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身辺整理とは言葉を忘れることだ。あたしはとにかくラベルを剥ぐ。なぜなら読んでしまうからだ。洗剤のボトルに貼られた注意書き、食品のパッケージに記載された成分表、購入した商品に貼りつけられた店名入りのシール。目に入ると読んでしまう。読めば意味というものが自分の中に侵入してくる。そして不意に何かにつかまってしまう感じがする。だから疲れる。読むという行為はとても疲れる。過剰に読みたくないと思う。
食器を洗うときにあたしは洗剤を取りに行く。自ら進んで関わりにいく。しかしそれ以外のときは、洗剤には洗剤以上でも洗剤以下でもなく、ただ事物としてそこにいてほしい。そんな思いからいつもラベルを剥ぐ。なんだか勝手な気もするけれど、関わりたいときだけ関わりたい。読まずにいたい、忘れていたい、断たれていたい。
覚えた言葉を忘れることは可能だろうか。ひとたび「毒」という言葉を覚えたら、「毒」という文字が目に飛び込んだ途端、ほとんど反射的に「どく」と頭の中で発音し、「危険なもの」という意味を読みこむ。そして用心深くなり、ひどいときは「毒」にまつわる林檎の物語を連想したり、母親が踏み方を間違えれば子という麦は毒となるという教訓譚を想起したりする。この一連が瞬間的な出来事に思える。視覚が文字をとらえてから意味を読み込むまでの一瞬の間。その間を断ち切ることはできるのだろうか。
きっとゲシュタルト崩壊を望んでいる。事物が事物としてそこにありながら、全体性が解体され、部分が断片に変容し、意味が失効していくような瞬間を待っている。そのとき世界はどのように知覚されるだろう。砂漠のようにすべてが一様に広がるのだろうか。物と物との境界線が溶け合って大理石のように渦巻くのだろうか。ひとつひとつの物が迫り出す土砂のように襲いかかるのだろうか。
そういった知覚に触れられた気がするのが中平卓馬の写真だ。ある崩壊感覚がもたらされる。言葉を習得する以前の意識に戻されて、事物を指し示すことができなくなる感じがする。あたしは自動車を知っている。知っているはずである。何度も見たことがある。運転したこともある。絵に描いたことも、文章に書いたことも、写真に撮ったことだってある。しかし見れば見るほど、自動車が自動車でなくなる。知らないもの。得体の知れないもの。つんとして、ごろりとして、どかんと、ぐしゃりと、ひゅっと、ある。はたしてこれは自動車か。どれが自動車か。どこからどこまでが自動車か。——自動車であったはずのものを、読めず、忘れて、断たれてしまう。
たしかに壊れゆく感覚があるが、退廃的な悦びはない。野蛮に快活である。意味は後退するが事物はそこにあり、むしろ迫り出す。事物たちが暴力的なまでに潜在させていた姿をさらして、迫り出す。名前は聞こえないが無音でなく、むしろうるさい。音と認めていなかったものが一斉にざわめいて、うるさい。関係は希薄になるが心細くなく、むしろ興奮する。ほどけながら新たな組成をはじめる予兆に、興奮する。崩壊感覚とともに濃密な圧力で眼が押される。
シャッターを切る眼には、自動車が自動車に見えていたのだろうか。中平卓馬は自動車を撮っているつもりは毛ほどもなかったと思う。自動車を撮っている限
——羽永がパフォーマンスを撮った他の写真家と区別されるのは、(中略)他のジャーナリストが無視した対抗文化の担い手を追い続け、権力に抗う行為者と運命を共にすることも辞さない真摯さをもって写真を撮り続けたことである。(中略)
芸術という意識があるかないかも違いはなく、芸術も反芸術も、風俗も政治も芸能もひっくるめて、資本主義的な効率性や都市空間の合理性からの人間の解放を求めるすべての行為が撮影の対象になったのである。——
本書収録、黒ダライ児「身体のユートピアを求めて」より 紙本はこちら 電子本はこちら
——たしかに壊れゆく感覚があるが、退廃的な悦びはない。野蛮に快活である。意味は後退するが事物はそこにあり、むしろ迫り出す。事物たちが暴力的なまでに潜在させていた姿をさらして、迫り出す。名前は聞こえないが無音でなく、むしろうるさい。音と認めていなかったものが一斉にざわめいて、うるさい。関係は希薄になるが心細くなく、むしろ興奮する。ほどけながら新たな組成をはじめる予兆に、興奮する。崩壊感覚とともに濃密な圧力で眼が押される。——
本書収録、五所純子「崩壊感覚、逆眼圧、回顧」より 紙本はこちら
——十代でデザイナーデビューし、二十二歳で人生初のサインを求められた時、とっさに描いたのが横尾忠則のサインの模写だった。(中略)
一枚のサインはエディション数1/1のドローイングであるにもかかわらず、サインはアンリミテッドエディションであるという矛盾。さらに、宇川の筆跡という矛盾が色紙に重なる。(中略)
筆先の降霊者、宇川直宏のサインだけがここにない。——
本書あとがきより抜粋 紙本はこちら 電子本はこちら
東京TDC賞は、東京TDCが毎年開催するタイポグラフィ&グラフィックデザインの国際賞だ。グラフィックデザイン/広告デザインに関するほぼ全てのカテゴリーを網羅し、15年前にはインタラクティブデザインも加わった。海外では「デザイン賞というものに懐疑的なデザイナーが唯一応募するコンペ」として、デザイン界の中で独特のポジションを築いており、受賞作の高いクオリティーは世界から注目を集めている。
本書は、国際賞としてスタートした一九九〇年から二〇一二年までの22年間の受賞作品をすべて掲載した、時代とデザインの関係を読み解く貴重な図録である。
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——「写真集」に取り憑かれた町口覚は一九七一年に産まれた。父親は写真集だ。生まれたばかりの赤ん坊に父親は、「雪国」「THE AMERICANS」といった写真集を『ぐりとぐら』のかわりに与えた。後に町口が手がけることとなる、森山大道、大森克己、佐内らの写真集も、その時ベビーベッドの脇に置かれていたのだろう。写真集の歴史を自身の時間として積み重ねてきた「町口覚写真史」が存在し、今ここに在る。本書はその〝時間〟を時系列に綴じた一つの写真集である。—— 本書まえがきより抜粋
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2017年4月21日 発行 第二版
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1938年生まれ。東京外国語大学スペイン科卒業後、総合雑誌『現代の眼』の編集者を経て、60年代半ばから写真を撮りはじめ、同時期に写真や映画に関する執筆を開始する。68~69年には多木浩二、高梨豊、岡田隆彦、森山大道とともに「思想のための挑発的資料」と銘打った写真同人誌『プロヴォーク』を刊行。70年に写真集『来たるべき言葉のために』を上梓した後、73年には映像論集『なぜ、植物図鑑か』で、それまでの自作を批判的に検証。77年に篠山紀信との共著『決闘写真論』を刊行直後、病に倒れて生死の境をさまよい記憶の大半を失う。翌年から写真家としての活動を再開し、写真集『新たなる凝視』(1983)、『Adieu à X』(1989)を刊行。2003年に初の回顧展「中平卓馬展 原点復帰-横浜」(横浜美術館)が開催され、改めて大きな注目を集める。以降も新作による個展開催、また内外のグループ展にも参加。2012年に『サーキュレーション――日付、場所、行為』を刊行、翌年ニューヨークで同シリーズによる個展が開催された。