普段何気なく読んでいる本にはどのようなデザインが施されているでしょうか? 文庫や新書、四六判など本には多様な判形があり、またハードカバーやソフトカバーなどその体裁や綴じ方、それに用紙も様々です。開いてみると文字の書体や大きさ、行数も本によって異なります。そこには著者と読者をつなぐグラフィックデザイナーの長年の知恵や工夫が詰まっています。
では、話題の電子書籍ではどのようなデザインが考えられているでしょうか? パソコンやスマートフォン、電子デバイスなどで読む、新たな読書体験に適したデザインへの取り組みは始まったばかりです。
このセミナーでは、本に秘められたデザインを解き明かし、そして電子書籍におけるフォーマットデザインをいち早く発表した『BCCKS』を参照しながら、これからの電子書籍に求められるデザインのあり方を考えます。
デザイン・セミナー
ブックデザインの思想を知り
電子書籍のフォーマットデザインを考える
二〇一一年九月十一日(日)一四:〇〇―一六:三〇
生活工房セミナールーム(三軒茶屋・キャロットタワー五階)
参加費:一〇〇〇円/定員:五〇名(事前申込制・先着順)
www.setagaya-ldc.net/
松本 原さんコンチワ。『デザインで読む「本」と電子書籍』出演の快諾サンキューです。まずは打ち合わせ代わりに往復書簡で、どんなレクチャーにするかを詰めてきましょう。
最初に伝えたい事があります。なんで「本と電子書籍」ってお題に原研哉か? ですね。BCCKSをやってるオイラは、まあ、わかるとして、フツーに考えれば、「本」代表で祖父江慎氏・松田行正氏あたりから、「電子書籍」組ならば萩野正昭氏・永原康史氏とかに落ち着きそうなところを、「電子書籍」はもちろん、「本」も専門とはしてない原研哉にお願いした、についてさくっと説明します。
去年の九月、原さんと永原さんではじめた連続レクチャー『言葉のデザイン「オンスクリーン・タイポグラフィーを考える」』の三回目にオイラが呼ばれました。「オンスクリーン・タイポグラフィー」ってネーミングに実は結構グッときたんですね、RGBグラフフィックスとかスクリーンデザインとかでは指し示せていなかった、スクリーン上に置かれるフォント・組版・タイポグラフィーそのものを明示してた。それはイコール、グラフィックデザイナー側から見える「モニター上のグラフィック・デザイン」って領域を現地点からの延長線に明快に置いてくれたわけで、電子書籍にグラフィックデザイナーが関わる、関わらなければいけない領域の線引きをピッと一本引かれた感じがしたんです。そのタイトルなら、BCCKSのオイラが話すべき事と、いままで紙の上で上質に文字を扱ってきた原研哉がオンスクリーン・タイポグラフィーについて考えはじめたって事との両方から話すべき様々と、その様々が噛み合うところや、それによって損なわれるであろう領域や、イメージがわりとハッキリとあったんですね。ところが、当日の壇上では、、、ああゆうのって話し始めてようやく気づいたりしますよね、オイラは電子書籍そのものに四苦八苦していた。レクチャー三回目の原研哉はまだその入り口だった。結果、互いに踏み込めず、大事なゾーンを消化不良に終わらせてしまった。
もうひとつ。これは九月の壇上でも言った事だけど、本からCI、取締役から裏千家まで、日本のレーモンド・ローイとしてデザインの上質を存分に味わい尽くしてきたデザインバカ原研哉が、それでもウェブ的な電子書籍的な「質」に関わらないといけなくなってる。正しくは「いけなくなってる」じゃなくて、デザインセンターの社長にならなければいけないのと同じように、それはもう責務だよ、と。
今まで積み重ねてきたモノを新しい技術に引き継ぐことは責務って、この話もしましたが、原研哉のオンスクリーン・タイポグラフィーへの責務とはなんなのか?
あれから一年、オイラはようやくあたらしいBCCKS公開を目前にし、原研哉は原仕事の傍ら「言葉のデザイン」全八回を終わらせ、それを電子書籍にまとめて出版する。これは、もうリベンジじゃん! てことで迷わず誘った訳です。一方的に書いてすみませんね、最初に伝えたかったことは以上です。
つことで、まずは「言葉のデザイン」を終わらせてのあれこれをさっくり教えてもらいつつ、オイラの目論みへの意見、反論、あたりからお願いできますか? あ、それと、これ、公開往復書簡にしちゃっていいすか? 減るもんじゃないし。
原 オンスクリーン・タイポグラフィについて、確かに自分も考えなくてはならないし、否応なくそういう環境で仕事をしはじめているという状況です。
僕は、技術やエンジニアリングについては専門家ではないので、できるだけそういうものから距離を置きつつ、逆に、自分のアイデアや感覚を自然体で働かせられる距離感でオンスクリーンの表現や環境を見ていきたいと考えています。これは建築もプロダクツもファッションも同じことです。
かつてナガオカケンメイが、僕を評して、ファッションやトレンドをいっさい無視している究極のださい人で、そういう僕からむしろ影響を受けたと語っていたそうですが、確かに僕はあるときからトレンドや新バージョンというようなものから目を離して活動しようと、うっすらと考えてきたところがあります。トレンドも、技術の進展も、追いかけ始めると永久に追いつかないし、その先に居続けるには膨大なエネルギーを使います。自分は、そこにエネルギーを使うのではなく、そこから程よく距離を置いて、自分が興味を持てるものを吟味し、集中して仕事をしています。
「RE DESIGN」「HAPTIC」「SENSEWARE」「EMPTINESS」
などのキーワードは、その都度、自分が社会に対して興味を持った視点です。自分の興味に集中することで、むしろ自分の中にある普遍を世の中につなげていく道筋が見える感じがして、しばらくはそういうスタンスで仕事をしてきました。建築にもプロダクツにも、ファッションもにも関与することがありますが、あくまでそういうスタンス、つまりスペシャリストではなくジェネラリストのデザイナーとして関与していっている訳です。オンスクリーン・タイポグラフィについても同じです。ただし、タイポグラフィについては、グラフィックデザインという自分の本来の専門性と直接つながる部分があるので、発言がちょっと専門的に見える部分がありますけどね。
いずれにしても、松本さんのBCCKSのプロジェクトを契機にしていいかたちで話を広げるお手伝いが出来ればと期待しています。
ジェネラリストかつデザイン馬鹿として対話が出来ればと考えています。
松本 「REDESIGN」「HAPTIC」「SENSEWARE」「EMPTINESS」
に通底するジェネラリスト的な距離感は、良質なデザイン市民(市長的な)のデザイン都市への関わりのようですね。
街で言えば、今年とうとう東宝系劇場が全館35㎜映写機を撤廃してデジタル上映館にするんだそうです。(主に映画)批評雑誌「nobody」の編集長で映写技師でもある結城君から聞いた話です。それは送り手からすると映画体験も製作も大きく変わる出来事なんだろうけど、市民からすれば「鮮やかでシャープ」になったし、劇場からすれば重いフィルムを運搬配送管理する事無く様々な映画をカンタンにかけられるようになった。「ゾンビ映画祭」や樋口泰人氏の「爆音映画祭」的イベントも生まれやすくなる。街から言わせれればまあいいことが目につくんだけど、良質なデザイン市民はここで「失われる質」を問題として取り上げる。
映画撮影=35㎜フィルムじゃなくなり始めたのが15年くらい前だっけ? 見えにくいけど、紙と電子の対比と似ているとこがあるなあと。35㎜フィルム上映にチューニングされてる「インセプション」をデジタル上映館やブルーレイHDで観るとシャープがひどすぎてもう観てらんないわけで、デジタル上映館が当たり前になったときに「インセプション」のオリジナルデータのアーティキュレーションは当然いじられる事になる。本来ならDVDやブルーレイ用にアーティキュレーションが調整されるべきなんだけど、その「配慮」は映画業界全体がさぼってきちゃったんだけど、そもそも映画館ってデザイン自体がいま街にどうなのか? とかもからめて適切なアーティキュレーション値やコンテンツを市長は考える。
グラフィック業界はその配慮をさぼっちゃいけないじゃないですか。ウェブやSTポスター用の画像はRGBままで、印刷用画像にはレベルカットとアンシャープマスクをかける、とかは、今も普通に行われるデジタルデータやデジタルデバイスへの配慮ですが、今ますます必要なのが文字へのいろんな配慮ってことですよ、と。
良質なデザイン市長が日々変わり続ける街に対して、ある距離感を持ったうえでの問題を設定し、市民やデザイン市民や映写技師や劇場を巻き込んでの会議が「言葉のデザイン」だったんじゃないかなと勝手に期待と解釈をしてます。
彫る印字方法の亀甲文字、くさび文字、木版・活版、写植、デジタル、と媒体に併せて変わり続ける文字がいまは紙からオンスクリーンへで、またあたらしい変態を求められている。まずはグリフとしての文字のこと。中国や韓国がとっく縦組を捨ててるという「いさぎよい」デザインがあり、台湾ではタテヨコはもちろん、アラビア文字の右から左に流す組版も視野に入れたデザインが行われてる。文字をスクリーンに印字するシステムのこと。ツタヤの新作にほとんどはブルーレイとDVDの2種類並ぶけど、でもまだオリヴェイラや川島雄三は一枚も販売されていない。昭和35年の「ゴジラ」を観ると未経験の情動がわきおこる。「永遠の語らい」とか観てみたいなぁ的な電子書籍市場含むコンテンツとのこと。ほかも様々な要因がその会議ではテーブルに上げられたと思ってるんですが、それらにおそらくオンスクリーンタイポの大本命としてのクラウドフォントが加わる事で、大きくその根本が変わるであろうウェブのデザイン性について、とかの話がオイラ的にはホットです。
で、日程も迫ってきたところで当日の流れですが、こんな感じでどうですか?
13:20 ゲスト入り(キャロットタワー5F 生活工房)
13:30 開場/受付開始
14:00 講師登壇→杉本挨拶~講師紹介
・本のデザインについて(20分程度)
・オンスクリーンタイポグラフィーについて(30分程度)
・電子書籍のデザインについて(30分程度)
・まとめ(20分程度)
・原さん限定の質疑応答(10分程度)
《原さん退席》
16:00 BCCKS実演
・今日のレクチャーダイジェストをBCCKSに(20分程度)
・質疑応答(10分程度)
16:30 終了予定
基本的に全編二人で話すイメージでいます。
・本のデザインについては基本的な説明資料を用意するんで、原さんに適当に振りつつオイラが進行する感じでさっくり。
・オンスクリーンについては原さん主導でオイラがチャチャ入れます。
・電子書籍はオイラ主導で原さんにモロモロ振りつつ。
・まとめはがっつり対談式で。
【当日使用するもの】
・プロジェクター
・ノートPC(マック)
・書画カメラ(実物投影機)
・配布資料などあれば適宜
です。
意見があれば下さい。
あ、原さんPC持ってきますか? オイラ持ってきますが当日見せるものはすべてウェブにあるので原さんも持ってくるならその1台でプレしてもかまいません。
いい事言ったらメモる
講義スタート
松本 オイラはようやくBCCKSを公開しました。原研哉は良質に文字を扱ってきたデザイナーでありジェネラリストでありデザイン市長です。そんな原研哉がオンスクリーン・タイポグラフィーに踏み込まなければならない状況のなか「言葉のデザイン」を永原さんと立ち上げ、全八回を終えた。オイラは組版を、原研哉は広義での文字の一部としてオンスクリーンタイポグラフィーを考えてきた。こりゃ話しておかないとってことで今日来てもらいました。
原 今の時代の中、どのジャンルでも全体を俯瞰的に見れて語れる人はもうない。それぞれのスペシャリストは限定的にならざるを得ない状態です。限定的な領域にぐっと入っるほどその先の狭い空間に進んで、そこにこなれていってしまう。僕はもともとそうなんだけど、今はさらに意識的にジェネラリスト的な立場を選んでいて、できるだけ全体を俯瞰で見てデザインを考えています。モノの作り方も専門知ではなく集合知の時代になっている。みんなで考えて、先に進んでいく時代だってことを痛感します。
あるとき、海外のデザイナーに「何で日本のオンスクリーンタイポグラフィは汚いのか?」といわれましたした。書体自体はあんなに美しいのにと。日本は部分や小さなものは美しいのに景観を見ると汚い、巨大な醜さに鈍感だと。モダンなバーや茶室とかはきれいでも都市は汚い。それをつぶやいたらは夜中に永原さんがからんできて「言葉のデザイン」がはじまりました。
言葉のデザインでは、各方面で文字を扱ってる人々をゲストに招き僕らがホスト的に回を重ねました。もうすぐ電子書籍で出版されます。デザインは永原さんで値段は一〇〇〇円から一五〇〇円くらいです。
松本 高ッか!
原 (気にせず)PDFブックとかとは違ってインタラクション等のデザインもされています。
松本 集合知の話、めんどくさくないですか? いま、どの分野でもそれですよね。個人的な蓄積や個人こその経験の積み重ねや個人だからできてる突起物的なところがとても小さく扱われてる。
原 いいところと悪いところがありますね。ツイッター的に、みんなが出した事をみんなで考えて、この辺だろうなと。誰かがリーダーシップをとるよりも集合知が制御する時代になってきていると感じている。
松本 もちろん、それによって上がる平均化ははかりしれないんだけど、だから二子玉川的なモノがあふれる。刺されないように生きるSNS的な街。ひと言いうと炎上する関係。「放射能こすりつけてやろうか」で辞任させられる社会。もう、つまずくことすら犯罪って。
原 王様の時代よりも苦しい。
松本 つーか民衆同士の監視のしあい。
原 集合知による窮屈さはありますよね。
松本が開いた原研哉のサイトを見ながら
原
───現場で起こした原稿で意図を汲めてない箇所があると思われます。現在校正依頼中です───
震災後の各地の状況を日本デザインセンターの若手がサイトにまとめています。放射線量、マグネチュード、津波の高さ、電力消費量を、1演出しない。2主張しない。3世界の人々にとって、わかりやすい表現を行う。4可能な限りの正確さを守る。
を基本姿勢として一目で分かるようにデザインしています。数字で見せられるより、グラフで見せられた方が絶望感が大きいんですね。世界の放射線量との比較も見れます。今の東京は、0.056マイクロシーベルト、香港、パリより低い。自然放射線量というモノがありブラジルのガラパリという都市は自然放射線量で1.568マイクロシーベルトあります。こういった情報を視覚的に信頼できる表現の面構えで伝える事で風評被害などを少なくしたいんです。
深刻な災害をたんに美しい図してるだけじゃないかと怒る人もいますが僕はそうは思ってない。
美しいく伝わりやすいグラフィックにすることは意味がある。
それよりBCCKSについて聞かせてください。名前の意味くらいから。
────────────
松本 BCCKSというサイトをやってます。「開かれた本」と言う意味でOOをCCにしています。四年前からやってたんですが、先月に大リニューアルしました。今まではPCと紙の本で読む事が出来るサービスだったんだけど、あたらしいBCCKSは電子デバイスでも読めるようにしました。「開かれた本」である以上、電子デバイスで読める事は必須です。その目的をちょっと変えると根本から変えなければいけないということが開発の世界ではよくあります。仕組みを変える為に1年以上かかっています。
BCCKSのリーダーを見ながら
松本 これがBCCKSの文字組みです。美しくないですか? 禁則処理、ぶらさがりなど、本文組の最低限の事はクリアしています。
原 フォントは何ですか?
松本 ヒラギノです。
原 なるほど。じゃあWinだとメイリオとかになるのかな?
松本 ですね。デバイス環境に依存した文字になります。
書籍の文字組みの基本は原稿用紙のようにグリッドで並びます。日本語はちょうど「国」という文字より少し大きな正方形のボディとよばれる四角い単位が紙面に並んだグリットになってます。英語はプロポーショナルフォントといって横幅が違う文字なのでグリットでは並べません。この簡単そうに思えるグリットに並べる事が実はすげー大変なんです。日本語には半角文字もあり、禁則処理(句読点を行頭に置かないなど)が必要で、美しく文字を組む為の様々な仕組みが必要です。一冊一冊デザインされる紙の本の場合は、編集者が、字切りが悪いからといってテニオハを変えたり、デザイナーが字詰めを調整したりもします。インデザインで原稿を書いて、改ページで言葉が切れないようにしてる作家もいる。伊集院です。
原 やりすぎですね。
松本 気持ち悪いですね。
原 こだわりは嫌いです。「こだわり」って「理不尽な執着」って言うんですよね。
もっとジェネラルにデザインをします。
松本 (原研哉デザインの本を見ながら)白にこだわってる。
原 こだわってるんじゃないですよ。色が必要ないんです。
松本 はは。
原 BCCKSの本には紙のキメがあるんですよね。文字の濃さと、紙の白さが調整できるの見つけたときは笑いました。どんどん紙を白くするとPDFみたいになります。
松本 原研哉の得意な竹尾ファインペーパーの質感ですよ。で、これはこだわりです。そして理由があります。写真も紙の上に刷られているって表情を出したくてデフォルトではこの紙の濃さになってるんですが、写真を写真原稿(データ)としてそのまま見せたい人もいます。著者が紙の濃さや文字の濃さ(判形も指定できるようになります)を決めて出版できるようにしてるんです。
原
───現場で起こした原稿で意図を汲めてない箇所があると思われます。現在校正依頼中です───
だれでもきれいなものが作れるっていうのはとっても怖いことですね。印刷本は、活字にする価値があるかどうかなどをいちどスクリーニングされるフローがある。そのフローがなくなってしまう。誰でもどんな本でも出せてしまう。それも従来の本と同じくらいの精度でだせてしまう。
松本弦人はデザイン番長で、新しい技術やメディアの持っている可能性のヤバイところのすれすれをいつも狙ってる。で、やってしまう。もちろん技術の良いところもデザインするんですが、諸刃というか、こちらも深く傷つく剣で、そしてむしろそのヤバいところがいつもヤバい。
それは一つの欲望のデザインだと思ってます。ルーズな欲望の肥大はかっこわるくなる。かっこわるい製品がでてかっこわるい社会になる。欲望を僕のおなかのようにどんどん太らしてはいけない。
良いデザインを一つ触る。欲望も少し違う。教育も少し違う。松本弦人はとても挑発的に欲望を解放していく。
この仕組みが使われる事でどんな本がおもしろくなりそうですか?
────────────
松本 日記とか、写真集とか、私小説とか、自伝とか、いろんな本があがっています。そのスタイル自体は普通ですが、内容はいろいろあってそれによって意味が大きく変わります。
震災後、ツイッターやフェイスブックなどのフロー型メディアがよくも悪くもすさまじく機能したじゃないですか。オイラはそれらを横目にあたらしいBCCKSの最後の詰めをしていました。BCCKSは最初からフロー型ではなくストック型メディアをイメージしてたんです。ブログやツイッターももちろん残るんだけど、書き手側も読者側もそれに適した仕組みにはなっっていない。欲しい情報や良い情報掘っていかないとみつからないし、ある角度で編集されたものもあまりない。本ってフォーマットは選ばれた情報がよくも悪くもある恣意が介入して綴じられるんですね。ウェブ上に誰でもずっと本のカタチで残せる、残す気になるメディア。それを目指してます。
原 世の中の流通の仕組みは、ホントにヤバいものはなかなか流通しないんですが、ここで本になるとそれらがまとまって流通してしまう。エクスタシーに達した人の写真を集めた『イキガオ』ってBCCKSの本を以前見せられました。
松本 あーヤバいですね。
本って、まあ、自慢じゃないですか。マクルーハンも言ってるように。
「本の未来は自画自賛の宣伝文句」
『マクルーハンはメッセージ』hmm0721Project編 BCCKS
原 そういう本は普通は流通しないんですが、ここだと流通してしまう。規制の中で作られてる本より自由で強い場合がある。
松本 世の中の9割5分はクソじゃないですか、たいてい。本にしてもデザインにしても。そんなクソは淘汰されちゃえばいいんじゃないですか? でも規制の中で作られていてもヤバイエロ本はちゃんとありますよね? すばらしいデザインも。それらの5分のものはどんなジャンルでもゆるがないと思ってます。逆に『イキガオ』と規制の本が影響しあっちゃうような関係ができたりね。
原 紙としてのドキュメントになるってどういう意味があるんですか?
松本 今は、電子デバイスと紙の本を同じ場所においておく事が大事だと思ってます。個人的には「紙は無くなるか?」的な話には全く興味がないんですよ。無くならないし。もちろん贅沢品になるとは思うけどたいした贅沢じゃない。そんな事より、紙と電子に同じコンテンツを置いてみて読んでみたり書いてみたり蔵書してみたりする。それをしたうえで考える。が大事だと思ってます。ほら、紙の本があるとないとで空間変わりませんか?
ああ、じゃあ、用意してきたドキュメントがあるので、それにそって全体を説明しますね。
松本が用意したドキュメントに沿って
以下細かい仕様やデザインの話は割愛します。巻末にまとめた「新しい出版」の章を参照ください。
BCCKSはUGMです。
CGM(コンシューマーの手によるメディア)
UGM(一般に限らない企業等も含むユーザの手によるメディア)
記事という単位で本を扱っています。記事はブログのエントリーのようなものです。記事は一日の日記にも一冊の本にもできる自由な単位です。その自由な単位の記事を複数あつめて綴じたものがBCCKSの本です。
綴じる本と編む本があります。ラーメンと検索してそれをそのまま本にしちゃうのが綴じる本。
それを、醤油、塩、トンコツなどに分類したりして手を加えるのが編む本。その両方が簡単につくれるツーツを目指してます。綴じる本はつくりも作られ方もかなり乱暴です。個人ユース以外には今は使えません。そのまま出版もできないですよね。でもグレーゾーンはたくさんあります。そこは乱暴に推奨していこうと思っています。綴じる本は出版レベルの本をイメージしています。章トビラをつけたり見出しを付けたりルビを振ったり写真のサイズを調整したりと手を加える事で本の体をととのえる。何でも出来る訳ではないですがおおむね出版レベルの体をなせる。
紙を含む全てのデバイスに展開します。全てのデバイスと言ってますがキンドルにはまだ対応できてません。それと今後も出てくるであろう名前もしらないデバイスにはたぶん対応できません。
紙は無くならないけど、意味は変わりますよね。紙の本を養護するのではなく使われ方を見て行きたいです。電話として使って携帯しているモノに本が入っているという事。それを物理的なカタチに綴じる事が出来る仕組み。一つのコンテンツがさまざまなカタチに展開していくということ。
原 電子ブックに怯える紙の本と並列にとにかくある。その中で何を選択するかと言うことが大事ということですね。紙にもデジタル書籍にもそれぞれに良いところも悪いところもある。そのコンテンツを単体で、複数でどのメディアで配列すると良いか、そのセンスが大事になってきているんだと思います。
───現場で起こした原稿で意図を汲めてない箇所があると思われます。現在校正依頼中です───
新聞がなくなるといわれますよね。
新聞が無くなっても困らないけど新聞社がなくなるのって困ります。
たまたま
新聞社のアクティビティは保持できる。そう考えると楽になる。
ウェブって編集された内容を掲載するものだったんだけど
今後もう少しインタラクティブに、巨大な
思考のカタチがかわってくる。
そういう気持ちにどうやったらなりやすいか。
一回松本さんがやっているような、
携帯に本をいれて、人に見せるような生活をしてみる。
Webの怖いところ、巨大なものの流れを考えてみる
────────────
松本 いい子なこと言うと、たとえば文字組ひとつをとっても、活版、写植、電算写植も知らないIT社長にはこのデザインは無理じゃないですか。文字組や禁則や斜体の使い方にはちゃんとルールがあって、それをやってきちゃった人がその積み重ねを次の世代のメディアにちゃんと残す事は責務だと思ってやっているところがあります。
読まれ方も変わってきてます。新書はコンビニが作っていると思っている若者がいます。iPadは冷蔵庫に貼り付けて使うモノだと思っているひとがいます。正しいんだけどね。時間はいろんな意味を変えていきます。今出版される岩波新書はどう受け止められるのか?
マルチデバイスに展開するというのは劣化したコピーをばらまきくことじゃないと思っています。それぞれのデバイスに適したパッケージがデザインがあります。kindleを見たとき、良い判型だなぁと思いました。Eインクをつかっていて、昔の130線くらいの本を読んでる感覚です。良い文字組って、ランニングハイのように気持ちよく加速するじゃないですか。あの感覚がデザインされてる。この軽さで何百冊も持ち歩けてこの読感ってのは読書体験そのもが変わりますよね。
様々なデバイスでのそれぞれ読書体験を用意する。それが大事だと思ってます。
原 今のiPhone、iPadって紙よりレゾリューションが細かいんですよね。電子デバイスの方が印刷物より精度があがっていくという事が起きている。6ポイントの文字は印刷では読めないけどiPhoneはちゃんと読めます。大辞林iPhone版があるんですが文字組がきれいなんですよ。iPhone版を見たあとに元の大辞林の文字組を見るともう汚く感じます。実は紙でもかなりぞんざいに扱われていたんです。
───現場で起こした原稿で意図を汲めてない箇所があると思われます。現在校正依頼中です───
カットイン、ディゾルブ、もう少し気持ちよい文字の見方。
人間が喜ぶというのは、視覚にとらわれがちだが、
そこを離れた所にも喜びがある。
ジェネラリストとして引いた発言をすると
粘土板のくさび形文字を見た。粘土板は表面張力でふちが丸くなってるそこまで文字が書かれてる。書く意欲がみなぎっている。結婚の約束とか、やぎを八百匹はらうこととか。
書き記す、ということは喜びの具体化。
四角
うちだたつる、町場の経済学に書いてあるんですが、
書棚になして、
────────────
松本 本棚は文脈じゃないですか。たまたま持ち歩いていた一冊を見て何かを判断されるのはすんげー嫌だけど、事務所に来られて本棚を眺めて何冊かを抜き出してその本について話し出したりするヤツはたいてい好きですね。
原 松本弦人の家に行って僕の本があったらよいなあ、と思ったりね。
松本 はは! それはない!
「言葉のデザイン」のサイトを見ながら
松本 オンスクリーンタイポグラフィの話を聞かせてくださいよ
原 オンスクリーンということではまだちゃんと活動してないんですが、自分のサイトを拡張させつつ、やっていこうとしています。
松本 (言葉のデザインサイトを見ながら)これは通常のウェブでは出せない書体ですね。サーバーフォントですか? クラウドフォントですか?
原 サーバーフォントです。
松本 タイトルは得意のMB101かな?
原 そうです。
松本 見出しは…、なんだろ? モリサワじゃないですね。
原 デザインは永原さんなんで詳しくは分からないんですが…
松本 でも原研哉デザインですね。
原 ディレクションはしてます。
松本 ああ、游系の書体ですね。このしつこいオールドスタイル。
クラウドとサーバフォントについて少し話してもらえますか?
原 htmlはちゃんと書体を指定できるんですが受け手のPCの中に指定のフォントが無い場合は他のフォントに置き換えられます。クラウドフォントの場合はグラウドソースにさかのぼって検索して使えるようになっている。つまりデザイナーの指定通りのフォントがウェブに表示されます。
松本 今年の八月にモリサワさんがクラウドフォントやるって発表しましたね。
原 東アジア圏で使えるフォントの開発をしようとしています。
松本 フォント業界ではCJK(中国日本韓国)を持ってるところが勝つと言われてますよね。デザインセンターの次期社長に直接聞きたいんだけど、クラウドフォントでモリサワレベルの書体が使えるようになると、例えばベンツのSシリーズのぶっ高そうなショールームに置いてあるぶっ高さそうなカタログの美しいデザインが画像じゃなくてそのままhtmlで再現されるようになる。それは当然、英仏独日中韓のマルチランゲージでマルチデバイスに展開される。それはグラフィックデザイナーでないと出来ない領域ですよね。もちろん「Push Pop Press」的なインタラクションの方向もありだけど、ドキュメントデザインの質がどっとwebに必要になると思います。そのあたり、デザインセンター的にはどうなんですか?
原
───現場で起こした原稿で意図を汲めてない箇所があると思われます。現在校正依頼中です───
ベンツの話が出ましたね。
書体はあまり使わないでもデザインできるんです。
明朝とゴシックがひとつづつ。なのでヒラギノで大丈夫です。
英語ならセリフとゴシックの美しいものがひとつづつ。
書体より、字間と行間、余白、そのこんとろーるが大事です。
────────────
原研哉のグリッドを見ながら
───現場で起こした原稿で意図を汲めてない箇所があると思われます。現在校正依頼中です───
これが僕のグリッドです。
ブロックとブロックの間が1行。
グリッドがあると自在に文字がくめるんです。
グリッドが無いと逆にスタティックになる、
グリッド作るとフレキシブルにできるんですよね。
松本 グリッドいくつくらい持ってます?
原 その都度つくるんですよね。写真を大きくしたいとか、文字を細かく見せたいとか。グリッドを持つと、自由に出来るんですよね。バッハの楽典みたいなものです。一個楽典をつくると巨大な交響曲もかける。
それがオンスクリーンになって狂ってしまった。意図したものが通用しないと狂う。
違うブラウジング環境になって狂ってしまったが、
さらに踏み込んできれいに出来るようになってきたのが今。
日本語をすぐに英語にするために、英語のグリッドを使うんですが、
日本語はバッハの楽典と違って、尺八のような感覚もある。
松本 そこもうちょっと聞いていい? これがオイラのBCCKSでつかっているグリッドで、判型のグリッドと文字のそれぞれの対応表があります。さまざまな判型に展開しなければならないので、こういう方法を考えました。
原 書などではなく
言語である、そういうときはできるだけニュートラルで組むことが大事だと思っています。
マックはヒラギノを使っている。
ウィンドウズはメイリオをつかっている。
あんまりフォントにはこだわっていない。
言語中枢を通過するものは、それで良いと思っている。
それと違って情感のあるものは、
意表をつく間の切り方をもたせたい。
尺八って意表をついて演奏されますよね。
逸脱の快感の為に、グリッドを使っている。
────────────
松本 逸脱大事ですよね。本って基本のフォーマットがあって、総扉、本文、奥付があって、そこにいかに間を持たせるか、流れを作るか、その地味な方法でいかに逸脱をつくか。
あ、原さんもう時間がないですね。最後のプレゼンどうぞ。
いくつかのデザインを見ながら
原
───現場で起こした原稿で意図を汲めてない箇所があると思われます。現在校正依頼中です───
こんなのを持ってきたました。杉浦康平さんの本の中にこんなよく分からない図像が出てきて、象形文字にも唐草模様にも見えてきたんですね。そこからイメージをしてこんなロゴを作りました。
北京オリンピックの2008ロゴをつくったんですが、
人があつまって一つのロゴになっている。
またこういうモノをつくりました、
人がいて、竜がいて、
唐草を森羅万象に見立てて、
文様をつくったり、
東アジアにはイメージのプラットフォームが一つあると思っている。
イスラムやヨーロッパとは違う、文字のイマジネーションがある。
聖書の本のカタチの中に
文字が入ってしまっているが、
文字の持っている生きてる感じは
そういうところにあると思っている。
フォントを作ろうと思ってるんです。
作り始めたばっかりんなんですが、
この字で組んだだけでかなり自分のデザインになるなと。
もう一回フォントに帰ろうと思っている。
田中一光さんのフォントはスクリーン向きのかたさがある。
楷書が唐の時代にできたんだけど、
おうようじゅんと言う人の書。
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松本 オンスクリーンの話がどうものらりくらりとかわされていると思ってたらフォントなんか作っていたんだ!
原 いやかわしてたんじゃなくて、いろいろな視点があって、全体の中から語っていかなければならないと思っている。
松本 ジェネラリストとしてね。
原 尺八みたいな間も、オンスクリーンの中で表現するぞ、と思っている。
松本 ジェネラリストはフォントつくんないね。でも、それはとてもよかったんじゃないの。
ジェネラリストとしてオンスクリーンタイポグラフィーのさまざまな視点を集めた会を開いて、原研哉の視点がそれを見据えた結果が一回りしてフォントをデザインする。うーん、それはすげーよ。今日一番のいい話できれいにオチがついた。
二〇一一年九月十一日 世田谷キャロットタワーにて
BCCKSは「だれでも本を作れるサービス」です。名前はBOOKの〝OO〟を〝CC〟に開き「開放された本」を表します。三年間で二万七千冊の本がつくられ、電子デバイスやPOD(PrintOnDemand)が普及し、考えてきた「あたらしい出版」を実現できると考え今年八月に「あたらしいBCCKS」にメジャーバージョンアップしました。
現時点では「あたらしい出版」の一部しか実現できていないプリミティブなバージョンですが、公開する意義を感じ、フライング気味にリリースしました。
では、「あたらしい出版」の六本の柱を追いながら、電子書籍のデザインを考えて行きましょう。
1 だれでも出版できる
BCCKSは「UGM(User GeneratedMedia)サービス」です。公開されてる本の多くは一般ユーザーによるもので、出版社によって紙の本になった例もあります。企業による本もあります。既存の出版物、展覧会、公募展、他のwebサービスとの共催企画、学校・ワークショップでの利用など、さまざまなコラボレーションも積極的に行ってきました。UGMとはCGMから派生した言葉で一般ユーザー(コンシューマー)とは限らないユーザーの手によるメディアの事です。
一般ユーザーと出版社や企業が並列で扱われるというのは、BCCKSの特徴の一つですが、今は電子書籍がその境界を曖昧にしはじめています。そこにかぎれば、一般と出版社の製造・流通の差異はとても小さく、あたらしいBCCKSはそれをさらに加速することになると考えています。
BCCKSは、新旧大小ごちゃまぜを目指してるわけではありません。さまざまなありようの出版者(社)が自由にあつかえる本来的なカタチを妄想し、「者」と「社」の「たがいに搾取のない」「意欲が健全にはたされる」、「だれでも」の「だれ」をどちらにもどのようにも規定することのないやわらかい仕組みをつよくイメージしています。
あたらしいBCCKSの本は、記事という一つの単位で構成されています。twitterのツイートやブログのエントリーと同じようなものです。BCCKSの本は複数の記事が綴じられたものです。
ひとつの記事は、一ページにも、一章にも、一冊にもなります。この自由な単位が「綴じる本」と「編む本」という二つの本づくりを可能にします。
「綴じる本」は、たとえば、twitterから読み込んで綴じるだけ。です。綴じるには[本をつくる]ボタンを押すだけです。本の知識がなくてもカタチになってしまう「そんなにカンタンに本作っちゃダメ」と怒られるべき本づくりです。
「編む本」は、表紙のデザイン、ページフォーマットの選択、版面の調整、写真の配置や大きさ、大見出し・小見出し、注釈の指定、ルビやリンクの指定など、編集の手の入った本です。「綴じる本」も、本らしくはなりますが、ちょっとの手が入ることで、より読みやすく、より伝わるようになります。
現状の編集ツールは必要最低限の機能ですが、文庫や新書の一般的な構成であれば、おおむね出版レベルに仕上げることができます。
2 紙を含むすべてのデバイスへ
あたらしいBCCKSは、一冊の本が、紙の本を含むすべての電子デバイスに自動に展開します。いまご覧のこの本がそのまま、PC・iPad・iPhone・android、そして紙の本としても読むことが出来ます。
本というパッケージは、CDやDVDのそれとは違い、文字・写真・絵といった「中身」そのもので形づくられています。文章の量で背の束幅はきまりますし、文字モノなのか写真集なのか図鑑なのかによって紙や印刷方法が選ばれます。本をデザインするときは、なにより大事なのが「どんな判型にするか」、で、…どんな紙にするか…どんな印刷にするか…どんな綴じにするか…どんな文字組にするか………と、続きます。それらがしっくりと落とし込まれていない本は、手に取っても本棚に入れても「なんだかな」なことになります。
はじめてKindleを手にしたとき「ああ、イイ判型だなあ」と思いました。BCCKSは「デバイスは一つの判型」であり「本は一つのデバイス」ととらえ、マルチデバイスという空間でのメディアデザインをしています。
いっぽう、「四六判ハードカバーで読みたい新刊」や、「古本がなんだかちょうどな文庫」があるのとはすこし軸をずらしたところに、「PC閲覧がふさわしい本」がうまれつつあり、「iPhone本棚に欠かせなくなる一冊」や、「五冊だけPODで刷る本」が、いまはあります。そして、今度は読者の側から「新書? ああコンビニで売ってる本?」とか「漫画はAndroidでしか読まないね」とか「レシピはiPadを冷蔵庫に貼り付けて使うモノ」といった閲覧選択が加わります。それらが折りかさなって、いまの位置から見るとイビツに感じる「これからの読書形態」がカタチづくられます。
これからの読書形態にBCCKSは、
中身そのものである「本」というパッケージ形態。
マルチデバイス空間でのメディア形態。
の両方のデザインとそのイビツな関係が重要です。
出版業界は今、なし崩しの渦中的なところが多々ありますが、「一冊のデータが、紙を含むさまざまなデバイスに出版される」というのは、劣化したコピーをばらまくことではないし、自炊サービスでもありません。劣化どころか、マルチデバイスでの新たな意味が生まれなければなりません。
電子書籍元年といわれた二〇一〇年から急激に熱がひいた二〇一一年。すくなくとも今この時点で大切なのは、紙はなくなるとか、電子は儲からないとかではなく、「いまは紙の本と電子書籍をおなじ場所におくこと」、そこで起きることから学び考えデザインすることだと考えています。
3 フローと固定のデータフォーマット
htmlは、blogがそうであるようにページエレメントをリフローして紙面をつくるのが基本構造です。
反対に、固定されたページエレメントを、決められた構成で綴じて固定するのが本です。※pdfの電子書籍は固定に含まれます。
フローと固定、この相反する構造を共存させることを目標にしてます。たとえば、見開きとシングルページの関係、写真と本文との位置関係、キャプションの量と余白の関係、などの調整。それらをキッチリ指定したい事と、いちいち指定しないでも何とかなってほしい事とのさじ加減。そしてそれらがどんな場合であれ、一冊の本として美しくまとまること。それらを実現するために「bxml」という独自データフォーマットを開発しました。このフォーマットは、他の電子書籍フォーマットとの互換性を保ちます。
フローと固定の共存という設計によって、用意された型にとらわれない様々な判形に対応する「カタチを持たないレイアウト」が生まれました。ユーザーによる自由なカスタマイズも可能になります。
4 読書体験/文脈としての本棚
「読書体験/文脈としての本棚を再現する」。これは大切な難題です。この難題を解くためには、さまざまなデザインとしくみに複層的な経験と思考を関係させる必要があります。フォーマットの考えかた、文字の組みかた、視線誘導、閲覧の操作性、編集の操作性、見えかた、造本感、本の所有感、本と本棚、その共有、などです。
この難題へのアプローチとして、さまざまな角度からお題を掲げています。
その一例です。
本は、その著者や編集者や発行人の「ある塊や地層」が綴じられている。
読者は一冊一冊、共感や誤読や拒絶などとともに個人的な体験としてその塊や地層をまともに引き受けたりかわしたり読まなかったことにしたりし、本との個人的関係を結ぶ。
一冊の個人的な読書体験に限っていえばソーシャルリーディングは不必要との判断もできるが、三〇冊、一〇〇冊と、その関係の重なりには文脈が生まれ、それがならぶ本棚を文脈として捉える。
「個人的」体験とは異なる位相での「ひらかれた」側面が本棚にはあり、それはソーシャルリーディングとの親和性が高い。
カバンに入っている一冊を知人に見られるのは恥ずかしく、人の本棚をジロジロと見て数冊抜き出す知人とは呑める。
読書という個人的な体験と、他とのつながりが見出せる文脈としての本棚。この「読書体験/文脈としての本棚」という、いまはまだアプリケーション化されていないであろう概念を、電子書籍というあたらしいフィールドにデザインする必要があります。
5 共有編集
共有編集というと「複数ユーザで一冊の本を編集する」ととれます。もちろんそれもありますが、BCCKSの共有編集は「一人でつくる共著」がしっくりきます。「一人でつくる共著」とは、たとえば、BCCKS内外で「ラーメン」と検索して[本にする]ボタンを押すと一冊の分厚い『ラーメン本』ができる、となります。ウェブで共有された記事を一人の編集者があつめて編集する。まずはそこから共有編集というものを考えてます。もちろんこれは本づくりとしては相当乱暴です。それは編集か? それは公開・販売できるのか? 印税分配は? など、理念、仕組み、使われ方の問題と可能性が複層します。BCCKSにとって重要な共有編集の仕組みの実装と運営は、慎重に、少しだけ大胆に進めていくつもりです。
「共有」という言葉の使われ方には違和感があります。「データ共有」の意にひきずられすぎてるのですが、元々の意を指すあたらしい言葉が思いつかないので、「共有(本来の)編集」という造語を使っています。
あたらしい出版のまとめ
だれでも出版できる
紙を含むすべてのデバイス
フローと固定のデータフォーマット
読書体験/文脈としての本棚
共同編集
これらが有機的に機能した空間に「本」が核として流通し、出版者(社)と閲覧者が密接に織りなす活動と成果物が、BCCKSの考える「あたらしい出版」です。
震災後のTwitterやgoogleの「フロー型情報メディア」の活躍を横目にしつつも、後々まで残せる「ストック方の情報メディア」の意義をつよく妄想しています。
正直、「あたらしい出版」という言い方には複雑な思いがあります。紙の本で育ち本づくりに関わってきたこれまでの時間と経験を、自らないがしろにしているところがあります。積み重ねてきたさまざまを手軽に置きかえてしまっているところがあります。イマイマの出版をこれまでない方向に押し曲げている鈍い手応えもあります。でも、いま立っている座標はすでにおおきく歪んでおり、「ここで黙っている」という選択は無いんですね。多くの間違いを内包しても、自分と出版界が積み重ねてきたさまざまを出来る限り引き継ぐことは責務じゃないかなと。
2011年9月11日 発行 第三版
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