2022年11月19日更新
誤字脱字修正を施しました。
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政治経済社会を観察する本。現代の「啓蒙と弁証法」。
この文章をわたしは2000年代なかば、格差社会議論が起こるすこし前に書いた。原文はこの本よりずっと長かった。今回、冗長な部分を凝縮させた。あれからおよそ15年の星霜を経て、悲しいことに、これに述べる記述が「陳腐な常識化」したかもしれない。この間、浅薄な政治業者たちが、貧民と被差別民を製造する政策を暴力を伴って推進したから。
それでもわたしは現代社会の病巣の基礎確認のために一昔前の文章を上梓しよう。この狂った時代に生きたものの思いを後世に残すため公表しよう。
あまたの社会議論の論者とわたしのおおきな違いは、わたし自身が貧民であることだ。政府が製造した貧民であることである。わたしは大学教授ではない。一介の市井人である。ジャーナリストは外から格差社会の底辺または底辺以下であえぐ人びとを活写する。わたしは自らの内側から観る。
この本を書いた二一世紀初頭のころ、わたしは日雇い派遣労働者という政府がこしらえた奴隷をさせられていた。政府の政策によりからだを売買されていた。「わたしの代金」には消費税が課せられていた。わたしは政府認定の「商品」でしかなかった。人間扱いされなかった。
わたしは権力者たちがどのようにして被差別身分を製造するのかを、わが身体でしかと視た。観ざるをえなかった、痛みとともに。わたしはクリティークしよう。
21世紀のレヴィアタン(テレビ局・新聞社・大小のインターネット企業・出版社等々)がどこで沸いて、どこから栄養を吸収して成長したのか、どのように権力を得たのか。異なるものの視方、異なる感情の仕方をする人、平凡でないボトムアップ型思考をする人を押し潰す検閲機能(世の中を唯だ一色に染め多様性を認めない)を強力に果たしているこれらビッグブラザーズ。現代の暴君たちを監督し、透明化させて、行き過ぎを抑制統御する法の仕組みを、現代憲法に欠けている内身の自由(身体の状態について権力の介入を許さない権理、じぶんの身体管理権をじぶんに取り戻す権理、個人の内心のみならず、内身への干渉を拒否できる自由)を早急に建設して、あとの世代に遺す責務がぼくたちにあると切実にねがう。ただこれを政府にさせるわけにはいかない。たちまちに憲法が保障する言論出版の自由へと繋がってしまうからだ。それは筆者のような無位無冠の大地に生死する草莽の群萌に賦せられている公共の事業なのだ。
現代の「啓蒙の弁証法」。
21世紀の「随想録」。
警世木鐸の書。
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