシーナさんを解放するように仲間に言ってください! さもないと、ここで爆発の魔法を放ちます!」
トトは声を震わせながら、まくし立てた。
ヘイザとソウは戸惑いながらも、トトの勢いに押されるように、武器を手にしかけた。
「ちょっと待ってくれ、トトくん。何か誤解しているようだけど……僕らは敵じゃないよ。僕らもシーナを助けようとしてるんだ。なぜ、僕らが敵だと思ったのか教えてくれないか?」
チャドはトトを落ち着かせようとするように、ことさらにゆっくりとした口調で話しかけた。
板を持った女性は、眼鏡の奥の目をまんまるくして成り行きを見守っている。
一瞬車の中がしんとなり、トトはごくりとつばを飲み込んだ。そして、恐ろしい物を見るような目で女性が持っている板に目をやった。
「……それは……召喚魔物と人間の意思を通じやすくするための命令板でしょう? 命令板を用いて命令すると、魔物が従順になりやすいと言われている……召喚に使用する道具です。それを持っているということは……あなたたちは、魔物を召喚したということでしょう? 魔物召喚は違法です。あなたたちは、危険な犯罪者です……」
トトは声を震わせながら、しっかりとチャドの目を見て言った。
チャドは顔色を変えることもなく、ゆっくりとうなずいた。
「さすがトトくん、よく知っているね……でも、これにはわけがあるんだ。僕らも違法な行為をしたくはなかったが、シーナを救い出すため、そしてこの国を救うために、仕方なくやった。君たちも知ってるだろう? 敵は魔物召喚をしているんだ」
「確かにそのようでしたが……しかし、魔物召喚は一歩間違えると、魔物に殺されます。きわめて危険な行為ですよ……」
トトの声はまだ震えている。
ヘイザとソウはそれぞれいつでも武器を取れる姿勢で、チャドの言葉を待った。
チャドは真剣な目をして、
「もちろん、危険なことはわかっている。しかし、こうするしかなかったんだ」
と言って、トトを説得するように身を乗り出した。
「シーナの誘拐を指示したのは、レイという名の危険な魔術師なんだ。ルビラ山やリミトル、そして昔起こったオクトルの自爆テロも、すべてレイが起こさせた。僕はずっとレイの動きを追って来た」
「レイ……?」
ヘイザは初めて耳にする名前に、困惑した表情を浮かべた。
「じゃあ、あのダロっていう魔術師は何なんだ?」
ソウがたずねた。
「ダロは、レイのもくろみに協力する形で、召喚した魔物を調教したり、新種の魔物を作りだす研究をしているようだ。ルビラ山やリミトルの爆発と共に発生した、おかしな魔物たちがいただろう? あれはダロが作った魔物が、爆弾に閉じ込められていたんだ。爆発の後も、ひとりでも多くの人間に被害が出るようにという目的なのかもしれない」
「……そのレイという魔術師は、何を望んでいるのですか?」
トトがわずかに落ち着きを取り戻した様子でたずねた。
「にわかには信じがたいとは思うけど……国中のほとんどの人間を抹消し、自分の仲間と召喚した魔物で、新しい国を作ろうとしているらしい」
「何それ!? そんなバカなこと、できっこないわ……」
ヘイザは信じられないと言った顔をした。
「いや、それがそうでもなくて……レイはオクトルの爆発に使われたのと同じ薬を、まだ4つ所持しているんです。そして今、同じものをさらに大量に再現しようとしています。それを各地で、一気に爆発させるために。ルビラ山とリミトルは、自分たちで作った薬の実験だったようですが、オクトル事件の規模には及びませんでした。しかし、オクトルの規模の爆発が各地で一斉に起こったらどうなるか……——オクトルの爆発の大きさは、知っているでしょう?」
「もちろん知ってるわ、だって、オクトルはシーナの……」
ヘイザは表情をゆがめた。
「そうです。そして、シーナの養父だったシャーロ博士が、レイに依頼され、あの爆発に使われた特別な薬を開発した人物です」
「シャーロ博士って人……悪いやつだったのか?」
ソウがたずねた。
「当時のシャーロ博士は野心が強かったようだ。だから、レイに高額な金額を提示され、薬を作ったんだろう。しかし、作った後で恐ろしさに気付き、設計図ごと薬を隠したんだ。なのに、レイはそれを盗み、オクトルの爆発事件を起こした」
「レイという魔術師は……その薬の設計図も持っているのですか?」
トトは恐ろしいことを口にするように、たずねた。
「うん、持っている。でも、シャーロ博士は、情報を盗まれないように、暗号を使って設計図を書いていたようなんだ。だからレイは今日まで、やっきになってその暗号を解くことに専念して来た。そして今、あと一歩のところで行き詰まっている。だから、シーナを誘拐したんだ」
「……どういうこと? シーナがその暗号を解けるとでも?」
ヘイザがたずねた。
「僕にもわからないけれど……少なくとも、レイはその可能性に賭けているようです」
「そんなの……シーナが解けるわけないわ!」
ヘイザは吐き捨てるように言った。
「僕もそう思っています……というか、そう願っています。シーナが暗号を解いてしまえば、レイの手下の人間たちが一斉に薬を作り、恐ろしい計画が実行に移されてしまいますから。レイは今夜シーナに会おうと計画しています。何とか、レイに会う前に、シーナを救い出さなければ……もし会ってしまえば、最悪の事態になる可能性があります」
「最悪の事態って……?」
ヘイザは恐ろしいことをたずねるように、瞳を震わせた。
「シーナは殺され、各地で爆発が起き、僕たちを含め——国中のほとんどの人間が殺されるということです」
言葉を失い、顔をゆがめたヘイザの隣で、ソウが身を乗り出して叫んだ。
「そんなやつ、オレの棍棒でぶん殴ってやるよ! シーナを殺させたりしない!」
「ソウくんの棍棒の腕は聞いているが、力のある魔術師相手に、武器で闘うのは分が悪い。その上、レイは召喚した強力な魔物に自分をガードさせているから、倒すのは容易なことじゃないんだ」
「じゃあ、一体どうすればいいんだよ!?」
「僕らに考えがある。レイが会いに行く前に、なんとかシーナを救い出すんだ」
穏やかな口調のチャドに、トトはようやく杖を置き、不安そうに口を開いた。
「そんな……ぼくらだけで、どうやってシーナさんを助け出すというんです? なぜ師匠に言ってはいけないんですか?そんな恐ろしい魔術師が相手なら、政府や警察の力を借りなければ……」
「政府にも警察にも、すでに何人かのスパイがいるんだ。実は、君の師匠のファルラさんが付き合っている恋人の部下は、レイの強力な仲間なんだよ。ファルラさんは今の恋人には気を許し切っているようで、今回トトくんにダロを追わせたことなども、かなり話してしまっているようだ。——わかるだろう? 今、僕らがシーナを助けようとしていることが、もし敵側に知られてしまったら……シーナをどこに隠されるかわからない。今、僕らの動きを知られるわけにはいかないんだ」
「それでは、ぼくが師匠に、誰にも情報をもらさないようにと言いますよ! 師匠の恋人の部下がスパイだから危険だと……」
チャドは苦笑いをして、首を横に振った。
「残念だけど……ファルラさんは、トトくんよりも恋人を信頼しているからね……トトくんの話を信じるかどうか。逆に、すべて恋人に打ち明けられてしまったら、僕らの情報が敵側に行ってしまう」
「……」
トトは静かに座席に身を沈めた。そして、大人びた表情になって、
「そうですね……師匠は、ぼくのことを信用してくれないことがあります……」
としんみりすると、穏やかに表情を変えながら言った。
「だけど、シーナさんは……きっとぼくが何を言っても信じてくれると思います——もしお母様が生きていらしたら、きっとぼくにそうしてくれるように……」
「あぁ、そうだよ! オレは初めて見た時から、シーナは母ちゃんみたいだって思ってたんだ。やっぱオレが正しかったろ?」
「はい、そうですね……」
トトは大人びた表情のまま、素直にソウに同意をすると、
「チャドさん」
と急にきりっとした表情をして、チャドに向き直り、言った。
「ぼくたちで、シーナさんと、この国を救いましょう」
チャドはほっとしたように微笑んだ。
「そうか、よかった。トトくんの協力が絶対に必要なんだ」
「わかりました。どのようなことでしょうか?」
「僕たちが召喚した魔物に、術を教えてほしいんだ」
「……えっ……」
トトは目を大きく見開いた。
「頼むよ。トトくんなら、きっとできる。僕らの頼みの綱なんだ。向こうの召喚魔物に勝つために、必要なんだ」
トトは気持ちを整えるように、深く深呼吸をした。そしてあきらめたような顔で、
「……わかりました。召喚魔物に術を教えるとなると、ぼくは犯罪者になるんですね。やむをえません……」
とつぶやいた。
「……ふふふ。大丈夫よ、トトくん」
その時、ずっと黙っていた助手席のおさげ髪の女性が、眼鏡のふちを押さえながらにこにこ笑って声を出した。
「えっ?」
トトは驚いたように、女性を見つめた。
「あなたは、犯罪者にならないわ」
「なぜです……?」
「今回のことが罪になるなら、あたしが全部ひとりでやったことにするから」
女性は、はにかんだように笑みを浮かべた。
「えっ……——あなたは……なぜそんなことを?」
トトが戸惑った様子でたずねた。
「あたしはね、もうとっくに犯罪者なの。今は内緒で刑務所から出してもらってるだけ」
その言葉に、トトはまじまじと女性を見つめ、ソウとヘイザも驚いたように女性を見た。
女性は3人の視線をよそに、
「だから別にいいのよ。あたしはどっちみち刑務所にいるんだし。それに、刑務所にいても、けっこう自由があるの。たまーにこっそり出してもらってるから……チャドは刑務所につてがあるから……ね?」
おさげ髪の女性はうつむきがちにそう言って、くすっと笑ってチャドを見た。
チャドは苦笑いをしながら、トトに向き直った。
「トトくん、チタの話は本当だよ。君を犯罪者にはしないから、安心していい」
「——チタさん、とおっしゃるのですか?」
トトは軽く何かを思い出したような顔をした。
「うん。あたしの名前よ。どうかした?」
眼鏡の女性は首をかしげてたずねた。
「あ、いいえ。すみません。この国には珍しいお名前なので……ぼくが小さい頃に尊敬していたチタ・アルベルという魔術師を思い出して……」
「チタ・アルベル? それ、あたし」
チタはおさげ髪を揺らし、照れたように自分で自分を指差した。
「まさか……あなたは、かつてのフォーラン王国のチタ・アルベルさんですか?」
「うん、そうよ」
チタが答えると、トトは信じられないといった顔をした。
「チタ・アルベルさんのことは、学校で聞いて知りました。世界でも類を見ない最年少の魔術師で、天才と呼ばれていたと……」
「まぁね。でもあたし、今はこの国の犯罪者よ。魔術もずーっと使ってないから、すっかり衰えちゃった。今はあなたの方が、力がある魔術師よ」
「チタさん、あなたのような方が、なぜ犯罪者になんて……。フォーラン王国は内戦で滅び、生き残った人は誰もいなかったと聞きましたが……」
「ふふふ、あたしは逃げ延びたの。ここにも逃げ延びた人がいるわ。フォーラン王国の王子様のチャドが、ね」
チタはにやりと笑って、チャドを指差した。
「ねぇ、ちょっと……一体何の話? チャドが王子とか……刑務所につてがあるとか……一体……」
ヘイザが混乱した様子で、チャドを見つめた。
チャドは穏やかな笑みを浮かべて言った。
「僕たちは、フォーラン王国の出身なんです」
「フォーラン王国って……?」
ヘイザはいぶかしそうな顔をした。
「はい。700人ほどの小国でしたので、この国ではほとんど知られていませんが……」
チャドが言うと、横からトトが付け足した。
「フォーラン王国は、魔術の国として長い歴史がありました。500年前のフラウド戦争の時代には、たくさんのフォーラン出身の魔術師が魔物封印に一役買ったそうですし、ぼくのように魔術を学ぶ人間なら、一度は名前を耳にする国です」
「うん、トトくんは物知りだね。でも、僕が生まれた頃のフォーラン王国は、武術の文化もかなり発達して来ていて、魔術だけの国ではなくなっていたんだよ。フォーラン王国出身だけどムチ使いをやってる、僕がいい例さ。子供の頃は、魔術の勉強より、体を使う武術の方が楽しくてね」
「あ、オレ、その気持ちすごいよくわかる!」
声を上げたソウに微笑みかけながら、チャドは再びヘイザに向き直って、続けた。
「僕の父もまた、国王でありながら魔術師ではなく、剣やムチなどの武術を好んで身に付けていました。そして積極的に新しい文化を取り入れたり、気さくに国民と接する姿勢が、国民から大きな支持を得ていたんです。国民に慕われ、すばらしい王だと言われていました。しかし、父の兄——つまり僕のおじは、昔ながらの魔術師で、自分が王になれなかったことを影でずっと恨んでいたんです。おじは父だけでなく、その父を慕う国民すべてに憎しみを抱き……そしてある日、魔術を使って人々を争わせ、その結果、国中のほぼすべての人間が死にました」
チャドは何かを思い出すように遠い目になり、ゆっくりと話し続けた。
「しかし、子供だった僕は、おじの魔術であやつられた父の手で、運よく川に投げ出され、そのまま流されました……そして、この国に辿り着いたんです。僕はキドに助けられ、同じ孤児として、この国で生きる方法を教わりました——そして、チタも同様に、川に流され、この国に辿り着いたんです」
チャドがチタの話を始めると、チタは眼鏡のふちを指でなぞりながら口をはさんだ。
「あたしのママは、占い師だったの。だから、あの日の惨事のことを前日からわかっていて、パパと一緒になって止めようとしていたのよ。——あの惨事の前の晩、パパとママがあたしのことを小さな舟に乗せてこっそり川に流したの。パパとママは、絶対に惨事を止めて、後からあたしのことを助けに来るって言ったけど……惨事は起こった。そして、パパとママは来なかったわ」
ソウとトトとヘイザが同情するようにチタを見つめる中、チャドが話を続けた。
「チタはこの国の森に辿り着き、何日もさまよったそうです。まだ幼かったチタは、泣きながら森をさまよううちに魔法の杖さえ失くしてしまい、そしてついに危険な魔物に遭遇して、絶体絶命になってしまった……その時、自分の身を守るために魔物を召喚したんです。チタはほんの子供でしたが、非常に優秀だったため、本で読んだ魔物召喚の仕方を覚えていたようです」
チタは泣き笑いのような顔をして口をはさんだ。
「それで、あたしは逮捕された。——確かに、命令板も持ってないのに召喚しちゃったから、とっても危険な行為だったけど……何とか森を出る前に、魔物はちゃんと異世界に返したのよ。……だけど、魔物召喚は重罪だから、あたしは危険人物だって言われて。それで、あたしはこの国でずーっと刑務所暮らし」
チャドがさらに続けた。
「僕はキドに教わった仕事をして生きていましたが……何かもっと人の役に立つ仕事をしなければと思うようになり、得意だったムチを鍛え、政府公認のムチ使いになりました。僕は一応フォーラン王国の王子でしたから……政府に関わってみると、かつて僕の父と親交があった数人の知り合いに再会することができたんです。彼らは僕のことを覚えていてくれて、逃げ延びたことを喜んでくれました。そして、いろいろと力になってくれるようになったんです。その頃、チタが刑務所に入っていると知って、何とか出してやりたいと思い、力を尽くしたのですが……」
チャドはそこで残念そうにため息をついた。
「刑が決まってしまったチタを、刑務所から出してやることはできませんでした。でも、チタが捕まった理由に同情している人もいることがわかり、そういう人と協力して、時々、こっそりチタに自由を与えて来たんです。街を歩いたり、好きなものを食べたり、好きな本を読んだり……そんな小さな自由ですが」
チャドがそう言ってチタに目をやると、チタは無邪気に微笑んだ。
そこで、チャドの話が一瞬途切れた。しんみりとした空気の中、トトが難しい顔で、どこかおずおずと口を開いた。
「あの……チャドさん」
「うん?」
「チャドさんとチタさんの事情や、フォーラン王国の内戦のこと……とてもよくわかりましたが……、魔術でフォーラン王国に内戦を起こさせたという、チャドさんのおじという方は、戦いに巻き込まれて亡くなったのですか? ——それとも……」
「おじは、まだ生きているよ」
「……では、今はどこに? ——そして、チャドさんは、なぜそれほどまでに……レイという魔術師の動向を追って来たんですか……?」
トトは恐ろしいことを聞いているような目つきでチャドを見た。
チャドはそのトトの目つきを見ると、
「——トトくんは、もう感づいたようだね」
と言って軽く笑みを浮かべ、はっきりとした声で言った。
「フォーラン王国を滅ぼした僕のおじ——それが、レイなんだ」

- -

第16章

見覚えのあるカップル

「あー、もうお手上げだよ! 強情だな!」
ヒュートはいら立った声を上げた。
ロープで手足を縛られたままのシーナの前に、テーブルが置かれ、小さくカットされたピザ、紅茶、ストロベリーケーキが並んでいた。
シーナは食べ物から顔をそむけるようにして、黙ってうつむいている。
「扇で罰を与えてやったらどうです?」
シーナをホテルから無理やり連れ出した魔物——ゲドゥが、ワニのような頭を傾け、笑いを含んだ声で言った。
「それはできない。レイさんに会わせる前に、シーナに傷を付けるわけにいかないんだ」
ヒュートは大げさにため息をついて見せた。
「だったら、このまま放っておけばいいじゃないですか。腹が減ってないんですよ。レイさんが来るまで何も食わなくたって、死ぬわけじゃないですし」
「ただ生きてるだけじゃだめなんだよ。万全な体調で、十分レイさんに協力できるようにしておかないと、僕のせいにされる。そんなことになったら、新しい国での僕の出世に響くだろ? あーあ、シーナがこんなに強情だったとはな」
ヒュートはシーナの横顔をにらみながら、テーブルの上のピザを取り上げ、自分でむしゃむしゃと食べた。
「——こんなうまいピザ食べないなんて、本当にバカだよ。残り少ない食事を楽しませてやろうっていう親切心も伝わらないのかなぁ」
ヒュートは文句を言いながら、今度は紅茶に手を伸ばした。
その時、別の部屋で電話の呼び出し音が鳴った。
「おっと、電話だ」
ヒュートは紅茶を一口飲むと、あわてたように立ち上がり、
「ゲドゥ、シーナの口、押さえといて。叫んだりされると困るからね」
と言って部屋を出て行った。
ゲドゥはシーナの後ろにまわると、うろこのついた硬い腕を伸ばし、ごつごつした手のひらでシーナの口をふさいだ。
「——はい、もしもし」
部屋の外から、電話を取ったヒュートの声が聞こえてくる。
がっちりと口を押さえられたシーナは鼻で息をしながら、全神経を耳に集中させた。
「こんにちは。——調子はいかがですか? ファルラさんは? ……そうですか、それはよかった!」
——ファルラさんって……トトくんの師匠さんの名前だわ。
シーナはますますヒュートの声に集中した。
「……えぇ、トト・エウルくんでしたね。優秀なお弟子さん——えっ……そうなんですか?」
ヒュートの声のトーンが明らかに変わった。
「——それは心配ですね……僧侶のお兄さんも? そうですか……はは、まさか。ダロさんが魔物召喚をしているなんて……僕は聞いた事ないですよ」
ヒュートは、何も知らないフリをして会話をしているようだった。
電話の相手は、誰なのかしら……
「——まぁ、それはあるかもしれませんね。……えぇ、それはもちろん。ファルラさんを守らないといけませんよね……えぇ、わかりました。はい、僕も行ってみます」
ヒュートは電話を切ったようだった。
こつこつとヒュートの足音が近付いて来て、勢いよくドアが開いた。
ゲドゥはシーナの口を押さえていた手を放し、シーナはドアに顔を向けた。
ヒュートはさっきとは違い神経質な様子で、シーナを見ずに、ゲドゥに声をかけた。
「研究所に行ってくる」
「おれも行きます?」
「いや、おまえはいいよ。治安維持隊の他のメンバーも来るから」
そう言って、ヒュートはポケットから携帯電話を取り出し、ダイヤルを押しながら、シーナを見ることなく部屋を出た。
ヒュートはばたばたと出かける支度をしているような音を立てながら、再び電話口に向かって話し始めた。
「——僕だよ。トト・エウルたちはそっちに行った? ……——何だって!?」
ヒュートが急に大きな声を出した。
「……そう遠くへは行けないはずだ。みんなに連絡してみるよ。うん、早くこっちに来てくれ。——これから治安維持隊が調査に行くから、証拠が残らないようにしておいて……うん、パティに隠してもらって」
ヒュートは通話を終え、早足でシーナがいる部屋に戻って来た。そして、黒いジャケットを羽織り、政府のマークが付いたバッジを胸に付けながら、シーナのそばに来ると、無理をしたような笑みを浮かべて言った。
「トトが行方不明らしいよ。ファルラが指定した列車に乗らず、連絡も無いらしい。たぶん、ヘイザと僧侶の兄貴も一緒だろう。シーナを探してるんだろうね」
ヒュートの言葉に、シーナの瞳の奥が動揺したように大きく揺れた。
「てっきり廃工場に行くか、フロートルに戻るかどちらかだと思ってたのに。3人とも廃工場にも行っていないらしい。こっちの予想では、ヘイザと兄貴が廃工場へ行ったとしても、トトはファルラの命令に従ってフロートルに戻ると思ってたんだけどね……」
ヒュートはシーナに背を向け、独り言のようにしゃべり続けた。
「トトは子犬の頃からファルラに飼いならされた従順な犬なんだ。そんな犬が、ファルラの指示に従わず、どこかへ行くなんて……エリート魔術師になる階段を飛び降りて、自分の人生すべてをかけてシーナを探そうってわけか」
ヒュートは小さく笑い声を立ててシーナを振り返ったが、顔は笑っていなかった。
シーナはその顔にぞくっとして、思わず目をそらした。
ヒュートはシーナの前にそっとしゃがみこむと、
「心配だよね? 大丈夫、きっと見つけてあげるよ。そして、シーナの目の前で殺してあげたいね。爆発の前に、僕の手で。そして事故死ってことにすればいい。命令にそむいた弟子の事故死なら、きっとファルラも喜ぶだろう」
と言って、意味ありげにふふんと鼻で笑った。
「……トトくんは、優秀な弟子だもの。師匠さんがそんなこと思うはずないわ……」
シーナは怯えたような目でヒュートを見て、言った。
ヒュートはにやにやと笑い、
「そうかな? ……政府の魔術師の弟子への愛なんて、この世の何よりも薄っぺらいんじゃないの? 実際、トトがいなくなった今だって、ファルラはトトのことなんて少しも心配していない。自分がトトを使って探りを入れてたことが、ダロやまだ知らない敵に知られたらどうしよう? わたしの立場は大丈夫かしら? ってそれだけだよ。今は僕の上司の腕に抱かれて、そればっかり心配してるらしい」
とおかしそうに言った。
シーナの頭の中で、グレイトルでのトトの言葉が響いていた。
〝師匠がぼくを弟子にしてくださったのは、ぼくの働きが師匠のキャリアになることを期待したためですから……魔術師は、孤児を弟子にしたがります。理由は、たとえ弟子が任務に失敗して命を落としても、孤児ならば、両親から訴えられることもないですし、単なる事故死として処理することができるからです……〟
シーナはあの言葉を聞いた時のように、再びショックを受けていた。
そして、今まで忠実に全力をかけて尽くして来た師匠の指示にそむいて、トトが自分を探しているかもしれないと思うと、胸が締め付けられるようだった。
トトくん……
ヘイザとソウくんも、きっと一緒にいるはずだわ……
ヘイザ……
シーナはぎゅっと目を閉じた。
ソウくんも……
わたしはここから逃げ出せないし、爆発が起こればみんな死んでしまうのかもしれないけど……
もしヒュートさんに捕まったら、どんなことされるのか……
それを考えると、また吐き気がして来るような気分になった。
お願い、ヒュートさんたちに捕まらないで。
シーナは心の中で祈るようにつぶやいた。
「じゃあ、また後でね」
悲しげに瞳を震わせているシーナに微笑んで、ヒュートは急ぎ足で部屋を出て行った。

***

チャドのワゴンは海岸近くの廃車置場に場所を変え、山積みにされた廃車に紛れて、ひっそりと停まっていた。
トトは古びた分厚い本をひざに置き、開かれたページにぎっしり書かれている外国語の呪文を覚えるべくぶつぶつと音読している。
いつもは暗記が得意なはずだというのに、あまりに長く難しい呪文に、さすがのトトも苦悩の表情を浮かべていた。
「コス・コシェ・スハージ……」
「トトくん、スハーシよ」
「あ、すみません……コス・コシェ・スハーシ……」
隣にはチタが座って、トトの発音をチェックしていた。
カーテンのかかった薄暗い車内で、トトの呪文の音読と、それをチェックするチタの声だけが低く響いている。
ヘイザは助手席の窓にもたれるように頭を傾け、苦しい時間が過ぎるのをじっと待っているような表情をしていた。
ソウはチタの隣で、子守唄のようにトトとチタの声を聞きながら、懸命に眠気と闘っているようだった。
チャドは運転席から首を回し、ソウに声をかけた。
「ソウくん、眠っていいんだよ。出発はまだまだ後になるからね」
「でもさ、いつ敵に動きがあるかわかんないだろ? もし、急にシーナが危ないってことになったら……」
「大丈夫。緊急の時には、もちろん起こすよ。それに、ソウくんには出発前にトトくんの体力回復をしてほしいから、今は体を休めておいてくれた方が助かるんだ」
「そっか……わかった」
ソウは納得したように窓にもたれ、目をつむった。
「セトー・ダス・ロゼス……」
「ロシェスよ」
「あっ、はい……セトー・ダス・ロシェス……」
トトとチタの声が響く中、チャドは疲れきったようなヘイザの白い横顔にそっと声をかけた。
「ヘイザさん、ちょっと外の風に当たりませんか?」
ヘイザはちらりとチャドを見て、一瞬考えるように間を置き、返事をする代わりに車のドアに手をかけた。
チャドは何かあれば知らせるようチタに伝え、ヘイザを追って外に出た。
薄暗い車内から外に出ると、チャドは日射しのまぶしさに目を細めた。
目の前には、静かな海が太陽の光を浴びてキラキラと光っている。
チャドは、背を向けて立っているヘイザにゆっくりと近付いた。
「……シーナ、今頃どうしてるかしら……」
チャドが隣に立つと、ヘイザは海を見つめたまま、ぽつりと言った。
「レイに会うまでは、向こうにとってもシーナは大事な客です。手荒なことはされないはずですよ」
チャドは元気づけるように言ったが、ヘイザは悪い想像をするように顔をゆがめた。
「レイが早くシーナに会ってしまうことはない? 例えば、わたしたちが今こうやってる間に……」
「大丈夫。レイがアジトに近付けば、わかるようにしてありますから」
「わかるようにしてあるって……見張りを置いてるとか?」
ヘイザは鋭い目をしてチャドを見た。
「いいえ、見張りはもし見つかったら危険ですから……」
チャドは胸ポケットに手を入れると、直径5センチほどの小さなテレビのような物を取り出して、ヘイザに見えるように差し出した。
「これ……何なの?」
画面は真っ暗だったが、時おりもぞもぞと何かがうごめいている様子が見える。
「ラルストルのアジト近くの森の様子です。森の木に穴を作り、隠すように置いてあるので画面は暗いですが……小さなカメラを仕掛けたんです。レイがアジトに近付けば、これでわかりますよ」
「これでって……昼間の映像もこんなに真っ暗なのに、どうやってレイの姿を捉えるって言うの?」
けげんな顔でたずねたヘイザに、チャドは微笑んだ。
「レイの姿を捉えるんじゃないですよ。低級魔物が動いているのが見えるでしょう? レイがこのアジトに来れば、レイがいつも従えている最上級魔物が発するオーラに反応して、この低級魔物たちが動きを変えます。つまり、アジト近くの低級魔物たちを見ていれば、レイが来たかどうかわかるということです。魔物の力を使い居場所を転々としているレイを見張るのは容易ではありませんが、この方法なら、レイがアジトに近付けばわかります」
ヘイザは話を聞いてうなずきながらも、不安を隠せない様子だった。
チャドはヘイザを安心させるように、
「レイの到着は夜の予定ですし、しばらくは心配いらないですよ。レイは夜に行動することが多いので、今頃はまだ寝てるでしょう」
と言って笑いかけた。
ヘイザはチャドの笑顔に、わずかに表情をやわらげながらも、さらに問いかけた。
「そのレイの到着予定っていうのは……、確かな情報なの?」
「ラルストルのアジトは、表向きは、政府で働く若い扇使いの別荘ということになっています。山奥にあるため、客をもてなす時には、いつも決まったデリバリー専門のレストランに料理を注文しています。それで僕は、そこの従業員のひとりを買収したんです」
買収という言葉に、軽い驚きを見せたヘイザの視線をよそに、チャドは穏やかに続けた。
「今夜、夜10時に最高級の料理を注文しているそうです。つまり、その辺りの時間に、レイがアジトに到着するということでしょう」
ヘイザは潮風で顔にかかった髪を、手で払いのけながら、
「あんたが買収した従業員は……本当に信用できる?」
とチャドをまっすぐに見つめた。
「まぁ大丈夫でしょう。彼が借金に困っていることを知って、かなりの額を約束しましたから。手付け金も渡してあります。ずいぶん無理をしたんですよ……政府から支払われる給料じゃとても足りなくて、昔の仕事に精を出しました」
チャドはそう言って、苦笑いをして見せた。
ヘイザはそれを見ると、ようやく気持ちがほぐれたように表情をゆるめた。そして、
「元王子様が、そんなことやってていいのかしら?」
と皮肉な笑みを浮かべた。
チャドはヘイザの言葉に、思わず声を立てて笑った。
「ははは……今さらそんな心配されても、困りますよ。それに、言っておきますが、あっちの仕事のキャリアなら、僕はヘイザさんよりも先輩なんですよ?」
「元王子様の先輩がいたなんて、驚きだわ」
ヘイザはそう言って、小さく笑った。
「そうでしょう。こんなに手癖の悪い元王子には、普通はめったに出会えませんからね」
チャドが冗談っぽい口調で言ったので、ヘイザは思わず笑い出し、チャドも一緒になって笑った。
そして笑いがおさまると、チャドはほっとしたようにヘイザを見つめ、
「さぁ——何か食べ物を買いに行きませんか? ヘイザさんは昨夜から何も食べてないでしょう?」
とたずねた。
「まぁね……だって、何も食べる気にならなくて」
笑いがおさまったヘイザは海に目をやり、困ったような表情で言った。
「気持ちはわかりますが、何か食べないと……シーナに再会した時に、腕の力も入らなかったら、しっかり抱きしめることもできませんよ」
チャドは明るい口調で言った。
「そうね……再会したら、思いっきり抱きしめないとね」
ヘイザは海を見つめたまま、やさしい表情になって微笑んだ。
「じゃあ行きましょう。車を出しますよ。何が食べたいですか?」
チャドはヘイザをうながし、ワゴンへと足を向けた。
「何でもいいけど……」
ヘイザはゆっくりとチャドの隣を歩きながら、
「——ホットドッグだけはやめとくわ。特に……いかがわしいスパイス付きのやつはね」
と言うと、苦笑いしてため息をついた。
「大丈夫。怪しい売店には近付きませんよ」
チャドは元気づけるようにヘイザの肩を叩き、ワゴンのドアに手をかけた。

***

ワニのようなゲドゥの冷たい目線に見張られながら、縛られたままのシーナは流れる時間にただじっと身をまかせていた。
食欲など沸くはずもなく、自分が空腹なのがどうかさえわからない。
目の前の料理を見ると、ヒュートが注文したと思うだけで、気分が悪くなって来る。
シーナは、自分が置かれた状況の絶望感から逃避するように、ヘイザと過ごしたカートルでの日々や、ソウとトトと出会い4人で過ごした時間を、ぼんやりと思い出していた。そして、少しずつうとうとと眠りの世界に導かれて行った……。
——バタン。
ドアが閉まる音がして、シーナは現実に引き戻された。
ヒュートさんが帰って来たのかしら……
シーナは縛られている手首と足首の痛みに加え、精神的な苦痛から来る気分の悪さを感じながら、部屋の外の音に耳をすました。
「——やぁ」
「どうも。大丈夫でした?」
「うん」
ゲドゥと誰かが短く会話をしている声が耳に入ってきたが、それはヒュートの声ではなかった。
……誰が来たのかしら……もしかして、レイさん……!?
「シャーロの娘は?」
「いますよ。何も食べないんで、ヒュートさんが困ってました」
声とともに、足音が近付いて来る。
声は2人だが、足音はもっと多い気がする……3人いる……?
シーナは緊張に身をかたくした。
ガチャ。
ドアが開く音がして、シーナはそっと首を動かし、おそるおそるドアの方を見た。
あ……
ドアの前に立っていたのは、ゲドゥと、——見覚えのあるカップルだった。
「顔色が悪いな。ずいぶん疲れているようだし……こんな状態でレイさんの十分な手助けができるのかどうか……。ヒュートくんは、彼女に何もしてないだろうね?」
小太りの体にぴちぴちとしたスーツを着たダロは、縛られたシーナを眺めながら、ゲドゥにたずねた。
「もちろん、何もしてません。指一本触れてないですよ」
ダロに腕を絡めていた地味な女性は、ダロから腕を離すと、もつれるような足取りで歩きながらシーナを見下ろし、
「すてきなドレスね。わたしもこんなの着てみたいわ」
と甘えたようにダロのそばに寄りながら、ゲドゥに視線を送っていた。
「これはドレスじゃなくてネグリジェだよ、パティ。人間が寝るときに着る寝巻きさ。この子は、寝てるところを連れて来られたからね」
ダロはやさしく、地味な女性——パティの肩を抱いて言った。
「ふぅん……じゃあ、わたしも寝る時は、こんなのが着てみたいわ」
「いいよ。今度買ってあげよう」
「ありがとう、あなた。ねぇ、わたし少し疲れたわ……ちょっとだけ元に戻ってもいい?」
ダロは困ったように一瞬ため息をついて、仕方がないと言うように首を縦に振った。
「ありがとう、あなた」
パティはそう言ってダロの頬にキスをすると、地味な女性の姿から、一瞬で赤茶色の大きいトカゲのような姿になった。
「レイさん、早く来ないかしら。楽しみだわ」
トカゲの姿になったパティは、長い舌を出しながらうれしそうに言った。
「ヒュートさんが注文したピザの残りがあるよ。食べない?」
ゲドゥが言うと、パティは興奮したように長い舌で自分の顔をひとなめし、
「食べるわ。行きましょう、ねぇ、あなた」
とダロの腕を引っ張った。
ダロは困ったように笑いながら、
「俺は後で行くから……先に食べてていいよ」
とパティを見ずに答えた。
「そう。じゃあ、待ってるわね」
パティは床に手をついて四足歩行になり、長いしっぽをくねらせると、そのままするすると部屋を出て行った。
ゲドゥはちらりとダロを見て、パティを追うようにいそいそと部屋を出た。
魔物たちがいなくなると、ダロはシーナの背中に手を伸ばした。

- -

シーナは思わず身構えた。
「——心配しなくていい。何もしないから」
ダロはそう言って、縛られて後ろにまわされたシーナの手のひらに触れた。
ダロの肉厚な指に手を触られ、シーナは体をこわばらせた。
ダロは、汗ばんだ手で、シーナの手首を縛っているロープの結び目を調べると、
「これはきついな。痛かっただろう」
と言って、シーナの手首を傷めないよう気をつけながら、ロープの結び目を少し緩めた。
「ダロさん……」
シーナは驚いたように、ダロを見つめていた。
ダロはシーナと目を合わせることなく、
「足首の方は、痛くない?」
と言って、ネグリジェの裾からちらりと見えるシーナの白い太ももに目をやった。
シーナはダロの視線を嫌がるように、ひざを固く閉じながら、
「大丈夫です。手首だけで……」
と言った。
その時……
ぐぅぅ……とシーナの体が空腹を訴えた。
その音に、シーナが恥ずかしそうにうつむくと、ダロはわずかに笑みを浮かべ、
「腹が減ってるんだろう? ケーキでも食べるかい? もう乾いてパサパサになってしまったかな?」
と言ってストロベリーケーキを手でつかもうとしたが、シーナが嫌そうな顔をしたのに気がつくと、
「あっ……あぁ、そうか」
と言ってフォークを持ち、不器用な手つきでケーキを小さく切って、シーナの口の前に運んだ。
シーナは差し出されたケーキに、無言で口を開いた。
「うまいかい?」
シーナは素直にうなずいて、ダロから2口目のケーキを受け取った。
そしてケーキをすべて食べ終えると、ダロはシーナに紅茶を飲ませようとしたが、シーナは申し訳なさそうに顔をそむけて言った。
「……その紅茶は、ヒュートさんが口をつけたから……」
「なるほど。じゃあ、新しいのをいれてあげよう」
ダロは紅茶のカップを手に、立ち上がろうとした。
「あの……ダロさん」
シーナの声に、ダロは立ち上がるのをやめてシーナを見た。
「——やさしいんですね……ダロさんって」
シーナは澄んだ目でダロを見つめて、微笑んだ。
ダロは一瞬ぽかんとした顔でシーナを見つめていたが、急に我に返ったようにはっとして、首を横に振った。
「こんな状況の今だから、そう思うだけだよ」
再び立ち上がりかけたダロを止めるように、シーナは強い口調で言葉を投げた。
「ダロさん! ダロさんみたいなやさしい人も……本当に賛成なんですか? 爆発を起こして、大勢の人を死なせて、自分たちと魔物だけが生き残るっていう、レイさんの恐ろしい計画に……」
ダロはシーナの訴えかけるような目を見ると、決まり悪そうに口元をゆがめた。
「君とその話をしても、仕方がない」
「……どうしてですか?」
一瞬、部屋の中がしんとなり、別の部屋でゲドゥとパティが楽しそうに談笑している声が聞こえて来た。
ダロはちらりとシーナを見ると、考えを巡らすように難しい顔をして、しばらく黙っていたが、やがてふうっと息を吐き、
「……君みたいな子に恨みを抱くなんて、俺にはとてもできないな」
と言って、その場に座り込んだ。そして肩を落として淡々と言った。
「計画には、俺は賛成でも反対でもない。俺には失うものも何も無いし……俺が死んだって、誰も悲しまないだろうし……」
「どうして、そんなこと……——だって、ダロさんには恋人がいるでしょう? あの、パティっていう……」
シーナは〝魔物〟と呼んでいいのかわからず、そこで口をつぐんだ。
ダロは苦笑いをした。
「あの魔物のパティか? 彼女は俺の恋人じゃない。俺の恋人だったパティは、もうこの世にいないんだ」
「……どういうことですか?」
シーナが困惑した様子でたずねると、ダロは遠い目をした。
「——パティは俺の婚約者だった。もう30年も前の話だ。こんな僕を愛してくれた、最初で最後の女性だった。しかし結婚式の3日前に、交通事故で死んでしまったんだ……」
シーナは同情するように、ダロを見つめた。
「それからの俺は……魂が抜けたみたいに、すべてにやる気がなくなって、ただ毎日ぼんやりと生きていたよ。そんな時、レイさんが現れたんだ——パティの姿になった魔物を連れて来て……俺に夢を見せてくれた。俺は救われたし、心から感謝したよ。たとえ正体が魔物でも、またパティといられて本当に幸せだったんだ……」
ダロは夢を見るような目をして、さらに続けた。
「それで、レイさんに協力することにした。俺にとっちゃ、この国がどうなろうと別にかまわなかった。パティといられたら、それでよかったんだ」
その時、別の部屋でゲドゥとパティが大きく笑う声が聞こえた。
ダロはその声に皮肉な笑みを浮かべて、シーナを見た。
「——わからないかい? あの、魔物のパティの本当の恋人は、ゲドゥなんだよ」
「えっ……?」
シーナは驚いて目を見開いた。
「魔物のパティは、俺を好きなフリをして、俺がレイさんの計画のために真面目に働くよう仕向けているだけさ。レイさんが作る新しい国で、ゲドゥと一緒に楽しく生きたいんだろう」
シーナが悲しげな目で見つめる中、ダロは続けた。
「俺を気分良く働かせるため、人間のパティの姿になるだけさ。新しい国を作るという、自分たちの望みを叶えるために、俺を利用してるんだ」
ダロはそこで一度息をつくと、寂しそうな笑みを浮かべて、言った。
「それでも俺は……パティの姿になった彼女には愛を感じてしまう。彼女はパティじゃないとわかっていても、利用されているとわかっていても、パティの姿になられたら……俺は愛さずにいられないんだ」
シーナは何と声をかけていいかわからず、黙ってうつむいた。
「君は……シーナといったかい?」
ダロは改まったように、シーナの顔を見つめた。
「えっ……はい」
シーナは戸惑いながら顔を上げ、素直に返事をした。
ダロはシーナに近寄ると、声を小さくして言った。
「——俺がどこまでできるかはわからないが、君を生き残らせるように、レイさんに直接頼んであげよう。混乱の中で、新しい国をまとめて行くには、国民の心をつかむ優美な存在が必要だ。君は聡明で美しく、その役割ができると言って、仲間に入れるように話してみるよ。ヒュートくんに内緒にしてくれれば……」
「あの……ダロさん……」
「うん?」
「そうじゃなくて……レイさんを止めることはできないんですか? 爆発を起こして新しい国を作る計画を、やめさせることができれば……」
シーナはすがるような目でダロを見つめたが、ダロは目をそらし、
「それはだめだ。少なくとも、今の政府は消してしまわないと」
と余裕の無い口調になって、言った。
「どうしてですか?」
「このまま今の計画が中止になれば、俺が召喚魔物を調教していたことがわかってしまう。魔物召喚に関わると重罪だということは知っているだろう? 俺はどんなにつまらない人生を送ったとしても、一生、刑務所暮らしになるのはごめんだ……」
シーナはそれを聞くと、失望したように肩を落とし、小さく唇を震わせながら言った。
「わたしは……レイさんの仲間になってまで、新しい国に生き続けたいとは思いません。わたしの大切な人たちが、みんな死んでしまうなら……わたしも同時に死んだ方がましだもの……」
ダロはなぐさめるように、シーナの震える肩に肉厚な手をそっと置いて、
「——すまない」
と小さな声で言うと、
「紅茶をいれてこよう」
と言って、シーナと目を合わせないようにカップを持ち、肩を丸めて部屋を出て行った。

- -

第17章

エキストミガロス

チャドのワゴンは、買い出しに出る前と同じように、山積みにされた廃車の影にひっそりと停められていた。
しかし、カーテンで閉めきられた車内は、買い出しに行く前とは少し様子が違っていた。
この国とシーナを救うために呼び出された異世界の存在が、ぼんやりと宙に浮かんでいたからである。
「チタが召喚した魔物って……こんなちっちゃいのか?」
ソウは、煙に包まれて浮かんでいる小さな影を見上げると、拍子抜けしたように言った。
「エキストミガロスなんて長ったらしい名前のわりには、ずいぶんしょぼいルックスじゃない? こんな魔物で、本当にシーナを助けられるの?」
ヘイザは魔物を見ながら、不安そうに言った。
助手席に座ったチタは、後部座席を振り向くと、
「本当は3メートルくらいの大きさよ。今は、縮小の魔法で小さくしてあるだけ」
と言って、隣で緊張しているトトの背中をさすり、
「あたしの今の力では、縮小するまでが精一杯だったの。でも、トトくんの力で術を教えれば、きっとすべてうまく行くはずよ」
と言うと、自分で自分の言葉に同意するように、何度も首を縦に振った。
「3メートルの姿でエキストミガロスを外に出したら、すぐに見つかってしまうだろう? シーナを助けに行く前に、通報されて警察に捕まるわけにいかないからね」
ヘイザとソウの間に座っていたチャドは、明るくそう言って、
「この大きさなら、カーテンをかけた車の中でも、こうやって調教できるっていうわけだよ」
と、カーテンの隙間が開いていないか、注意深くすべての窓に目を走らせていた。
ヘイザは納得したようにうなずいたが、ソウはまだ不満そうに、小さな煙に包まれたエキストミガロスを見上げていた。
「3メートルになるって言ったって……ただの煙みたいで、全然、強そうじゃないけどな」
「あのね、ソウくん」
チタは後部座席のソウを振り返り、
「煙はただの衣みたいなものよ。召喚したての魔物は、みんなこの世界の空気に馴染むまで衣を纏っているものなの。でも——」
と言って、細身の杖を手に取ると、
「もう衣を剥いでもいい頃だわ。見てて」
と、いたずらっぽい目をして微笑んだ。
「何をするんだ?」
ソウは興味深そうに身を乗り出した。
チタは細身の杖を胸の前に持ち、目を閉じて、外国語のような言葉をぶつぶつとつぶやき始めた。
すると……
エキストミガロスを包んでいた煙が、次第に薄れ始めた。
そして、影のようにぼんやりと浮かんでいた魔物の本来の姿が、徐々にはっきりと現れ始めたのだった。
——狼のような顔。
頭に生えた二本の長い角。
真っ赤に光った目。
半開きの大きな口からは、鋭く先の尖った牙がのぞいている。
徐々に体全体が現れると——
太くいかつい手足。
大柄な熊のような体格。
二本足で立ったその姿は、強靭な印象を醸し出している。
この姿が3メートルになったところを想像して、ソウは表情を変えた。
「まだ縮小してるけど、これがエキストミガロスの姿よ。どう?」
チタは振り返って、どうだと言わんばかりにソウを見た。
「あぁ……確かに、この姿なら、すげぇ強そうだな」
ソウはエキストミガロスを見つめたまま、圧倒されたように答えた。
チタはソウの反応に満足そうな表情を浮かべ、今度はトトの方を向いた。
「——じゃあ、トトくん、始めてくれる?」
チタに声をかけられると、運転席で小さくなっていたトトは、ひどく怯えたような目で、目の前の魔物を見た。そして、がちがちに緊張した動きで、自分の杖を手に取った。
「で、では……始めます……」
「間違えたら、すぐに取り消しの呪文を唱えてね。——そんなに緊張しないで」
トトを励ましながら、チタもまた落ち着かない様子で、眼鏡のふちを意味無く触りながら、エキストミガロスとトトを見比べるように交互に見た。
「は、はい……」
トトは乾いた唇をなめ、ごくりとつばを飲み込んだ。
そして、震える声で、覚えたばかりの呪文をゆっくりと慎重に唱え始めた。

***

「他には? 何か御用はある?」
洗面所からシーナが出てくると、ドアの真ん前で待っていた人間の姿のパティがたずねた。
シーナは黙って首を横に振り、両手を後ろに差し出した。
「また洗面所に行きたいとか、何かあったら、わたしに言って。ほら、わたしはあなたと同じ女だから、何でも言いやすいでしょう?」
パティはシーナの背中にまわると、手にしていたロープでシーナの手首を縛りながら、親切そうな口調で言った。
シーナは黙ってうなずきながら、間近でパティの顔をちらりと見て、そっとその目をそらした。
どんなにうまく化けていても、やっぱり人間の目とは違うわ……。
感情が無い、作り物の目——
「あなたはこれから、レイさんの役に立つ人間なんだから。大切にしなくちゃね」
パティは無表情な目で微笑みながら、両手を縛ったシーナを床に座らせ、今度は足を縛りにかかった。
その時。
ガチャッとドアが開いた。
「あら、ゲドゥ」
パティはドアから顔を出したワニのような顔に向かって、甘えたような声を出した。
「パティ、ちょっと出かけて来るよ」
「どこへ?」
パティはゲドゥに顔を向けたまま、シーナの足を手早く縛り終えると、すぐに立ち上がった。
「グレイトルさ。ヒュートさんから電話があってね——」
「グレイトル? 何をするの?」
パティは興味深そうにたずねながら、もつれるような足取りでゲドゥに近寄った。
シーナはじっと床を見つめたまま、寄り添って話をしているゲドゥとパティの会話を聞いていた。
「ヒュートさんが、捕まえたがっている男がいるんだ。おれとダロさんが、そいつを捕まえるのを協力しに行く」
「その男って、何者なの?」
「ヒュートさんが言うには、シーナの仲間の居場所を知ってる人間らしい」
シーナはその言葉に、動揺したように顔をこわばらせた。
「じゃあ、その男を捕まえれば、トト・エウルたちの居場所がわかるのね?」
「捕まえて、ここに連れて来て、吐かせるらしいよ。なかなか口を割らないらしいから」
「どうして口を割らないのかしら?」
「シーナの仲間の誰かと交友があるらしいんだ」
「ふぅん……」
その時、バタバタと足音が近付いて来た。
「——ゲドゥ、そろそろ出かけよう」
ドアから、ハンチング帽をかぶったダロが顔を出した。
「はい。何になりましょうかね?」
ダロはワニのような頭を、おどけたように左右にゆらゆらと動かしながら、たずねた。
「電車に乗るから、目立たないよう頼むよ」
「はいはい」
ゲドゥはそう言うと、一瞬で小さな灰色のネズミの姿に変身した。
ダロは、ネズミになったゲドゥをそっと手に乗せて、丁寧に胸ポケットに入れた。
「シーナ」
ダロに呼ばれ、シーナは顔を上げた。
魔物とは違う、ダロの温かい目に、シーナはわずかに胸をほっとさせた。
「何か用があったら、パティに頼むんだ。いいね?」
シーナはダロの言葉に、素直にうなずいた。
「俺たちがいない間、シーナの世話をしてやってくれ」
ダロはパティを抱き寄せて、やさしく言った。
「わかってるわ、心配しないで。レイさんが満足するように、万全な状態にしておくから」
パティは甘えるように、ダロの腕に自分の腕を絡ませながら言った。
ダロはパティの頬にやさしくキスをし、ふたりは寄り添ってゆっくりと部屋を出て行った。
「——じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい、あなた」
玄関で別れ際の言葉を交わすダロとパティの声を聞きながら、シーナは不安そうに表情をゆがめた。
——トトくんたちの居場所を知ってる人って、誰なのかしら……
トトくん、ソウくん、そして——
ヘイザ……
もし居場所を知られてしまったら……
みんなここへ連れて来られるのかしら……
そしたら……
シーナはそこで、悪い想像を振り払うように頭を振り、ぎゅっとかたく目をつむった。

***

時間をかけ、慎重に長い呪文を唱え終わったトトは、息をのんで目の前のエキストミガロスを見つめていた。
しんとした車内には、緊張感が漂っている。
しかし、エキストミガロスはまったく動こうとしない。
ヘイザとチャド、そしてソウは不安そうに目を見合わせた。
トトは戸惑った様子で、隣にいるチタに目をやり、おずおずと口を開いた。
「あ、あの、チタさん……ぼく、もしかして呪文を間違え……」
「しっ! しゃべらないで」
チタはぴしゃりとトトの言葉をさえぎった。
トトは困ったように、再び目の前の魔物を見た。
「ほら……見て。呪文はちゃんと効いてるわ」
チタは小さな声で言いながら、眼鏡の奥の目を期待に輝かせた。
「えっ……」
トトは身を乗り出し、エキストミガロスをじっと見つめた。
目を凝らして見つめていると、エキストミガロスが細かく体を震わせているのがわかった。加えて、こちらの様子を観察するように、赤い目がくるくると動いている。
そして、しばらく沈黙が続いた後——
突然、地の底から響くような、恐ろしく低い声が車内に響いた。
「俺に術を教えようとしてるやつは、誰だ?」
その地響きのような声に、トトは震え上がった。
後部座席のヘイザとチャド、ソウの3人も、思わず身をすくめた。
しかしチタは、ひとり満足そうに微笑んで、トトの背中を押すように言った。
「ほら、今よ! トトくんの力を見せてやって」
トトは青い顔をしながら、杖を取り出すと、チタに言われるまま、震える声で呪文を唱え始めた。
すると、光る大きな白い玉が、風船のようなふわりとした動きで、杖の先から現れた。
「自信を持って、トトくん」
「は、はい……」
チタにうながされ、トトはがちがちした動きをしながらも、強い態度を見せようとするかのように懸命に胸を張った。
そして、杖をあやつり、白い玉の光を強めながら、ゆっくりとそれをエキストミガロスに近付けて行く。
白い玉が発する光のオーラは、止まることなく強まり続けた。
その光の強さにエキストミガロスは顔をゆがめ、白い玉を避けるように身をのけぞらせ始めた。
やがて——
車内に苦しげなうめき声のような声が響き渡った。
「よし……おまえの力はわかった……教わった術を使ってやろう」
その瞬間——
チタは、はじけたように笑顔を見せた。
トトは冷や汗をぬぐいながら、大きく息をついている。
チタが、後部座席の3人にもうれしそうな笑顔を送り、エキストミガロスに術を教えるのに成功したことを伝えると、重苦しかった車内の空気ががらっと変わった。
チタは、うれしくてたまらないと言うように、足をじたばたさせて、誰に見せるともなくピースサインを作っている。
そんなチタを見ているうちに、ようやくトトの顔にも、満足そうな大きな笑みが広がった。そして、さっきまでおどおどしていたのが嘘のように、すっかり自信に満ちた目をして、エキストミガロスに向き合っていた。
「それでは、こちらの命令に従っていただく代わりに、異世界へ返す時には、パワーチェーンを差し上げましょう」
トトの口調はしっかりとしていて、もう怯えた様子は微塵も無かった。
「——いいだろう。強力なパワーチェーンを期待している」
エキストミガロスは低い声で答えた。
——パワーチェーンとは、魔物の力を高めるアイテムで、魔術師だけが作り出すことができるものだ。魔物たちの世界——力で上下関係が決まる異世界では、パワーチェーンはどの魔物も欲しがる貴重なアイテムで、魔物召喚が行われていた時代には、魔物を従わせる条件として、ほとんどの魔術師が、異世界に返す際に魔物に与えていた。魔物召喚が禁じられている現代は、パワーチェーンを作り出すことも、それを魔物に与えることも、当然禁じられている。
しかし召喚された魔物に術を教えるという罪を犯し、魔術師としての力を見せることで、恐ろしい魔物を従わせることに成功したトトは、禁じられたパワーチェーンを作るということにも、恐れを感じなくなっていた。それどころか、自分の魔術師としての大きな力を発揮できることに、むしろ興奮に似た喜びを感じ始めていたのだった。
「では、あなたを調教する準備をします」
トトはそう言って短い呪文を唱え、杖の先から光を放ち、エキストミガロスを膜のようなもので包んだ。
さっきとは打って変わって、張り切って魔物に向き合うトトの背中を、チタは満足そうに見つめている。
チャドはヘイザとソウに向かって、言った。
「本領発揮のようだね」
ヘイザはその言葉にうなずき、ほっとしたように座席に深く身を沈めた。
ソウは、誇らしげににこにこ笑っている。
「ここでの俺の名は何だ?」
エキストミガロスの地響きのような声が、なごやかな空気を切り裂くように、再び響いた。
「あっ、そうそう、まだ名前を付けてなかったの。トトくん、何かいいのある?」
チタがトトにたずねた。
——魔術師が魔物を召喚すると、もともとの魔物の名前は長いことが多いため、呼びやすい名前を好きに付けるというのが普通とされていた。
トトは昔読んだ、戦争時代の本の数々を思い出していた。そして、召喚魔物を従えた偉大な英雄魔術師たちの姿に自分を重ね、高揚するような気分を味わっていた。
「はい」
トトは得意げに返事をすると、
「アルヴィーという名にしたいのですが、どうでしょう?」
と言って、大人っぽい笑みを浮かべた。
「アルヴィー? 何か意味があるのかい?」
チャドが興味深そうにたずねた。
「はい。子供の頃に読んだ本に出てきた登場人物の名前です」
「アルヴィーって、どんな人だったの?」
チタが首をかしげながら、たずねた。
「さらわれた家族を助ける少年に加勢する、勇敢で頼れる騎士様のお名前です」
トトが自信たっぷりな様子で答えると、ソウが大きくうなずいて言った。
「あぁ、確かにぴったりな名前だな!」
トトがうれしそうにうなずくと、地響きのような声が割り込んだ。
「俺に、人間の騎士の名前だと?」
トトは膜の中の魔物を振り返り、
「はい……お気に召しませんか?」
と少し不安そうにたずねた。
「いや、そうではない。ただ俺は、人間に……悪魔以外の名で呼ばれるのは、初めてだ」
トトは魔物の言葉に一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに気を取り直したように、大人っぽい微笑みをたたえて言った。
「ぼくらといる時は、あなたは勇敢で頼れる騎士様です。力を貸してください」
短い間があった後、
「いいだろう」
と、地響きのような返事が返って来た。
その声はなぜか、もう恐ろしい響きには聞こえなかった。
その時、魔物とトトの間に、一種の情のようなあたたかい信頼が生まれたのを、車内の全員が感じ取っていた。
「では、調教を始めますよ、アルヴィーさん」
トトは薄暗い車内で、アルヴィーの調教を始めた。

***

ダロとゲドゥがいなくなると、すぐにトカゲのような姿に戻ったパティは、機嫌良くあれこれシーナの世話を焼こうとした。しかし、何を提案しても、シーナは首を横に振り、パティはつまらなそうに部屋を出て行った。
やがてパティはどこからか人間の女性用のファッション雑誌を持ってくると、シーナの隣でぱらぱらとページをめくり始めた。
トカゲのような姿の魔物が、人間のファッション雑誌を見ている姿は、シーナの目にはちぐはぐでこっけいに映った。
そんなシーナの気持ちを知ってか知らずか、パティは突然シーナの前に雑誌を置いて言った。
「ね、わたしにはどれが似合うと思う? わたし的には、こんなのが好きなんだけど」
パティはうろこの付いたごつごつした腕を伸ばし、結婚式用に着る女性用のドレスを示した。
シーナは言葉に詰まった。
「ちょっと、無視しないで。わたしにはどれが似合うかって、聞いてるのよ」
怒ったようにパティにせっつかれ、シーナはおずおずと口を開いた。
「あの、えっと……パティさんが人間の姿の時に、着るということよね……?」
パティはそれを聞くと、ますます怒ったように目をむいた。
その血走った大きな目に、シーナは思わず身をすくめた。
「違うに決まってるでしょ! 人間の肌なんて薄っぺらくてつるんとしちゃって、全然セクシーじゃないんだもの。女はやっぱりこう複雑で厚みのある美しい肌じゃないとね」
パティはうっとりとした声を出し、ごつごつした自分の腕を眺めた。そして再び雑誌に目をやると、
「でも、わたしたちの世界にはこういうドレスって無いのよね。だから、新しい世界になったら、わたしが率先して服を着ようと思ってるの。人間に化けなくても、このままの体にぴったり合うように作らせるんだから」
と得意げに言った。
そして、あっけに取られたように見つめているシーナを、再びせっついた。
「ね、それで、どれが似合うと思う? あなたは気の毒な人間の体だけど、服の趣味は合いそうだから、聞いてるのよ」
「え、えぇと……」
シーナは戸惑いながら、パティのごつごつした体を見ながら、雑誌に目を向けた。
雑誌の中のきれいな服の数々を、魔物のパティが着ている姿を想像しながら、返事に困っていると——
ガチャッ。
玄関のドアが開く音がした。
「あら、お帰りみたいだわ」
パティは雑誌を手早く抱えると、一瞬で地味な人間の姿に変身し、シーナを残して、いそいそと部屋を出て行った。
「——ったく、しらばっくれるなよ!」
玄関のドアが閉まる音とともに聞こえたのは、ヒュートの怒鳴る声だった。
縛られたままのシーナは思わずびくっとして、玄関の方へ顔を向けた。
ドアが3分の1ほどしか開いていないため、シーナの位置からは玄関へ続く廊下がわずかに見えるだけで、玄関の様子を見ることはできない。壁にぴったりと体をくっつけて、成り行きを見守っているらしいパティのうろこだらけの背中がちらりと見えるだけだった。
バシュゥッ!
「うぅぅっ——」
乾いた音とともに、男のうめき声が聞こえて来た。
シーナは恐怖に身震いをした。
ヒュートが扇を使って、男に何かしたのだろうということは、音とうめき声から想像がついた。
「これでどうだ」
ヒュートの意地の悪い声の後に、今度はごうごうと風が吹くような音が鳴った。
風の音はしばらく続いた。
そして音がやむと、激しく咳き込む音が聞こえた。
「苦しいか? これを続ければ、いつだっておまえを殺せるぞ」
「やめてくれ……本当に……何も知らねぇ」
シーナは顔をゆがませて、男の苦しげな声を聞いた。
男の声に聞き覚えはなかった。
「強情なやつめ。だけど、絶対吐かせるぞ——ゲドゥ、連れて行け」
「はい。おれも手伝いましょうか?」
ゲドゥが笑いを含んだ声で聞いた。
「いや、いい。おまえがやると、すぐ殺してしまいそうだからな」
「——わかりました」
ゲドゥは不満そうな声で返事をすると、ベタベタと足音を立て、シーナから見えるドアの隙間を横切った。
一瞬だけ、ちらりとゲドゥが腕に抱えた、男の頭とぐったりとした手足が見えた。
赤毛の頭に、黒いジャンパーを着て、ジーンズを履いている。
シーナは男に見覚えが無かった。
男はゲドゥに抱えられ、別の部屋に入れられたようだった。
「ヒュートくん。あの男は本当に知っているのか?もし本当に知らないなら、いくら痛めつけたって時間の無駄だ」
ダロがヒュートに話しかける声が聞こえた。
「知らないかもしれないけど、知ってる可能性が高い。あいつには一度、裏切られてるしな——ヘイザだけを呼び出すために、せっかく前回の裏切りに目をつむってやったっていうのに。使えない男だよ」
——えっ……
シーナは、ヒュートの言葉にはっとした。
「だが、それをやるとトトたちもくっついてくる可能性があるだろう? 居場所がわからないなら、このまま放っておけばいい。レイさんの計画を確実に進める方が大事じゃないか? 爆発さえ起こしてしまえば、トトも仲間もみんな一度に消えるんだから」
ダロの声だった。
「いいや。僕は、あの生意気なスリ女が、シーナと一緒に泣きながら死んでくところを見たくなったんだ。愛し合ってるなら、ふたり一緒の方がしあわせに死ねるはずだしね。すごく親切な計らいだろう?」
ヒュートがひとりで小さく笑う声が聞こえた。
「——しかし、あんなに扇で攻撃されても吐かないなんて……あの男は、そんなにヘイザって女のことが好きなのか?」
「あぁ、そうらしい。あんな大金を渡してやったのに、この僕を裏切るくらいなんだ。レズの女に惚れた、哀れな男だよ」
ヒュートは鼻で笑いながら、続けた。
「でも、絶対に吐かせてやるさ。薄汚いスリの愛なんて、僕の扇で振り払ってやる」
ヒュートの言葉に、シーナは確信を持った。
——やっぱり……
あの男の人は……きっと、キドさんだわ……
キドに会ったことがないシーナは、キドの容姿や声は知らない。しかし、今のヒュートの話を聞く限り、捕まった男はキドに違いないだろうと思った。
「しかし、ヒュートくん……」
ダロが何か言いかけたその時、電話の呼び出し音が鳴った。
「電話だ」
ヒュートはつぶやくように言って、すぐに電話を取った。
「——もしもし。……はい、えぇ、どうも! もちろんすべて順調ですよ!」
ヒュートは急に愛想の良い声を出した。
「あ、はい、トト・エウルたちの居場所はまだ……すみません。今、居場所を知ってる男に吐かせようとしてるんです……え? えぇ、シーナは問題なくここにいますよ……——え? ……い、今からですか?」
ヒュートがあわてたように口調を変えた。
「は、はい……わかりました。はい。では、後で……」
ピッ。
電話を切る音が聞こえた。
「——ヒュートくん、今の電話は?」
ダロが緊張した様子で、ヒュートに呼びかけた。
ヒュートは早口で答えた。
「——レイさんだ。これから、こっちに来るらしい」

- -

第18章

レイ

ついにレイさんがここへやって来る……。
逃げられない運命が刻々と近付いている絶望感。
シーナは目の前が真っ暗になるような気分だった。
「こんなに早く来るなんて、なぜだ? いつもは時間を変えることをあんなに嫌がるレイさんが……」
戸惑った様子のダロの声が聞こえた。
ヒュートは大きなため息をつき、
「——トト・エウルたちの行方がわからないから、邪魔されることがないように、計画を早く実行するってさ」
と不満そうに言った。
「俺と同じ考えか。それはよかった」
「全然よくないよ! ヘイザとシーナを、ふたり一緒にこの手で殺したかったのに。ヘイザが、このまま爆発と一緒に、僕の目につかないどこかで死んでしまうなんて……そんなのつまらないじゃないか」
「——食事の時間を早めないと。店に電話して来るか」
ダロは、ヒュートの言葉を無視して、廊下を歩き去ったようだった。
ヒュートは誰に言うともなく、小さな声でしゃべり続けている。
「……まだ時間はある……まだあいつにヘイザの居場所を吐かせる時間はあるんだ……レイさんが計画を実行するぎりぎりの時間まで、あいつを痛めつけてやる……」
ヒュートは、どこかの部屋へ入ったようだった。
そしてしばらくすると、再び、扇を振る音と、キドがうめく声が聞こえ始めた。
シーナは耳をふさぎたい衝動にかられながら、縛られた手に力を込め、じっと身を震わせていた。


どれくらいの時間がたったのだろうか。
ダロとゲドゥ、パティはばたばたと忙しく部屋を行き来し、その間中、どこかの部屋からキドらしき男のうめき声が聞こえていた。
時間で言えば、ほんの5分程度だったかもしれない。
しかし、シーナにはその時間がひどく長く感じられた。
そして……
急にダロたちの足音が静まり、キドのうめき声も消えた。
部屋の外から一切の物音が聞こえなくなり、シーナは何か起こるような緊張感をひしひしと感じ始めた。
その時——
部屋全体が、カタカタと小さく揺れ始めた。
シーナは驚いて、思わず声を上げた。
——これ……地震……!?
そう思った瞬間、床から、ぐっと押し寄せて来るような圧迫感を感じた。
そして今度は、地の底から響くようなゴゴゥ……という低い音。
シーナは何が起こっているのがわからず、不安に唇を震わせた。
ゴゴゥゥ……ゴゥ…………ゴゥ………………ゴ……ゥ……
低い音は徐々徐々に小さくなり……
そして、完全に消えた。
同時に、床からの圧迫感と部屋の揺れもぴたりと止んだ。
「——おはようございます」
「おはようございます」
しんとした空気の中、ヒュートとダロが、礼儀正しくあいさつをする声が聞こえて来た。
ゲドゥとパティも、後に続いて、あいさつの言葉を口にしている。
シーナはごくりとつばを飲み込んだ。
——レイさんが来た……
全身が凍りつくような気分だった。
そして、次の瞬間——
「おはよう」
しわがれた老人の声が、小さく聞こえた。
……今のが、レイさんの声?
シーナはわずかに驚きの表情を浮かべた。
レイと思われるその声が、シーナが抱いていた恐ろしい魔術師のイメージとは少し違っていたからだ。小さな年寄りを思わせる、かすれた弱々しい声だった。
「シャーロの娘はどこだ?」
弱々しい年寄りの声がたずねると、すぐにシーナのすぐ横でドアが開いた。
そして、人間の姿のパティが、いつもの、もつれるような足取りで部屋に入って来た。
シーナは入って来たのがレイではなかったことに、わずかにほっとした。
「さ、あなたの出番よ」
パティは上機嫌な様子で、シーナのそばに来ると、手足を縛っていたロープをほどき始めた。そして、やさしく腕をつかんで、ゆっくりと立たせた。
「ちゃんと歩いてね。レイさんが待ってるんだから」
パティはささやくようにそう言うと、ドアに向けて、シーナの背中をぐいと押した。
ドクッ。ドクッ。ドクッ。
シーナの心臓は飛び出してしまいそうなくらい、大きく早く鳴っている。
行きたくない……怖い……
シーナの足はその場にとどまろうとするかのように、動きを止めた。
しかし、パティがぐいぐいと背中を押して来る。
シーナはその力に勝てず、絶望的な気分で、仕方なく足を前へと進めた。
そして、ついにドアの前へ来た時——
ひとりでにドアがぐっと大きく外側へ開いた。
シーナはレイを直視することへの恐怖から、思わず顔を下に向けた。
下を向いたシーナの目には、先の尖った魔術師の靴が映った。
その靴を見ると、やはりレイの姿を確かめたいという気持ちが沸いた。
シーナは、おそるおそる顔を上げた。
——この人が……レイさん……
目の前に立っていたのは、弱々しい声のイメージ通りの、やせた小さい老人だった。
目が深く窪んでいて、ひどく顔色が悪い。
そして顔色をさらに悪く見せるような、艶々した紫色のローブを身に付けている。
真っ白な髪は後ろに束ねられているが、ほつれた髪が、どこかやつれた印象も与える。
そしてその老人の後ろに立っている、大きさは3メートルほどありそうな、真っ黒い竜のような存在に気がつくと、シーナは恐怖に声を上げかけた。
老人はシーナの反応を見ると、すばやく後ろに向かって軽く手を振った。その瞬間、竜のような存在は音も立てずにすっと消えた。
シーナは青ざめた顔で、体を小刻みに震わせた。
「驚かせてすまんな、シーナ。あれはもう出てこないから心配しなくていい」
老人はやさしげな声で言うと、
「わしはレイだ。シャーロ博士とは、ちょっとした知り合いでな」
と言って、握手を求めるように、骨ばった右手を差し出した。
シーナはレイを見ると、拒絶するように自分の手を後ろに引っ込め、怯えたように後ずさった。
「どうした? あの魔物が怖かったか? あれはわしの子分だよ」
レイは無理をして作ったような笑顔を浮かべ、シーナに近付いた。
シーナは首を横に振り、さらに後ずさりながら、
「……わたしが怖いのは……あの魔物よりも、あなたの方だわ……一番怖いのは、あなたが、これからやろうとしていること……」
と、声を震わせながら言った。
「ほう。なるほど」
レイは突然表情を無くし、ゆっくりと後ろを向いた。
「ヒュート」
「はい」
無表情なレイに呼ばれて部屋に入ったヒュートは、礼儀正しくレイの前に立った。
「おまえ、何を話した?」
「何って……真実を教えてやっただけですよ。たぶんそれで……」
「真実を教えた?」
「はい……何しろシーナは、なぜ僕の恨みを買っているかさえ知らなかったんですから……殺す前に、本当のことを教えてやろうと思って……」
しどろもどろに話すヒュートに、レイは先ほどまでの声では考えられないほどの大声を出した。
「わしに協力ができるよう万全にしておけと言ったろう! それは、心身ともにという意味だ! 精神的に萎縮させるようなことを言えば、役に立たなくなることくらいわからんか!」
レイに怒鳴られ、ヒュートは押し黙った。
「まったく、おまえが調子に乗ったおかげで、余計な体力を使うことになった。ただでさえ、今朝は早く起きて疲れてるんだ」
「すみません」
ヒュートはいつになく小さくなっている。
レイは大声を出したせいで疲れたのか、再び小さな声に戻って、
「——おまえが浮かれるのはわからなくもない。しかし、おまえが殺すより先に、わしの計画に協力させなければいけないことくらいわかっているだろう。その妨げになるようなことをするとは……おまえらしくもない」
と言って、ヒュートをにらみつけた。
「すみませんでした」
ヒュートは頭を下げて、素直にそう言った。
レイはシーナに向き直ると、再びやさしげな声を出した。
「シーナ、こっちを見てごらん。怖がらなくていい……ただ、わしの目を見るんだ」
シーナは戸惑いながら、おそるおそる落ち窪んだレイの目をちらりと見た。
「そうだ。そのまま……目を離すな」
レイはそう言って、ぶつぶつと外国語のような言葉を口にし始めた。
あ……
シーナは自分の体が固まるような感覚を覚えた。
どうしよう……
動けないわ……
それに、レイさんから、目をそらせない……
金縛りにあったように、シーナは身動きができなくなっていた。
何だか……熱っぽいような気も……
頭がぼーっとして……
気が……
遠く……
……なる…………
————
レイは、シーナの目から完全に意思が消えたのを見届けると、パチンと指を鳴らした。
すると、シーナはさっきとは別人のようにしゃんとして、口元に微笑みをたたえ、感情の無い目でレイを見つめた。
「——半日持てば十分だろうから、この程度でいいだろう。しかし、即席と言えども、ひどく疲れた。まったく、こんな予定外の仕事をさせられるとはな……体のふしぶしが痛い……シーナに協力をさせる前に、食事をして少し休まないとな」
レイはかなり疲れた様子で、細い腕で首の辺りをさすりながらぶつぶつと言った。
「料理が届くまで、あと30分ほどかかる予定です。急遽、時間を変更しましたので……」
ダロが前に進み出て言った。
「わかっている。早起きした甲斐あって、時間はあるからな。料理を待とう——体力を回復せねばならん。ついて来い、シーナ」
「はい」
レイは、素直に後をついて来るシーナを横目に、ゆっくりと長い廊下を歩き始めた……が、すぐに立ち止まった。
レイが足を止めると、シーナも機械のようにぴたりと立ち止まっていた。
「ヒュート」
「はい」
再びレイに呼ばれ、ヒュートがすぐにそばへ来た。
「あれが電話で言っていた男だな?」
レイは半開きになったドアの向こうを指差した。
レイが指差した先には、両手を縛られ、うずくまるような格好でこちらをにらむ赤毛の男がいる。
「はい、そうです。トト・エウルたちの居場所を吐かせようとしている最中で……」
「それはわかっている」
レイは手を振ってヒュートの言葉をさえぎり、赤毛の男を見つめた。
赤毛の男は、首や頬に痛々しい傷跡を見せながら、今にもつばでも吐きかけそうなギラギラとした目つきで、レイを見上げている。
レイはその目つきをしっかりと受け止めながら、言った。
「この男が、シーナの恋人をかばっているのか、それとも本当に居場所を知らないのかはわからんが……なかなかいい目をしている」
ヒュートは驚いたように、レイを見た。
レイはヒュートの視線をよそに、赤毛の男に声をかけた。
「おまえは、スリだったな。孤児か?」
赤毛の男は急に問いかけられ、鋭い目の中に、一瞬驚きを滲ませた。
レイは男の返事を待つことなく、続けた。
「おまえの目を見れば、苦労の中で生き抜いて来たことがわかる。強く、野性味にあふれた目だ」
男はまだレイをにらみつけていたが、レイは気にする素振りも見せない。
「わしから、おまえに提案がある」
レイは一方的に話しながら、男を見下ろした。
男は明らかに、目の中に戸惑いの色を見せた。
レイはその戸惑いの色を見逃がさず、男の目をじっと見ながら言った。
「もしシーナの仲間の居場所を教えれば、おまえが好きだという女を助けてやろう。もちろんおまえ自身もだ」
男は驚いたように、わずかに目を見開いた。
レイは小さく口元をゆるめた。
「おまえにとっては悪い話じゃないだろう? まもなくこの国の支配者は、わしになる。ほぼすべての人間が死ぬことになるが、おまえとおまえが好きな女を助けてやると言っているんだ。ふたりでしあわせに暮らせるぞ」
男は目に戸惑いの色を浮かべながら、レイの後ろのシーナに目をやった。
シーナは人形のように固まった表情で、感情の無い目をして宙を見続けている。
「あぁ、シーナのことなら心配するな。新しい国ができる時には、もう存在しない人間だ。だからおまえは心置きなく、好きな女と一緒にいられるというわけだ。シーナがいなくなれば、おまえは何も遠慮することはなくなるんだ。——おまえだって、シーナが憎いだろう? おまえの好きな女を独占しているんだぞ?」
男は落ち着きなく、レイとシーナを交互に見ていた。
すると、レイは急にはっと気付いたように、
「——あぁ、そうだったな。おまえの好きな女は、男が嫌いだったか」
と言って鼻で笑い、
「心配するな。人間の心など、どうにでもできる」
と、今度は冷たい薄笑いを浮かべた。
男は不信そうな目つきで、レイを見た。
レイはシーナを振り返ると、
「シーナを見ろ。最初はわしに抵抗しようとしていたが、今は従順な従者だ。おまえが好きな女も、おまえに素直に従う女にしてやろう。わしがそうしてやる。心も体もおまえだけのものになるんだぞ? そうなったら、うれしいだろう?」
と言って、どうだと言わんばかりの顔をして、男を見下ろした。
男は困惑した表情をしているが、口を開く様子はない。
レイは疲れたように、骨ばった右手で、自分の細い首をさすりながら、
「——まぁいい。少し時間をやろう。おまえもスリとして生きて来たなら、何が得かわかるはずだ。おまえが居場所を教えなければ、おまえの好きな女は確実に死ぬ。そして、おまえも死ぬ。しかしおまえが居場所を教えれば、おまえは女を手に入れ、ずっと生きていけるんだ。どちらが賢い選択かは、言わなくてもわかるな? ——決心がついたら、知らせてくれ」
と言うと、男に背を向け、
「あの男の決心がついたら、わしに知らせなさい」
とぐるっと首を回し、ダロ、ゲドゥ、パティ、ヒュートを見て言った。
「もう攻撃はしなくていいからな」
レイが念を押すようにヒュートに声をかけると、ヒュートはしぶしぶという顔で返事をした。
「……はい。わかりました」
「——では、食事を待とうか」
レイは長いローブのすそを引きずるようにして、長い廊下を歩き始めた。
シーナはひもで引っ張られているように、レイが歩き始めると、その後をついて行った。
赤毛の男——キドは、視界からレイとシーナが消えると、難しい顔をして宙をにらみつけた。

***

トトにアルヴィーと名付けられたエキストミガロスは、縮小された姿で従順に調教され、魔法の膜の中で、いくつかの術を使う方法を身に付け始めていた。
すっかり自信を取り戻し、アルヴィーを調教するトトの小さな背中は、今はとても頼もしく見える。
「トトくんは、やっぱり才能があるのね。あんなに怖がってたのに、今は別人みたい」
後部座席に座って、すっかり寛いだ様子のチタが、眼鏡の奥の目を大げさに見開いてそう言った。
「あぁ、だって、このオレの弟だからな! ちなみにオレだって優秀なんだぜ? な、ヘイザ?」
ソウにひじでつつかれ、ヘイザはやっと我に返ったような反応をした。
「——え? 何?」
「何だよ、聞いてなかったのか? ——どうしたんだよ?」
ソウは、疲れきったようなヘイザの顔を覗き込んで、不思議そうにたずねた。
「——別に何でもないわ。ちょっと考え事してただけ……」
「考え事って、シーナさんのこと?」
チタが、ソウの隣からぴょこんと顔を出して、たずねた。
ヘイザはチタと目が合うと、小さく微笑んでうなずいた。
「なんだ、また心配してるのか? もう心配すんなって! 今は、こっちにはアルヴィーもいるんだからさ!」
ソウは明るい声で言った。
「もちろんわかってるわ……でも、こうやって何もできない時間が続くと、どうしても考えちゃうのよね。シーナ、今頃どうしてるかなって……」
「トトくんのおかげで、こちらの準備は順調ですからね。夕方には出かけられると思いますよ。もう少しの辛抱です」
チャドがヘイザの隣で、穏やかに言った。
「夕方出かけても、レイがアジトに到着する予定時間までには十分間に合うんだから。こっちの計画通り、シーナさんをちゃんと助け出せるはずよ」
チタが、チャドの言葉の後にそう言うと、
「あぁ、アルヴィーもトトも、オレたちもみーんないるんだ! 心配いらないぜ!」
と、締めくくるようにソウが元気よく言った。
「皆さん——」
その時、アルヴィーを調教していたトトが神妙な面持ちで振り返った。
全員の注目を集めたことを確認すると、トトは大人びた顔つきで口を開いた。
「あまり無茶を言って、ヘイザさんを困らせてはいけません。シーナさんはヘイザさんの恋人なんですから、心配するのは当たり前なんです。このような状況で、シーナさんのことを心配するなと言われても、それは非常に難しいでしょう。こちらがどんなに有利な状況になっていても、シーナさんを完全に取り戻すまで、ヘイザさんは安心などできないんです。それが恋人同士というものなんです」
流暢なトトの話しぶりに、チャドとチタは、あっけに取られたような反応を示していた。
「さすがトト。まさにその通りだわ」
ヘイザは冗談っぽい口調で言って、大げさに首を縦に振って見せた。
トトはその言葉を聞いて、満足そうな笑みを浮かべた。
「はい、ぼくはヘイザさんのお気持ちをわかっています。きっと、ぼくとアルヴィーが、おふたりの感動的な再会シーンを実現させてみせますよ」
「ありがと。頼んだわ」
ヘイザは笑いをこらえるような顔で、腕を伸ばし、トトの肩を軽く叩いた。
トトは自信に満ちた表情で、再び背を向けると、アルヴィーの調教に戻った。
「いやぁ……驚いたな」
トトがアルヴィーの調教をする背中を見ながら、チャドは苦笑いを浮かべた。
「すごいでしょ? トトの別名は、恋愛のエキスパートってとこかしら」
ヘイザは冗談混じりの口調で、チャドに言った。
「トトは、オレが知らないこともいっぱい知ってるんだぜ!」
ソウは、ヘイザの口調に冗談っぽい空気が混じっていることに気付いていない様子で、自慢げに胸を張って、感心したようにトトの背中を見た。
「そうか……それはすごいな」
チャドは、さらに苦笑いを浮かべて言った。
そして——、ソウと同様に、感心の目でトトを見つめているもうひとりの人間が、眼鏡の奥で瞳をキラキラさせながら口を開いた。
「本当にすごいわ……あんなに小さいのに、恋愛のこと何でも知ってるなんて。あたし、尊敬しちゃう」
ヘイザはチタの反応に一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに再び冗談を言う顔つきになり、
「そうよ。トトはエキスパートだもの。チタちゃんも恋愛の悩みがあったら、トトに相談するといいかもね」
と言って、笑いを誘うようにチタを見た。
すると、チタはひどく驚いた顔をして、
「えっ? あたし? そんな……恋愛なんて……」
と言ってから、急に恥ずかしそうにもじもじとして、
「でも……もし生まれ変わったら……あたしも恋愛のことで悩んだりできるようになるのかな」
と恥ずかしそうにつぶやいた。
「生まれ変わったらって、どういう意味だ?」
ソウが不思議そうな顔で、たずねた。
「今のあたしの人生じゃ、恋愛なんて無理だもの」
チタは照れたように笑い、恥ずかしそうに目線を下に向けると、
「いつか生まれ変わって——刑務所暮らしじゃなくて、普通の女の子みたいな人生を送れたら……あたしも恋愛したり、そういうことしてみたいな……」
と言って首をかしげ、おさげの髪をいじっている。
その言葉に、チャドは悲しそうに、ヘイザは同情するように、そしてソウはよくわからないと言う顔をして、一斉にチタを見つめた。
しかしそんな視線をよそに、チタは生まれ変わって恋することを想像しているのか、だんだんとうっとりとした表情になった。そして、はにかんだように笑いながら、
「生まれ変わったら、どんな人と付き合うのかしら……やっぱり、やさしくて紳士みたいな人? でも、野生的でクールな人も憧れるのよね……ヘイザさんとシーナさんみたいに女の人同士っていうのもロマンチックだし……素敵な人なら、あたしは特にこだわりはないけど、やっぱり誠実な人じゃないと困るわね……それから……」
と、ひとり空想の世界に浸っているように、楽しそうにつぶやき続けた。
「——なぁ、一体、チタはどうしちまったんだ?」
空想に浸っているチタを横目で見ながら、ソウは戸惑ったように、小さな声でヘイザにたずねた。
ヘイザが、その答えを考えていた時——
トゥルルル……
車内に、電話の呼び出し音が鳴り響いた。
チャドは、すぐにポケットから電話を取り出した。
「はい——君か。うん、どうしたの? ——えっ!?」
チャドが、急に大きな声を出した。
その声に、うっとりしていたチタも我にかえり、一瞬にして車内が緊張に包まれた。
ヘイザは鋭くチャドを見つめている。
「——本当に!? 料理を今すぐ持って来いって言うことは……」
チャドは動揺したように落ち着きなく目線を動かしながら、胸ポケットに手を入れ、直径5センチのモニターを取り出した。
ヘイザははっとしてチャドの腕を乱暴につかみ、その画面を自分の方へ向けた。
レイがアジトに来ればわかる、とチャドが説明したそのモニターの画面には……
もぞもぞとうごめく低級魔物の姿はもう無かった。
死んだように真っ暗闇の、静かな森が映っている。
「——わかった。連絡ありがとう」
チャドはそう言って電話を切ると、深刻な表情で口を開いた。
「——レイがアジトに着いたらしい」

- -

第19章

暗号

レイはアワビのステーキを食べ終えると、満足そうにフォークを置き、温かいホットティーに手を伸ばした。
レイの背後には、黒っぽい竜のような魔物が、ひっそりと立っている。
そしてレイの傍らには、人形のようになったシーナが、固まった微笑みを浮かべていた。
レイは喉元を通過する温かさを確かめるように、目を閉じて、ゆっくりとホットティーを三口ほど飲んだ。
「さてと——」
飲みかけのホットティーのカップをテーブルに置くと、レイはだるそうに腰を上げ、
「用心に越したことはない。もう始めるか」
と言って、竜のような魔物に向かうと、骨ばった手を差し出した。
竜のような魔物は、3メートルほどの体を小さく震わせるようにして、変色した紙の束をどこかから取り出すと、レイに手渡した。
レイはその紙の束を大事そうに脇に抱え、
「よし。シーナ、行くぞ」
と声をかけて部屋を出た。
「はい」
シーナは相変わらず意思を持たない目で、レイの後についた。
レイが部屋を出ると、待ちかまえていたように、すぐにダロと人間の姿のパティが近寄って来た。
「もうお食事は終わりですか?」
パティがダロに寄り添うようにしながら、浮かれたような口調でたずねた。
「あぁ。これから、こいつを完成させる」
レイは脇に抱えた紙の束をちらりと見て言った。
パティはぱっと表情を輝かせた。
ダロはレイを気遣うような目をして、口を開いた。
「お体の方は、もう大丈夫ですか? もう少し休まれても……」
レイは細い手を振って、ダロの言葉をさえぎった。
「いや、用心に越したことはないだろう。もしかしたら、時間がかかる可能性もあるからな」
「確かにそうですね」
ダロは、おとなしくレイの後ろに立っているシーナをちらりと見て言った。
「ヒュートは?」
レイはヒュートを探すように、ダロの背後に目を動かしながら、たずねた。
「向こうの部屋で、ゲドゥと一緒に食事をしています」
ダロが答えると、レイは納得したようにうなずき、
「そうか。——何か用があったら、呼びなさい」
と言うと、紫色のローブを引きずるようにして、客間へ続く扉を開けた。
「……いよいよだわ!」
パティは興奮したように、ダロの腕に自分の腕を絡めた。
「そうだね」
ダロは愛しそうにパティを見つめて答えた。そして同時に、複雑な表情をして、レイの後ろを歩いて行くシーナの背中を見送っていた。


客間へ入ると、レイは用心深くカーテンをきっちりと閉めた。
そして、手元を照らすライトを持って来て、脇に抱えていた紙の束をテーブルに広げた。
変色したその紙には、ぎっしりと数字や文字が書き込まれている。
文字の下には何度も消した跡があり、長い間、書いては消されて来たことを表していた。
しかし、よく見ると、ぎっしりと書き込まれた文字の中に、1箇所、真っ白に文字が抜けている箇所がある。ちょうど9つの文字が入りそうだった。
「では、始める。シーナ、ここへ来て協力しなさい」
「はい」
レイが指し示すと、シーナは素直に、レイのすぐ隣に座った。
「ここに入る言葉は何だと思う? シャーロが薬の設計図のキーワードにした言葉だ」
シーナは感情のない目で、ぎっしりと文字が書き込まれた紙面を覗き込んだ。
「9文字の言葉だ。思い付く言葉はないか?」
シーナはじっと紙面を見つめたまま、時が止まったように動かない。
レイはじりじりした様子で、シーナの横顔に声をかけた。
「つながる言葉は、〝ジェントル・ハート〟、〝グレイスフルネス〟のふたつ――〝やさしい心〟、〝しとやかさ〟なんぞ女が好んで使うような言葉だ。おそらく好きな女の名前でも入るんじゃないかと思うんだが……聞いたことはないか? シャーロが昔好きだった女とか……」
そこまでしゃべり続けたレイは、小さな驚きを見せて言葉を止めた。
無表情のシーナの目から、涙が一粒こぼれたからだった。
レイは喜びと興奮を滲ませた声で、せかすようにたずねた。
「何か思い出したな? 言ってみろ、何だ?」
シーナは涙が出ているにもかかわらず、相変わらず人形のような固まった表情のまま、小さく唇を動かした。
「——シャーロ博士が……わたしがまだ子供の頃に……よく言ってくれた言葉です……シャーロ博士が好きな言葉……シャーロ博士の理想の女性を表した言葉……。シャーロ博士は、わたしが子供の頃に夢見ていた空想のパパみたいで……とてもやさしかった……」
シーナの瞳から、2粒目の涙がこぼれた。
レイは神経質に指を動かしながら、シーナの話が途切れたところで、口を挟んだ。
「——それで、〝やさしい心〟〝しとやかさ〟につながる9文字の言葉は、何なんだ?」
しかし、シーナはレイにせかされても動じる様子はなく、変わらずゆっくりとした口調で、話を続けた。
「……本当のパパとママと暮らしていた頃より……シャーロ博士と暮らし始めてからの方が、わたしはしあわせでした……親に大切にされること、親に愛されることを知ったから……」
問いかけを無視するように話し続けるシーナに、レイは厳しい目を向けた。そして、いらついた態度で紙を取り上げると、シーナの目の前に持って行った。
「わしが聞いているのは、ここに入る言葉だ! くだらん思い出話はもういい! ここに入る言葉を答えるんだ!」
レイは大声で怒鳴った。
その時、シーナの目から3粒目の涙がこぼれ落ち、ぼんやりとした目にわずかに感情が戻ったように見えた。シーナは目の前に突きつけられた紙面を見つめながら、さっきよりもやわらかい微笑みを浮かべて、唇を動かした。
「——なつかしい言葉……シャーロ博士の言葉です……。今でも……ちゃんと覚えています……〝やさしい心を持ちなさい〟……〝しとやかな娘になるんだよ〟……それから……」
シーナは指を伸ばして、空白になっている9文字の箇所にそっと触れた。
「それから何だ? 何と言われたんだ? 早く言え!」
レイは興奮したように顔を赤くして、怒ったようにシーナをせかした。
シーナは何かを思い出しているような、やさしい表情をして、言った。
「——〝瞳は内面を表すものだ。美しい心を持てば、天使のような瞳になるだろう〟って……〝天使の瞳は美しい〟って……」
レイはその言葉を聞くと、紙をテーブルにすばやく置き、鉛筆を取り出して、別の紙に何やら数字を書きなぐり、計算を始めた。
レイがテーブルにかじりつくように計算をしている隣で、シーナはぼんやりとして、まだしゃべり続けている。
「……そういえば……わたしの目が天使みたいだって……ヘイザが言っていた……初めて会った夜……そう、ヘイザが言ったんです…………ヘイザが…………ヘイザ…………」
〝ヘイザ〟と口にするたび、シーナの目は少しずつ感情を取り戻すように、小さく揺れた。
そしてシーナ自身もまた、感情を取り戻そうとするかのように、何度もヘイザの名前を口にした。
レイは計算に夢中で、シーナの様子にはまったく気付いていない。
やがて、シーナの瞳に、再びあたたかい感情の光が灯り始めた時——
「よし! ついに完成だ!」
レイが大声を出して、鉛筆を床にほうり投げた。
「長年わしを悩ませた9文字は、"ANGELEYES"(エンジェル・アイズ)——〝天使の瞳〟だ!」
その大きな声に驚いたように、シーナはびくっとしてレイを見た。
その反応にレイもまた驚いたように、シーナを見た。
シーナの目には感情が戻り、戸惑った様子でレイを見ている。
「なぜだ? もう解けてしまうとは早すぎる……即席で術をかけたとはいえ、少なくとも半日は持つはずだが……」
レイは困惑した様子でシーナを見てそう言ったが、すぐに首を横に振り、
「——まぁいい。もうおまえに用はないからな。ついに、シャーロの薬の設計図の暗号を解いたんだ! これで、やっとシャーロの薬を再現できる!」
と声を上げて、落ち窪んだ目をギラギラと光らせた。
レイの目は生き生きとしているが、その光はどこまでも暗く、邪悪な悪のオーラを放っているようだった。
シーナは大きなショックを受けたように、目を見開いた。
「そんな……薬の設計図の暗号が解けたなんて…………どうして……」
そのシーナの反応に、シャーロはしわがれた声で笑い、
「おまえが教えてくれたからさ、シーナ」
と言って、勝ち誇ったような顔をした。
シーナはショックに言葉を失い、呆然となった。
レイが笑いながら指を振ると、どこからともなく、レイの背後に黒い竜のような魔物が現れた。
レイは空欄のひとつに〝エンジェル・アイズ〟と書き込まれた紙を魔物に手渡すと、
「暗号は解けた。急いで作らせろ」
と告げた。
魔物はその紙を受け取ると、音も立てずにすっと消えた。
その時。
コンコン。
誰かが部屋をノックした。
「誰だ? 入れ」
レイがすぐに答えた。
ガチャッ。
ドアを開けて入ってきたのは、ヒュートと——
うつむいたキドだった。
手を縛られたキドは、ヒュートに乱暴に背中を押され、前に出た。
「ほう、おまえか。女の居場所を教える決心がついたか?」
上機嫌な様子でレイがたずねると、ヒュートが不満そうに口を開いた。
「こいつ……ヘイザの居場所は知らないけど、僕たちの仲間になりたいなんて言うんです。薄汚いスリの分際で、ずうずうしいにもほどが……」
「まぁ、待て。本人と話をする」
レイはヒュートの言葉をさえぎって、前に進み出た。
キドは顔を上げて、スリ特有の鋭く光る目でレイを見た。
レイはその目線をしっかりと受け止め、
「仲間になりたいのか?」
とたずねた。
キドはきっと唇を結んで、真剣な顔でうなずいた。
「女の居場所は、本当に知らないのか?」
レイはキドの目をじっと見つめて、たずねた。
「あぁ。本当に知らねぇ」
キドは短く答えた。
「——本当か?」
「本当だ」
レイとキドは、一瞬、にらみ合う形になった。
「そうか」
レイが先に視線を緩め、
「だが、急に仲間になりたいとは、どういうことだ? わしの計画に賛成なのか?」
と探るような目つきをした。
キドは無表情で、ゆっくりとうなずいた。
「なぜだ? おまえが好きな女も死ぬんだぞ?」
レイは薄笑いを浮かべ、探るような目つきをさらに強めた。
キドはレイから視線を外し、
「——オレには、もうどうでもいいことだ。考えてみれば、今までずっと、オレはみじめなだけだった。オレにそんな仕打ちをして来た女のことなんて、もうどうだっていい」
と早口で淡々と言った。
「ほう」
レイは興味深そうな表情になった。
キドはレイの表情をちらりと見て、さらに続けた。
「オレは、ガキの頃に家を放火されて、両親を失くした。親戚の家に引き取られたけど、そいつら仕方なくオレを引き取ったのがみえみえで、むかついたから逃げ出した。それで、ひとりで腹を空かして死にかけてた時、スリ団をやってる男に拾われたんだ。オレはそいつにナイフを習い、スリになった。——ある日、スリ団にヘイザが入って来て……オレは一目で夢中になった。ヘイザが男嫌いだってわかっても、オレの気持ちは変わらなかった。けど、ヘイザはオレの気持ちなんか少しも考えてなくて、あんな女が好きだ、こんな女が好きだってオレに言って来る始末だった。考えてみれば、オレの人生はずっとみじめだったんだ。もう何も思い出したくないくらいだ。だから——爆発で、すべてを無にしてくれるあんたの計画に感謝する。あんたの仲間になって、新しい国で新しい人生を始めたいんだ」
「なるほど」
レイは真剣な表情になって、腕組みをすると、考えを巡らすように天井を見上げた。
「レイさん! こんなやつを仲間にするなんて……絶対やめた方がいいですよ!」
ヒュートが、しびれを切らしたように声を上げた。
「——そうか? おまえはこの男の身の上をどう思う?」
「どうって……みじめったらしいスリの身の上なんて……」
ヒュートはさげすむようにキドを見た。
「この男は、孤児からスリになり、今日まで捕まることもなく、みじめな人生を生き抜いて来た男だ。環境は違えど、不遇な人生に屈することなく生きて来たおまえの生き様にも似ている部分があると思わんか?」
ヒュートは答えに詰まりながら、にらむようにキドを見た。
レイは再びキドに目をやると、
「おまえの話はわかった。しかし、わしの立場からすると、爆発の前——おまえの好きな女が生きているうちは、まだおまえを完全には信用できん。女をかばって、裏で、わしの計画を邪魔しようと企んでいる可能性が否定できないからだ。おまえもわしの立場なら、そう思うはずだ。わかるな?」
キドは黙ってうなずいた。
レイは満足そうな表情で、
「だから、爆発を成功させるまでは、そのロープは解かん。爆発が成功し、女も皆死んだ後なら、新しい国でおまえをどうするか考えてやろう。いいな?」
とキドの目を覗き込んだ。
キドは再び、黙ってうなずいた。
レイは機嫌の良い顔をして、仕切りなおすように、手を叩いてパンと音を立てた。
「よし、この話は終わりだ。わしはこれから、計画実行まで集中しなければいかん。ヒュート」
「——はい」
「シーナの役目はもう終わった。おまえの好きにしろ」
その言葉に、不機嫌だったヒュートの顔つきが変わった。
ヒュートとキドは一斉に、ソファーに座っているシーナを見た。
こちら側に背を向けているシーナの肩は、小さく震えている。
「じゃあ、暗号は解けたんですね?」
ヒュートは明るい声になってたずねた。
「あぁ、解けた。ルーベに報告に行かせたから、もう薬を作り始めてるかもしれんな」
レイはギラギラとした目をして笑いながら、ソファーへ歩み寄ると、骨ばった手でシーナの肩を乱暴に叩いて言った。
「ほら、ヒュートについて行け」
シーナは頭を垂れたまま、黙って立ち上がった。
ヒュートはシーナの腕をつかんでぐいっと自分のそばに引き寄せると、涙を浮かべたシーナの瞳を覗き込み、
「——泣いてるのかい? いいねぇ! やっぱ女の子はこうじゃないと、僕も楽しくないからね! ヘイザを一緒に殺せないのが残念だけど、まぁ仕方ないか。シーナがこんないい顔してくれるんなら、僕も満足できそうだ。ヘイザのことはあきらめよう」
と嬉々とした様子でべらべらとしゃべった。
「ヒュート。シーナを殺すところを、その男にも見せてやればいい。その男も、シーナを憎んで来ただろうからな」
レイがキドを示して、言った。
ヒュートは大げさにため息をついて、ちらりとキドを見ると、
「まぁ、おまえも本気で仲間になるっていうんなら、仕方ないか。だけど、おまえは見るだけだぞ? シーナを殺すのは、この僕だ。長年の夢だったんだから……」
と言いながら、手を伸ばしてドアを開け、
「じゃあ、レイさん。また後で」
と礼儀正しく言った。
レイは機嫌よくうなずいた。そして、手を上げて何かつぶやき、背後に黒い魔物を呼び出した。
ヒュートはそれを見ると、
「本当にいよいよなんだ」
とワクワクしたような口調で言い、シーナの腕をつかんで部屋を出た。
そして、後ろをついて来たキドに、
「ちゃんとついて来いよ」
と投げやりな口調で言った。
キドは黙って、ヒュートの後を追うように歩き始めた。
ヒュートに腕をつかまれて歩きながら、シーナは助けを求めるような目をして、そっと首を後ろに向けた。
キドの鋭い目は、辺りを警戒するようにすばやく動いている。
シーナはキドを見つめたが、目が合うことはなかった。
キドの目の動きは、何か考えを巡らせているようにも見えたが、故意にシーナと目を合わせないようにしているようにも見えたのだった。
——キドさん……
わたしと目も合わせたくないのね……
キドさんが、わたしを憎んでいたなんて……
そして、まさか、この人たちの仲間になるなんて……
シーナは再び絶望に打ちひしがれた表情で、ヒュートに引っぱられながら、頭を垂れた。
ヒュートの腰のポケットから、きれいにたたまれた扇の先が見えている。
——あの扇で攻撃されて……キドさんは屈してしまったのね……
わたしはもっともっと痛めつけられるんだわ……だって、死ぬまでだもの……
シーナは恐怖に目を閉じて、顔をゆがませた。
シャーロ博士、ごめんなさい……
ソウくん、トトくん、ごめんね……
それからヘイザ——
最後に会えないのはつらいけど……
ヘイザがここに連れて来られることがなくて、本当によかった……
ヒュートさんに捕まって殺されるよりは——
爆発で一瞬の方が、きっと、ずっと楽だもの……
シーナは泣きそうな顔で、ヒュートに引っ張られて、長い廊下を歩きながら、祈るように目を閉じた。
できるだけ早く、苦しまずに、楽になれますように……
天国へ行って、ヘイザや、みんなに早く会えますように……。

***

チャドのワゴンは、ラルストルのアジト近くの森の前に停車していた。
森の向こうに、モノトーンですっきりとまとめられた近代的なガレージハウスが見える。
レイがアジトに到着してしまったとわかり、急いでここまで来た車内は、かつてない緊迫感に包まれていた。
あのガレージハウスの中で何が起こっているのか。レイは何をし、シーナは今どうしているのか——
全員がそのことを考え、不安げに考えを巡らせていた。
アルヴィーは、トトの呪文で、小さな羽虫に姿を変えた。
「あの建物の近くに行って……様子を知らせてください」
トトは命令板を持って、緊張した声で言った。
「ねぇ、ヘイザさん、何かシーナさんの物はある?」
チタは緊張した面持ちながら、トトとは正反対にしっかりとした声でたずねた。
森の向こうのガレージハウスをじっと見つめていたヘイザは、驚いたように、
「——えっ? シーナの物?」
と言うと、自分のナイフの下に、重ねるように装備していたブルーのムチに手をかけた。
「シーナのムチがあるけど……でも、どうするの?」
「アルヴィーにシーナさんのオーラを覚えさせるの。そうすればアルヴィーは、今、シーナさんがどの場所でどんな状態か、建物の外からでも感じ取ることができるわ。それを貸りていい?」
ヘイザは、急いでシーナのムチを腰から外した。
チタはシーナのムチを受け取ると、羽虫になったアルヴィーに近付けた。
「ここから一番強く感じるオーラが、シーナさんよ。わかった?」
チタがたずねると、
「わかった」
と、小さな羽虫の姿になっているというのに、低く迫力ある声が車内に響いた。
「じゃあ、行って来て。気をつけてね」
チタが後部座席の窓を開けると、小さな羽虫はすーっと外に出て行った。
車内は、不気味なほどの沈黙に包まれた。
トト、チタ、ヘイザ、チャド、そしてソウも、誰も口を聞かない。
ヘイザは唇を結んだまま、自分のひざの上に置いたこぶしをかたく握りしめている。
やがて、トトの命令板から、先ほどまで車内に響いていた声がくぐもって聞こえて来た。
「——建物は、ほぼ全体的に魔法のシールドが張られている。シールドがないのは、正面右から2番目の部屋だけだ。ここが魔物たちの通り道なのだろう。それから……」
アルヴィーの声は一度途切れ、再び命令板に響いた。
「最上級の魔物のオーラもある……」
「わかりました。それで……シーナさんのオーラは?」
トトはそうたずねて、ごくりとつばを飲み込んだ。
後部座席のヘイザの目が、動揺するように揺れた。
再び、車内が緊迫した沈黙に包まれ——
アルヴィーの答えが返って来た。
「——シーナのオーラは、グレイのカーテンがかかっている正面右の角部屋だ」
「よし! シーナは無事なんだな!」
ソウがヘイザの横で声を上げた。
チタは静かにするようソウを手で制し、トトが持った命令板に向かってさらに質問を投げた。
「シーナさんのオーラは、どういう状態?」
「——正常ではない。非常に弱い……精神力も弱く、生命力はほとんど感じられない」
淡々としたその言葉に、ヘイザは苦痛の表情を浮かべて目を閉じ、ソウも深刻な顔つきになって肩を落とした。
チャドは考え込むような難しい表情をして、命令板に向かって言葉を投げた。
「中の様子を教えてくれ。シーナはひとりかい?」
「——シーナは、人間と一緒にいる。その人間は、オーラも精神力も正常だ」
「他の部屋にいる人間や魔物の様子は?」
「——中央の部屋に、召喚された魔物が2体、人間も2人。すべてオーラも、精神力も正常。それから……左端の部屋に……最上級の魔物と、非常に強いオーラの人間がいる……なんだこいつは——……魔物のような深い紫色のオーラを出していて、精神力も非常に強い……」
アルヴィーの声に、驚きが入り混じった。
チャドは顔つきを変えた。
トゥルルル……
その時、車内に電話の呼び出し音が鳴った。
「アルヴィー、ちょっと待っててくれ」
チャドはアルヴィーに声をかけ、緊張した声で電話を取った。
「——はい」
ヘイザは、隣のチャドを鋭く見つめた。
「……うん。そうか…………わかった……」
チャドの声は冷静だったが、内心の動揺を表すように、唇の端が不自然な動きをしていた。
そして、電話を切ったチャドは、こわばった顔をして口を開いた。
「今の電話は……レイの仲間の錬金術師を見張らせていた男からだ……レイが——」
チャドはそこで再び不自然に唇をゆがめ、そして思い切ったように、言った。
「薬を作る命令を下してしまったようだ」

チャドのワゴンの中は、戻って来た羽虫のアルヴィーを囲み、差し迫った空気に覆い尽くされていた。
「爆発が実行されるまでの時間は、どれくらいあるんですか?」
切羽詰まった口調で、トトがチャドにたずねた。
チャドは余裕のない表情で口を開いた。
「僕にもわからない。薬を作り、誰かにそれを飲ませ、爆弾を背負わせ、爆発させる——この作業をやるんだから、どんなに早くても30分やそこらでは無理だと思うけれど……でも、急ぐに越したことはない。用無しになったシーナが危険だからだ」
その言葉に、ヘイザの瞳が揺れた。
チャドはヘイザの表情を横目で見ながら、
「できるだけ早く行こう——そうだな、今から15分後が目標だ。15分たったら強行突破する」
と言って、羽虫の姿のアルヴィーに顔を向けた。
「最上級の魔物と一緒にいた、オーラの強い人間がいただろう? あれがレイだ。強行突破したら、アルヴィーには、まず、レイを守っている最上級の魔物を倒してもらいたい。その後は、すぐにレイを倒してほしい。レイの命令がなけれは爆発は実行されないから、レイを倒せば……」
「ちょっと待て」
低い声が、早口のチャドをさえぎった。
「おまえたち、俺ひとりの力で、あの敵に勝てると思ってるのか?」
思いがけない言葉に、チャドはうろたえたようにアルヴィーを見た。
チタは焦ったように眼鏡の奥の瞳を動かしながら、身を乗り出して言った。
「——だって、できるでしょう? アルヴィーは、最上級の中ではあの魔物よりもひとつ格上なんだし……」
「問題は魔物じゃない。あのレイって人間だ。あいつのオーラは、魔物のような深い紫色だった。あんな色のオーラを出す人間は……」
アルヴィーはそこで言葉を切った。
「何なの?」
チタがせかすように、たずねた。
「切り刻みの防御膜をつけているかもしれない」
「切り刻みの防御膜……」
チタは、顔をこわばらせた。
「おい、切り刻みの防御膜って、何だよ?」
ソウがチタのこわばった顔を見て、あわてたようにたずねた。
チタは顔をこわばらせたまま答えようとしたが、トトが深刻な表情で先に口を開いた。
「生きた魔物を魔術で切り刻み、防御膜を作る術です。防御膜にされた魔物は、切り刻まれたまま生き続けるため、痛みに苦しみ続け、正気を失います。もし切り刻みの防御膜を身につけた人間を倒そうとすれば……正気を失った魔物の恐ろしい反撃を受けることになります。切り刻まれた魔物の力は、痛みと恨みの念で何倍にも膨れ上がると言われていますから……」
「俺が見たところ、あのオーラの強さなら、俺ひとりでは勝てない。切り刻みなんかやるような非道な人間は、俺がギタギタにしてやりたいところだが……」
アルヴィーの言葉に、怒りと悔しさが滲んだ。
チャドはいら立った様子でこぶしを作り、自分のひざをバン! と叩いた。
「レイのやつ、そんな術を使っていたとは! 一体どうすれば……」
いつになく感情的なチャドの様子に、車内の緊張感が一気に高まった。
その時だった。
「——あたしに考えがあるわ」
チタが突然、妙に落ち着いた声を出した。
その声に、チャドは顔を上げた。
「ねぇ、トトくん」
チタはトトに向かって、穏やかに笑いかけた。
「は、はい……」
トトは戸惑ったように返事をした。
「全壊の魔法って、知ってる?」
その言葉を聞いた瞬間、トトの顔が青くなった。
「ぜ、全壊の魔法は……も、もちろん名前は知っていますが……」
「あたしも使ったことなんかないわ。でも、トトくんとあたしが一緒にあれを使って、アルヴィーと力を合わせれば、きっと切り刻みの防御膜ごとレイをやっつけられるんじゃないかしら」
「で、ですが……全壊の魔法は……反動が起こって、90パーセントの確率で……」
泣きそうな顔をしたトトは、そこで言葉を切った。
「反動のことなら大丈夫。あたしが盾になるわ」
「チタさん、そんなこと……」
「いいのよ、あたしは平気。刑務所暮らしのあたしひとりの命なんて、全然惜しくないもの。それより、もしレイを倒せなかったら、トトくんも、ソウくんも、チャドもヘイザさんもシーナさんも……みんなが死ぬことになっちゃうのよ?」
トトは、どうしたらいいかわからないというように、おろおろとした様子で言葉を探している。
その時、チャドが低い声を出した。
「チタ」
「えっ……?」
いつもよりトーンの低いチャドの声に、チタはわずかに戸惑いを見せた。
「僕に反動を受ける役をやらせてほしい」
チタは目を見開いてチャドを見た。
チャドは続けて言った。
「レイは僕のおじなんだ。僕には、レイを止める義務がある。僕のおじのせいで、才能豊かな子供だったチタの人生を台無しにしてしまった責任もある」
チタはその言葉に、激しく首を横に振った。
「レイはレイでしょ、チャドには何の責任もないわ。それにレイを止める義務なんて言うなら、あたしにだって義務があるはずよ。あたしのパパとママは、レイに殺されたんだから」
「それも含めて、この僕に責任がある。僕はレイと血縁関係にあるんだから……」
「血なんて関係ないでしょ——」
「ちょっと待てよ!」
ソウが大声を出し、チャドとチタは話をやめた。
「チタもチャドも、なんでそんなに死のうとするんだよ!? そのなんとかって魔法を使っても、100パーセント死ぬわけじゃないんだろ? だったら、どうやって生き残るか考えればいいじゃん!」
チャドとチタは言葉を返そうとせず、ソウのまっすぐな目を見つめた。
ソウはふたりの顔を交互に見ながら、自信にあふれた目をして、さらに言葉を重ねた。
「それにさ、即死しない限りは、オレが回復の魔法で助けてやれるんだ。大怪我したって平気だぜ! オレにまかせとけ!」
チャドはどこか遠い遠い場所を見つめるような目をして、黙ってソウの言葉にうなずいた。
「そうね、ソウくんの言う通り」
チタはそう言って、そっと目を伏せた。
トトはじっとガレージハウスを見ながら、大きく深呼吸をした。そして独り言のように小さな声で言った。
「——ぼくは、幼い頃から師匠のために尽くして来ましたが……今まで与えられたどんな試練や任務よりも、今、シーナさんのようなやさしい方と、生まれ育ったこの国を救えることを誇りに思います」
そして、穏やかな目をして、チタを見た。
「——反動から逃れる確率は、約10パーセントです。反動は中央ほど強いので、できるだけすばやく横か下に逃げれば、助かる可能性はあります。魔法を放つ瞬間に、ぼくは右に逃げますので、どうかチタさんは左へ逃げてください」
トトは先ほどとは別人のように、落ち着き払った態度でそう言った。
「うん、そうするわ」
チタが素直に返事をした。
次にトトはチャドに向かって言った。
「きっとぼくらがうまくやりますから、チャドさんは、どうか心配なさらずに、他の仲間や魔物の相手をしてください」
「わかった。そうしよう」
チャドはトトと目を合わさずに、そう答えた。
「おい、そんな簡単なことじゃないぞ。それに、おまえたち——」
アルヴィーが低い声で口を挟むと、チタが急に強い口調になって、その声をさえぎった。
「大丈夫よ。絶対に大丈夫だから……アルヴィーは、レイを倒すことだけを考えてて」
そしてチタは、もうそれ以上何も言うなと言うように、片手を上げて見せた。
「そうだ、心配すんな、アルヴィー! トトはめちゃくちゃ優秀なんだぜ? トトが言い出したアイデアなら、絶対みんな生き残れるよ!」
ひとり生き生きと希望にあふれた目をしたソウが言った。
アルヴィーは、何も答えなかった。
「ヘイザさんは、強行突破したら、真っ先にシーナさんを助けて。そして、とにかく逃げて……レイは、あたしたちにまかせてくれればいいから」
ずっと黙りこくったままのヘイザの横顔に、チタが声をかけた。
ヘイザはチタの微笑みからそっと目をそらしながら、黙ってうなずいた。
「じゃあトトくん、全壊の魔法の呪文の確認をしましょ。時間がないから急がないと」
「そうですね、急ぎましょう」
トトとチタが顔を突き合わせて、分厚い本を手に呪文の確認を始めた。
その時、ヘイザが、さりげない動きで後部座席のドアに手をかけた。
「——ヘイザさん? どこへ行くんです?」
チャドがすぐに気付いて声をかけた。
「ちょっと——外の風に当たって来るだけ」
ヘイザはチャドと目を合わせずに言った。
「ひとりでは危ないです。アジトのすぐ近くなんですから……僕も一緒に行きますよ」
チャドはそう言って、反対側のドアに手を伸ばした。
ヘイザはチャドの腕を強くつかみ、
「——やめてよ。生理現象なんだから」
と言って、にらむような目をした。
チャドははっとしたような顔をして、ドアから手を放した。
「あぁ、そうでしたか……すみません。この辺には確かにバスルームはないですね……」
「生理現象って何だ?」
ソウが無邪気な顔で口を挟んだ。
「いいの、あんたは黙ってて。ついて来たら、容赦なくナイフで切りつけるから」
ヘイザは、ナイフを取る真似をした。
ソウは思わずのけぞった。
チャドは無理をしたような笑みを浮かべながら、
「もちろん、そんなことしませんし、ソウくんにもさせませんよ。ちゃんと、ここで待っていますから安心してください。ほら、ソウくんのことはこうやって押さえておきますから」
と言って、ソウを後ろから押さえる真似をし、
「でも——できるだけ早く戻って来てくださいね。早く行かないと、シーナが危ないですから」
と、真剣な顔で付け足した。
「もちろんわかってるわ。車にカーテンかけといて」
ヘイザはチャドが車内にカーテンをかけたところを見届けると、車を降りた。

ヘイザは再度振り返り、ワゴンのカーテンが閉まっていることを確認しながら、身を隠すようにすばやい動きで森に入った。
そして早足で木々の間を通り抜けながら、目の前のガレージハウスに向かって行く。
ガレージハウスに向かって走りながら、ヘイザは悲しそうな目で、チャドのワゴンをちらりと見た。
——あの不気味な穏やかさ……
とてもじゃないけど、やりきれないわ。
チタちゃんも、トトも、チャドも……
みんなあのなんとかっていう魔法の反動で、自分が死のうと思ってるんだもの。
誰も死なないって信じて疑ってないのは、ソウくらい。
普段のトトなら、たった10パーセントの確率にかけたりしない。
なのにあの落ち着いた態度……
ヘイザは顔をゆがめた。
わたしは、誰かが犠牲になるって知りながら、強行突破なんて一緒にやりたくないわ。
そんなことするくらいなら、ひとりでシーナを助けに行く。
アルヴィーが言ってた——シーナのオーラからは生命力がほとんど感じられないって……
シーナも、もう死を覚悟してるのかもしれないわ。
早く行ってやらなくちゃ——1秒でも早く。
ガレージハウスに向かうヘイザの足がさらに速くなった。
少しずつガレージハウスが近付いて来る。
ヘイザは表玄関ではなく裏に出るよう、木の間を移動した。
やがてついにガレージハウスが、わずかな木々を隔てて、目の前にやって来た。
アルヴィーが言ってた、グレイのカーテンがかかった角部屋は、あれね……
あの部屋にシーナがいるんだわ……。
ヘイザはその部屋を、じっと見つめた。
そして、正面右から2番目の部屋の位置を確認した。
あれが、魔法のシールドが張られていない部屋……。
ヘイザは木の間に隠れるようにしながら、その部屋がまっすぐに見える場所に移動した。そして注意深く辺りを見回しながら、他の部屋の窓をすばやく確認すると、思い切ったように走り出し、魔法のシールドが張られていない部屋の壁に、張り付くように身を隠した。
ヘイザはじっと耳をすまして辺りをうかがいながら、そっと伸びをするように、部屋の窓に顔を近付けた。
白っぽいレースのカーテンの右端がほんの少しめくれている。
片目をつむってその隙間をのぞくと、部屋の中がわずかに見えた。
ベッドらしき角、テレビ、クローゼット。
——誰かの部屋か、ゲストルームってとこかしら……
とりあえず、中には誰もいないみたいね。
ヘイザは部屋の中をのぞきながら、ウェストバッグに手を伸ばした。
中から、チャドのワゴンから取って来た小型ガスバーナーとドライバーを取り出す。
ヘイザは窓カギのかかっている辺りをガスバーナーでじりじりとあぶった。
そして、ドライバーを取り出すと、ちょうど窓カギを狙うように、器用に一突きした。
コップにひびが入るほどの小さな音とともにドライバーはガラスを貫通し、同時にドライバーの先が窓カギのロックをくいっとひねった。
——昔、流星団で空き巣をやらされた経験がこんなとこで役に立つとはね。
流星団のあのボス……
ケチなやつで、キドたちと散々悪口言ったけど……少しは感謝してやってもいいわ。
ヘイザはロックの外れた窓を、音をたてないようそっと開けた。
そして壁に張り付くように身を隠しながら、中に誰もいないことを再び確認すると、窓に手をかけ、そのまま勢いよく壁を登るようにして、部屋に侵入した。

- -

第20章

再会

「さぁ、ここに座ってよ」
ヒュートは楽しげな声でそう言うと、シーナの腕から手を放した。
グレイのカーテンがかかっただけの殺風景な部屋に連れて来られたシーナは、ぴかぴかに磨き上げられたフローリングの上に、言われるままに力なく座った。
ヒュートは鼻歌まじりに、押入れから真っ赤なラグを取り出しながら、ふとシーナの後ろに立って、鋭い目でこちらを見ているキドの視線をちらりと見た。
「——おまえのその目つき、どうにかならないのか? 僕の楽しい気分が台無しになる」
キドは何も答えない。
ヒュートは大げさにため息をついて、言った。
「なぁ、ゲドゥ、こいつをダロのところへでも連れてってくれよ。見られてると、気分が壊れるんだ」
「でも、いいんですか? レイさんが、この男にも見せてやれって言ったんじゃ?」
ゲドゥが、両手を後ろ手に縛られたキドの手首をつかみながら言った。
「うん——だから、見せてやるのは最後の最後だけにする。そこに至る楽しい過程は、僕のものだ。そいつには見せてやらない」
「過程って、どういう意味です? 殺すのなんて、一瞬で済んじまうでしょ?」
ゲドゥは不思議そうにたずねた。
ヒュートはあきれたような顔をして、
「まったく、それだからおまえは野蛮だって言われるんだよ。少しでも長く楽しめるように工夫するのが、スマートなやり方さ」
と言って、真っ赤なラグを床に広げ、シーナの腕を引いて、その上に座らせた。
「うん、やっぱり赤はいいね! シーナの黒髪が際立って、いつもよりきれいに見えるよ!」
ヒュートはうれしそうに声を上げ、困惑した様子で突っ立っているゲドゥに気付くと、
「おい、早くそいつをダロのところへ連れて行ってくれよ」
と顔をしかめ、キドを追い払うように手を振った。
「はい……わかりました」
ゲドゥは納得できない様子で、キドの手を縛ったロープをつかみ、部屋を出て行った。
シーナとふたりきりになると、ヒュートはひざまづき、そっと手を伸ばして、シーナの頬をなでた。

- -

シーナはびくっとして、怯えた目でヒュートを見た。
「いいねぇ! そういう顔してくれると僕も本望だよ」
ヒュートはうれしそうに笑いながら、再び背を向けて押入れに向かうと、中からビデオカメラと三脚を取り出した。
「シーナの最後をちゃんと残しておいてあげるからね。きっと僕のお気に入りのビデオになるはずさ」
怯えて見ているシーナの前で、ヒュートは注意深くビデオと三脚をセットした。そして、シーナのそばに戻ると、意地悪くにやりと笑って、腰のポケットから扇を取り出した。
「ゆっくりと楽しませてもらうよ、シーナ」
ヒュートは扇を広げ、軽く踊るような仕草をし、扇をシーナの右腕に向けた。
シーナは恐怖に、思わずぎゅっと目を閉じた。
扇からうねるように風が出て、シーナに向かう。
その途端、シーナの右腕に、切られるような痛みが走った。
シーナは反射的に、右腕をかばうようにうずくまり、うめくような声を漏らした。
「ううっ……」
ヒュートはおかしそうに笑った。
「そんなに痛いかい? シーナは弱いなぁ! 軽~く当てただけなのに」
腕はじんじんと痛み、そのたびに神経に触れるように腕がびくびくと動く。
シーナは痛みにあえぐように、口を開けて苦しそうに息を吐いた。
「今度はどこに当てようかな? もっと痛いところに当ててあげようか? どこがいいかなぁ?」
ヒュートは笑いを含んだ声で言いながら、扇を持って、シーナの周りをゆっくりと歩いている。
シーナは痛みに耐えながら、怯えきった目でヒュートの動きを追った。
その時——
カチッ。
ビデオカメラから、小さな音が響いた。
「あれ?」
ヒュートはビデオカメラに駆け寄ると、表情を曇らせた。
そして、カチャカチャとボタンを押しながら、
「まったく、こんな時に……!」
と吐き捨てるように言うと、
「ちょっと待ってて。替えのバッテリーを持って来なきゃ」
と言って、いら立ったように、シーナの手足を手早くロープで縛り、急ぎ足で部屋を出て行った。
バタン——
ガチャリ。
ヒュートが、外からカギをかける音が聞こえた。
シーナは両手足を縛られた格好で、まだ腕の痛みに耐えていた。
じんじんと続く痛みに、じわじわと涙が滲んで来る。
こんな痛みを死ぬまで味わわされるなんて……
舌を噛んで今すぐ死んだ方がましだわ。
舌を噛めば死ねるって言うけど……
あれって、本当なのかしら……
シーナがこわごわと舌を出して、歯を当てた瞬間。
ガチャリ。
外からカギが開く音がして、ドアが開いた。
あぁ、もう戻って来た……
絶望的な気分で、シーナは目を閉じた。
「——おい、シーナ」
えっ……
その声は、ヒュートではなかった。
シーナが顔を上げると……
そこにはキドがいた。
「キドさん……」
「逃げるぞ」
キドは手に持っていた果物ナイフで、シーナの手足を縛っていたロープを切ると、シーナの腕を取り、立たせようとした。
「い、痛っ……」
シーナの腕に激痛が走った。
「——どうした?」
キドは驚いたようにシーナの腕を見た。
「さっき……ヒュートさんに……」
「右腕か?」
シーナはこくりと首を縦に振った。
キドはそれを見ると、シーナの左腕を取り、
「手当ては後だ。ついて来い」
と言って、ドアに向かった。
キドがドアの隙間から外をうかがい、シーナの手を引いて部屋を出る。
廊下に出ると、どこかの部屋でヒュートがバッテリーが見つからないと文句を言っている声と、バッテリーを探しているのかガタガタと探し物をしているような音が聞こえた。
シーナの心臓は、飛び出しそうなくらい早く脈打っている。
キドは無言でシーナの手を引き、すぐ隣の部屋のドアをそっと開けた。
そして、その部屋にシーナを押し込むように入れると、自分もすっと入り込み、音を立てないようドアを閉めた。
「この部屋は魔法のシールドがないって、さっきダロってやつに聞いたからな。この部屋からなら、逃げられるはずだ」
ドアが閉まると、キドは早口でそう言って、窓に向かった。
キドが窓のレースのカーテンをめくりかけた時——
ドアの向こうから声が聞こえた。
「——どこへ行った!? 探せ!」
いら立ったヒュートの声とともに、足音がこちらに向かってくる。
「——まずい」
キドはすばやく窓から離れ、シーナの腕を引いて、クローゼットの扉を開けた。
中にはヒュートのものらしきジャケットが何枚かかけられている。
キドはそれらを手早く端へ追いやり、シーナを押し込み、自分も体を丸めるようにして中に入った。
狭いクローゼットの中に押し込まれると、ジャケットがシーナの顔に当たり、ヒュートのパフュームの匂いが鼻にかかった。
シーナは思わず顔をそむけた。
「——来た」
キドはそう言って、シーナを軽く抱き寄せた。キドの右手は音を立てずにジーンズのポケットに伸び、果物ナイフを取り出している。
ガチャッ。
ドアが開く音がした。
クローゼットのわずかな隙間から、ヒュートが部屋に入って来たのが見えた。
お願い……
見つかりませんように……
シーナは目の前のキドの腕にしがみつき、息を殺した。
ヒュートは部屋を見回しながら、窓に駆け寄った。
ドクッ、ドクッ、ドクッ。
シーナの心臓が、大きく早く鳴る。
ヒュートは、レースのカーテンをめくり、窓を開けて、外を確かめている。
ドクッ、ドクッ、ドクッ。
シーナは自分の心臓を取り出して、どこか音がしない場所へ放り投げてしまいたいと思うほど、心臓の音を大きく感じた。
ヒュートは窓カギをしっかりと閉めると、レースのカーテンを再び閉めた。
そして、ドアを振り返ると、
「——ここから外には出ていないみたいだ。1階を全部見たら、2階も探そう」
と誰かに声をかけ、クローゼットを開けることはなく、ドアへ向かった。
バタン!
勢いよくドアが閉まり、ヒュートは出て行った。
シーナはほっとして息をついた。
キドは果物ナイフをポケットにしまいながら、
「安心してる暇はねぇ。あいつらが2階に上がったら、すぐ窓から逃げるぞ。——ところで、腕は大丈夫か?」
と言って、シーナの右腕に目をやった。
「はい……さっきより、痛みが引いたみたいです。動かすと、まだ少し痛いけど……」
シーナは右腕を上げようとして、わずかに顔をしかめた。
「——無理に動かすな。内出血してるかもしれないな。ここを出たら、僧侶にでも治療してもらえ。——ったく、あのヒュートってやつ……女を傷つけて喜ぶなんざ、最低の野郎だ。運よくバッテリーが切れて、この程度の怪我でおまえを助け出せてよかったぜ」
キドはそう言って、シーナを見ると、小さく笑みを浮かべた。
シーナは改めて、まっすぐにキドを見た。
その瞬間、シーナの心にじわりとほっとするような温かさが広がった。
キドさんの目……
初めて会った時のヘイザに似てる。
鋭くて、やさしくて……
シーナが見入るように見つめていると、キドは急ににやりと笑って冗談っぽく言った。
「どうした? オレに惚れたのか? ヘイザが悲しむぞ」
シーナはキドの冗談っぽい口調に微笑んだが、すぐにはっとしたように真顔になった。
「あの……キドさん。ヘイザの居場所は、本当に知らないんですか?」
「あぁ、本当に知らねぇ。無事でいてくれるといいが——」
キドはそう言って、言葉を切り、
「——まぁ、ここの連中が企んでる計画で死んじまったらどうしようもできねぇが、死なない限りは、何とかヘイザを探しておまえを送り届けてやるよ。ヘイザもおまえのこと探してるだろうからな」
とシーナを元気づけるように肩を叩いた。
シーナはうるんだような目でキドをじっと見つめた。
「ありがとう、キドさん……」
キドは苦笑いをした。
「そんな目でじっと見つめるのは、やめてくれ。体中、くすぐったくてしょうがねぇ」
「えっ? ……す、すみません」
シーナは戸惑った様子で、あわててキドから目をそらした。
キドはそんなシーナを見ると、
「——確かにおまえは、ヘイザが惚れそうな女だぜ」
と言って、おかしそうに笑った。
その時、階段をバタバタと上る足音が聞こえた。
「——よし、行くぞ」
キドは真顔に戻って、クローゼットの扉をそっと開けた。
シーナもクローゼットを出ようとした。
しかし、窓に近付きかけたキドは、足音を立てずに、すばやくこちらへ戻って来た。
そして再びシーナをクローゼットに押し込み、自分の体も入れて扉を閉めた。
「キドさん……?」
シーナはわけがわからず、再び狭いクローゼットの中で、キドを見つめた。
「——誰かいる。窓の外だ」
「えっ……?」
シーナはクローゼットの隙間から目を凝らした。
すると確かに、レースのカーテン越しに、窓カギの辺りにぼんやりと影が見えた。
「ヒュートさんか誰か? でも……どうして窓から……?」
シーナは不安そうな顔になって、キドを見つめた。
キドはクローゼットの隙間を覗いたまま、
「ここの人間じゃねぇ。あぶりで侵入しようとしてるな……ったく、こんな時にどこの空き巣だ」
と吐き捨てるように言った。
「空き巣……?」
「あぁ、そうだ。ガスバーナーであぶって、ガラスに穴を開ける手口だ。オレがスリ団で教わったのと同じやり方だな」
キドはそう言いながら、手をポケットに伸ばし、再び果物ナイフを取り出した。
「シーナ」
キドは鋭い目でシーナを見つめ、言った。
「同業のやつと闘いたくはねぇが……もし万が一、オレたちが逃げる邪魔をするようだったら、オレが闘う。もしそうなったら、おまえは先に窓から逃げろ。いいな?」
シーナは不安そうに、キドを見た。
「でも……キドさんは? 闘ったりしたら、ヒュートさんに見つかるかもしれないし……もし、また捕まったら……」
「その時はその時だ」
「そんな……」
シーナは泣きそうに顔をゆがめた。
「やめろ、めそめそしてる暇なんかねぇ。とにかく、おまえは逃げろ。返事はイエスのみだ。わかったな?」
キドは有無を言わせぬ迫力のある言い方で、シーナを無理やりうなずかせた。
その時、コップにひびが割れるような小さな音とともに、尖った棒のようなものがガラスを破った。同時に棒の先端が窓カギに当たり、くいっとカギを開けてしまった。
そして、ほとんど音を立てることなく、外から窓がするすると開けられた。
シーナは息を殺してキドにしがみつき、キドは果物ナイフを握りしめて、目を凝らしている。
窓の外の空き巣も、こちらの様子をうかがっているのか、すぐには中に入って来ない。
シーナは緊張にごくりとつばを飲み込んだ。
その時——
ほんの一瞬だった。
窓の外から、空き巣が部屋に侵入して来た。
その姿に、シーナは息をのんだ。
そして、キドにしがみついていた手を放し……
クローゼットの扉を開けた。
シーナの唇が、震えるように小さく動く。
「……ヘイザ……」
その空き巣——ではなくヘイザは、ひどく驚いて目を見開き、クローゼットから出て来たシーナを見た。
「——シーナ……」
シーナとヘイザの目が合った。
その瞬間、ふたりは互いに吸い寄せられるように近付き——
そして、しっかりと抱き合った。
シーナの目からはぽろぽろと涙がこぼれ出し、もう離れまいとするように、ぎゅっとヘイザの体をつかんでいる。
「シーナ、ごめんね。早く来れなくて……」
ヘイザはしがみつくシーナを、大切そうに抱きしめた。
その時、クローゼットから、別の声が聞こえた。
「——邪魔して悪いが、感動の再会シーンはここを出てからやってくれ」
その声に驚いて振り返ったヘイザは、目を見開いた。
「……キド!?」
「よう、ヘイザ」
キドは小さく笑ってヘイザを見た。
「どういうこと? なんであんたがここに? それに……どうしたの、この傷……」
ヘイザは、キドの頬の傷に触れようと手を伸ばした。
キドはやさしくその手を振り払い、
「オレはいいから、シーナの心配をしてやれ。シーナも腕をやられてる」
と言うと、さっとヘイザから離れ、窓へ向かった。
「腕をやられてるって……何をされたの?」
ヘイザはシーナの顔を覗き込むように見た。
「扇で……ヒュートさんに……」
シーナは涙をぬぐいながら、途切れ途切れに答えた。
「ヒュート? ヒュートって……まさか、あのヒュートじゃないわよね!?」
ヘイザは混乱したようにたずねた。
「あのヒュートさんよ……わたし、ずっと騙されてたの……」
「あいつ……レイの仲間なの?」
「うん……ヒュートさんは、ずっと前から……わたしを恨んでて……」
「恨んでって、一体何を?」
「おい、ヘイザ、話は後だ。早く逃げないと、マジでやばい」
キドはそう言って、窓を大きく開け放った。
「シーナを先に逃がして」
ヘイザはそう言って、窓のふちにシーナを腰かけさせようとしたが、その時、ネグリジェのまま連れ去られて来たシーナの足が裸足だということに気がついた。
ヘイザはキドの肩を叩き、
「ねぇ、あんた先に降りて、シーナを降ろしてやって。シーナ、裸足なのよ」
と言って、窓から出るよう背中を押した。
キドもシーナの裸足の足をちらりと見ると、
「わかった、おまえもすぐ降りろよ」
と言って、軽々と窓から飛び降りた。
ヘイザは、窓のふちにシーナを腰かけさせた。そして、シーナが窓の外に足を出すと、キドは受け止めようと腕を伸ばした。
——その時だった。
見えない壁のようなものが、突然、シーナとキドの間を切り裂いた。
「きゃあっ!」
シーナは叫び声を上げた。
と同時に、キドは窓の外に弾き飛ばされ、シーナは窓の内側に勢いよく押し戻された。
シーナを抱きとめようとしたヘイザも、一緒に床に投げ出された。
「シーナ……大丈夫? 腰を痛めた?」
痛そうに顔をしかめながら、ヘイザは起き上がり、隣で腰を押さえているシーナに声をかけた。
「うん……でも、大丈夫……ヘイザは?」
シーナは腰をさすりながら、起き上がった。
「わたしも腰を打ったけど、大したことないわ」
「キドさんは……?」
シーナとヘイザは、一斉に窓に目をやった。
「あれは何……?」
ヘイザが困惑した様子でつぶやいた。
まるで外から白いカーテンを引いたように、窓の外は一面に真っ白くなっている。
シーナとヘイザは、窓に駆け寄った。
不安そうに窓を見つめるシーナの隣で、ヘイザは窓に向かって片手を伸ばした。
しかし、窓から外に出るはずの手は、弾力のある壁に当たったように、弾き返された。
「何なの、これ……!?」
ヘイザは手を引っ込め、混乱したように目の前の真っ白い壁を見つめた。
その時だった。
ガチャッ。
部屋のドアが開く音。
シーナとヘイザが、同時にドアを振り返ると——
ヒュートが、驚いたように目を見開いていた。
ヒュートの後ろには、ゲドゥの姿も見える。
シーナの顔が、恐怖にこわばった。
ヘイザはシーナを背中に引き寄せながら、鋭い目で、ヒュートとワニのような魔物——ゲドゥの姿を交互に見た。
ヒュートはすばやく部屋を見回し、大体の状況を理解したような顔になると、目の前のヘイザにひとなつっこく微笑んで見せた。
「——いやぁ、驚きだよ、ヘイザ。もう会えないかと思ってあきらめてたのに、こんな土壇場でまた会えるなんて、本当に感激だなぁ」
ヘイザはヒュートをにらむように見た。
ヒュートは、黙ってにらみつけているヘイザを見ると、さらに大げさな口調になった。
「君が足蹴にしてる哀れなスリが、僕のシーナを勝手に連れて行こうとしたんで、それを止めようとしたら……まさか、ヘイザが現れるなんて! まるで棚からぼた餅だね! いやぁ、うれしいなぁ」
その軽快な口調に、シーナは小さく震え出した。
ヘイザはシーナを抱き寄せて肩をやさしくさすったが、シーナの震えは止まらない。
シーナは怯えた目で、ヒュートを見つめている。
ヘイザはヒュートをにらみながら、小さく口を開いた。
「シーナは、ずっとあんたのこと信用してたのに……今は、あんたを見て震えてるわ。一体、シーナに何をしたの?」
ヒュートは、怯えた目のシーナをちらりと見て、うれしそうににやにやと笑い、
「僕が扇でかわいがってあげたんだよ——と言っても、まだほんの一打目だよ? でも、当たり所がよかったのか、相当痛がってたなぁ。〝ううっ〟とか言ってうずくまっちゃって、すいぶん痛そうにしてたっけ——こんなふうにね」
と言って、ヘイザの反応を楽しむように、苦しそうに口を開けて息を吐く真似をして見せた。ヘイザの顔はこわばり、ヒュートはそれを見るとおかしそうに笑った。
ヘイザは湧き上がる怒りを抑えるように、唇をかたく結んでいたが、その瞳には怒りの炎が宿っていた。そして、ヘイザの手はゆっくりと腰のナイフに伸びた。
ヒュートはそれを見ると、余裕の笑みを浮かべ、後ろのゲドゥに向かって口を開いた。
「おい、ゲドゥ。この女を——」
その時、突然、ヘイザが激しい剣幕で声を上げた。
「この腰抜け! 魔物の力を借りないと、わたしひとりとも闘えないわけ? あんたみたいな卑劣な弱虫でも、頭の狂ったキチガイ集団の仲間には入れてもらえたってわけね! さすが、くだらない計画を立てるバカの集まりだけあるわ!」
大声でののしられ、ヒュートの顔からみるみる笑顔が消えて行く。
シーナは体を震わせながら、腰が抜けたように、力なくその場に座り込んだ。
ヒュートは笑顔の消えた目の中に、怒りを滲ませた。
「……言ってくれるじゃないか。生意気なスリ女め……薄汚いクズの分際で……」
「薄汚いクズは、あんたたちの方じゃないの? バカげた計画をコソコソ立てるあんたたちこそ、この世で一番薄汚い、どうしようもないクズだわ!」
感情がほとばしるように、ヘイザの言葉はさらに激しさを増した。
その時、後ろから、ゲドゥがヒュートに声をかけた。
「——ヒュートさん、腕でもへし折ってやりますか?」
ヒュートはヘイザをにらむように見つめたまま、
「いや、いい。こんな女、僕ひとりで十分だ。腰抜け呼ばわりされた屈辱を晴らす。おまえは出て行け」
と後ろのゲドゥに指示をした。
ゲドゥは不満そうな表情で、部屋を出て行った。
ヒュートはドアが閉まるのを確認すると、
「……政府公認の扇使いの、僕を見くびるなよ。僕に生意気な口をきいたことを、後悔させてやる」
と、ヘイザにはっきりと怒りの目を向けた。
「後悔するのは、あんたの方よ。シーナを攻撃したこと、後悔させてやるわ」
ヘイザは憎々しげにヒュートを見ながら、ナイフを構えた。
「ヘイザ、やめて……お願い……」
ヘイザの後ろで、シーナは恐怖に泣き出した。
しかし、火がついたヘイザの怒りはおさまらなかった。
ヘイザは隙のない目つきでヒュートをにらみながら、一歩前へ進んだ。
ヒュートはゆっくりと扇を広げる。
ふたりはにらみ合い、武器を構える格好になった。

- -

緊迫する空気の中——
ヒュートが器用に扇を動かすと、うねった風が、勢いよく扇から飛び出した。
風は弾丸のような勢いで、まっすぐヘイザへと向かう。
ヘイザはすばやく身をかがめ、向かって来た風を避けた。
しかし、風はすぐにヘイザめがけて戻って来る。
ヘイザは頭を低くしたまま、ナイフで風を切り払った。
風は空気に分散するように、あっけなく消えた。
「——くそっ!」
ヒュートは悔しそうに声を上げ、すぐにまた次の風を作ろうと手を動かし始めた。
その隙に、ヘイザは低い姿勢のまま、すばやくヒュートに近付いた。そして思いきり腕を伸ばし、ナイフを振った。
ナイフは、扇をかすめた。
ヒュートはわずかにあわてた様子で、今度は、迎え撃つように扇を構える。
ヘイザはさらに近付き、再びナイフを振った。
しかし、硬い扇面に、ナイフは跳ね返された。
へイザは悔しそうに口をゆがめた。
その瞬間。
ヒュートは大きく扇を振り上げた。
ヘイザはすばやく横に避ける。
バシュゥッ!
風の音を立て、扇は、空気を切り裂いた。
ヒュートはいら立った様子で舌打ちをすると、不意をつくように、急に大きく後ろに下がった。
ふたりの間に距離が開き、ヒュートはその隙に風を作ろうとした。
しかし、ヘイザの身のこなしの方が、早かった。
ヒュートが風を作ろうと扇を振った瞬間、
ヘイザは滑るように走り寄り、そして——
ついにナイフが、扇に直撃した。
バシッ!!
扇がヒュートの手から落ちる。
ヘイザは、武器を失ったヒュートの右手首をつかみ、そのままナイフを顔面に突きつけた。
ヒュートは身動きが取れず、引きつった顔で目の前のナイフの刃を見つめ、
「さすがはスリだ……動きが速い。でも……まさか、僕を切るつもりじゃないよね? 魔物を倒すために身につけたナイフだろう? 人間の僕を切るなんて……スリはそんなことしないよね?」
と言って、無理をしたように笑いかけた。
その時、ヘイザはわずかにためらうような表情を見せた。
ヒュートは、その一瞬の隙をつき、左手で、思い切りヘイザの手を払った。
ガシャーン!
今度は、ナイフが床に落ちる。
ヘイザはすぐにナイフを取ろうと手を伸ばしたが、ヒュートに胸ぐらをつかまれ、勢いよく壁に押された。
「——くっ!」
ヘイザは壁に背中を打ち、思わず声を漏らした。
ヒュートはヘイザが身動きを取れないよう自分の体を押し付けながら、目の前の白い首に手をかけた。
ヘイザは苦しそうに顔をゆがめ、必死でヒュートの手を首から剥がそうともがく。
しかし、がっちりと首に絡んだ手を外すことができない。
「——ナイフがなければ、おまえもただの女だな。腑抜けなスリめ。魔物は倒せても、僕を切る勇気は無かったな?」
ヒュートはそう言って、おかしそうに笑い、
「いざとなった時に、本当の強さが出るものさ。おまえは所詮、いくじなしで口だけのクズってことだ。——苦しいか? 死ぬまでの間、僕に生意気な口をきいたことをせいぜい後悔するんだな」
と言って、声を立てて笑った。
ヘイザは苦しみに耐えながら、涙目になった視界の端に、ぼんやりと動くものを見つけた。
シーナだった。
音を立てないように注意深く、シーナが床を這ってこちらへやって来る。
ヒュートはヘイザの苦しむ顔を、うれしそうに見ている。背後の気配にはまったく気付いていない。
シーナは落ちていたヘイザのナイフを拾い上げた。
カチャ……
その音にヒュートははっとして、振り返った。
その瞬間。
「いやぁぁっ!」
シーナは悲鳴のような叫び声を上げながら、両手でナイフを握り締め、目をつむってヒュートのふくらはぎにナイフを突き立てた。
「うああっ!!」
ヒュートは大きな声を上げ、ふくらはぎをかばうように床に倒れた。
シーナは、ヒュートの声に驚いたようにナイフを放り出し、ガタガタと体を震わせながら、両手で顔を覆った。
「よくやったわ……シーナ」
やっとヒュートの手から解放されたヘイザは、ゲホゲホと咳をしながらそう言って、
「後は、わたしにまかせて」
と、うずくまったヒュートを床に押さえつけ、落ちていたナイフを取り上げた。
「シーナめ! よくもやったな!」
ヒュートはヘイザに押さえつけられたまま、目をむいて大声を上げた。
ヘイザは先ほどとは違う、意を決した目つきで、ヒュートを見下ろし、手に持ったナイフを光らせた。
「——もう容赦しないわ。あんたを切る」
「ちょ、ちょっと待って。ヘイザ、少し話そうよ、さっきのは……」
急にあわてたようにヘイザを見上げたヒュートに向かい、ヘイザはナイフを振り上げた。
シーナが泣き声のような悲鳴を上げた。
その時——
黒く大きな何かが、ヒュートとヘイザの間に突然現れた。
シーナははっとした顔でそれを見た――影の正体は、いつもレイのそばにいる大きな魔物だった。
魔物は、3メートルほどありそうな竜の姿で立ち上がると、にょきっと真っ黒い手を伸ばし、ヘイザを払いのけた。
ヘイザは勢いよく窓際に跳ね飛ばされ、ナイフは床に投げ出された。
「あぁ、ルーベ! 助かったよ!」
ヒュートが声を上げた。
と同時に、勢いよくドアが開いた。
ガチャッ。
「一体、何の騒ぎだ!?」
レイがひどく驚いた顔で部屋に入って来た。
レイはすばやく部屋を見回し、シーナとヘイザの姿を見ると、後方に向かって手を上げた。
するとレイの後ろからゲドゥとパティが部屋に入って来て、ゲドゥはヘイザを、パティはシーナを押さえにかかった。
力なくパティに押さえられたシーナとは対照的に、ヘイザはゲドゥに抵抗しようと手足をばたつかせたが、頑丈な太い手で床に押さえ付けられ、身動きができなくなった。
シーナが絶望的な表情で目の前のレイをちらりと見た時、レイの後ろにダロが立ってこちらを見ているのに気付いた。ダロは部屋に入ろうとはせず、どこか悲しげな表情で、ぼんやりとシーナを見ている。
「レイさん……」
ヒュートはふくらはぎを押さえたままの格好で、ほっとした声を出した。
「ヒュート、おまえ、何をやってるんだ?」
レイは、ヒュートがふくらはぎを押さえている手に血がついているのを見ると、けげんな顔をした。
「すみません……つい油断してしまって……」
ヒュートはきまり悪そうにそう言った。
レイは落ち窪んだ目をすばやく動かして、ゲドゥに押さえ付けられながら、こちらをにらんでいるヘイザに目を止めた。
「おまえは——、シーナの恋人だな?」
「——あんたがレイ?」
ヘイザは、敵意に満ちた目でレイを見上げた。
レイは嘲笑するような目つきでヘイザを見下ろした。
「いかにも。おまえのようなスリがなぜわしの名前を知っているのか、おまえがなぜシールドが張られていないこの部屋から侵入したのか、わしには非常に興味深い。トト・エウルが言ったのか? それとも、あのスリの男の手引きか?」
ヘイザはゲドゥに押さえ付けられたまま、何も答えまいとするように、黙って唇をきっと結んだ。
ヒュートは急に訴えかけるような顔でレイを見上げ、早口でまくし立てた。
「レイさん! あのスリ男は、僕が思っていた通りの裏切り者だったんですよ! だから仲間にするなんて、やめた方がいいって言ったんです! あのスリ男も、迷わずシーナをここから逃がそうとしていましたし……そして、ヘイザもこの窓から入って来たんですから——やっぱりあいつは、ヘイザと連絡を取り合ってたんですよ! レイさんや僕を裏切って——」
「あのスリの男が、この女を呼び寄せたのなら、わしには都合がいい。この女は、確実にトト・エウルの居場所を知っているからな」
レイはヒュートの言葉をさえぎってそう言うと、ヘイザを再び見下ろした。
「おまえに質問だ。トト・エウルはどこにいる?」
ヘイザはにらむようにレイを見上げた後、反抗するように大きく目をそむけた。
「わしの質問に答えないつもりか。いいだろう」
レイはそう言って、ヘイザの前にしゃがみ込み、
「おまえがどれくらい度胸があるのか試してやる。わしは強い魔術師だぞ? 怖いだろう? 怖くないと言うなら、わしの目をしっかりと見てみろ。おまえにできるか?」
とヘイザに呼びかけた。
「何言ってんの? あんたなんか怖くないわ」
ヘイザはそう言って、レイの目を見ようとした。
「だめ!! ……ヘイザ、レイさんの目を見ちゃだめ!」
シーナが急に大きな声を出した。
パティはあわてて、後ろからシーナの口をふさいだ。
ヘイザはシーナの言葉に、すぐにレイから顔をそむけた。
「——まさか、シーナに邪魔をされるとはな」
レイは苦々しい顔で舌打ちをすると、黒い魔物——ルーベを呼び寄せた。そして、
「できるだけ早く計画を実行するよう、伝えて来い」
と命令し、ルーベが消えると同時に、
「ゲドゥ、パティ、女どもを連れてついて来い」
と言って、部屋を出ようとドアへ向かった。
「レイさん、どうするんですか?」
ヒュートが、レイの背中にたずねた。
「計画実行まであと少しだ。わしが、この女にトト・エウルの居場所を吐かせる。計画の邪魔をされる前につぶしてしまわねば」
「吐かせるんだったら僕がやりますよ! けど、ヘイザを吐かせるのに、どうしてシーナまで連れて行くんです?」
ヒュートは血だらけになった手を床について、痛みに顔をしかめながら言った。
「この女は、素直に吐くような顔はしとらんからな。しかし、目の前で恋人のシーナを痛めつけてやれば、話は違ってくるだろう。女が意地を張れば張るほど、シーナが苦しむことになるのだからな」
シーナはその言葉に、あきらめたようにうなだれ、ヘイザはうろたえるような表情を見せた。
「シーナを痛めつけるんですか? だったら、僕がやりますよ」
レイはあざけるような目をヒュートに向け、
「ろくに立てもしない状態で、どうやって痛めつけるつもりだ? シーナを捕らえてから、おまえは役立たずに成り下がったようだな。頭を冷やして、自分の怪我の手当てでもしていろ」
と言うと、くるりと背を向けた。
ヒュートは赤く染まったふくらはぎを押さえながら、
「そんな……レイさん! 僕は役立たずじゃありません! 立てなくたって、痛めつけることくらいできますよ!」
と悲痛な声を上げた。
レイはヒュートの声を無視して、部屋を出ようとしている。
シーナを連れたパティ、ヘイザを連れたゲドゥも、レイの後に続いた。
ヒュートは歯ぎしりをするような表情で、その後姿を見送っている。
その時——
それは、突然のことだった。
耳をつんざくような轟音——
そして、すぐ近くで部屋の壁がガラガラと崩れ落ちるような音がした。

- -

第21章

強行突破

ヘイザがワゴンから出て行くと、チャドは考え込むような表情になった。
車内では、チタとトトが真剣に呪文の確認をしている。
ソウはじりじりとした様子で、ふたりをじっと待っていた。
そうして、5分ほどの時間が経過したと思われる頃——
「アルヴィー」
チャドが意を決したように、低い声を出した。
「——何だ?」
アルヴィーはわずかに驚きを含んだ声で答えた。
「——ヘイザさんの様子を、見て来てほしい」
その言葉に、トトが振り向いた。
「……チャドさん!? まだ心配なさるほど時間は経過していませんよ。それに様子を見に行かせるなんて……アルヴィーさんだって、魔物とはいえ、人間なら男性なんですから……そんなこと……」
トトは恥ずかしそうに言葉を濁した。
「そうだよ! 見に行ったら、ヘイザに切りつけられるぞ! ——ナントカ現象なんだろ? えぇと、何現象だったっけ?」
ソウは懸命に記憶を辿るように、首を傾けた。
「生理現象です、兄さん」
「あっ、そうだそうだ! ——意味はわかんないけどさ!」
恥ずかしそうなトトを前に、ソウはあっけらかんとして言った。
チャドは神妙な面持ちで口を開いた。
「僕は——、ヘイザさんは嘘をついたんじゃないかと思ったんだ。僕らについて来させないために、生理現象って言ったんじゃないかって……」
ソウとトトは同時に驚きの表情を見せた。
「チャド、それ……あたしもちょっと思ったわ」
チタが言いずらそうにおずおずと言った。
チャドはチタにうなずきながら、車の窓を小さく開けた。
「アルヴィー、頼む。見て来てくれ」
羽虫の姿のアルヴィーは、黙って外に出て行った。
「——おい、チャド! ヘイザが嘘をついて、どこかへ逃げ出したって言いたいのか? ヘイザはそんな弱虫じゃないぞ!」
ソウが怒ったように声を上げ、トトは同意するようにうなずいた。
「ぼくもそう思います。ましてや恋人のシーナさんがあのアジトにいるんです。逃げ出すなんてことは……」
「いや、違う。逃げ出したなんて思っていないよ。ヘイザさんはきっと——」
その時、チャドの声をさえぎって、低いアルヴィーの声が車内に置かれた命令板から聞こえて来た。
「——ヘイザのオーラは、建物の中にある。正面右から2番目の部屋だ」
ソウとトトが驚いて、言葉をのんだ。
「やっぱりそうか」
チャドは静かにうなずいた。
「ちょっと待て」
アルヴィーが驚きを含んだ声を出した。
「シーナのオーラも、同じ部屋にある」
「えっ——、ヘイザさんは、シーナさんと一緒にいるのですか?」
トトが真っ先にたずねた。
「——そういうことだ。あともうひとつ、同じ部屋に、人間のオーラがある。誰なのかは知らないが」
アルヴィーの答えに、チタが顔をこわばらせた。
「レイの仲間だったら、大変だわ」
「ヘイザのやつ、ひとりでシーナを助け出すつもりか!? オレだって早く行きたいのをずっと我慢してんのに! なぁ! オレたちも早く行こうぜ!」
ソウはあわてたように腰を上げた。
「そうだね。早く行かないとふたりが心配だ。チタ、トトくん、全壊の魔法の呪文の方はもう大丈夫?」
チャドはきびきびとした動きで、腰に下がっている使い慣れた茶色いムチを確認しながらたずねた。
「もう一回だけ確認させて。すぐ終わるから」
「では、ぼくも」
チタとトトは真剣な顔で再び分厚い本を覗き込み、呪文を頭に入れている。
「アルヴィー、こっちに戻って来てくれ」
チャドは命令板に声をかけ、すぐにソウに顔を向けた。
「ソウくん。行く前に、トトくんとチタの体力を万全にしてあげてくれるかい?」
「あっ、あぁ、そうだったな!」
ソウははっと思い出したようにそう言って、急いでトトとチタに向かって、回復の呪文を唱え始めた。
すぐに小さな空気の渦がトトとチタを包み……
1分ほどですっと消えた。
「よし、終わったぞ!」
ソウが声を上げると、チタとトトも本から顔を上げた。
「ありがとう、ソウくん。——あたしたちも、もう終わったわ。ね、トトくん?」
「はい、急いで行きましょう」
トトはきりっとした目つきでアジトを見た。
「車はここに置いて行く。森に入って、目立たないように行こう」
チャドはそう言って車を降り、ソウ、トト、チタも後に続いた。
4人は森へ入り、アジトに向かって早足で歩いて行く。
まだ羽虫の姿のアルヴィーも、4人の後ろをついて来ていた。
「なぁ、アルヴィーはいつ本当の姿になるんだよ? こんな虫の姿じゃ闘えないだろ?」
木々の間を通り抜けながらソウが言うと、前を歩いていたチタがちらりと振り返った。
「強行突破の時は、本来の姿になってもらうわ。ぎりぎりまで待ってからじゃないと、強行突破する前に敵に見つかっちゃったら困るでしょ?」
「あ、そっか」
ソウはすぐに納得した様子でうなずき、今度は、少しずつ近付いて来る目の前のアジトに向かって挑むような目をして言った。
「アルヴィーがいれば、怖いもんなしだぞ! 爆発事件を起こしたり、シーナを誘拐したり——そんな悪いやつら、絶対にやっつけてやるからな!」
「もちろんだとも」
チャドが振り返って、ソウにうなずいて見せた。
「あぁ! チタもトトも、怪我したらオレが助けるからさ、ナントカ魔法で、レイってやつをちゃんとやっつけてくれよ!」
「うん。まかせて、ソウくん」
チタは、強い意思を持った目をして答えた。
トトは魔法の杖を握りしめて、すぐ目の前に迫りつつあるアジトを見上げた。——と同時に、視界の端に動くものをとらえた。
「えっ……人影が——」
トトが緊張した声を出し、チャド、チタ、ソウは一斉に、トトの視線の先を追った。
チャドはいぶかしそうに目を凝らした。
森の木々の間から、背中を丸め、誰かがこちらへやって来る。
「あいつ、敵かな? ……なんか、怪我してるみたいだけど……」
ソウが戸惑った表情を見せた。
トトは、警戒した声で言った。
「油断してはいけませんよ。例え怪我をしていても、こんなアジトの近くにいるなんて……」
「いいや、彼は敵じゃない」
チャドの声に、ソウとトトは驚いたように話をやめた。
「あれは——、僕の友人だ」
チャドはそう言って、男に向かって足を向けた。
男もチャドに気付いている様子で、まっすぐにこちらへ向かって来る。
徐々に男が近付き、頬に傷を負った、目つきの悪いその男の顔が見えてくると、トトは緊張した顔つきで一歩後ろに下がった。
「——キド!」
チャドは男に声をかけた。
「一体どうしたんだ? どうしてここに……」
「よう、チャド……」
キドはどこか苦しそうな声でそう言って、ギラリとした目で、ソウ、トト、チタを順に見た後——
最後に再びトトに視線を戻した。
トトは、キドのギラギラとした野生的な目つきに、思わず目をそらした。
「キド、これは——!?」
チャドはキドのジャンパーの裾が裂けたように破れ、そこから血が出ていることに気がつくと、声を上げた。
「窓から森に吹っ飛ばされて、木の枝が刺さっちまったんだ。けど、オレの怪我は別にいい——」
「何言ってんだよ! こんなひどい出血、放っておいたら大変だぞ!」
ソウが怒ったように、キドの言葉をさえぎり、
「オレが回復してやるよ。でも、今は時間がないから、完全回復まではできないけどさ」
と言って、キドの破れたジャンパーの裾を開いた。
ジャンパーの下のシャツも痛々しく破れ、鋭い木の枝でえぐられたような生々しい傷口が現れた。
チタは思わず顔をそむけ、チャドとトトは痛そうに顔をゆがめた。
ソウはただひとりしっかりと傷口を直視しながら手をかざし、すぐに呪文を唱え始めた。
「おまえ、僧侶か……助かったぜ、坊主」
キドはむき出しになった傷口が痛むのか、顔をしかめながらそう言った。
「キド……危険だから、もう関わるなって言ったはずだ——なのに、こんなところまで来るなんて……」
チャドがつらそうに表情をゆがめて言った。
「別にオレが自分で来たわけじゃねぇ。魔物に連れて来られたんだ。ヘイザの居場所を教えろって言われてな——本当の目的は、ヘイザと一緒にいるトトなんたらってガキの居場所を知りたかったかららしいが」
キドがそう言ってトトを見ると、トトは表情をかたくした。
キドはソウの治療を受けながら、アジトを見つめ、早口で続けた。
「それでここに連れて来られたら、シーナがいた。で、いろいろあって、オレがシーナを連れて逃げようとしてたら、ヘイザがやって来た。あと一歩で、オレとヘイザとシーナ、3人で逃げ出せるところだったんだが——、窓からシーナを外に出そうとしたところで、オレは外に放り出されて、ヘイザとシーナは中に閉じ込めらた——。で、何とか中に入れねぇかって、ここを回ってたら……おまえらを見つけたってわけだ。——早く行ってやらねぇと、ヘイザとシーナがやばい」
キドはそう言って、トトに視線を合わせ、
「おまえ、政府に名の知れた魔術師なんだろ? あのレイってやつの計画を止めることももちろんだが……ヘイザとシーナを助けてやってくれ」
と言って、鋭い目に力を込めた。
「はい……もちろん、そのつもりです」
トトはキドの気持ちを理解したように、鋭い視線をしっかりと受け止めた。
チャドが口を挟んだ。
「キド、僕らは今から強行突破するつもりなんだ。レイを倒す計画も立てているし、もちろんヘイザさんとシーナも助け出すよ」
チャドは、トトとチタを見て言った。
「トトくん、チタ。もうアルヴィーを本来の姿に戻そう」
その時、ソウが呪文を唱えるのを止め、
「とりあえず、今はここまでで大丈夫か? 後で、ちゃんと治療するからさ」
と言ってキドのわき腹にかざしていた手をどけた。
生々しかった傷はうっすらとかさぶたになりかけている。
「——もう十分だ。ありがとな、坊主」
キドはソウの坊主頭に手を置いてそう言うと、傷を隠すように破れたジャンパーの裾を引っ張った。——とその時、視界が大きな影で覆われ、キドは思わず空を見上げた。
「アルヴィー! これが本当の姿か! すげぇ! これならオレたち無敵だな!」
ソウはうれしそうに飛び上がった。
「おい、な、なんだこいつは……」
キドは、3メートルほどありそうな目の前の魔物を見上げ、驚いたように言った。
「エキストミガロスっていう魔物だ。レイの魔物に勝つために、この子に召喚してもらって、トトくんに術を教えてもらったんだ」
チャドがチタとトトに目をやりながら、早口で説明した。
いかつい手足に、鋭い牙の生えた大きな口、狼のような顔をした魔物は、真っ赤な目でアジトをまっすぐ見ている。
「じゃあやりましょ。早くしないと、すぐに見つかっちゃうわ」
チタが焦ったように言った。
トトは決意の固まった目をして、アルヴィーの背中に向かい、落ち着いた声で呪文を唱え始めた。
呪文を聞きながら、アルヴィーはゆっくりとアジトに向かって真正面に歩き出す。
チャド、ソウ、トト、チタ、そしてキドは、アルヴィーの後について歩いた。
「シーナとヘイザさんのオーラを確認してから、やってくれ。ふたりが怪我しないように——ふたりは、無事だろう?」
チャドはアルヴィーを見上げながら、確かめるようにたずねた。
「——無事だ。だが、あの紫のオーラの魔術師も同じ場所にいる。ちょうどここをまっすぐ突き破れば、そいつに当たるかもしれない」
アルヴィーは、もう数十歩で壁に触れる距離に立って、そう言った。
「シーナさんとヘイザさんには当たらずに、突き破れますか?」
すぐにトトがたずねた。
「あぁ、できるだろう。魔術師の方がここから近い場所にいるからな——」
トトの呪文によって、魔法の力を得たアルヴィーは、いかつい大きな手のひらに青い光をたたえながら言った。
「よし……じゃあ、やろう。レイを見つけたら、すぐに全壊の魔法を放つ——チタとトトくんは、魔法を放つ瞬間に、左右に避ける。——わかってるね?」
チャドが真剣な顔で、最後の確認をした。
トトはどこかあいまいな表情でうなずき、チタは強い目でチャドを見つめ、
「チャドこそ、ちゃんと逃げてね? 約束よ?」
と言った。
「うん、わかってるよ」
チャドはチタにやさしく微笑み、今度はキドとソウを見て言った。
「キド、強行突破したら、レイを倒す魔法を使うから、すぐに離れてくれ。ソウくん、大丈夫だね?」
キドはよくわからないという表情でチャドを見つめていたが、ソウは自信に満ちた笑顔を見せた。
「あぁ、心配すんな! すぐに離れて、トトとチタが魔法でレイをやっつけたら、またすぐ戻る。トトとチタが怪我したら、すぐ回復してやらないといけないからな!」
チャドはソウの笑顔にやさしくうなずき、
「じゃあ、アルヴィー、頼む」
と言って真顔になった。
アルヴィーはゆっくりと前に進み、青い光をたたえた手を、大きく振り上げた。
青い光は魔法のシールドに反応するように、バチバチと音を立て始めた。
そして、アルヴィーが殴りつけるように壁にこぶしを振り下ろすと——バチン!! 魔法のシールドが壊れる大きな音と共に、目の前の壁がガラガラと崩れ始めた。

***

突然の轟音に、シーナは声さえ出すことができずにいた。
轟音と共に、黒い魔物——ルーベがレイの背後に現れ、すぐにレイを包むようにして目の前からすっと消えてしまった。
レイがルーベと共に消え去り、ゲドゥとパティは戸惑ったように顔を見合わせている。
「ねぇ……何なのよ、今の音……」
パティは不安そうに言いながら、瞬時にトカゲのような魔物の姿に戻った。
「お、おい……ゲドゥ、見て来てくれよ」
部屋の後ろから、ふくらはぎを押さえ、座り込んだままのヒュートが上ずった声で言った。
「——言われなくたって、見て来ますよ」
ゲドゥはヘイザをパティに引き渡そうとした。
するとヘイザは、ゲドゥが手を放した瞬間、パティに腕をつかまれる直前にするりと身をかわした。
しかし、ゲドゥもパティも、今はヘイザのことを気にする様子は無いようだった。
自由になって壁際に移動するヘイザを横目に、ゲドゥはそのまま背を向けて、部屋を出て行く。
パティは不安げな様子で、長い舌を出したり、引っ込めたりしていた。
ヘイザはパティの目に止まらないようゆっくりと近付きながら、パティに腕をつかまれているシーナに、そっと合図を送った。
シーナはヘイザと目が合うと、そっとパティの顔を見上げた。
パティは心ここにあらずと言った様子で、じっとドアを見つめている。
シーナは思いきって、身をよじった。
すると、簡単にパティの腕を抜け出すことができた。
パティは、ヘイザに走り寄るシーナをちらりと見たが、それどころではないという顔で、すぐにゲドゥが出て行ったドアへと目を戻した。
シーナはまっすぐにヘイザの腕に飛び込んだ。
ヘイザはしっかりとシーナを抱きしめ、
「——もう絶対に離さないわ。この先、何があっても」
と、強さを帯びた口調で言った。
シーナは返事をする代わりに、両手をヘイザの背中に回し、自分の体をぎゅっと押し付けている。
ヘイザは安堵したように、シーナの髪をなでた。
「おい、パティ! ふたりを押さえておいてくれよ! こいつらを自由にしたら、何をしでかすかわかんないぞ!」
ヒュートが自由になったヘイザとシーナを見ながら、あわてたように声を投げたが、パティは返事さえしない。
ヘイザがにらむようにヒュートに目をやると、ヒュートは怯えたように口をつぐんだ。
ヘイザはゆっくりと部屋を見回し、そっと移動すると、落ちていた自分のナイフを取り上げた。
座り込んだまま見つめているヒュートを横目に、ヘイザはナイフを自分の腰に戻すと、再びシーナを腕に抱いた。
その時、ドアの外から、
「グアァァァ…………」
と、ゲドゥの叫び声が聞こえて来た。
ラジカセのボリュームが一気に絞られたように、声はすっと小さくなって消えた。
パティはあわてたようにドアに向かう。
シーナは身をかたくして、ヘイザの腕にしがみついた。
しかし、ヘイザは落ち着いた様子で、シーナの手を取り、パティの後に続いてドアへ向かおうとする。
「……ヘイザ?」
シーナは引き止めるように腕をつかみながら、困惑した目でヘイザを見つめた。
「怖がらなくて大丈夫よ、シーナ。わけは後で説明するわ」
ヘイザはそう言って、やさしく微笑んだ。
シーナはわけがわからなかったが、落ち着いたヘイザの態度に小さな希望を感じながら、手を引かれてドアを出た。
廊下に出たシーナは——
はっと息をのんだ。
先ほどまで広く立派な居間があった場所に、何やら茶色っぽい大きな存在がある。
壁が崩壊し、外の森が丸見えになった別世界のような居間。
そこに、天井をも突き破った格好で、その魔物は立っていた。
レイの魔物——ルーベほどの大きさがありそうだが、ルーベではない。
大柄な熊のような体形、そして赤く光っている目を見ると、シーナは身をこわばらせた。
その時、姿は見えないが、パティの声が聞こえた。
「あなたに何の権限があるの!? 帰るなんて、いや! 強制退去させられるなんて、絶対にいやっ!」
シーナは驚いたように、きょろきょろとパティの姿を探した。
すると、今度は地響きのような低い声がどこからともなく響き渡った。
「——隠れても無駄だ」
すると、先ほどまで何も見えなかったというのに、大きな魔物の前に、トカゲのようなパティの姿が現れた。
「わたしは人間界で成功するんだから! 選ばれたレディなのよ!」
「俺たちの仲間を切り刻んで防御膜にするような男に、選ばれてうれしいと言うのか? 帰って、頭を冷やしてよく考えろ」
「いや! こんなところで帰りたくない! みんなにバカにされるもの! わたしを帰したりしたら——あなたも、あなたに強制退去の術を教えた人間も、みんな恨んでやるから!」
パティは取り乱したように舌を出し、つばを撒き散らしながら、大声でわめき立てた。
しかし、壁の向こうの大きな魔物は、パティが騒いでいる間に、何やら呪文を唱え終え、パティの姿は煙に包まれ始めた。
「いやっ! いやぁぁぁ……」
パティの姿は煙に吸い込まれるように見えなくなり、その瞬間、煙と共にあっけなく消えてしまった。
しんとした空気の中——
魔物が真っ赤な目を動かして、こちらを向いた。
シーナは思わず後ずさりかけた。
しかし、ヘイザはシーナを止めるように抱きしめながら、魔物に向かって声をかけた。
「アルヴィー!」
シーナは混乱した様子で、魔物とヘイザを交互に見た。
アルヴィーと呼ばれた魔物はこちらを向いて、シーナとヘイザを待っているようにも見える。
ヘイザは立ちすくんでいるシーナの手を取り、魔物の方へと足を向けた。
「シーナ、怖がらなくていいのよ。アルヴィーはわたしたちの味方だから……」
その時——
「おーい、シーナ! ヘイザ!」
聞きなれた声と共に、魔物の後ろから、見慣れた褐色の坊主頭がぴょんと顔を出した。
「えっ……ソウくん!?」
シーナは驚いて、目を見開いた。
ソウはシーナと目が合うと、うれしそうににっこり笑い、駆け出す格好になった。
すると、ソウの後ろから、おさげ髪に黒縁の眼鏡をかけた女性が顔を出し、
「ソウくん、危ないってば!」
と、駆け出そうとするソウの腕をつかんで止めながら、こちらに向かって、
「ヘイザさん! 早く早く!」
と手招きをしている。
「あの子はチタちゃん。向こうにみんないるわ」
ヘイザはシーナの手を引いて、早足でアルヴィーのもとへと駆け寄った。
ふたりがアルヴィーのそばへ行くと、ソウが無邪気な笑顔で、真っ先に飛び出して来た。
「シーナ!」
「ソウくん……!」
シーナが身をかがめて腕を伸ばすと、ソウは迷わずシーナの腕に飛び込んだ。
ソウは腕を回してシーナに抱きついた後、すぐに体を離し、
「シーナ、怪我してないか? オレが治してやるよ!」
と元気よく言った。
「ありがとう、ソウくん。でも大丈夫よ」
シーナは、変わらぬ元気なソウの笑顔に、ほっとした表情で言った。
「そっか、よかった!」
ソウは安心したようににこっと笑うと、今度は打って変わって、ヘイザを見上げて口を尖らせた。
「おい、ヘイザ! オレだってシーナを真っ先に助けに行きたかったのに、ひとりだけで行くなんてずるいぞ!」
「——そうね、悪かったわ」
食ってかかったソウに、ヘイザは素直に言った。
「ふたりとも無事でよかったぜ」
聞きなれた声が背後で聞こえた。
「キドさん……——!!」
振り返って笑顔でキドを見たシーナは、チャックの開いたジャンパーから見える白いシャツが、赤く染まっているのを見て、はっと息をのんだ。
「キド、あんたのシャツ……血が付いてるじゃない——何があったの?」
ヘイザが深刻な顔になって、たずねた。
「——吹っ飛ばされて、木の枝が刺さっただけだ。この坊主に治療してもらって、傷はもうなんともない」
キドはソウをあごでさして、さりげなくジャンパーのチャックを閉めた。
ヘイザはほっとしたようにうなずきながら、まだ心配そうにキドを見つめているシーナの肩を抱き寄せた。
そこへ、チャドとチタがやって来た。
「ヘイザさん、シーナ」
チャドがふたりに声をかけると、振り返ったシーナは、最初にチャドを見てひどく驚いた顔をした。
「えっ——、チャドさん!?」
「シーナ、久しぶりだね。僕がここにいる理由は、後でヘイザさんから聞いてほしい」
チャドの口調は穏やかだが、何かを急いでいるように早口だった。シーナは聞きたいことを封じ込め、素直にこくりとうなずいた。
「悪かったわ。嘘ついて」
ヘイザが決まり悪そうに言うと、
「本当に無茶をするんですから……心配しましたよ」
チャドはそう言ってにっこりと笑い、アルヴィーの様子を気にするように振り返り、再びヘイザとシーナに向き直った。
「でも、さすがヘイザさんです。ちゃんとシーナを助け出してくれました」
チャドはそう言った後、すっと真顔に戻って声をひそめ、
「後は、僕らにまかせてください。レイはオーラを消して隠れていますが、この近くにいるらしい——隙を見て、僕らを倒そうとしているようです」
と言って、またアルヴィーを振り返った。
アルヴィーはじっと立って、気配を探っているようだ。
シーナはレイが近くにいると聞き、不安そうに辺りを見回した。
「大丈夫だよ、シーナ。レイを倒す準備はできているし、作戦がある。シーナは、アルヴィーがレイの居場所を突き止めたら、ヘイザさんと一緒にすぐに離れるんだ。——ヘイザさん、いいですね?」
ヘイザは黙ってうなずいた。
「よかったわね、ヘイザさん。やっとシーナさんと会えて」
チタはそう言って、はにかんだように首をかしげながら、シーナを見ると微笑んだ。
シーナはチタに微笑み返したが、どこか暗い表情で仕方なく微笑んでいるようなヘイザの横顔に気がつくと、瞳に戸惑いの色を浮かべた。——とその時、チタの後ろに見慣れたモヒカン頭を見つけ、シーナは思わず前に進み出た。
「トトくん」
その声に、見慣れた知的な丸い瞳が、親しげにシーナを見上げた。
シーナはにっこり笑って、腰をかがめた。
トトはまぶしそうにシーナを見つめながら、
「ご無事でよかったです。後は、ぼくらにおまかせください」
と言って大人びた笑みを浮かべた。
シーナはその笑みに、何かいつもと違う空気を感じながらも、うれしそうに微笑んだ。
その時——
アルヴィーの声が響いた。
「こっちだ」
アルヴィーが森の方へ体の向きを変えた。
チタが目つきを変え、杖を構えるようにして、アルヴィーに駆け寄って行く。そしてトトが来るのを待つように、振り返ってこちらを見た。
「さぁ、向こうに離れて。僕も——すぐ行くから」
チャドがきびきびとした態度で、追いやるようにソウとキドの背中を押している。
トトは先ほどとは違う強い目つきで、シーナとヘイザを見上げた。
「シーナさん、ヘイザさん。ぼくは——」
トトはふたりをまっすぐに見つめながら、
「月並みですが、おふたりに出会えてよかったです。グレイトルの任務におふたりが同行してくださったこと、出会ったばかりのぼくのことを本気で心配してくださったこと……決して忘れません」
と言って、穏やかに微笑んだ。
シーナは戸惑ったようにトトを見つめ、
「そんな……どうして、今さらそんなこと? わたしたちだって、トトくんとソウくんに助けてもらったんだし……」
と言って、隣のヘイザを見た。
ヘイザは暗い顔をして黙っている。
その時、チャドが割って入って来た。
「トトくん、頼む。もう行かないと……」
「はい。おまかせください」
トトは落ち着いた様子で答え、シーナとヘイザをもう一度見ると、くるりと背を向けて、アルヴィーとチタがいる方へと駆けて行く。
「これからレイを倒すから——、ヘイザさん、シーナを連れて、できるだけ遠くへ」
チャドは、シーナとヘイザの背中を押した。
ヘイザはシーナの手を引いて、アルヴィーたちに背を向けて、無言で早歩きを始めた。
シーナは不安そうに、アルヴィーの背中に張り付くようにして杖を構えているトトとチタ、そしてその後ろからゆっくりと歩いて行くチャドを、何度も振り返りながら、ヘイザにたずねた。
「ねぇ、レイさんを倒す作戦って、本当に大丈夫なの? ……さっきのトトくん、何か変じゃなかった? せっかくまた会えたのに……なんだかもうお別れみたいな言い方して……」
シーナはヘイザの横顔を見つめた。
ヘイザは唇をかたく結び、シーナの手をぎゅっと握ったまま、無言で足を早める。
「ねぇ、ヘイザ……?」
返事をしないヘイザを、シーナは不安そうに見つめた。
その時——
「見つけたぞ!」
背後でアルヴィーの低い声が大きく響き、シーナとヘイザは思わず振り返った。
アルヴィーの大きな背中にくっついているチタが何やら指示を出し、アルヴィーはいかつい腕を突き出した。
森の方角に閃光が走る。
シーナは閃光のまぶしさに目をつむった。
そして再び目を開けると——
森の向こうに、真っ黒い影が現れたのがわかった。
真っ黒いルーベの腕に包まれたレイの姿がそこにあった。

- -

第22章

決戦

レイが現れたその瞬間——
トトとチタは、早口かつ見事に正確に、全壊の魔法の呪文を唱え始めた。
全壊の魔法は、すぐにレイに向かって放たれるはずだった。
しかし……
「——トトくん!」
チタはすぐに呪文を唱えるのをやめて、トトの腕をつかんだ。
トトが驚いて目を開けると——
レイが狙いを定めるようにトトをにらみながら、杖を構えていた。
そして、その魔法の杖から、すごい速さで光が飛び出して来た。
「危ない!」
チタが叫び、トトをかばうように前に出た。
チャドもふたりに向かって駆け出し、アルヴィーは光を食い止めようと腕を伸ばしている。
しかし、レイが放った光の速さに、追いつくことはできなかった——
光はチタの顔に直撃し、弾けるように消えた。
「チタ!!」
大声で叫んだチャドの声もむなしく——
チタはひざを折るように崩れ、声を上げることもなく、そのままばたっと地面に倒れた。パリッと眼鏡のレンズが割れる音がした。
レイはほっとしたように、ひたいの汗をぬぐっている。
「——危ないところだった。まさか、ふたりがかりで全壊の魔法を使って来るとは……とりあえず通常攻撃で止めさせたが、早く息の根を止めてしまわねば」
レイはルーベに向かってしゃべっているが、真っ黒なルーベは口を動かしている様子はなく、声も聞こえない。しかし、レイには言葉が聞こえているようだった。
「もちろん、わかっている。あんな子供などすぐに殺せる。だが、少し待て。連続で魔法を使うと、威力が落ちる……それに、少し疲れた。今は休んでもよかろう——」
レイはそう言って、落ち着きを取り戻そうとするかのように、深く息をついた。
——レイから少し離れた正面では、トトがチタの名を呼び続けていた。
「チタさん! チタさん!」
トトが耳のそばで呼び続けても、チタはまったく反応を示さない。
間もなくトトの後ろからチャドが滑り込み、チタを抱き起こした。そして不安げにチタの口元に耳を寄せると……
ほっとしたように息をついた。
「——呼吸はしっかりしている。気を失っているだけのようだ」
トトはその言葉に、安堵の胸をなで下ろした。
一方——
背を向けて遠ざかろうとしていたシーナとヘイザ、そしてソウとキドは、背後の叫び声を聞いて、一斉に振り返った。
4人の目に、ぐったりとしたチタが、チャドに抱き起こされている姿が映った。
「——チタ!」
ソウはすぐに体の向きを変え、全力で来た道を戻って行く。
キドは戸惑いを見せながらも、ソウの後を追うように走り始めた。
「チタちゃん……」
ヘイザは、そうつぶやいて足を止めた。
レイを倒す方法が無くなってしまった——ヘイザの心に、そんな言葉が浮かんだ。
「大変だわ! あのチタさんって人が……——ヘイザ?」
全壊の魔法の作戦の詳細を知らないシーナは、ヘイザがためらっている様子に、戸惑いの表情を見せた。
「ねぇ、わたしたちも行かなくちゃ……そうでしょう?」
シーナは、ソウとキドが戻って行く後姿を見ながら、焦ったようにヘイザの手を引いた。
ヘイザは遠くに見えるぐったりとしたチタの姿を再び見た。そして……
唇をきっと結ぶと、思い直したようにうなずき、シーナと一緒に来た道を走り出した。
休んでいたレイは、一斉に走って来る4人を見ると、不快そうに顔をしかめた。
「まったく、面倒なやつらめ!」
レイはすばやく杖を振り、ソウたちがそばに来れないよう見えない壁を作った。
全力で走っていたソウは、見えない壁に弾かれ、勢いよく後ろに吹っ飛ばされた。
「くっそー! レイ! ここを通せ!」
ソウはすぐに起き上がり、見えない壁をこぶしで叩きながら、大声をあげている。
シーナとヘイザ、そしてキドもすぐにソウに追いついたものの、見えない壁の前で、途方に暮れたように立ち止まるよりほかになかった——。
ようやく、わずかに落ち着きを取り戻したトトは、チタから視線を移し、闘いを挑むような目つきをしてレイを見上げていた。
レイはギロリとトトを見返し、
「わしに全壊の魔法など、おまえには100年——いや、1000年早いのがわかったかね?」
と余裕のある表情を見せながら、
「それにしても、エキストミガロスを召喚しているとはな——その知恵と度胸だけは認めてやろう」
と言うと、言葉とはうらはらに、見下すような目つきをした。
トトは目の前のレイを見つめながら、覚悟を決めた表情で、地面に落ちていた自分の杖を取り上げた。
「ほう、今度は何をする気だ?」
レイはトトの動きに合わせるように、自分も杖を構えながら、薄笑いを浮かべて言った。
トトは強い視線でレイを見上げながら、再び全壊の魔法の呪文を唱え始めた。
すると、レイはあざけるような顔になり、トトの呪文をかき消すほどの大声を出した。
「トト・エウルよ! どこまで愚かなんだ! おまえがたどたどしく呪文を終える前に、わしの方が、どんな呪文も早く終えられることをまだわからんのか! おまえがどんなに懸命に呪文を唱えようと、昨日今日覚えた呪文で、このわしを倒せるなどと思うな! それ以上呪文を唱えれば、おまえをその女と同じ目に合わせるだけだ!」
その言葉に、トトは青ざめた顔で、思わず口をつぐんだ。
レイは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、
「ひよっこ魔術師め。言っておくが、わしがおまえくらいの年の頃には、おまえよりもずっと優秀だったぞ? その上、わしは今日まで努力をし続けて来た。ほんの10やそこらのおまえがわしに勝てるはずがない。おまえがわしの計画を邪魔しようなど、小生意気にもほどがある!」
と言って、今度はトトをにらみつけた。
トトはすがるような目になり、隣に立っているアルヴィーを見上げた。
「アルヴィーさん! 何か……何か方法はありませんか? ぼくとアルヴィーさんで、力を合わせてレイを倒す方法は何かありませんか? このままでは……ぼくたちも、この国ももう……」
アルヴィーは何も答えず、赤い瞳をただ小さく動かしている。
レイは、それを見るとにやりと笑った。
「さすがはエキストミガロス。おまえはわかっているようだな。そうだ——わしに手を出せば、防御膜の中の、狂った魔物の怨念でおまえが死ぬだけだ」
悔しそうにレイを見つめるアルヴィーを見て、トトは唇を噛んだ。
レイは余裕のある動きで杖を取り上げ、その先をまっすぐトトに向けた。
「——わしの計画は誰にも邪魔させん! トト・エウル、おまえの短い人生もここまでだ!」
レイはそう言うと、すぐに呪文を唱え始めた。
トトはどうしたらいいかわからない様子で、逃げることもできず、レイを見つめたまま、その場に立ちすくんでいる。
その時だった——
「レイ!! いい加減にしろ!」
チャドがひどく取り乱した様子で、大きくムチを振り上げながら、レイに走り寄った。
レイは驚いて呪文を止めた。——と同時に、ルーベの黒く長い手がにょきっと伸び、チャドを後ろに跳ね飛ばした。
チャドはムチを持ったまま、勢いよく地面に投げ出された。
レイはあきれたようにチャドに目をやった。
「おまえは何だ? わしを攻撃すれば、防御膜から狂った魔物が出て来ると言ったろう? 相当に頭が悪いか、自殺願望でもあるのかね? ——見たところ、ただのムチ使いか。その薄汚れたムチを振り回す前に、もう少し頭を使ったらどうだ?」
レイは見下すように小さく笑い、ルーベに命令した。
「ルーベ、この男を殺せ。わしはトト・エウルを殺して、エキストミガロスを強制退去させる。時間が無いから手分けして——」
「殺せ殺せって……」
地面に投げ出された格好のチャドは、こぶしを震わせて小さくつぶやいた後、怒りの形相で顔を上げた。
「おまえは一体、何人殺せば気が済むんだ!? フォーラン王国を滅ぼし、この国を滅ぼし、世界中の人を皆殺しにすれば気が済むのか!?」
レイは、チャドの言葉にぴくりと眉を動かした。
そして片手を上げ、ルーベに待つよう指示をすると、チャドの顔をまじまじと見た。
「——おまえは、誰だ? ……フォーラン王国のことを、なぜ知っている?」
レイは低い声でたずねながら、目を細めるようにしてチャドを見つめた。
チャドはうるんだような目で、まっすぐにレイを見た。
「——僕がわかりませんか? あなたは忘れたかもしれないけど……僕はあなたを忘れたことはない。そこに倒れているチタも同じだ……」
レイははっとしたように倒れているチタを見た。
「チタだと? 何と……! この女は、チタ・アルベルだというのか!?」
「そうです、おじさん」
チャドはそう言って、唇をかたく結んだ。
レイは再びはっとして、大きく目を見開いた。
「おまえ……まさか——チャドか?」
「はい」
レイは信じられないという顔でチャドを見つめた。
「おまえが生きていたとは……ロイドと一緒に死んだものとばかり——」
「あなたにあやつられた父の手で、僕は運よく川に投げ出され、この国にたどり着いたんです。僕はこの国で、フォーラン王国の仇を討とうと、ずっとあなたの動向を追って来ました」
レイは昔を思い出すように落ち窪んだ目を動かしていたが、突然、不快そうに顔をゆがめ、吐き出すように言った。
「フォーランのことなど、思い出したくもない! 優秀な魔術師だったわしにみじめな人生を与え、中途半端なロイドに王の座を与えた不公平な国だ! わしはロイドなんかより、ずっと努力して来たというのに……」
チャドは黙って、レイを見つめている。
レイはひとり感情的になって、続けた。
「努力は報われねばならんのだ! そして今、わしの努力がやっと報われる時が来ている! 不必要な人間を排除し、賢い魔物を従え、わしの国を作るんだ。ついに、わしが王になる!」
チャドはどこか哀れむような目をして、レイを見つめていた。
レイはそんなチャドの目の色に気付くと、怒ったように声を荒らげた。
「わしをバカにするな! いまいましいロイドの息子め! おまえから先に葬ってやる!」
レイは血走ったような目をしてチャドをにらみながら、怒りに唇を震わせて、魔法の杖に短い呪文を唱えた。
すぐに強力な光が放たれた。
あまりの早さに、チャドは逃げ出すこともできない。
しかし、光がチャドに届く寸前——
アルヴィーの大きな手が伸び、チャドを払いのけた。
チャドは横に払い飛ばされ、光はアルヴィーの手をかすめた。
そして光はそのまま後方へ飛び、ソウたちを足止めしている見えない壁に勢いよく当たった。
バチッ!!
大きな音が響き、見えない壁に大きな穴が開く。
レイはそれを見ると、いら立った様子で舌打ちをした。
「穴が開いたぞ! 今だ!」
ソウはすぐにその穴をまたごうとしている。
「だめだ、ソウくん! 来ちゃダメだ!」
チャドが叫んでいる。
しかし、ソウは動きを止める様子は無い。
チャドは、ソウを止めてくれと頼むように、キドに向かって手を上げた。
「おい、坊主! ちょっと待て——」
キドはソウを止めようと腕を伸ばしたが、ソウはすばしこい動きでキドの手を払いのけ、ぴょんと穴に飛び込むと、レイに向かって走って行く。
「ソウくん!」
「ソウ!」
ソウを呼ぶシーナとヘイザの声にも、ソウは振り返ることなく、ぐんぐん前に進んで行く。
「兄さん、何をするんです!?」
トトが制止しようとしたが、ソウはそれも軽々と振り切った。
しかし、レイまであと少しというところで、後ろからチャドに腕をつかまれた。
「ダメだ! ソウくん、頼むから戻ってくれ!」
「いやだ!! 離せ!! オレはレイと話がしたいんだ!」
ソウはわめきながら、チャドから腕を離そうと、じたばたと手足を動かして暴れている。
チャドは必死にソウが前に出ないよう押さえていた。しかし、その努力もむなしく、レイが自ら杖を構えてゆっくりと目の前に近付いて来た。
「——また頭が悪いのが来たようだな。トト・エウルの片割れか。おまえも殺されたいのかね?」
レイは余裕で薄ら笑いを浮かべていた。——しかし、続けざまに魔法を使ったせいなのか、年寄りのレイの顔にははっきりと疲れが見て取れた。
ソウはレイを目の前にすると、丸い目をまっすぐに向けた。
「レイ! おまえは何もわかってないんだ! オレがおまえに教えてやる!」
「ほう、何を教えてくれるんだ?」
レイは、ソウを攻撃する準備をするように杖を持ちながら、たずねた。
チャドはソウを少しでもレイから遠ざけようと、必死でソウの腕を引っ張っている。
ソウはチャドの力で、ずるずると少しずつ後ろに後退させられながらも、必死に足を踏んばって、レイに向かって口を開いた。
「おまえは王になりたいって言った。それなら、人殺しなんかやめるんだ! 正しい行いをして、王になれ!」
「わしに説教をするつもりか?」
レイはあきれたように笑いながら、たずねた。
「よく聞け! 人殺しをして王になったって、おまえの試練が増えるだけなんだ! 〝罪を犯せば犯すほど、人生は試練になる〟っていう言葉を教えてやる! おまえが悪さをするほど、おまえの人生は試練になるんだ! 悪さをしても、おまえの願いは叶わない! 正しい心を持たない限り、おまえの人生は変わらない!」
ソウの真剣な言葉に、レイの顔が少しずついら立ちを見せ始めた。
ソウは一生懸命な様子で、さらに言葉を重ねる。
「試練の人生から逃れて、本当に願いを叶えたいんなら、心を入れ替えろ! 心から反省して償うんだ! シーナを誘拐したことや——」
「——もういい! 小ざかしい小僧め! 息の根を止めてやる!」
レイは堪忍袋の緒が切れたように、大声で怒鳴りつけた。
ソウのまっすぐな目が、ショックを受けたように揺れた。
レイは憎らしげにソウをにらみながら、杖の先をソウに向け、何やら呪文を唱えようとしている。
「——兄さん!」
トトはあわてた様子で、ソウに駆け寄った。
チャドとトトに腕を引かれ、ソウは追い立てられるように、レイから離れようと走り出した。
レイは、ソウを攻撃しようと呪文を唱えかけていた——が、急に疲れたように肩を下げ、後ろを振り返ると、いらついた様子でルーベに指示を出した。
「ルーベ! もう遠慮はいらん! あの3人をまとめて殺してしまえ!」
「ソウくん、トトくん! あの穴の向こうに行くんだ!」
チャドが、途中で意識の無いチタをかばうように抱き上げながら、見えない壁へソウとトトの背中を押しやった。
レイの後ろから、ルーベがこちらに向かって来る。
「ソウくん! トトくん!」
「早く!」
穴の向こうからシーナとヘイザが腕を伸ばし、ソウとトトを穴の中へ引き入れた。
すぐ後ろから、ぐったりとしたチタを抱いたチャドが走って来る。
もうルーベの手がすぐ後ろに迫っていた。
「急げ、チャド!!」
キドが大声を出した。
チャドは歯を食いしばって、全力で走って来る。
キドは穴から半分体を出して腕を伸ばし、チャドからぐったりとしたチタの体を受け止めた。
続いてチャドが穴に足をかけようとした時——
追いかけて来たルーベの黒い手が、チャドの首をつかんだ。
「うっ!」
チャドが声を上げた。
ルーベは不気味に指を伸ばし、するするとチャドの首に絡みついた。
チャドは首を絞められ、苦しげな表情で手足をばたつかせながら、軽々と後ろに引きずられて行く。
「チャド!」
キドが青ざめた表情で、穴から出ようと足をかけた。
すると、横からソウが飛び出して来て、
「オレがやっつけてやる!」
と言って、キドを押しのけて穴を出ようとした。
その時——
チャドの首を絞めていた黒い手が、突然すっと消えた。
チャドはあわてて逃げるように壁の穴へと向かいながら、後ろを振り返った。
ルーベの細く黒い腕は、何かにがっちりとつかまれていた。
アルヴィーだった。
「アルヴィー!」
ソウがうれしそうに声を上げた。
「ルーベ! 壁の穴に向かって攻撃しろ!」
アルヴィーにつかまれたルーベに向かって、レイが指示を出している。
レイに言われるまま、ルーベは穴に向かって狙いを定めようとした——
しかし、アルヴィーががっちりとルーベの体をつかみ、動きを制御している。
ルーベの黒い体は細くなったり太くなったりして、アルヴィーの手を逃れようとしているようだったが、アルヴィーは手を放さない。
「助かったな。けど……大丈夫なのか?」
穴から体を出して見ていたキドが、戸惑った様子で振り返った。
「アルヴィーさんとあの魔物なら、アルヴィーさんの方が力があります。1対1なら、おそらく大丈夫でしょう」
トトが即座に答えた。
アルヴィーは、暴れるルーベをつかんだまま徐々に体勢を変え、ようやく真っ黒い竜のような顔を真正面から見た。そしてその瞬間、驚いたように声をあげた。
「おい……! おまえは……——確か、数年前に人間界を研究して有名になったやつじゃなかったか!?」
ルーベは何も答えることはせず、アルヴィーに手をつかまれたまま、相変わらずもがくように暴れている。
「おまえみたいな頭のいいやつが、なんであんな非道な人間の命令を聞いている? パワーブレス以上の物を約束されてるのか? おい! 答えろ!」
ルーベはやはり何も答えない。
レイは舌打ちをして、疲れた様子で肩を下げたまま、ルーベの背中に短い呪文を唱えた。
すると、ルーベは力を得たように、むくっと一瞬大きく膨らみ、黒い手から、氷のつららのようなものを出した。そして、それをアルヴィーの腕にずぶりと突き刺した。
「ウッ!」
アルヴィーは思わずうめいた。
「アルヴィー!」
ソウが穴から顔を出して叫んだ。
その時、トトのローブのポケットの中からくぐもった音が聞こえて来た。
トトがあわてたようにポケットから、命令板を取り出す。
「……聞こえてるか? おい」
命令板から広がるように、地響きのような低い声が響いた。
「はい! 聞こえます、アルヴィーさん」
トトが焦ったように返事をした。
「——おまえに教わった強制退去の術で、こいつを強制退去させてやる。今、俺ができる最善の行動だ。俺も今の状況は厳しいが、こいつを退去させるまでは何とか持つだろう——ウッ!」
アルヴィーは再びつららを刺され声を上げた。
「ア、アルヴィーさん、大丈夫ですか!?」
トトは、穴の向こうでつららを刺されながらルーベをつかんでいる、アルヴィーのいかつい背中を見つめた。
「——あぁ、俺は大丈夫だ。……あの魔術師をなんとかしてやれなくて、すまないが……とりあえず、こいつは片付けてやる……」
アルヴィーは苦しそうにそう言うと、トトの返事を待たずに、ルーベに向かって強制退去の呪文を唱え始めた。
「何だと!? ルーベを退去などさせるものか! おまえを先に退去させてやる!」
レイは血走った目を見開き、あわてた様子でアルヴィーに向かい、早口で強制退去の呪文を唱え始めた。
アルヴィーも負けじと早口になる。しかし、その間もつららの攻撃を受け続け、アルヴィーの茶色い体は、青黒く変色し始めた。
レイとアルヴィーはお互いににらみ合うようにしながら、呪文を唱え続ける。
全員がかたずをのんで見守る中……
トトが急にはっとして、ソウの肩を叩いた。
「——兄さん! 今のうちにチタさんを回復してください! チタさんが回復してくだされば、ぼくとふたりでもう一度、全壊の魔法でレイを倒すチャンスが訪れます!」
「あっ、そうか!」
ソウは大きくうなずき、キドのそばに横たえられたチタのそばに駆け寄ると、すぐに回復の呪文を唱え始めた。
一方、青黒く変色したアルヴィーの体は——
とうとう煙に包まれ始めてしまっていた。
「アルヴィーが……」
ヘイザが顔をゆがませた。
「レイの呪文の速さに勝てなかったか……」
チャドがこぶしを握りしめ、悔しさに体を震わせた。
レイは呪文を終え、勝ち誇った笑みを浮かべた。
アルヴィーを包む煙が徐々に色濃くなる。
しかし。
アルヴィーは煙に包まれても、まだ呪文を止めていなかった。
煙に包まれ、声にノイズが混じるようになっても、まだ呪文を唱え続けている。
その様子に、レイの表情が変わり始めた。
アルヴィーの声はだんだん高く、細く変化して行く。
そして蚊の鳴くような声になりながら、ついに呪文を最後まで唱え切った。
と同時に、アルヴィーの姿は異世界へと消えた。
そして、その瞬間——
今度はルーベの黒い体が、うっすらと煙に包まれ始めた。
「よくやった、アルヴィー……」
チャドが目をうるませ、つぶやくようにぽつりと言った。
「アルヴィーさん……ありがとうございました……約束のパワーブレスは必ず、いつかお渡しします……」
トトは悲しげにアルヴィーが煙に包まれて消えた空間に向かって礼を言った。
同時に、トトの手の中で、アルヴィーの意思と繋がっていた命令板が、役目を終えてすっと冷たくなった。
みるみる煙に包まれて行くルーベを見ながら、シーナはほっとしたように胸に手を当てている。しかしヘイザは不安げに、まるで悪魔のような形相になりつつあるレイの顔を見つめていた。
「おい、あいつ……なんかヤバくないか?」
ヘイザと同様に、レイの表情に気付いたキドが、チャドの肩を叩いて言った。
レイは執念に取り付かれたような顔で、不気味に指を動かしている。
レイの顔色がどんどん悪くなる一方、落ち窪んだ目だけは異常に力強い光を帯び、何か邪悪な力がみなぎっているかのように見えた。
その時ついに、小さくなった煙の中のルーベも姿を消した。
と同時に、ソウの回復魔法で、ようやく意識を取り戻しかけたチタが、手足をぴくぴくと動かし始めていた。
「おまえたち——今度こそ、絶対に許さんぞ!! わしの計画を邪魔する者どもめ!!」
レイは先ほどまで疲れきっていたのが嘘のように、気味悪い光を目にたたえ、じっとこちらをにらみつけながら、低い声で呪文を唱え始めた。
シーナはその邪悪な目つきに、鳥肌が立つような感覚を覚えた。
チタはやっと意識を取り戻し、眼鏡がなくなった目をぱちぱちとしばたたかせている。
そして、チタは目を細めるようにしてレイの呪文を聞くと、一瞬で顔色を変えた。
「——大変よ! これは呪殺の魔法の呪文……あたしたち、みんな殺されるわ……」
チタはそう言って、力なくその場に座り込んだ。
「チタ! あきらめないでくれ! どうすれば逃れられる!?」
チャドがうなだれたチタの肩を揺さ振った。
しかし、チタは黙って首を横に振った。
「おい、チタ! 何だよ、それ!?」
ソウが怒ったように、声を上げた。
「チタちゃん……どういうこと?」
ヘイザが、座り込んだチタの隣にひざをついてたずねた。
「呪殺の魔法は……魔物を殺した力を溜めて使う古代の魔法で……狙いを定められたら、もう逃げられないわ……レイを攻撃して止めようにも、もう……」
トトが覚悟を決めたように、チタの言葉をさえぎった。
「チタさん! あきらめてはいけません。可能性が低くても、一緒に全壊の魔法を放てば、きっと——」
チタは泣きそうな表情になって、さらに激しく首を横に振った。
「今からじゃ間に合わないわ! だって、トトくん、聞こえるでしょ? レイの呪文は、もう終わっちゃう」
トトはうろたえた表情になった。
「そうなのですか!? ぼくは、呪殺の魔法の呪文なんて聞いた事が無いので……」
「もう……あと、ほんの5単語よ……ううん、もう4単語目……」
チタがカウントするように残りの単語数を口にすると、
「そんな……」
と、トトは泣きそうな顔になり、その場に呆然と座り込んだ。
チャドは言葉なく、唇を噛んだ。
ヘイザは黙って立ち上がり、後ずさりするようにチタから離れた。そして、悲しげな表情でふらふらと歩み寄って来たシーナを腕に抱くと、現実から目をそらすようにレイから顔をそむけ、きつくシーナを抱きしめた。
シーナはうっすらと涙を浮かべた瞳で、ヘイザの腕の中から、じっとレイを見つめた。

- -
- -

「おい! みんなあきらめるな! 正義は絶対に勝つんだ!」
あきらめの空気の中で、ひとりソウだけが力強く地団太を踏み、レイに向かって棍棒を構えようとした。
「だめだ——ソウくん、レイに攻撃をしても……防御膜の魔物にやられるだけだ」
チャドが力ない表情で、ソウの動きを止めた。
「もう……あと1単語……」
小さな声でそう言ったチタの瞳から、涙がこぼれた。
トトは絶望したように頭を垂れた。
キドも、ついにあきらめたように目つきを緩めた。
シーナはこれ以上ないほどきつくヘイザに抱きしめられ、これからレイが放つ魔法で自分たちがどうなるのか——その恐怖におののきながらも、瞳はしっかりとレイを見つめていた。最後にレイが自分たちに何をするのか、その瞬間を見届けることが、自分にできる最後の抵抗のような気がしていたのだった。
レイは勝ち誇った顔で、死を覚悟した敵の空気を感じ取り、最後の長い1単語を口の中で味わうようにゆっくりと口にしようとしていた。
その時だった。
レイの背後にちらりと人影が見えた。
シーナはその影を見ると、ヘイザの腕の中で身をよじった。
ヘイザも驚いたように顔を上げ、シーナの視線の先を追う。
全員がその人影に気がついた。
そしてレイもただならぬ気配が迫っていることに気がつくと、はっとして後ろを振り返った。
「あいつ……!?」
ソウは困惑したような表情で、その人物を見つめた。
レイの背後の人物は、レイに気付かれないよう、とても小さな声で呪文を唱えながら、森の中からじりじりとレイに近付いていたらしかった。
レイが振り向いた時、その人物はすでに呪文を唱え終えるところだった。
チタはその人物が唱えた最後の一節を耳にすると、青ざめた顔で言った。
「全壊の魔法だわ……」
「おまえ! 何を——」
レイが驚いて口を開いたとほぼ同時だった。
その人物の魔法の杖から、全壊の魔法が放たれた。
レイの体がすさまじい閃光に包まれる。
「危ない! 早く避けて!」
チタはその人物に大声で叫んだが、小太りのその男はすばやい動きができず、逃げようと体勢を変えた瞬間、反動の光に覆われた。加えて、レイの体をガードしていた防御膜が壊れ、中からすごい勢いで魔物が飛び出し、その男に襲いかかった。
「いやぁぁっ! ダロさん!」
シーナはヘイザの腕の中で、悲痛な叫び声を上げた。
ソウはダロに向かって全力で走った。
しかし、間に合わなかった。
——それは、ほんの数秒の出来事だった。
閃光の後、辺りは一瞬の静寂に包まれた。
レイは防御膜のおかげで一命は取り留めたものの、かなりのダメージを受け、もう立ち上がる気力も無い。
チャドはレイから魔法の杖を奪うと、いとも簡単に手足を縛り上げた。
レイは抵抗する素振りも見せず、疲れきった様子で目を閉じたまま、おとなしく横たわっている。その姿はもう、やせこけた小さな老人にしか見えなかった。
「——レイのことは、僕が責任を持って警察に引き渡すよ」
チャドはおとなしく横たわっているレイを横目に、静かな口調で言った。
「うん」
チタは眼鏡の無い目で、どこか気の毒そうにレイを見ていたが、そっと目をそらし、少し離れた草地に目をやった。
そこでは、シーナ、ヘイザ、トト、キドに囲まれるように、ソウが仰向けに倒れたダロの横に座っている。
ダロは口をぽかんと開けたままの表情で、微動だにしない。
ソウは座り込んだまま、一向に回復魔法を使おうとしなかった。
「——おい坊主、何してる! 早く回復してやれ!」
キドはそう言ってソウをつついた後、すぐに表情を変え、
「……まさか、もう……だめなのか?」
と、ソウの顔を覗き込んた。
シーナがすがりつくような表情で、ソウを見つめる。
ソウはがっくりと肩を落として、誰とも目を合わさずに言った。
「——もうだめだ。もう……死んでるよ」
「そんな……」
トトはショックを受けた表情で、ダロのそばに座り込んだ。
「ダロさん……」
シーナは涙を浮かべ、少しずつ冷たくなりつつある、ダロの肉厚な手のひらを握りしめた。
「なんで一体ダロが……? レイの仲間だったんじゃないの?」
ヘイザが戸惑いの表情を浮かべ、誰にともなくたずねた。
キドが沈んだ表情で答えた。
「——よくわからんが、こいつは完全な仲間じゃなかったはずだ。オレがアジトでシーナを助ける方法を探してた時……さりげなくシールドが張られてない部屋を教えてくれたやつだ。おまけにシーナを閉じ込めた部屋のカギを、オレの目の前に落として行ってな——ずいぶんマヌケな野郎だと思ったが……あれは、オレにシーナを助けろって言ってたんだな……」
シーナはダロを見つめたまま、
「ダロさんは、やさしい人だったわ……閉じ込められてた時、わたしのこと一度は助けようとしてくれたの……ダロさんはただ、亡くなったパティさんへの気持ちをレイさんに利用されて、それで仲間に……」
とまで言うと、こらえきれなくなったように顔を覆って泣き出した。
ヘイザは話が見えず、困惑した表情でダロを見ながらも、泣いているシーナの肩をさすった。
その時、草地に足を踏み入れたチャドが、シーナに続くように言葉を続けた。
「ダロさんは昔は、かなり優秀な魔術師だったらしいんだ。でも、婚約者を亡くしてから別人みたいにすっかり落ち込んでしまって——、そんな時、レイが、その婚約者そっくりに変身させた魔物をダロさんに近付けて、仲間に引き入れたって聞いてるよ」
チャドの後ろからついて来ていたチタは、悲しそうに瞳を閉じた。
ソウは涙をこらえるような表情で、胸の前で手を合わせると、ダロのために祈りをささげ始めた。
しんみりとした空気の中、ソウが祈る声とシーナがしゃくりあげる音だけが響く。
その時、ヘイザの目の端に、ガレージハウスの窓からこちらをこっそり覗く顔がちらりと見えた。
「……すっかりあいつのこと忘れてたわ」
ヘイザが小さな声でぽつりと言って、まっすぐガレージハウスに顔を向けると、その顔はひどくあわてた様子で、すぐに引っ込んだ。
「——ヒュートくんか」
ヘイザと同じくガレージハウスを見ていたチャドが、つぶやくように言った。
「あいつも縛っといた方がいいんじゃねぇのか?」
キドが顔を上げて言うと、ヘイザは鼻で小さく笑った。
「大丈夫よ、コソコソあそこに隠れてるくらいだもの。それに、今はふくらはぎを刺されてまともに歩けないから、せいぜいあの中をやっと歩き回るくらいしかできないはずよ」
「ふくらはぎを刺したのか。よくやったな」
「わたしじゃなくて、シーナがね」
「……まさか。嘘だろ!?」
キドは信じられないという顔で目を見開いた。
その時——
チャドの携帯電話が鳴り響いた。
「——もしもし」
チャドは落ち着いた声で電話を取った。
「うん……終わったよ。あぁ、レイは捕らえた——生きてるよ。うん……僕もチタもトトくんも、無事だ。危ないところだったけど……——うん、誘拐された子も無事だ」
チャドの電話の相手は、こちらの事情を知っている相手のようだった。
その時、急にキドが警戒するような目つきになった。
ヘイザも同様の目つきをして、ガレージハウスの正面玄関へ伸びる小道の先を見つめた。
「誰か来る」
キドがそう言うと、チャドはまだ電話で話を続けながら、キドの腕をつかんで、大丈夫と言うように目配せをした。
ヘイザはうながすように、まだ泣いているシーナの肩に手をかけた。
シーナはようやくダロの遺体から目を離し、涙をぬぐいながら、ヘイザの視線の先を追った。
すると、森の入り口の方から、一台の乗用車が猛スピードでこちらにやってくるのが小さく見えた。
車は猛スピードでぐんぐん近付いて来る。
ヘイザは逃げるような体勢になって、シーナの手を取った。
キドはそわそわした様子で、まだ通話中のチャドの肩を叩く。
そこでいったん、チャドは電話口から口を離し、キドに言った。
「心配いらない。僕の友人だよ」
その言葉を聞いて、キドとヘイザは緊張を緩めた。
「——犠牲者がいなかったわけじゃないよ。政府公認魔術師のダロさんが……——そうなんだ。いや、違うよ、ダロさんが自ら全壊の魔法を放ったんだ……」
チャドはまだ誰かと通話を続けている。
乗用車はみるみる近付いて来ると、勢いよく土ぼこりを立て、ガレージハウスの前に止まった。
——ガチャッ。
運転席のドアが開き、いれたてのブラックコーヒーのように濃い褐色の肌の女性が車を降りて来た。
つり上がった眉に、勝ち気そうなつり上がった目。
年齢は30代半ばくらいに見える。
細かく編んだ黒い髪を後ろに束ねていて、立ち上がると、大柄でがっちりとした体型が目立った。
「——本当に突然だったんだ。僕らが窮地に立たされた時、ダロさんが後ろからレイに全壊の魔法を放って……」
チャドは電話口でしていた話をそのままその女性に続け、電話を切った。
チャドの話をうなずいて聞きながら、女性はマイク付きのヘッドフォンを頭から外して、車に投げ入れた——ヘッドフォンの先は、携帯電話に繋げられている。どうやら、チャドの電話の相手は、この女性だったらしい。
「ダリア!」
チタが女性を見るとすぐに駆け寄った。
その女性——ダリアは厚い唇を薄くのばすようにして笑い、
「久しぶりの魔物召喚はどうだった? 眼鏡が吹っ飛んじまうほど、暴れたのかい?」
と冗談っぽい口調でたずねた。
チタはダリアの言葉に、なつっこい笑顔を浮かべた。
ダリアは太い腕でチタの肩をぽんぽんと叩き、ほぼ半倒壊状態のガレージハウスを見上げると、
「いやぁ、派手にやったねぇ」
とすがすがしい顔をして、今度はチャドに笑いかけた。
チャドはその言葉に応えるように、うなずいて見せた。
「レイも捕まえたし、誘拐された子も助け出して、大成功じゃないか。——多少の犠牲は覚悟してたけど、まさかダロとは」
ダリアは、まだソウが祈りをささげているダロの遺体をちらりと見ると、
「気の毒に」
と言って目をそらしながら、言った。
「ダロの最後の勇気を無駄にしちゃいけないね。あんたたちもダロも、この国を救った英雄だよ。これが評価されずに何になるっていうんだ? そうだろう、チタ?」
「うん。みんなが評価されて英雄になるところが見れたら、あたしはそれでいい。あたしは英雄になるなんて高望みはしてないわ。今まで通り、時々、刑務所から出してもらって、みんなに会えたらそれで十分。それより、ダリアは大丈夫なの?」
チタはそう言って、心配そうにダリアを見上げた。
ダリアはあきれたように首を横に振った。
「わたしのことなんか心配しなくていいんだよ。ある程度の覚悟はできてるさ。それよりチタ。あんたはもともと何も悪くないのに、刑務所に入れられたんだよ? 独房暮らしが長すぎて、感覚がすっかり麻痺しちまってるようだけど。わたしは何とかチタに人間らしい人生を与えてやりたいんだ」
チャドは真剣な表情でダリアとチタの会話を聞いていたが、シーナ、ヘイザ、キド、トトが不思議そうにダリアを見つめているのに気がつくと、あわてて、
「あぁ、ごめん、みんな。紹介するよ——彼女はダリア。ベテランの刑務官なんだよ。僕が刑務所につてがある理由は、ダリアが協力してくれるからなんだ」
と早口でダリアを紹介した。
ダリアはチャドに急に紹介され、改まった笑みを浮かべた。
「やぁ、わたしはダリア。あんたたち、みんな大変だったねぇ」
普段はあまり見かけることがないような大柄な女性を前に、どこか戸惑いを見せながら、それぞれが会釈を返す中、トトが真っ先に口を開いた。
「ダリアさんは、かつてのフォーラン王国と何か繋がりがあった方なんですか?」
するとダリアは興味深そうに、小さなトトをまじまじと見つめ、
「あんたがトトくんだね? さすが優秀だけあって、しゃべり方もそこらのガキンチョとは違うんだねぇ! いやぁ感心したよ」
とひとりうなずいた。しかし、すぐに困った様子のトトに気付くと、
「——あぁ、ごめん、ごめん。えぇと、質問に答えないとね」
と言って苦笑いをし、
「こんな状況で話すのもなんだけどさ」
と周囲を見回すようにした後、改まって話し始めた。
「——わたしの父ちゃんと、チャドの父さんが友達だったんだ。うちの父ちゃん、若い頃は全国大会で何度も優勝したことのある格闘家でね」
「格闘家ですか。なるほど」
トトはやけに納得したような表情で、あいづちを打った。
シーナ、ヘイザ、そしてキドも同様の反応を見せていた。
普段は目にすることがないような大柄な女性——ダリアの体格が、父親が格闘家だという言葉にしっくりと結びついたからだった。
「あぁ。当時、フォーランには格闘技の文化はまだ無かったらしいんだけど、チャドの父さんが格闘技をフォーランでも広めようと、うちの父ちゃんに連絡をくださったらしいんだ」
ダリアは機嫌のいい笑みを浮かべながら、続けた。
「うちの父ちゃんは、チャドの父さんをすごく尊敬してたんだ。チャドの父さんは、頭が良くて活発で、何事にも偏見を持たない、すばらしいお方だったそうだよ。だからうちの父ちゃんの方が10歳も年上だったっていうのに、チャドの父さんを兄さんみたいに慕っててさ。くだらない悩み事なんか相談していたらしい——息子を一流の格闘家に育てるのが夢だったのに、生まれた子供は3人とも娘だった、どうしよう、とかね」
ダリアはそこでケラケラと笑った。
「で、3人の娘の中で、唯一、父ちゃんから格闘技を教わったのが、次女のわたしってわけさ。まぁ、格闘技を職業にはしなかったけど、身に付けた技はいろいろと生かしてるかな。刑務官は強くないと、悪いやつらになめられるからね」
チタはダリアを見上げ、わかっていると言うように大きくうなずいている。
ダリアは大きな手でチタの肩を抱くようにして、さらに続けた。
「チャドの父さんが結婚して、王子——つまりチャドが生まれたって聞いた時は、父ちゃんは自分のことみたいに喜んでた。わたしはその時10歳くらいだったけど、自分の弟が生まれたようなそんな気分だったのさ。——あの事件でフォーランが滅んだ後、この国で王子のチャドが生きてるって知った時は、驚きと同時に、そりゃあうれしかった。だから、チャドからレイやチタの話を聞いたら……協力しないわけがないだろう?」
トトは先ほどよりさらに納得したように、うなずいた。
「そのようなわけがおありだったんですね」
「あぁ、そうだよ」
ダリアは、トトの言葉に応えるように笑みを浮かべた。そして、そのままゆっくりとキドとヘイザの顔を見て、それからシーナの顔を見ると、急に眉を下げ、泣き笑いのような顔になった。
「おやおや、まぁ……あんたが誘拐されたって子なのかい?」
シーナは、ダリアの反応に戸惑った表情をして、小さくうなずいた。
「いやぁ、驚いたよ! スリと付き合うくらいだから、普通の子って言っても、もう少しこう蓮っ葉な感じかと思ってたのに——、刑務所勤務のわたしはめったに出会えないタイプの子じゃないか。スリと付き合うってよりは、スリを改心でもさせちまいそうな顔してるよ!」
ダリアはそう言うと、大声で笑い出した。
シーナは返答に困っている。
すると、ダロに祈りをささげ続けていたソウが、けげんそうに顔を上げた。
「スリって一体……何の話だ? シーナがスリと付き合ってるって……?」
ソウはそうたずねて、不安そうな顔でシーナとヘイザを交互に見た。
トトも驚きと戸惑いが混じった目つきで、ふたりを見ている。
シーナは思わず視線を泳がせ、ヘイザは無表情のまま、何かを考えるように小さく目線を上に向けた。
そんな気まずい空気の中——
チャドの笑い声が、不自然なほど穏やかに響き渡った。
「おいおい、ダリア、一体どうしたんだ? 刑務所の人の話とごっちゃにしちゃ困るよ。そんなこと言ったら、ヘイザさんがスリなんじゃないかって誤解されるだろう?」
ダリアはチャドに背中をつつかれ、状況を理解したように、あわてて作り笑いを受かべた。
「あっ、あぁ、そうか。——いやぁ、毎日忙しくて、たまに刑務所のやつらの話が、頭でこんがらかっちまうのさ。ただこの子があんまり純粋な顔してたから、刑務所に来たら、スリで捕まってる連中が改心でもするんじゃないかと思ってね……」
「なーんだ! あー、びっくりした!」
ソウはほっとした表情になって、
「紛らわしいこと言わないでくれよな! ヘイザがスリなんかやるわけないんだ! オレの友達なんだぞ!」
と食ってかかるようにダリアに言った。
ほっとした表情のシーナの隣で、ヘイザはさりげなくチャドと目を合わせている。
「あぁ、そうだね、すまない。わたしが悪かったよ」
ダリアは大きな手で、ソウの肩をぽんぽんと叩いて言った。
しかし、トトはまだ不安そうな表情で、ダリアとシーナ、そしてヘイザの顔をちらちらと見ている。
その時——
車の中から、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
「はいはい、電話だ」
ダリアがあわてて車に駆け寄り、マイクつきヘッドフォンを耳に当てると同時に、電話を取った。
「——もしもし。あぁ——そうか、わかった」
短い会話で電話を切ると、ダリアは先ほどとは違い、厳しい表情になっていた。そして、まっすぐに大股でヘイザとキドのところへ歩み寄ると、顔を近付けて小声で言った。
「あんたたち、もう行きな。これから警察が来る」
その瞬間、チャドはチタに意味ありげな目配せをした。
チタはさりげなく、ソウとトトの腕をつかんだ。
「ソウくん、トトくん、ちょっと来て……えぇと……あのね、あっちの方で落し物しちゃったの。一緒に探してくれるでしょ? あたし、今、眼鏡が無いからよく見えなくて……」
「落し物? 何を落としたんだ?」
ソウはけげんな顔でたずねた。
「えぇとね——、えぇと……髪留めよ」
「髪留め? チタ、髪留めなんて付けてなかったじゃん」
「そ、そうなんだけど……ポケットに入れてたのよ。もらい物で、とっても大事な物なのよ。だからお願い、一緒に探して」
チタは目を泳がせながら、なんとかソウとトトを、チャドたちから引き離そうとしている。
「ふーん。じゃあ、探してやるよ。色は何色なんだ?」
「えぇと……赤よ。赤い髪留め」
「赤か……だったら目立ちそうだ。すぐ見つけてやるよ」
ソウはチタの落し物を探そうと、地面に目を走らせたが、トトは戸惑った表情でまだシーナたちを振り返っている。
「ねぇ、トトくんも。お願い、一緒に探して。もっともっとあっちの方なの……」
チタはソウとトトの腕をつかんで、どんどんチャドたちから遠ざかって行く。
チャドは、ソウとトトが、こちらの会話が聞こえない距離まで離れたのを確認すると口を開いた。
「キドとヘイザさんには先に行ってもらって、シーナにはここに残ってほしいんだ。警察に、ここに誘拐されたことを話してくれれば、僕たちの行動が正しかったという証言になる。それは、チタを出してくれたダリアの行動を擁護することにもなるんだ」
シーナは真剣にうなずき、すぐにヘイザを見て言った。
「ヘイザ、せっかく会えたのに離れるのはいやだけど……でも、わたしはシャーロ博士の娘として、今日のことはちゃんと証言しなくちゃいけないわ」
ヘイザは仕方がないと言うようにうなずき、
「——わかったわ。遠くへは行かないで待ってるから……ちゃんと電話して」
と言ってシーナの頬をなでた後、チャドとダリアに向かい、
「シーナのこと、よろしく頼むわ」
と言って、まっすぐな目でふたりを見た。
「もちろんです。心配いりませんよ」
チャドが穏やかな口調で答えた。
その横で、正面からヘイザの顔を見たダリアは、わずかにいぶかしそうな表情をしていた。
しかしヘイザは、そんなダリアの表情には気付いていない。
「じゃあオレたちはさっさと行くぞ、ヘイザ」
キドが声をかけると、ヘイザは名残惜しそうに片手でシーナの髪をなでながら、ターバンを取り出そうとウェストバッグに手を伸ばした。
その時。
ダリアがヘイザに近付き、低い声で言った。
「——思い出したよ。あんたの顔……」
「えっ……?」
ヘイザが振り返る。
「あんたの顔、どこかで見たことがあると思ったんだ。——いいかい、ここを出たら、今まで以上に用心しなきゃだめだ」
ダリアの真剣な顔に、シーナが不安そうにたずねた。
「……どうして、ですか?」
ダリアは思い切ったように口を開いた。
「——逮捕状が出てる。最新の指名手配犯のひとりになってるよ。——実は、最近捕まったスリが、昔の仲間の情報を吐いたらしいんだ。そこからモンタージュを作って、被害届と照らし合わせたんだろう。あんた、フロートルでは、かなり稼いだようだね」

- -

ヘイザは顔色を変えた。
キドは、ヘイザの青ざめた横顔を見ながら、
「ヘイザ、大丈夫だ。しばらく引っ込んで、仕事を休め。稼ぎだったら、オレが助けてやる。——おまえほどの稼ぎはないかもしれんが、ま、贅沢しなけりゃ、おまえとシーナふたりくらい食わせてやれるだろ」
と軽い口調で言って、笑いを誘うようにヘイザの背中を軽く叩いた。
しかし、ヘイザは笑わなかった。
シーナが深刻な顔で、ダリアにたずねた。
「指名手配犯……というと、全国に指名手配されてるってことですか……?」
「あぁ、そうだ」
ダリアは厳しい表情でうなずき、うつむいているヘイザに向かい、
「いいか? 出かける時は必ず顔を隠して、これからは、用心に用心を重ねて暮らすんだ」
と言い含めるように言った。
ヘイザはうつむいたまま、黙っている。
「——さぁ、警察が来るから、もう行きな。くれぐれも用心するんだよ」
ダリアは重ねて言った。
キドはヘイザの代わりに、ダリアに礼を言った。
「あぁ、ありがとよ、ダリア。——おい、ヘイザ。ショックなのはわかるが、起こっちまったことはしょうがねぇだろ。早くターバンを巻け」
キドはヘイザを急かすように、肩をゆすった。
しかし、ヘイザは動こうとしなかった。
シーナはうつむいたままのヘイザの顔を覗き込み、無理をしたような笑顔を作りながら、励ますように言った。
「ヘイザ、きっと大丈夫よ……わたしだって、少しは不安だけど……でも、きっと何とかなるわ。わたしだってムチ使いの仕事をするし……ヘイザは外に出ないようにすれば、きっと見つからずに——」
「——シーナ」
ヘイザはシーナの言葉をさえぎって、ようやく青ざめた顔を上げた。
シーナはすぐに口をつぐみ、ヘイザを見つめた。
ヘイザは弱々しくシーナの目を見た。
「……わたし、本当にスリをやめようと思ってた……稼ぎが少なくなっても、シーナと一緒に魔物討伐の仕事ができたらって……でも——」
ヘイザは再び視線を落とし、大きく息をついて言った。
「……このまま逃げ隠れを続けても、過去の罪は消えないわ」
シーナはじっとヘイザを見つめ、キド、ダリア、チャドも、ヘイザの真意を知ろうとするように次の言葉を待った。
ヘイザは大きく息を吸い込んで、急にダリアを見た。
「——ダリアさん。わたし……捕まったら、どれくらいの罪になるの?」
シーナが驚いたように、ヘイザを見つめる。
キドがあわてたように口を開いた。
「バカ言うな、ヘイザ! 一度捕まったら、もう逃げ出せないんだぞ? 何年もムショ暮らしなんかやることになったら——」
ヘイザは、先ほどより力を持った目でキドを見た。
「でも、それが終われば、本当に自由になれるじゃない。指名手配されて、今まで以上に逃げ隠れる生活なんてうんざりだわ」
ヘイザは自分の言葉に納得するように、さらに力を持った目をしてダリアに再びたずねた。
「ねぇ、ダリアさん。わたしが逮捕されたらどれくらいの罪になるのか、教えて」
ヘイザに再度聞かれ、ダリアは若干、戸惑った様子で口を開いた。
「——裁判をやってみなけりゃわからないが……刑務所送りは間違いないだろう。何年もスリとして生きて来たんだろう? 刑期はおそらく短くはないよ――6年とか7年とか……」
「そんなに……?」
シーナは顔をゆがませて、肩を落とした。
チャドが冷静に口を開いた。
「ダリア——。今回の事件で、もし僕らが正しいことをしたと評価を受けるなら……ヘイザさんも、僕らの仲間として協力してくれたんだ。それがわかれば、少しは情状を酌量してもらえるかな?」
「あぁ、それは期待できる。さらに言うなら、自ら自首して、警察に協力的な態度を見せるんだ」
ヘイザは静かにうなずいた。
その横顔から決意を感じ取ったシーナは、声を震わせて言った。
「わたし、言うわ……誘拐されて閉じ込められていたら、ヘイザが助けに来てくれたって……命がけでわたしを守ってくれたって……」
ヘイザはやさしく微笑んで、シーナの髪をなでた。
「ヘイザ、おまえ……本気なのか!?」
キドはまだ信じられないと言うようにそう言った。
「——こんな状況で、冗談なんか言うはずないでしょ」
ヘイザは小さく笑い、
「心配しないで。あんたの情報を売ったりしないから」
と言って、キドの肩を叩いた。
「そんなこと心配してるわけじゃねぇ。おまえってやつは……」
キドは、顔をゆがめて唇を噛んだ。
その時、遠くから小さくパトカーのサイレンが聞こえて来た。
「ほら、あんたはもう行った方がいいわ」
ヘイザはそう言って、キドからさっと目をそらした。
「……ダリア、チャド……、ヘイザのこと頼む」
キドは帽子を目深にかぶりながら、表情を隠すように下を向いてそう言った。
「うん、わかってる。全力を尽くそう」
チャドが言った。
ダリアも同意するように大きくうなずいた。
サイレンの音が少しずつ大きくなる。
キドは黙って背を向けた。
「キドさん、気をつけて——今日は、本当にありがとう」
シーナがキドの背中に声をかけた。
「あぁ——、またな」
キドはシーナを振り向かずに短く答え、そのまま背中を丸めてすばやく森に入って行った。
ヘイザはキドを見送ることなく、まっすぐにサイレンを鳴らして近付いて来るパトカーを待つように顔を上げた。
「ヘイザ……わたし、ずっと待ってるから。何年かかっても……」
シーナはそう言って、すがるような目でヘイザを見上げた。
ヘイザはシーナを抱き寄せ、わずかに瞳を震わせながら、穏やかな口調で言った。
「——わたしがいない間は、シャーロ博士にもらったお金で暮らせるわね? ほとんど手をつけなくて正解だったわ」
「うん……でも、わたしだって、ムチ使いの仕事ができるわ……ヘイザが戻って来るまでに、うんと腕を上げておくんだから……それから……」
シーナは少しずつ涙声になりながら、急にヘイザの腕をつかむように抱きついて、言った。
「ヘイザが刑務所に行っても……わたし、毎日ヘイザのこと想ってるから……」
「シーナ……」
ヘイザは目を閉じて、シーナをぎゅっと抱きしめた。
抱き合うふたりを見ながら、ダリアがにやにやと笑って言った。
「お熱いねぇ、おふたりさん。たまに会えるようにしてやってもいいんだよ。ただ、わたしが今回チタを出してやったことで職を失わなければだけど。——後はヘイザ、あんたの日頃の行い次第だ。面倒を起こすようなら、内緒で出してやることはできないよ」
その言葉にヘイザは顔を上げ、余裕の笑みをたたえて言った。
「——それなら心配いらないわ。わたし、一番の模範囚になるつもりだから」
思いがけないヘイザの言葉に、ダリアは大きな声で笑い出した。
「なかなか、おもしろいことを言うじゃないか。あんたは、ずいぶんと肝が据わってるようだ」
その時、ひときわ大きくなったサイレンが止み、2台のパトカーがシーナたちの前に止まった。
ヘイザはシーナにやさしくキスをすると、パトカーに向かって、さっそうと歩き出した。

- -

エピローグ

事件の後——
チャドは、かつてのフォーラン王国の王子であった身分を、公に明かした。
よって、レイの逮捕とともに、フォーラン王国が滅んだ本当の理由が世の中に知られることとなった。
フォーラン王国が内戦で滅んだという説が事実とされていた間にも、実は魔術師レイ・アドルソンの仕業だったのではないかという噂は常に存在し、影でレイの行方を追っていた者も少なくなかった。長い間、レイの行方がわからなかったため表立って自分の考えを主張することができずにいた彼らは、チャドの告白の後、ここぞとばかりに自己主張を始めた。したがって、レイの逮捕からしばらくの間、マスメディアはこの事件で持ちきりとなった。
チャドは国を救ったことを評価され、政府公認ムチ使いから、政府治安維持隊の第3リーダーというポストに就いた。

逮捕されたレイは、これから裁判が予定されている。
レイは完全にただのおとなしい老人と化し、薬を作るよう指示を出していた仲間たちの情報も素直に供述した。従って、十数名の仲間も逮捕され、作られた薬や爆弾はすべて回収、処分された。

トトも、チャドと同様の評価を受けた。
理由はあれど、禁じられた召喚魔物に関わったということから、当初は重い罪に問われる可能性もあったが、トトが魔術師審査会の副会長を務めるファルラの弟子であったこと、そして、違法な行為は国を救うためであったという事実により、罪に問われることは無かった。それどころか、わずか10歳という年齢で、上級魔物に術を教えることに成功したという功績で、トトは大きく名を上げ、現在、最も将来を有望視される子供の魔術師として注目を集めている。

トトの師匠であるファルラは、当初は召喚魔物に関わったというトトの犯罪行為が、自分のせいになるのではないかと危惧し、どのように自身の身を守るかを方々で相談していた。
しかし、トトの行動が政府に支持されるとわかると一変、トトの手柄を、師匠である自分の手柄のようにマスメディアを通じて世間に広めることに成功した。
メディア出演が多くなったことにより、最近は人気俳優と交際を始めたらしい。

チタは、重罪人として刑務所に入っていたにもかかわらず、再び魔物召喚という大罪を犯してしまった。とはいえ、その行動がレイ・アドルソン逮捕に大きな役割を果たしたという事実から、以前の無期禁固刑から、残り20年の有期禁固刑に減刑された。加えて、以前は一切の外出を禁じられていたが、週に2度、図書館に行くことが公に許可されるようになり、相変わらず独居房で暮らしてはいるものの、以前よりも明るくなったという。

ダリアは、レイ・アドルソンの逮捕に協力する目的だったとはいえ、重罪人のチタを自らの独断で外に出したことは処罰の対象となった。
しかし、事件は結果的に国を救うことになったことから、職を失うことはなく、1ヶ月の自宅謹慎処分と給料減額という罰を受け、現在は再び刑務所に勤務している。

ヒュートは、自分の行動は、すべてレイ・アドルソンに騙されてやったことだったと強く主張した。
しかし、チャドやシーナ、そしてレイの証言からも、ヒュートの主張は認められず、裁判で4年の有期禁固刑が確定し、独居房に送られた。

自ら自首をしたヘイザも、裁判で有罪が確定し、刑務所送りとなった。
過去の被害届から発覚した数々の余罪により、当初は懲役7年の刑と予想された。しかし、チャドの仲間として、勇敢にアジトに乗り込み、誘拐された被害者シーナを命がけで助け出したこと(シーナの熱心な証言による)などが大きく汲み取られ、最終的には懲役4年という刑が確定した。
ヘイザが目指す模範囚として認められれば、1年3ヶ月ほどで仮釈放される可能性もあるらしい。


- -

〝ダロ・ギルモア〟と刻まれた墓の前で、厚手のコートに身を包んだシーナは、あの長い一日の出来事を断片的に思い出していた。
――あの日から、4ヶ月という時間が過ぎようとしている。
しかし、頭の中に次々と浮かんでは消える鮮明な記憶とはうらはらに、シーナはあの一日を、もうずっと遠い昔の事のように感じていた。――と同時に、あれっきり時間が止まってしまったダロのことを思うと、なんとも言いようのないつらい気持ちになるのだった。
その時、隣で長いこと墓に祈っていたソウがようやく顔を上げた。
シーナは記憶のテープを頭の中で停止した。
モッズコートをすっぽりと着たソウは、いつもより落ち着いた、大人っぽい表情でシーナを見上げた。
「――オレ、ダロのこと助けてやれなかったけどさ……これからも訓練を続けて、もっともっとすばやく動けるようになって、どんな時でも人を救える僧侶になってやるからな」
「身体能力を上げる講習は、もう終わったの?」
シーナはやさしく微笑みながら、たずねた。
「あぁ、先週終わった。1ヶ月間だけのやつだったけどさ、オレ、前よりだいぶすばやくなったんだぜ」
ソウは得意げな目をして、すばやくコートを脱ぎ捨てると、さっとシーナから離れ、軽快な動きで墓を避けるようにして、右から左へ、左から右へとすばやく移動して見せた。
その動きは軽快ながらも力強く、1ヶ月間の努力の成果が見て取れた。
「本当だわ! ソウくん、とってもがんばったのね」
「あぁ! 講習が終わった後も、ずっと自分でトレーニングしてるからな! もっとすばやくなって、めちゃくちゃ優秀な僧侶になってやるんだ」
ソウは、シーナが拾い上げたコートに腕を通しながら、うれしそうに言った。
「ソウくんは、もともと十分優秀なんだもの。これ以上すばやくなって、もっと優秀な僧侶になったら、将来は超有名人になっちゃうんじゃない?」
シーナが冗談っぽく言うと、再びコートにすっぽりと身を包んだソウはおおげさにため息をつき、
「有名人にはなりたくないや。トトのせいで、一時期オレまでカメラに追い回されたろ? あんなのもうこりごりだからさ」
と言って顔をしかめた。
「あ、そっか……あの時は、ソウくんも大変だったものね」
「うん、そうなんだ。寺にいっぱい記者が来てさ。取材とか面倒だし、オレ、いっつも隠れてたんだ。――まったく、有名人の弟を持つと苦労させられるよ」
ソウは心からそう思っているというように、うんざりした顔をした。
シーナは苦笑いをしながら、ソウの肩に手を置いた。
「でも、普通に考えたら、すごく名誉なことなのよ? みんな一生懸命努力しても、簡単に有名人になれるわけじゃないんだから」
「まぁな! そこは、さすがオレの弟って感じだよな!」
ソウはうれしそうに笑った。
「うん、そうね」
シーナはやさしく微笑んでうなずいた後、わずかに表情を変えてソウにたずねた。
「――トトくんは、最近どうしてるの? 最後に電話した時は、お手伝いさんが出て、忙しいからってトトくんに繋いでもらえなかったの」
「あぁ、オレも1ヶ月くらいしゃべってないや。トトのやつ、いきなり3人も家庭教師を付けられちゃったらしくてさ。今までの倍のスピードで勉強しなくちゃいけないんだって」
「そうなの……それは大変そうね……」
シーナは心配そうに表情を曇らせた。
しかし、ソウはそんなシーナの態度を気にする素振りも見せず、
「まぁなー。けど、最後にトトとしゃべった時は、元気そうだったぜ! で、また4人でどっか行きたいなーって話してたんだ!」
と楽しげな口調で言った。
「4人でって――、ソウくんとトトくんと、わたしとヘイザ?」
「あぁ! 決まってるだろ!」
ソウの無邪気な笑顔に、シーナもつられて笑顔になった。
「うん、そうね。わたしもそれまでに、もっともっと強くなっておかなくちゃ」
その言葉に、ソウはあっと思いついたような顔をして、たずねた。
「そう言えば、シーナの新しい先生はどうなんだ? レッスンは楽しいか?」
すると、シーナは困ったように苦笑いを浮かべた。
「んー、新しい先生は高度な技をいっぱい教えようとしてくれてるんだけど……わたしにはまだレベルが高くって、今はついていくので精一杯かな」
「じゃあ、またチャドに教えてもらえばいいじゃん! もともとチャドがシーナの先生だったんだろ?」
「前は、特別に先生になってくれてたの。――それに今、チャドさんは、治安維持隊のリーダーのひとりなんだもの。忙しくって、もうわたしの先生をする暇なんてないのよ」
「そっかぁ……」
ソウが心配そうな顔になっているのを見ると、シーナはあわてたように笑顔を作った。
「でも、心配しないで、ソウくん。わたしは大丈夫。いろんな技をマスターして、きっと強くなってみせるんだから」
シーナはムチを振り上げる真似をするように、さっと体を構え、軽く腕を上げて見せた。
ソウはそれを見ると、驚いたように、
「シーナのポーズ、なんか前よりカッコよくなったな!」
と言って、
「次に4人でどっか行く時は、シーナもかなり強くなってそうだなー」
と感心したように、まじまじとシーナを見た。
シーナはソウの言葉に、うれしそうに微笑んだ。しかし、ちらりと目の前のダロの墓を見ると、
「――できれば今度は、もっと平和で穏やかな旅がいいわね」
とつぶやくように言った。
「あぁ、そうだな」
ソウはそう言って、まっすぐな目でシーナを見上げ、
「オレさ、世界が平和になるように、もっともっとがんばるよ! 悪いやつをやっつけて、いっぱい人助けするんだ!」
と言った後、ダロの墓に視線を移し、決意を新たにするようにしっかりとうなずいて見せた。
「うん。頼りにしてるわ、ソウくん」
シーナは、ぎゅっとソウの肩を抱いた。そして、ウェストバッグにぶら下げているデジタル時計にちらりと目をやると、
「そろそろ時間かな」
と言って、足元に置いていたビニールバッグの取っ手に手をかけた。
「オレが持ってやるよ!」
ソウは横からすかさず手を伸ばし、ビニールバッグを持ち上げた。
ずっしりとしたその重みに、一瞬、ソウは驚いたように体をぐらつかせた。
「ソウくん、重いでしょう? 無理しないで……」
シーナが気遣うように声をかけたが、ソウは、
「これくらいへっちゃらだよ!」
と強がるように背筋を伸ばし、
「ダロ、じゃーまたな!」
と墓に声をかけ、すたすたと歩き出した。
「また来ますね、ダロさん」
シーナもダロの墓に声をかけると、ソウを追って、墓を後にした。
シーナが追いつくと、ソウは興味深そうに上から袋をのぞき込んだ。
「なぁ、これ何が入ってるんだ?」
「本が入ってるのよ。見たい?」
シーナは袋の取っ手の片方を持って、袋を閉じていたボタンを外し、中を見せた。
ソウは、中に入っている5冊のハードカバーの分厚い本を1冊取り出し、ページをめくると、一瞬で顔をしかめ、
「うわぁ、字ばっかりじゃん! トトが読むような本だな……」
と言って、すぐに本を閉じて袋に戻した。
シーナはソウの反応に笑いながら、
「大人向けの歴史書なのよ。難しい本だけど、確かにトトくんなら読めそうね」
と言って、袋のボタンを閉じた。
ソウは顔をしかめたまま、
「ヘイザのやつ、こんな字ばっかりの本なんか好きだったのか!? ……本読んでたとこなんて、一度も見たことなかったけどな……」
と困惑した顔つきをした。
「うん、わたしも見たことなかったけどね――、向こうに行ってから、本を読むようになったの」
「ふーん。それなら、オレの好きなマンガも持って来てやればよかったな!」
ソウの明るい笑顔に、シーナは困ったような顔で言った。
「えぇとね……そういうのはダメなのよ。マンガや雑誌は禁止されてるの」
「なーんだ。じゃ、難しい本しかダメなのかぁー」
ソウはつまらなそうにつぶやいて、再びぴんと背筋を伸ばしてビニールバッグを持って歩き出すと、すぐにシーナを振り返った。
「けどさ、シーナは2週に1回、ヘイザに会いに行ってるんだろ? ヘイザは2週間でこの本、全部読んじゃうってことか?」
「ううん、今回は特別なの。これは全部、キドさんから預かって来た本だから」
「キドから!?」
ソウは驚いた声を出した。
「うん。先月ね……突然電話があって、ヘイザどうしてる? って聞かれて、いろいろ話したんだけど――、その時に歴史書を読んでるって話をしたら、すぐに、そのシリーズの全巻を買って持って来てくれたの。だから、これは、キドさんからヘイザへのプレゼントなのよ」
「ふーん、そっか……けどさ、なんでキドは、直接ヘイザに渡しに行かないんだ? オレだってキドにずっと会ってないし……一緒に行けたらよかったのに」
「――キドさんは、とっても忙しいから……なかなか時間がないのよ」
「シーナに本を渡しに行く暇があるのにか? ――なぁ、シーナ」
ちょうど墓地を出たところで、ソウは立ち止まり、まっすぐな目でシーナを見上げた。
「……うん?」
シーナはソウのまっすぐな視線を受け止めると、動揺したように、わずかに視線を泳がせた。
「あのさ、キドの職業だけど――、本当に、誰かの護衛なんだよな? 契約があるから、人には言っちゃいけないだけなんだよな? 違うとは思うけどさ……まさかキドまで……」
そこで言葉を切り、ソウは不安そうにシーナを見つめた。
「――大丈夫よ。キドさんは違うわ」
シーナはソウから目をそらしたまま、安心させるようにソウの肩を抱いた。
「うん、わかった! そうだよな」
ソウは驚くほどあっさりとそう言って、今度は、逆にシーナを安心させるようににっこりと笑って見せた。
シーナはほっとしたように笑顔になったが、しかし、どこか落ち着かない様子で、不自然に視線を動かしていた。
墓地を出て少し歩くと、すぐに道路沿いのバス停が見えて来た。
「あそこからバスに乗ったら、ヘイザに会えるんだな」
「うん。そうよ」
シーナが答えると、ソウは急にそわそわとし始めた。
「あのさ……ヘイザに最初に会った時は、なんて言えばいいんだ? 師匠には、刑務所では礼儀正しくするようにって言われたんだけど……オレ、刑務所なんて行ったことないからさ――」
シーナは笑って、ソウの坊主頭をなでた。
「普通でいいのよ。いつものソウくんのままで。その方が、ヘイザも喜ぶわ」
「じゃあ、最初のあいさつは、〝ヘイザ久しぶり!〟……とかでいいのか?」
「うん、もちろんよ。ヘイザだって、全然変わってないんだから」
「なーんだ、そうなのかぁ!」
シーナの言葉に、ソウはほっとした声を上げた。
ふたりは、バス停の前で足を止めた。
シーナはソウの小さな肩をやさしくさすりながら、
「ほら、バスが見えて来たわ」
と、こちらへ向かって来る青色のバスに顔を向けた。
その時、視界の端で何かがちらりと光った。
「あら……?」
シーナは辺りを見回した後、顔を空へ向けた。
小さなかけらが、ちらちらと空から降りてくる。
ソウはうれしそうに声を上げた。
「なぁ! この雪、積もるかな? 積もったらいいなー! オレ、でっかい雪だるま作りたい!」
シーナは苦笑いを浮かべながら、言った。
「そんなに降ったらバスが動かなくなって、帰れなくなっちゃうわ」
「帰れなくなったら、ヘイザに泊めてもらえばいいじゃん! ――って、さすがに刑務所じゃ無理かー。でもやっぱ、でっかい雪だるま作りたいよなー! シーナとヘイザをびっくりさせるくらいでっかいの、作ってみたいなぁ!」
この国ではめったに降らない雪を目にしたソウは、すっかりはしゃいだ様子で、ひとりでしゃべり続けている。
シーナは楽しげなソウのおしゃべりを聞きながら、雪の積もった刑務所でソウが雪だるまを作り、それをヘイザに寄り添って見ている自分……という起こりえない場面を想像してみた。そしてすぐに、そんな想像をした自分に苦笑した。
バスは、ふたりが立っているバス停に向かって、墓地に面した細い道をゆっくりと近付いて来る。
バスを見つめるシーナの黒い瞳は、ちらちらと舞い降りる雪に反射するように、いつもよりひときわ麗しくきらきらと輝いていた。





END

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GALLERY

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Angel Eyes

2011年7月14日 発行 converted from former BCCKS

著  者:SHIZU
発  行:SHIZU出版

bb_B_00037485
bcck: http://bccks.jp/bcck/00037485/info
user: http://bccks.jp/user/22515
format:#002

発行者 BCCKS
〒 141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp/

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SHIZU(しず)

主に海外のアーティストとの楽曲制作や楽曲リリースなどの活動を行うシンガー/ソングライターの経歴を持つ。「やさしい気持ち〜Angel Heart」は、ドイツと台湾のレコードレーベルよりリリースされ、コンピレーションに入って、世界に広く発売されている。

著者SHIZUのウェブサイト:
www.shizusinger.com

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