とうふ観音
川づ かおり
まるchan
みずき
灯
華舞
l i s a
企画・発行
スタジオ 木の中庭
私らしさというのを持ちながら、今ここを生きようと変化し続ける女性はとってもハンサム! そのために必要なのは……? たくさんの考え方にふれて自分を知ること、だと思う。
Her storiesは「多様な考え方とスタイルを知ることこそ自分らしく生きるコツ」をコンセプトに、ライフスタイルも仕事も考え方も異なる女性たちのお話を発信するエッセイマガジンです。ライターが執筆を通して自身の振り返りと発見をし、自分の言葉で伝えていきます。そして、「より自分らしく生きたい」と願う読者に向けて、ハンサムに生きるためのヒント「たくさんの考え方やスタイルを知る」機会を提供することを目的としています。
毎号「言葉」を決めて、そこから連想されることを各自書いていくのですが、同じ言葉なのに思い出したり考えたり感じたりすることはバラバラ。文調も使われる言葉も人それぞれ。それは、考え方の違い、これまで生きてきた背景の違い、感性やセンスの違い‥‥‥その人らしさが出ているからだと思います。
それってとっても面白い! と思いませんか?
読んでくださる皆さんが「自分だったらどうだろう?」と想像をめぐらせる、自分を見つめる機会になったならうれしく思います。
自分らしく生きたい人のヒントになることを願って。
スタジオ 木の中庭
あれから3年
あの時の3年
これからの3年
「3年」の間に物事はかなり変化していると思う。
その事でもいいし
言葉から連想したことでもいいし
自分が読みたいことを書いてみて。
7つの
「3年」にまつわるお話をお届けします。
とうふ観音
とうふの恋。手遅れ編
川づ かおり
さいしょの3年
まるchan
あれから3年 〜巣立ちの時は近い〜
みずき
三年待つ
灯
頑張り続ければ報われる?
華舞(kabu)
人は何で開花するのだろう
l i s a
3年後のわたしへおくる手紙
~覚えておいてほしい13のこと~
あとがき
じいさんに恋をした。
私はそろそろ40歳になる。しかも2人の子持ち。
そのじいさんには4回しか会ったことがない。そして4回会って終わった。
3年前のほんの4ヶ月のあいだの出来事だ。
なんだったんだろう。あれは。ブワッと駆け抜けた。
私なんかはあとは上がりで、朝夕と子どものご飯をつくり、仕事ではデザインを粛々としつづけて、歳をとったら色鮮やかなノースリーブのワンピースを着ちゃうような、恥ずかしげもなくにの腕までさらけ出しちゃうような、ギリシャあたりによく居そうなおばあちゃんみたいになったら、あとはもうよいな。くらいに思っていた。
よく、恋をすると好き通しであればシンパシーが働き、二人の間に磁場が働く。相手とタイミングがバッチリ合ったり、居そうだと思うとそこに相手がふと現れたりする。というけれど、そんなことはもう私にはやってこない。仕事を辞めて都心を離れ、片田舎で家族と暮らしていく。そう決めてやってきた私には、10年前から日々の淡々しかなかったし、それでいいと思っていた。大体自分はこんなもんだろう。ものすごく好きだったタイポグラフィーさえ、デザインさえ、好きな作家さえ、日々の仕事で使うもの以外は、なんだったっけ? と淡く遠くのものに思えていた。狂おしいほど好きなものなんて、むしろ普通の生活には邪魔なものだろう。今の私には必要ないに違いない。たいがいのものはさして大したことではない。たぶん自分が好きなものさえ、ほとんどを忘れていたと思う。
だって、分娩台の上で、知らん男の先生の前で、でっかく股を開き、ギャーギャーと泣く赤子を2度も産んだのだ。
もう男も女もなくていい。上がりだ! そう思っていた。
ただ、こんな私が人を好きになった。まさか好きになるとは思わなかった。
しかもじいさんだ。歳は知らないけどきっと20近く違うだろう。
いや、本当に好きになったのか? これはエッカーマンがゲーテを崇拝するようにただの尊敬の気持ちなんじゃないか? キャー! ゲーテ様! ゲーテが言うことはとにかく全部好き。ってやつじゃないのか。いや。。でも、会えば、視覚から聴覚からなんなら皮膚からも情報がビシバシと自分の体に入ってきて、あまりの情報量に脳がパンクし、体はフリーズしてしまう。メールを送ろうものなら心臓がバクバクとして(これは私の手が文字を打ったんじゃない。送信を押すのは私ではない。)自分じゃない手に任せて目をつぶり、バクバクする心臓を抑えて指のえいや! にまかせて送信する。こういうのって恋だったっけ?
なんだったっけ? これだっけ? 恋とか。
今の私がドキドキするほど人を好きになるなんて奇跡だ。そんなの、遠い記憶すぎるし、だいいち、今までドキドキするほど人を好きになること自体、ホントにあったっけ?
そりゃあ遠い昔にこの人だろうなぁ。これを縁と言うんだろうなぁ。この人なんだろうなーと、シンパシーを感じた人は居た。でも、ドキドキとかしたっけ?
彼方だ。彼方すぎる。
忘れたなぁ。いや。覚えてるけど、淡くて。淡すぎてこのままそうっと置いておきたい遠い昔の物語。そして、旦那さんについても一応言っておくと、いいパパだ。別段なんの不服もない。
大体そのじいさんとはそんなに話もしていない。
思いもかけず、初めて会ったその日は、2、3議論して、この人には自分の言葉が伝わる! と思った。一発で伝わると思った。なんなら話さなくても伝わると思った。でも、そこからが問題だ。
2度目に会ったときは、cafeでの待ち合わせの日を私が間違えた。あとは記憶にない。
3度目に会ったときは、会う前にこれとこれとこれとと、スケッチブックに話したいことリストを書いて、見せたい本をバッグいっぱいにして持っていったのに、会ったとたん、話そうとしていたことがみんな打算的に思えて、ふっとどうでも良くなった。ふにゃふにゃと他愛無い話をして、何を話したかも記憶にない。その辺に転がるオブジェを撫でて時間がただムダにすぎていった。
4度目に会ったときは、ある講座を隣の席に座って一緒に聞いていた。その間、自分とその人の大きな不釣り合いに気がついてしまって、隣に座っているあいだ「釣り合わない」「身の程をしれ」と言う言葉が頭にガーンと響いていた。そう。私の今のファーストオーダー。やらなければいけないことは、子供を育てること。わかってる。わかってる。講座が終わると、「アンケートを書いて帰ります。」そう言って席を立った。
なんだかんだその人と会ったのはその4回。体には一切触れてもいない。
その間、子供は変わらず愛していたし、旦那や家族とのやりとりに変化はない。
メールでのやりとりだって、たいがい2、3行だった。短いんだ。ただ、その短さがいけない。ひとことひとことが胸に突き刺さり、ひとことひとことが私を鷲掴みにした。
はじめて車に乗せてもらったとき、シートベルトがギュッと体を締めつけてきてちょうどいいところで止まった。私がオオッ! と驚くと、ひとことぼそっと「抱きしめられましたか?」と言われた。
「抱きしめられましたか?」
そんなこと言う? そんな言葉選ぶ? あまりの衝撃に思わずノートにメモった。家に帰ってからも、抱きしめられましたか?、、抱きしめられましたか?、、しばらく頭の中で響いていた。
またあるときは、夜中の2時に、ポーンとメールで2、3やりとりしたあと、「早く寝ないとお肌が曲がっちゃいますよ」ときた。なんだねこれ。次の日起きたあと、これもノートにメモった。
言葉にツボった。それが一番かもしれない。
言葉選び。まとう空気。タイミング。
完全にツボにハマってしまったのだった。40手前にして、ツボにはまった私は、それまで忘れていた自分のあれやこれやをドバッと思い出していた。例えば自分の好きだった小説。好きだったファッション。好きだったデザイン。あれ? なんだっっけ? あれ? 何が好きだったっけ? 忘れていた。なんだっけ。自分が大事にしていたもの。自分て。なんだったっけ?
そんなことなかったじゃん! 自分のバランスがガタガタ崩れていくのを感じた。自分で自分が保てない。子供を産んでからの自分が一気に崩れ落ちるかもしれないという恐ろしい感覚だった。
落ち着けなければいけない。落ち着けなければいけない。なんでこんなにこの人がツボなんだ? なんでこんなに言葉に一喜一憂してしまう?
私は何をしたかったんだ? どうすれば自分を保てる?
ゲーテ、向田邦子、クラフトエヴィング商會、柳宗悦、葛西薫、フィリップ・ワイズベッカー、ルーシー・リー、ジャスパー・モリソン、、、
昔から持っていた本を読み返し、作品を新たに鑑賞し、チョコレートを食べ、コーヒーを飲んではコーヒーを飲み、
付箋のあとを追い続け、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせた。そしてその人に出会ってから4ヶ月がすぎた。私は、自分を落ち着けなければならなかった。
私はある日気がついた。
私は自分に恋をしたかった。もういちど自分に自分を大事にしてあげて欲しかった。あの人を通して、自分の像をみていた。そう思ったらスーッと気持ちが引いて行くのを感じた。ある程度の時間をとって、濃度が薄く引き伸ばされた。
一瞬でもあの人を好きだと燃え上がったのは、この人なら自分が伝わる! という確信だ。その言葉をもって、私に言及してくれたことで、自分をもう一度発見し、自分を丸ごと受け入れられるような気がしたのだ。それが、想像以上に嬉しかったのに違いない。自分が好きなものなんて、もうどうでもいいと、自分で自分を手放そうとしていたから。知らず知らずのうちに自らを大事にしてあげていなかったから、無意識下で身体は悲鳴をあげていた。自分でもっと自分を好きだよって言って欲しかったんだ。思い出してほしかった。絶妙にツボなタイミングで。確信を持って。
いま思うと、この恋は自分を長いこと蔑ろにしてきたことの代償だ。自分が好きなものを忘れ、こんなもんでいいだろうと手放そうとしていたツケが回ってきたんだと思う。
バランスを崩したことで、懸命に自分を取り戻そうと私の中の「美」をもう一度追い求めた。
自分は他人から発見される。
他人の吐くものの中に自分を見ることがある。寸分の狂いもなく自分が好きだったものを見つける時がある。
ありがとう。あなたは、自分を思い出すための天使だった。
大好きだったよ。男も女も関係なく、願わくばそのままずっと大好きでいたい。
だからもうお別れだな。
とうふ観音
田舎の街角デザイナー。
初めてエッセー的なものを書きます。
最初で最後かな。
どうぞよろしくお願いします。
私は伊豆生まれの伊豆育ち。
デザイン学校への進学を機に東京に出ました。
いくつかの会社を経て、「フリーランスで頑張るぞー!」という気合いこそなかったものの、人づてにお客様をご紹介いただいたりして、気がついてみればわりと早い段階で独立し、そこそこ食べていけるようになっていました。
その頃開催が決まった2020年のオリンピックも(今やコロナ騒動でホントにやるの? って感じになっちゃってますけど)こんな風にひとりきままに東京で観ることになるのだろうと思っていたのですが、人生なにが起こるかわからないものです。
叔母の紹介で恐ろしいほどあっさりと結婚が決まり、なにからなにまでタイミングがよすぎて、私自身の気持ちがおいてけぼりを食うほどのスピード感で伊豆へUターンする事になりました。
嫁ぎ先は私が生まれ育ったとなり町の神社。
東京に住んでいた頃、神社巡りが大好きだったので、神社に嫁げることはとてもうれしかったのですが、神社の中は初めての事だらけ。
聞かなきゃわからないけど聞いてもわからないという、軽く気が遠くなるような状況でした。
しかもお正月にしろ例大祭にしろ、年に1回ですから、1年経つと記憶がおぼろげになっているというこの歯がゆさ。
ところが、1年に1回でダメでも、2年に2回でダメでも、3年で3回やれば、なんとかこなせるようになるんですね。
今は4年目になったので、少しだけ気配りできる余裕が出てきました。
これは私が好きな時間説なんですが、
時間は過去から未来に流れているのではなく
未来から過去に流れている
言われてみればなるほどなと思うところがあって、私は高校を卒業してずっと東京で暮らすつもりだったので車の免許を持っていませんでした。
ところがある時ふと、車の免許を取ってみようかなと思い立ち、駅向こうの教習所に向かいました。
「今ならキャンペーン期間中で40歳までの方はお得です」
「えっと…明日誕生日で41歳になっちゃうんですけど明日以降申し込むのだとダメですよね?」
「そうですね〜」
いったん持ち帰って家でじっくり考えたかったけれど、今日申し込まないとだいぶお得じゃなくなってしまいます。
そうなると私の免許取りたい熱はたちまち冷めてしまいそうだったので、その場で申し込みを済ませました。
すると、その後すぐに結婚が決まり、東京で免許を取り終えてから伊豆に引っ越すことになったので、こちらで移動の手段に困るという事がありませんでした。
伊豆で暮らすという未来があったから
免許が取りたくなった
ような気がしませんか?
なぜか無性に気になる事って、将来につながる何かかもしれないんですよね。
川づ かおり
フリーランスのデザイナー。
いつもフクロモモンガを膝に乗っけて仕事しています。
まるデザイン工房
maru-kobo.jimdofree.com
今、長女のひとり暮らしのアパートで書いています。
3年前、中学2年生で、高校や、やりたい仕事を考えていた次女。
「パティシエになりたい! 通常高校へは行かず専門学校に行ってすぐに学びたい‼」
と私に伝えてきました。えっ! っと思ったけれど、否定はせずひとまず受容!
「そうなんだ。どこを探したの?」
と、言葉が出ました。
日頃の仕事で相談業務に携わる事も多く、傾聴を心がけてはいますが、いざ家族の事になるとブレてしまいそうになる。。だから、この言葉「そうなんだ。」が、出た自分に少しホッとしました。
「鎌倉」
(えっ! それは遠いよ! 通いきれないんじゃない? 高校からのひとり暮らしは無理よ! 認められない!)
頭の中に一気に浮かんだ言葉。それを、ひと呼吸して、脳内変換させて出た言葉は、
「オープンキャンパスはいつ? 行ってみなくちゃわからないから行ってみよう。」
そして、実際に行って・見て・体験して、本人も思っていたものと違うと感じたのか、帰りに鎌倉を散策し自分へのお土産を買い、この学校の話しは終わりました。
そんな事があってから3年。
今は高校2年生の3月、大学に向けての岐路に立っています。
長女が社会人となりひとり暮らしをしているので、2人暮らしになるように2人でなにやら私には言わずに相談している様子。やりたい事も変わったので、目指す大学も変更。長女の時もそうだったけれど、最後に『自分で決めた』と感じて行動に移す事が本当に大事なのだと感じています。
誰の人生でもない、自分自身の人生を生き切るために。親の願いはただ1つ。
『笑顔で生きていること。』
これに尽きます。他の事はなんとでもなる! でも命だけは替えがない。笑顔が消えるのも心が失くなってしまうこと。これも人生を生きていると言えるのか。。と思うので。。
どうか、長女らしく、次女らしく、笑顔で生きていって欲しい。
毎年3月末になるとツバメが我が家に帰って来ます(やってくる?)。私がするのは、運(フンをウンちゃんと呼んでます)の片付けだけ。あとは自分たちで生活し、8月前に巣立って行きます。
2人の娘に私が出来ることは、ここにいていつでも帰って来れる『変わらぬ安心の場所』であること。ちょっぴり(ちょっとじゃない! とツッコミを入れられそうですが)変わっているらしい私です。でもそれがこどもたちにとっては『いつもの母さん♬』だからこのままでいていいのかなぁ。と思っています(笑)
長女の巣立ちの時、大泣きでした。次女がまだ家に居てくれたのに。次女の巣立ちは、もっと大泣きになるのか、免疫がついていて笑顔で見送れるのか、その時が来ないとわかりません。でも、その日が来るのは確実。一緒にいられる『今』を大事に、たくさん会話をして笑って過ごすことが、巣立ちの日に笑顔で送り出せる最大の方法なのだと思い、1日1日大切に生活しています。
子どもたちよ。
大きく羽根を広げて飛んで行け!!
母はいつでもここにいるよ!!
まるchan
(稲葉 優子)
静岡県東部の劇団『シアター万華鏡』に所属し30年。
役者や制作として活動。
また、地域の読み聞かせ・おはなし会を『火ようおはなし会』
『福朗のよみもの屋』『玉手箱』などのグループで22年継続して活動。
静岡県子ども読書アドバイザーの資格取得。
未就学児対象の療育施設で保育士として勤務。
棺に納められた父の顔を家族の誰も見ていない。何故ならば、生前に父と交わした約束を家族で守ったからである。
父が齢八十三で旅立ってから十年が経つ。余命半年といわれた時から父は実に潔く幕を閉じていった。会っておきたい人には連絡して会いに来てもらい、全てを自らの口で伝え、笑顔で別れの挨拶を済ませていった。
その年は桜が満開になるのが遅かった。
「桜が咲くまで頑張って」
と私が言ったら、ベットの上の父は
「もう散々見飽きた」
と、吐き捨てるようにいった。最後まで明るく穏やかな父だったが、その時だけは怒っているように見えた。がんセンターの緩和ケア病棟の窓から見える桜の梢には、今すぐにもほころびそうな蕾たちが小さく揺れていた。私はこの先ずっと春が来るたびに、満開の桜を見飽きるなんてことはないのに、と心の中で思うのだろう。
父が病気になる数年前のことである。姉と私は父に呼ばれた。父から伝えられたことは大きく二つ。
「自分が亡き後、葬儀、通夜は一切執り行わないこと」
「遺体は検体に出すこと」
「白菊の会」と書かれた書類を出してきて母と娘である姉と私にハンコを押せという。大学の医学部に検体するという承諾書類だった。私たち親族に医療従事者はいない。なぜ父が検体を希望したのか聞いた記憶はない。ただその時の父の口調が、皆への相談ではなく命令だと私は受け取った。姉も私もまだ先のことだ、くらいの感じしかなく父に促されるまま何も言わず承諾の判を押したのだ。
簡単な説明文の中に、検体後遺族の元に帰ってくるのは三年後という文字があった。そこまで読んだ母がひとことだけ呟いた。
「長いね」
母の持つ印鑑が震えていた。後に姉も私も「検体」というワードで検索しまくった情報を母には話さないでおこうと決めた。立派な父だ。という前に母にはその志を誇りに思う余裕はなかった。
桜が満開になった朝、父は静かに息をひきとった。全く苦しんだ様子がなかったので、父の死が現実のものとしてのみ込めない。次第に冷たくなる以外、何も終わってないように見える。一年で一番いい季節を迎えようとしているのが不思議なくらいだった。これから執り行われるはずの納棺の儀式も葬儀の段取りも何もない身内の死は、悲しみの置き場がない。
昼前には検体先の大学病院から迎えの車が到着した。葬儀社の車の仕様とは明らかに違う一見普通のシルバーのバンだ。後方から滑るように父は乗せられた。長く響くクラクションもなく、あっという間に車が走り去った時、初めてこみあげてきた。母が呆然と立ちすくみ、肩を震わせているのを見た瞬間に涙が溢れて流れた。最後に父は、もう見飽きたといった桜を見たのだろうか。仰ぎ見た空は明るすぎた。どこまであっぱれな父なんだろう。
そして本当に通夜も葬儀も行わなかった。ほんの身内だけが自宅に集まり、食卓を囲んだ。何事もなかったかのように日常に戻っていく。書斎に入れば父の匂いがそのまま残っていた。父はもう一仕事しているんだと心に言い聞かせ、私は涙をとりあえず封印する決心をし東京に戻った。
父が亡くなってから、親戚や知人の葬儀に出る機会もあったが、その度に父の御霊は一体どこを彷徨っているのだろうという思いで帰路についた。我が家の考え方に賛同できず心無いことを言われたこともあった。母はその都度小さな背中を余計丸めた。
三年という月日は静かに流れた。私たち家族にとって、父へは「行ってらっしゃい」という気持ちのままだ。
桜の便りと同じころ、突然父の遺体が帰ってくるという連絡が来た。引き取りの場所は都内の火葬場だった。棺を開けることは許されなかったので、父の名前が大きく書かれた紙が貼ってある蓋の上に私は手紙を置き手を合わせた。考えてみればその時初めて、父に手を合わせたのだ。
「父へ
子供のころから「尊敬する人物は」という質問に「父です」と、即答してきました。そんなあなたの子なのに私はあまりに情けない。怠け者でいい加減。でも一つだけ言えるとしたら、私はあなたの血が流れているんだから、誰かのためになる生き方をきっと模索しながら生きていくだろう、ということです。あなたの子供であることを誇りに思いながら。
もう薄暗い解剖室から出たんだから、どこからでも見えるでしょ。見守っていてください」
骨壺を入れた桐箱を抱いて丸まった母が父に言葉をかけた。
「お帰りなさい。ご苦労さまでした」
父の笑い声が空から聞こえた。やっぱりあの日と同じ明るい空だった。うっすらと滲んだ涙は、もうこぼれ落ちることはない。
あれから3年、私は今特殊な分析機器に囲まれて1日の大半を過ごしている。
2人目の子供が生まれてから、私の生活は一変した。
今3歳になる上の子が赤ちゃんだった時はまだ自分の時間があり、仕事をする時間も少しホッとできる時間もあった。
しかし2人目が生まれてからはほとんど自分の時間がなくなった。
産後すぐは応援にきてくれていた義母がいてくれたが、さすがにずっとは頼れない。
実家も義実家も近くない。夫は都内に通勤、朝早く夜も遅い。ほぼワンオペだ。
産前まで上の子はなんとか保育園に入れていたが、フリーランスの仕事の受注をセーブしていたため、このままだと退園だと役場から言われてしまった。
【産後3か月までに就職しないと上の子は保育園退園】という現実を突き付けられたのだ。
その時、ちょうど引き出物の仕事の話をいただいたので受けたのだが、ただでさえ少ない睡眠時間を削ってこなす日々。
しかし、その注文は仕事として認められず『自営業なんだから家で子供見ながら仕事できるでしょう』と言われてしまったのだ。
2歳と0歳を世話しながら、家で仕事…店舗を持たない自営業は仕事と認められないような口ぶりだった。
『外で働いている人が優先です』
私のように、最低賃金以下で働いている自営業は、仕事とは言えないそうだ。
それでも新郎新婦のために、一生懸命やればやるほど時給は下がっていく(これは一定額の報酬で仕事を受ける自営業の落とし穴とでもいうのだろうか…新郎新婦を思うが故に稼働時間は増え時給が下がる)
現実を突き付けられた。
一生懸命やればやるほど、仕事として認められないとは。
たくさん試行錯誤した。
たくさん考えた。
たくさん悩んだ。
たくさん泣いた。
それでも時間は待ってくれない。
私は、引き出物プランナーをサブの仕事にしようと決めた。
自分がやりたいことを続けるためには、今は外で働くしかない。
そうとなれば善は急げと、すぐ就職活動を始めた。
生後1か月の乳児を抱え、ハローワークを訪れた。が、そこでもまた、自分の無知さを知ることとなる。
ハローワークの職員の女性が困った顔をして
『産休期間の産後6週間以降でないと就職活動を始められません…』
と申し訳なさそうに教えてくれた。
産後3か月というリミットに焦り、急ぎすぎてしまったようだ…
そんな感じで私の就活が始まった。
暇さえあればスマートフォンで求人検索。
ハローワークでも相談。
気になる求人にはメールや電話で問い合わせ。
でも、問題はやはり【保育園】だった。
『保育園が決まってないんじゃ採用はできない』
そして
『就職が決まってないんじゃ保育園は入れない』(求職中でも申請はできるけど合格率はかなり低い)
八方ふさがり…
正社員で安定していて復帰が決まってないと、だめなのか…
絶望的だった。
私が大学生の時は就職氷河期真っただ中。
私は職種を絞りすぎたためか就活に失敗し、研究生という立場で研究室に残り、研究しながら就職活動をした。
1年後、結局技術者の派遣会社に登録をし、派遣先も決まり研究生を卒業。
派遣社員として製薬会社の研究所で実験助手をし、研究技術職として正社員に転職することができた。
しかしそれも結婚を機に非正規雇用の世界に戻ったのだった。
一度正社員になれた時に、正社員を諦めなければよかったのか。
…でも、そうだったら今の私はここにいない。
就活を始めても、小さな子供がいる(保育園未定)ということで不採用続き。
家事育児保活就活に疲れながらも、産後2か月目が過ぎていった。
実は、ここまでは6年程経験のある「知的財産」の事務職をメインに求職活動をしていた。
子供が小さなうちは事務職の方が都合がよいと考えていたからだ。
ただ、都会にはごまんとある求人だがこの界隈では数える程度…
片っ端から受け、落ち、行き詰った。
そこで考えた。
研究畑に復帰してみようか。
知的財産の仕事と同じくらい経験年数のある「研究技術職」。
動物実験技術士の資格が履歴書に書ける。
知的財産管理技能士も書ける(研究に知財の知識は役に立つ)。
ある程度の基礎研究技術は叩き込まれている。
静岡県東部は研究所が多く集まる場所、ひとつふたつ引っかかるのではないかと。
研究開発派遣を専門としている派遣会社数社に登録をすると、すぐさま仕事紹介のメールや電話がきた。
食品会社での分析業務
製薬会社での薬物動態試験
医薬部品の安全性試験
etc…
私が大学時代から培ってきた経験で、こんなにも様々な業務につけることに驚いた。
ただ不安の種は、それは勤務時間と業務内容だった。
保育園に預けてお迎えに行けるまでの間で働けることが前提だ。
今まで経験してきた研究技術職は、残業は当たり前、40度の熱があっても出勤しなくてはならないことがある(長期的な実験は途中で止められないなど)という経験をしてきたからだ。特に動物実験や細胞培養などは。
事務職とはうって変わって次から次へと求人情報がやってくる…
今度は多すぎて困ってしまうという事態に。
タイムリミットも迫っている。
どうしよう。
そんな時、運命の出会いがある。
就活に疲れた私は、まだふにゃふにゃの下の子を連れて行きつけのカフェに行った。
そこでたまたま隣の席になったマダムが、私の就活に終止符をうつことになるとは。
一人でご飯を食べてぼーっとしていると
『あら、かわいいわね。何か月?』
と声をかけられた。
マダムという呼び方がとても合う素敵な女性だった。
話を進めていくうちに、初対面なのになぜか就活相談をしてしまう私。
とても話しやすくて安心する雰囲気の方だったからだろうか。
「上の子もいるんですけど、仕事決まらないと保育園追い出されちゃうんです」
と言うと
『あなたはどんなお仕事経験されてきて、どんな仕事を探しているの?』
と話を聞いてくれた。
一通り私の経歴を聞くと、急にスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかける彼女。
『あなた今いい? 実はこんな~~~ことできる人が仕事探してるんだけど、あなたのところで人欲しがってなかったっけ?』
きょとんとする私をよそに話はどんどん進んでいく。
『じゃ、伝えておくわね。また』
と電話を切ると
『主人のところでちょうど人を探しているのよ。よかったらどう?』
と…
話を聞けば、この辺りでは誰もが知る有名企業の偉い方の奥様だった。
そこの研究所でちょうど求人を出そうとしていたところだったと。
それからとんとん拍子に話は進み、1週間で仕事が決まった。
なんとも、信じられないくらいにスムーズに。
しかしこれでひと段落ではない。
そう、保育園問題。
下の子は4月入園がダメだった。もちろん年度途中入園はほぼ無理に等しい。
就職面談で『保育園はまだ決まってないようだけど、本当に大丈夫?』と聞かれ「なんとでもします!」と答えてしまったから…
就活を始めると同時に、近隣の認可外保育園や託児所に片っ端から電話をかけていた。
『年度途中は難しいんですよ』ばかりだった。
どうしよう、あと10日で勤務が始まってしまう。
義親にきてもらうか、実親にきてもらうか。でもそれも何か月というわけにもいかない…また行き詰った。
そんな時に、ワーママの集まっているSNSグループに参加していることを思い出した。
ママ友のいない私にとって、働くママさんたちの情報網がこんなにもすごいとは知らなかった。
もうすぐ仕事が始まるのにまだ保育園が決まっていないこと、片道30分くらいなら頑張れる・保育園や託児所の情報をもらえないかと書き込んだ。
すると次から次へと情報が集まる。
『〇〇市のここは空いてなかった?』
『〇〇町のあそこは2歳までだけど相談にのってくれるよ』
すでに電話して聞いたところも含まれていたが、その中で2つ問い合わせていないところがあった。
ありがたい! すぐさま電話をかけると2つとも0歳児枠が空いていたのだった。
1つは、検索してもHPが見つからなかった小規模託児所(HPはあった)。
もう1つは、企業主導型託児所で開園したばかりだった。
両方とも見学をして、話を聞いて、雰囲気や保育士さんたちを見て。
家から車で10分のところにある企業主導型託児所に申し込めたのが、仕事が始まる4日前!
大げさかもしれないけど…首の皮が一枚でつながった。
週明けには仕事が始まる。
少し前から相談していたので、週末から義母が来てくれて慣らし保育の間いてくれることになった。
また、託児所の空く時間と上の子の保育園の登園時間と私の出勤時間が合わず(これは見学の時にわかったが選んでいる猶予はなかった)下の子は週5でファミサポさんに送迎をお願いすることになった。
こうやって、私の「(外で)働く母」生活が始まった。
産前から怒涛の数か月…もちろん、仕事が決まり保育園が決まったからといっていろんなことがスムーズにいくわけではない。
子供の体調不良による急な呼び出しもある、そのたびに実験を中断しなんとか区切りをつけて迎えに行く。
子供が2週間入院してしまい、私も病院に缶詰めになったこともあった。
そんな突発的なことにも、とても理解のある職場に人間関係、本当に恵まれている。
あの時あのカフェでマダムに出会わなかったら…と思うとやはり運命の出会いだったんだ。
仕事を始めてもうすぐ1年経つ、私も子供もやっと慣れてきた。
引き出物の仕事も、営業はしていないけれどありがたいことにポツポツお話をいただく。
受注をセーブしながら、周りの人たちに支えられてなんとか日々生きている。
今まで、頑張ればなんとかなると思ってきた。
でも、頑張ってもどうにもならないことが世の中にはある。
それでも頑張らなきゃいけない時もある。
報われないとわかっていても。
東京大学の上野千鶴子名誉教授が入学式に学生に贈った言葉を思い出す。
『がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください』
もちろん、この前後にはもっと多くのメッセージが込められて学生に伝えられている。
ただ私には、この一文がとても大きく心に刺さった。
それは絶望ではなく、勇気をもらった。
今回の一連の出来事は、まさに環境のおかげだということ。
幾度となく行き詰り、悩み、泣き、動いて、知って、出会い、本当にたくさんの人の助けがあって今ここにいる。
でもそれは私が諦めなかったから、周りの人が助けてくれたんだ。
頑張り続ければ報われる。きっと。
でも、頑張れない時だってある。誰でも。
だから人は助け合って生きている。
今日も1日、分析機器とにらめっこ。
時間がもったいないからお昼休みも2分割して実験を組み込んで。
そして定時になったらかばんをひったくるようにして職場を出て、子供たちを迎えに行く。
灯
引き出物プランナー、贈り物コーディネーター
学生時代は畜産を学び、卒業後は製薬会社の研究所で技術職として勤務。その後特許ライセンス業務に就き、妊娠出産を経て現在はまた研究技術職に復帰。趣味の、旅や食べ歩き・お取り寄せをキッカケに自身の結婚式でカタログギフトを自作。その後【引き出物プランナー】【贈り物コーディネーター】として開業。ヒト・モノ・コトとの出会いを求め、家族を巻き添えにし、休みの度に車で走り回っている。
ブログ
http://ameblo.jp/kokoro-no-tsumeawase/
Instagram
@hikidemonoplanner
3年前春 伊勢神宮に私はいた所属する会社の研修合宿の終わりに寄ったにすぎなかった。
あの頃の私は、仕事のスタイルといえば家族重視のスケジュールで結婚してから家族を置いて実家でさえも出産以外に泊まったことなどない生活をしていた。
観光地としての伊勢神宮の知識しかなかった私は、そもそもお伊勢さんは外宮からお参りするものだと知った。3年前の私は、スピリチュアルなどと縁遠い、未知どころではなく別世界だった。
参拝は特別参拝でその前に舞も見た。扉が開かれた風景が見えたそんな気がしていた。
お伊勢さんに迎えられると、手を合わせている時に突然風がふき、布が手前に揺れるんだと友人が教えてくれた。私の目の前でゆったり揺れている布をみて不思議と心が安らんだ。
あれから3年
昨年偶然また伊勢神宮を参拝した。今回も伊勢に特別いきたかったわけではない。
私が行きたかったのは別の神社で、たまたま久しぶりにあった友人がその神社に行くと聞き、ついていくことにした、ただそれだけだった。
出発日当日朝起きたら激しい雨が降っていた。
友人の車に乗り伊勢へ向かう道に、大きな虹は現れた。
それも別の友人がFacebookで虹の話の投稿をあげたのを見ていたその時だったから驚いた。太くて綺麗な虹だった。そう大嘗祭、この日は大嘗祭の日だったのだ。
伊勢につくと何人か合流し、何もスケジュールの決まっていない旅が始まった。
星占いを皆さんは信じるのだろうか? 生年月日が同じ人が沢山いるのに、同じ運命なはずがない。よくそういう言葉を耳にするが、私は好き。友人からあなたにも守護神がいますよと言われた時に、すぐに生年月日で調べてもらった。私の守護神は、豊受の神様だった。天照大神を食で支えた神、目立たないけどいなくてはならなかった神様。
そう教えてもらった時、初めて自分の立ち位置を確認し、肩の荷が降りた気がした。
そうそう伊勢話をしていたのだった。
メンバーはそれからスケジュールを決めるのに盛り上がっていた。
そして決まった先が外宮、豊受の神が祀られている場所だった。特別参拝をすることになり、中に入ると大嘗祭の御支度をみることができた。
特別な日に自分の守護神にお参りできた、それだけで満足だった。
内宮は時間がないから行かないはずが、なぜか行くことになった。熊野まで行きたいスケジューラーの友人は、多少焦っていたが流れに任せることは拒まなかった。
私達が進む道は開かれてスムーズなのに、反対の道は混んでいた。特別な日なんだとぼんやり実感した。
内宮参拝後進んだ道で奇跡が起きた。
御朱印を頂きふとそばの鳥居を見ていたら、人が並び始めた。
なんとなくそこに佇んでしまう私達、そこに天皇陛下の妹の黒田清子さんが現れた。
雅楽と共に鳥居の下で大嘗祭の行事が始まったのだ。厳かとはこのような場面に当てはまるのだろう。粛々と行われる優雅な世界を目の前で眺めながら、この場面に出会ったことにただ感謝しかなかった。舞台は道に突然現れるのである。
この後、この旅はミラクルの連続で話題には事欠かないのだが、今日のテーマは3年だから、この続きは書くのは止めておこうと思う。
3年前のあの日から、神社は導かれた人が、導かれた時に行く。そんな話を聞くことが増えた。そして導かれた人しかいけない神社もあると聞いた。その神社に惹かれながらも、あの頃の私はそんな話は私とは縁遠い話だと思っていた。
開かれた道は、開かれたことに気づかないことがある。
当たり前に生きていると当たり前に移行していることを、引き寄せということもある。
生きている限り、歩みを止めないのが普通のことで、そもそも止めようとしてしまうからスムーズに生きられないのかもしれない
3年という年月が、本当は一瞬なのかもしれない。
なぜか扉を開けてしまったような気がしている。そして扉に気づいていない人にも気付くようになった私がいる。そろそろみんな気づくべき。
誰かに何かを学ばなくても、闇雲に学びに行かなくても、自分の中に答えはある。
導かれた人しかいけない神社に、3年の間にいけてしまった。
私の中に何の変化があったのかは、わからない。でも蓮の花も自分で開く。
神羅万象 森羅万象 恵もたらす必ずや
あなたの扉は、どこにありますか?
開けてみるおつもりはありますか?
自分で開けられることに気づいてますか?
道は足元にある。舞台は足元にある。
どんな舞台になるのかの選択は自分。
自分らしく舞うことが、生きること。
そんな気がしてる春です。
「調子がいい時」というのは、ノーミスとかうまくできる時じゃなくて、それをやっていてたのしい時だと思う。例えば演奏の仕事。その日5回も演奏(この時期のわたしは、週1で、挙式でオルガンを弾いています)しなくちゃいけなかったとしても、調子がいい日はへっちゃら。体は疲れていっても、気持ちは高いまま。だって弾くのがたのしいから。
たのしいって最強の味方なんじゃないかと思う。だから、たのしいときのあなたは、他の人の最強の味方にもなっている。
作品が好き。流行をこえて、長く愛されるもの。歴史に残っていくもの。
活動している・していないにかかわらず、生存の有無にかかわらず、これまで世の中に出してきた作品の存在やそもそもの価値はなくならない。だから、もし今、活動できていない・作品がつくれていない・スランプだったとしても、安心してほしい。みんなの中から私という存在感が薄れていったとしても、それは今だけの話で、でも作品はずっとそこにあって、たまに誰かがのぞいて、その中の一人ぐらいは感化されていると思う。過去の自分に今の自分が感化されることってあるじゃん? だから少なくとも一人はいるってこと。
それに、作品として世に出ている以外の時間、要は表に出てこない日常というのは、こう地味なものだと思うよ。コツコツ、質素な時間。そもそも、ドラマばかりの人生を歩めばすごくなれるの? そうとは言えないよね。あの偉人中の偉人、ソクラテスさん、生涯の大部分は妻とともに静かに暮らしていたそうじゃないか(『退屈力』齋藤 孝 (著)・文藝春秋 を参考)。偉人の生涯にしても、2、3の偉大な瞬間を除けば、興奮にみちたものではなかったそう。
だから、焦らずに。飛ぶときもあれば歩くときもあるのだと思っておこう。
アーティスト名とは、つまり、もう一人のわたし。
叶えたい夢がある。でも、叶えたくない自分が秘かにいた。どうせできっこない……とこころの奥底で感じていて、でもその不安を隠して夢に向かおうとする。すると無理がきて、途中で動けなくなる。
そうだね、今のあなたじゃできないよ。だって今のあなたは、これまでのレッテルによってつくられてきたところがある。縛られている。自分でも貼ったし、周りの人からも貼られてきたレッテル。周りに馴染もう、目立たないよう嫌われないよう、バカにされたくないと本音を隠すために貼りつけてきたもの。同時に、守ってくれていたもの。
ただもうそこのステージはクリアしたいなと思って、かといってゲームのようにワープはできないから、アーティスト名をつくることで抜け出すことにしたんだ。
毎月12日は父のお墓参り。墓石をふいて、お線香をあげる、1時間の、すっかり慣れた作業。
ピカピカの墓石に映るわたしを見て、ふと思うこと。
「この人の人生はなんだったんだろう?」
運があまりなく、抱いた憧れも叶うことはなく、我慢ばかりして(そこはちょっと自業自得でもあるんだけど)、最期まで全然幸せそうじゃなかったように思える父。嫌いではない。だけど……娘のわたしがこう言ったら酷いなとは思うんだけど、自慢できるような感じではなく、この人の人生はちょっと……惨めだったな、と思ってしまうときがあった。
でも今年の2月、ピカピカの墓石に映るわたしを見て、ふと声を聞いたきがした。
「余計なお世話なんだけど! 笑」
笑いながら、少しあきれたように言う父の姿が浮かんだ。
あ、そっか。そうだよね。
ふと腑に落ちた。
その人の人生を本当に判断できるのは本人だけだ。外野にどう映ったとしても、その人がその人生を選んで生ききったことが尊敬に値する。わたしの人生もどうなるかわからない。人から見れば苦労しているように見えるかもだし、ものすごくうまくいっているように見えるかもしれない。でも、たぶん、いつの時も悩んで笑っての繰り返し。だから、自分で感じたことこそが真実。
父が一番好きだったケーキは苺のショートケーキ。誕生日にはいつもそれ。
今年も父の分までケーキを買う。結局はわたしのお腹に入るから口実なんだけどね。
あなたの人生はそれでよかったと思うと、わたし自身に言えるようになること。それは自分への最高のご褒美なんだ、きっと。
ある日、母が「今の願いは80歳まで病気もせずお金に困ることもなく生きること」と言っていた。
そんな無難なものでいいの? もっとこう、あれしたいこれしたい、何々を始めたい、第2の人生謳歌する! とか、生きてる! 感つよいものないの?
つい、そう思ってしまった(相変わらず失礼な娘だ)。
でもね、「父の人生はそれはそれでよかったのだ」の後に、やっぱり、「母もこれでいいのだ」と思った。
パッション! アーティスト! みたいな生き方に憧れるんだけど、それはわたしの話=人生観であって、親子といえどもそこは全く違う。母の願いはいつも「普通が一番」。母はあんまりぶれない人で、だから80歳まで~も一貫しているじゃないか。それに、無難なことがいつ覆されてもおかしくはない世の中。だから、侮ってはいけない(この時期は新型コロナウイルス騒ぎの真っ只中です)。
ちなみに小さい頃から母の「普通が一番」に反発していて、「普通カテゴリに押し込めないで!」とむっと感じていた。20代半ばで我が家の思う普通レールを外れることにした。大学は出たけれど、この先この道に進むことはないと気づき判断し、大学院は中退した。いろいろな仕事を経験してみたくて、正社員にはなったことがない。音楽を仕事にしたいアーティストになりたいと、あきらめるどころか未だくすぶり続けて消そうとしない。最初は理解されない、この子は今だけ運がないんだ……とちょっと哀れまれていたように思うけれど、最近ではそれもなく、家族みんなも自分自身も観念したというか、例外な人生でもいいじゃんぐらいに思って毎日を送っている。あぁ母親譲りかも? やっぱりわたしもぶれていない。型破りなレールをどう築きどう進むか、見せていこう。
みんな、迷子のまま大人になっている。
大人になれば迷わず生きられると学生の頃に思っていたけど、そんなことはなかった。人生に迷うし、人に悩むし、生に疲れるし。
現在地と夢がわからないから。特に、現在の自分がわからないと、らしい。
……!
ということは、現在地と夢がわかれば迷子じゃなくなる(かもしれない)のだ!
つくることが好き。でも、好きというだけでやっているわけでもない。
なんでこのマガジンを企画したのか? 友達がほしいから。
何でいろいろやるのか? 友達と遊びたいから。
わたしにとって遊ぶって、つくることらしい。
そしてつくることは、人とつながること、コミュニケーション。
形としてバンドって好き。ボーカル・ギター・ピアノ・ホーン・ベース・ドラム。それぞれの個性豊かな楽器が一つの曲を奏でる。
同じように、それぞれのエキスパートが集まって一つの作品をつくるのが好き。作品づくりを通してその人に愛着がわいていくのが好き。
音楽も映画も本も美術館もそうやってつくられている。よい仕事もそうだよね。
つくることを通して人を好きになるのが好きなのだ。
他人に影響を与えられているとき、存在価値があると思える。
クラシックギタリストが主人公の映画で、主人公が想いを寄せる友人に言ったこと。主人公は、ライブ途中に演奏ができなくなったその日の夜、彼女の部屋を訪れてそう言う。
彼女は「でもわたしはあなたに影響を受けてますよ?」
そう言われて主人公はどんなに救われただろう(わたしはここで一番泣きそうになった)。
いつだったか、あなたのために力になりたい、と人から言われたとき、違う! って本能的に思った。
あなたはあなたのために生きてください、私に寄りかからないでください。
存在価値が人への影響とするなら、わたしにとってそれは、寄りかかっていたらダメ。寄りかかられてもダメなの。
影響し合う関係性に憧れる。
だから、一緒につくろうよ! が好きなの。
ただ、自分と似たような人はいらない。自分の居場所や役割をとられるのが何よりも嫌で怖い。
それは自我がつよいからだと思う。自我=認められたい! 褒めてほしい! が実はかなりつよい。なにもそれは、小さい頃の愛情不足とか友達に恵まれなくてとかじゃない。不満やうまくいかないことはあっても飢えることはなかったと思う。普通に恵まれていたと思う。ただ単に承認欲求がつよいだけ。
それはアーティストにはうってつけのものらしい。強みになるらしい。だったらよかった!
と、持て余し気味だった承認欲求力を前向きに捉えられたある日の気づき。
写真が欲しくなって、知人主催のphotoイベントで撮ってもらったとき、同じく参加していた方に言われたのは「森の妖精」。ちなみに昔からそれっぽいことをときどき言われる笑。昔の私だったら「そんなはずない」と思っていただろうけれど、今は、はにかみながら「えっ! いや〜そう♬?」みたいなうれし恥ずかしさがあって、なんだか素直に誉め言葉を受け取れた。
人と違う部分、個性、自分の世界観、属性。自分自身が認められたら、許せたなら、不思議な喩えにもクスッとくすぐったいような嬉しさがあるんじゃないかな。誉め言葉も受け取れるようになるんじゃないかな。
一風変わった部分も大事にしていい。
自分の人生に酔っていい。
それってロマンティックなこと。
きっとみんな持っているよ。
2020年の3月、3年越しにピアスをあけた。あけたいあけたいと思っていたのに、どこか億劫で行動に移さなかった。その理由に、あける前の夜、布団の中で気づいた。
ピアスは、憧れのM先輩の象徴のようなもので、先輩は、6年前、先にいった。3年前、横に並んだ。今は、もう、いない。
ピアスをあけるのは、M先輩を後にする感じ。それは憧れを憧れのままにしないで、憧れの中で生きていこうとする前向きな気持ち。何をやりたくて今こうしているのか、隠していない状態。自分が大嫌いだった頃から今になるまでの過程を、客観視、一つの完結した物語として見られるようになった感じ。
「じゃあね」と、亡霊は笑顔で消え去っていった。
気後れはもう足元に置いて、また一歩、また一歩と、人生を進んでいってください。
自分のらしさを見つけて認められると、人のらしさも大事にできる。
自分の人生を肯定できると、人の人生も肯定できる。
自分の幸せを受け取れると、人の幸せも喜ぶことができる。
音楽は誠実になれるもの、
本は世界を広げてくれるもの、
家族や友人は愛情を教えてくれるもの。
曲を言葉を書くことは自分をみつけること、
つくることは人とつながること。
それが今感じていること。
ここも一つの原点、一つの出発点、一つの羅針盤。
忘れたくないことを今日は書いておいた。いつでも取り出せるように。
3年後も、わたしらしく生きていてください。
li s a
ピアノ弾き、音楽クリエイター、図書館司書
わたしはわたし
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みんなそれぞれの人生をちゃんといきている
だからおもしろい✨
を心にとめて
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Her stories #good (https://bccks.jp/bcck/163135/info)で、伊東彩乃さんは、こう書いていました。
すべてはベストなタイミングで起こる。
「良くないと思えることも、自分に起きたベストなこと」と、女神さまは言っていた。
最近、ちらついている、私の使命と答え。
グッドでベストなタイミングが、今、ようやく来たみたい。
みんなのエッセイを読むと、このことをひしひしと感じました。
今回、エッセイを書いたことはないけれどやってみた、という方が大半でした。きっかけがなければ書かなかったこと、「3年」というテーマだからこそ書いてみたこと、だったのではないか? と想像しています。
大事なお話を、このマガジンで掲載し、みなさんにお届けできたことが何よりもうれしいです。
今回、編集にあたり、というより無編集でお届けしています。わたしがやったことは、テーマを決めてデータを入力しただけ。
その人の言葉、文調に、手を加えたくなかったから。
世の中に文章の良し悪しの基準はあるのかもしれませんが、画一的なルールに個人をはめることを、この場ではしたくありませんでした。
そのまま、ありのまま、自然美で。
3年前もこのマガジンをやっていました。でも止めてしまいました。その理由は、おそらく、ルールに縛られ、そして相手を縛ろうとしてしまい、それは「その人らしさ」を削り落としているような感じで、その傲慢さに嫌悪感を抱いたからです。
3年前に止めたときから今も、「らしさ」はずっとテーマです。今回の発行で「らしさを損なわずに読者に届けられるだろうか?」と不安もありましたが、エッセイが届き読むごとにそんな不安は消えて、ただもうワクワク。静かな興奮。それぞれの世界を旅し、味わい。これもすべて、素敵なエッセイを寄せていただいたおかげです。
わたしにとっても、この企画はグッドでベストなタイミングだったようです。
参加してくださったみなさま、読んでくださったみなさま、最後まで読んでいただきありがとうございます。
いつかまた、テーマを決めて企画するかもしれませんし、このテーマで企画してほしい! と声をいただいてやることもあるかもしれません。だったらいいな。
ではまた、いつの日になるか未定ですが、次の号でお会いしましょう。
"ひとりの気づきをみんなの気づきに"
静岡県東部を拠点に、本を大事にする活動をしています。web書店では個人出版のサポートやエッセイマガジンを発行。著者が伝えたいことをかたちにすることを第一にして、著者ひとりの気づきだったことをたくさんの人の手に届けられるようにしたいと思っています。本の魅力の一つである「こころを豊かにする」機会が広がりますように。
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第2版 2022年4月12日(初版 2020年3月24日) 発行
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