梅雨の夜。
会社で残業していた沈梔意(ちん・しい)は、一件の救助要請を目にした。
【市立病院にて、AB型Rhマイナスの血液が至急必要です】
彼女は土砂降りの雨の中、病院へ駆けつけ、献血を済ませる。
その直後、両親から電話がかかってきた。
いつもの結婚の催促。
もはや聞き慣れた小言だった。
けれどその会話を、偶然、池硯舟(ち・けんしゅう)に聞かれてしまう。
彼は、ためらいもなく言った。
「僕と結婚しよう」
彼女は彼の祖父を救った。
彼は彼女のために、両親を安心させる“夫役”を引き受ける。
沈梔意は、池硯舟という男を知っていた。
グループの新たなトップ。
端正で自制心が強く、仕事では容赦がないと噂される男。
その彼が今、壁にもたれ、淡々とこちらを見ている。
まるで、契約書の条件を読み上げるかのように。
結婚後、二人は三つの約束を交わした。
一、会社では赤の他人として振る舞う。
二、両親の前では仲のいい夫婦。
三、家ではただの同居人。
これは、期限つきの偽装結婚。
そのはずだった。
◇
ある日、沈梔意は上司に同行し、取引先との会食に出席する。
そこで彼女は、相手から無理に酒を飲まされそうになった。
遅れて現れた池硯舟は、薬指の指輪をゆっくりと回す。
冷ややかな眼差しが、相手を射抜いた。
「どういうつもりだ。うちの人間に手を出すとは」
周囲は深く考えなかった。
社長には妻がいる。
これは、ただ部下を守っただけ。
誰もがそう思っていた。
――あの日までは。
会社の中間報告会。
会議室は満席。
主席には池硯舟が座り、沈梔意は隅の席で親友に愚痴を送っていた。
【鬼社長め。昨日の深夜に企画案を出せって言ってきた】
【池硯舟!! 見た目は紳士なのに、やり方がずるすぎる】
ところがその朝、池硯舟と沈梔意はうっかり互いのパソコンを取り違えていた。
そして今、彼女のパソコンが会議室の大型スクリーンに接続されてしまう。
映し出される、彼女のリアルタイムのチャット画面。
会議室は、水を打ったように静まり返った。
同僚たちは息を呑み、社長のひと言を待つ。
池硯舟は少しも慌てず、チャット画面を閉じた。
気品ある男は、ゆっくりと口を開く。
「夫婦のじゃれ合いです」
同僚たち「……夫婦? じゃれ合い? です?」
沈梔意「違う、聞いて。やり方がずるいっていうのは、私をその気にさせて残業させるやり方のことで、みんなが想像してるほうじゃないから!」
◇小劇場◇
仲直りしてからというもの、池硯舟はますます沈梔意に甘えるようになった。
沈梔意はついに我慢できなくなる。
「仕事に行かないんですか?」
池硯舟はもっともらしく答えた。
「僕はもう、働けないかもしれない」
沈梔意は首をかしげる。
「どういう意味ですか?」
池硯舟は彼女に手を伸ばし、低く笑った。
「奥さんに養ってもらうしかないってこと」
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